第29話 ありし日 ―ジャッジメント・デイ―
「ねぇ、姉原サダクって知ってる?」
唐突に声をかけられて、私は読書を中断した。
赤いフレームの眼鏡の向こうに、久遠燕の大きな目がある。
私がふるふると首を振ると、燕は私の隣にピタリと座り、かろうじて聞き取れるほどの小声で話し始めた。
「80年以上前にね、ひと晩で村1つ滅ぼしかけるほどの大量殺人をやらかしたんだって」
「……すごいね」
話がぶっ飛んでいて、それ以外の感想が咄嗟に出てこなかった。
「あれ? でもその頃って似たような事件がなかったっけ?」
確か、どこだか村の30人殺しとかなんとか。
「津山事件ね。姉原サダクの事件はその1年くらい後のことらしいよ。津山事件の騒ぎが収まりきらない内にもっとデカい事件を公にするのはまずいってことで、こっちの事件は疫病ってことで処理されたって」
いきなりとんでもない話を聞かされ、私は混乱する。
燕はそんな私のことなどお構いなしに続けた。
「でね、姉原サダクは今も怨霊としてこの世とあの世を彷徨ってるらしいの」
「へぇ」
活字中毒者である久遠燕が、己の好奇心の赴くままにマイナーな書物を読み漁るのはいつものこと。
仕入れた知識をこうして一方的にまくし立てるのもまたいつものことだ。
でも――
「燕、オカルトには興味ないんじゃなかったっけ?」
彼女は合理主義者だ。
乱読家ではあるが、フィクションよりもノンフィクションを好む。文学作品も読むが、ジャンルは大体私小説に偏っている。
よほど活字に飢えていない限り、彼女がオカルト本に手を伸ばすことはない。
まあ、実は夜に1人でトイレに行けないほどの怖がり屋であることも理由の1つだろうけど。
だからなおさら、燕の口から怨霊という言葉が出て来たことに私は驚いていた。
「ばあちゃんから聞いたんだ」
「確か、燕のおばあちゃんて90歳超えてたよね。もしかして……」
姉原サダクが起こした大量殺人が80年前。
「ばあちゃん、その村の出身だったんだ。今まで隠してたんだって」
「じゃあ、その姉原サダクって人のことも知ってるの?」
燕の小さな顔がこくりと頷いた。
「姉原サダクには年の近い弟がいた。幼い時に大病を患って、身体と脳に後遺症が残っちゃったの。それを村の人たちは忌み嫌って、嫌がらせやいじめがエスカレートして、とうとう……」
「やめて」
今は、そういう話は聞きたくない。いや、今だけじゃない。未来永劫聞きたくない。
「……ごめん」
燕の手が、私の髪にそっと触れた。私の頭を優しく撫でるその手が、やがて私の後ろ髪を束ねるヘアバンドに触れる。
「今日も黒か」
その日その日のラッキーカラーにしていたヘアバンド。でもあの日から、色は変わらなくなった。
「まだ、アキラの後を追いたいと思ってる?」
「……」
思考を止めてしまった私の手を、燕は両手で包むように握った。
「これは?」
燕は私の手に小さな固いものを握らせていた。
それは質量をまるで感じさせなかった。ただ、手の平に金属のような冷たい感触だけがあった。
それは、弓なりに湾曲した、小さな細長い骨の破片に見えた。
骨の欠片は木炭のように真っ黒で、鈍い光沢があった。
「姉原サダクの遺骨。彼女は、弟の復讐に村を滅ぼし、その後何十年もかけて逃げ延びた者を突き止めて責め殺していった。最後の復讐を果たした後、彼女は故郷の村の跡地にある弟のお墓の側で焼身自殺したの」
手の平に乗せられた遺骨から、にわかに重みを感じた。
「ばあちゃんは、その姉弟とは仲良しで、運良くサダクの恨みを買わずに済んだんだって」
燕が『運』を強調したのは、彼女の祖母いわく、いじめがエスカレートする前に奉公という名目で半ば追われるように村を追い出されたおかげで村八分に参加せずに済んだということだった。
あのまま村にいたら、いかに燕の祖母とて、同調圧力に屈してしまっただろう、と。
弟を奪われた姉原サダクの怒りは凄まじいものだった。
その怨みの対象は、直接弟を害した者たちにとどまらず、彼らの行為を擁護した者、黙認した者にも及んだという。
たとえその者が病の親を養う身であろうと、お腹に子を宿した身であろうと、一切の例外は無かった。
その話を聞いて、私はサダクがやりすぎたとは思わなかった。
姉原サダクは、本来はきっと愛情の深い女性だったのだろう。
弟の死を前にして、彼女は真っ先に自分を責めたに違いない。愛する者を守れなかった自分を、生きる喜びを与えられなかった自分を、責めて、責めて、責めすぎて、肉体の前に心が死んでしまったのだ。
この世に遺ったのは、復讐心が本能のように根付いてしまった生きる屍だけ。
いつの間にか、私の頬を涙が伝っていた。
「またそうやって。すぐ妄想して、同調しちゃうんだから」
燕が自分のハンカチで私の顔を拭いてくれた。
白いガーゼのハンカチに、私のファンデーションが付いてしまっている。
「この骨は、村のわずかな生き残りがサダクの霊を鎮めるために一度だけ集まって、その時に見つけたものなんだ。神主さんが言うには、とてつもない呪いが宿っていてとても人間の手には負えないから、分散させて保管するしかないんだって」
「燕……」
私はようやく、根本的な疑問を口にした。
「どうして今、私にそんな話をするの?」
久遠燕はしばらく私をじっと見つめて、恐ろしく低い声で言った。
「あいつらを呪ってみない?」
「何をバカなこと――」
「あいつらを許せる? 今もアキラのこと嘲笑ってるあいつらを」
「やめて」
「そうやって耳を塞ぐなよ」
不意に目の前の少女に対して言いようのない怒りがこみ上がって来た。
「燕に私の何が解るの?」
「……」
後に続く言葉を必死に抑える。これ以上言ったら、燕はもう2度と私の前に来ることはなくなるだろう。
でも、彼女は賢いから、言わなくてもじゅうぶんに伝わってしまうとも思っていた。
彼女の、小さな唇がかすかに震えながら言葉を紡いだ。
「あたし、本ばっか読んで、他人の気持ちを解った気になってる頭でっかちで、ほんと、自分じゃ何もできない小っちゃい奴で……」
「そんなこと――」
あとの言葉が続かない。私が抑えていた言葉をそのまま言われてしまったから。
「あたしのことはいいんだ。あたしはあんたの話がしたい。悔しくないの?」
「……決まってる。悔しいに決まってる。でも、呪いとか復讐とか、そんなことをしてもあの人は喜ばない」
「……」
「それに、人を呪わば穴二つって言うじゃない。あの世でまたあの人に逢いたい」
「で、あんたはそんな綺麗事、クソくらえだって思ってる」
「!」
燕の眼差しはまっすぐだった。
「あんたは、自分はどんだけバカにされても絶対キレないけどさ、友達のことになったらブチキレるじゃん。相手が年上だろうが集団だろうが、絶対に許さないのがあんたじゃん」
「……やめてよ」
私は、そんな自分が嫌いなのに。
「あたしは、そんなあんたが好き」
「え?」
「確かにあたしはぼっちで他人の心が解らないけどさ。でも、たぶん、あんたの気持ちはあんた以上によく解ってる」
「それってどういう意味――!?」
不意に、唇と唇が触れた。
「燕……?」
「ずっと見てたから。ずっと……。ごめん」
私は首を振った。
正直困惑しているが、不思議と悪い気がしなかった。
燕はそんな私を見て、ほっと息をついた。
そして自分の手を広げて見せる。
彼女の手にも、黒い小さな骨片があった。
お揃いと言うには、あまりに禍々しく、哀しいお守り。
「呪いの話が本当なら、たぶん呪う側もただじゃ済まない。だから、使わないならそれでもいい。あたしはあんたの気持ちを尊重する」
頭がくらくらする。黒い骨は、今や私の手の上で重力さえ歪めているのではないかと思えるほど急激に重みを増大させているように思えた。
「でも、もしこれを使うなら、あたしは絶対あんたを1人にはしない。地獄の底でもついて行くから。それだけ!」
久遠燕は、その名の通り軽やかに身を翻すと逃げるように図書室を出て行った。
「『それだけ』って……どんだけよ」
でも、おかげで私の覚悟は決まった。
私も、あの人のように強くはない。でも、1人じゃないとわかったから。
黒い骨を握りしめる。
(行こう。地獄へ――)
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