第24話 聖母 ―リタ スミカ―
奥歯をガチガチと鳴らし、震える各務野紗月を温めるように抱きしめながら、利田寿美花は悔いていた。
『お母さん』などとあだ名され、口では拒否しながらも内心まんざらでもなく感じていた自分が恥ずかしい。
「私、何も知らなかった……」
ごめんなさい、と呟く各務野の声は、まさに母親に失態がバレた子供のそれだった。
「仕方ないよ」
寿美花は、各務野の頭を優しく撫でる。
「苦しかったね。ずっと、辛かったね」
しゃくりあげる各務野を抱きしめながら、寿美花はこちらをチラチラと伺う鹿谷慧と楠比奈に手招きをする。
2人はおずおずと近づいて来て、遠慮がちに寿美花の身体にもたれかかった。
かすかにつんとした刺激臭が鼻を刺すが、今回は各務野も拒まなかった。
彼女たち、日和見高校2年生は魔の世代だった。
地理的にも精神的にも閉鎖的なこの町で、長年行政を仕切って来た千代田家、経済を牛耳る和久井家、頭抜けた財力を誇る檀家の跡取りが揃って生まれた奇跡の世代。
彼ら――特に和久井春人の横暴に泣かされた者や、檀麗の凶暴性を目の当たりにした者――は骨身に染みて理解していた。
親も教師も、信用できない。
大人たちは、自分たちがこの土地で骨を埋めるために、我が子の1人や2人犠牲にすることを厭わない。
そんな彼らにとって、精神的に早熟でしっかり者で性根の優しい利田寿美花の存在は、自分たちが思っている以上に母親だった。
たとえ世界を敵に回しても、利田寿美花だけは味方になってくれる。
いつしか彼らはそんな幻想を寿美花に抱き、その幻想を守ろうとした。
哀しい逆説だが、彼らは寿美花の母性を守るために、寿美花を自分たちの世代が抱える闇から遠ざけなければならなかった。
この闇を、寿美花に知らせるわけにはいかなかった。
利田寿美花が大人たちの力に敗れたり屈したりする姿を見たくなかった。
「ごめんね……」
寿美花にはそれしか言えなかった。
自分に暴力や権力に立ち向かう力も勇気もないことは、寿美花自身がよく解っている。
彼女にできることは、みんなが暗黙の内に作り上げた舞台の上で、聖母の役を演じ切ることだけだ。
「この階にはもう彼女はいない。行こう」
刑事が戻って来た。
彼に、足を痛めた各務野を託す。
寿美花は慧と比奈の手を引き、力を込めて自分の前に引っ張り出した。
「え?」
声を上げる慧に、
「走って! 絶対に振り返らないで!」
と背中を押す。
「ッ!」
素直に従い、振り返らずに走り出す少女たちの背中を見送り、利田寿美花は足を止めた。
「これで私も、あなたに殺される理由ができたね。姉原さん」
背後に気配を感じる。
穏やかな微笑みに押し隠された、冷え切った無感情。
黒い瞳に内包された、どこまでも底のない闇。
◇ ◇ ◇
私は全身の関節を回し、身体が7割方回復したのを確認した。
「刑事さん、俺ら、どうしたら……」
次第にメッキが剥げ、怯えた小動物の本性を現した金髪ヤンキー、田所時貞をはじめ縋り付くような目線を浴びせて来る生徒たちを一瞥する。
「覚悟を決めなさい。自分の人生でしょう」
私にはそれしか言えない。
正直、姉原サダクと戦って勝てるとは思えない。
私はただ、15年前のあの日から逃げるという選択肢を奪われただけだ。
もう、見て見ぬふりはできない。
「姉原サダクは、契約者の恨みは必ず晴らす。加害者はもちろん、彼らを擁護した者、黙認した者、全て同罪」
「ああ……」と絶望のうめきを上げながら地面にへたりこむ生徒たち。
「由芽依さん!」
そこへ、数人の女生徒を連れた銭丸刑事が走って来た。
「あの、大丈夫なんですか?」
恐らく、私が3階から落とされたことを言っているのだろう。
「ええ。土が柔らかくて助かりました」
適当に誤魔化す。
「紗月!」
銭丸にお姫様抱っこされている女生徒を見て、桂木志津が駆け寄った。
「ごめん紗月! その足……、あの、私怖くて、あの……」
「いいよ、別に」
そう言いながらも、各務野紗月はふいと顔をそむけた。
円らなたれ目をしたタヌキ顔の桂木と、細い吊目をしたキツネ顔の各務野。
女子バスケ部の盟友同士の間には、どうやら逃走時に深い溝ができてしまったようだ。
「謝ることがあるなら、ちゃんと言葉で言っておきなさい」
老婆心で桂木にそう告げると、私は校舎に向かって歩き出した。
「銭丸さん、彼らを頼みます」
「あの、由芽依さん! 1人逃げ遅れてる子がいるんです! 利田って子が――」
みんなを連れて逃げろと言ったのに。
私はまた、余計な母性本能を刺激してしまったのかも知れない。
「まったく!」
もう、余裕をぶっこいているふりをして自分を奮い立たせている暇はない、
止めなければ。
姉原サダクと、利田寿美花を。
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