第19話 逃走 ―エスケープ―
「お母さん……お、お母さんッ!」
はっと教室を見回す。
逃げ遅れた者が何人かいる。
利田寿美花の脚に、誰かが床を這いながら抱き着いてきた。
「さっちゃん……」
それは、各務野紗月だった。
逃げようとして足を捻り、そこを後続のクラスメイトたちに踏まれてしまったらしい。足首がどす黒く腫れ上がっている。
他にも、散乱した机や椅子に埋もれるように倒れている女子生徒もいる。
「ヒナちゃん……」
逃げ惑う生徒に突き飛ばされ、足蹴にされてしまったのだろう。楠比奈の枯れ枝のように細い腕に抱かれたスケッチブックには、くっきりと足形が残っている。
そしてもう1人。
寿美花が一番心配していたクラスメイト。
「ケイちゃん、大丈夫?」
鹿谷慧は教室の隅で震えていた。
長い脚を折り曲げ、耳を塞いでいる。大きく見開かれた瞳は焦点が定まっていない。
「ケイちゃん!」
「ひっ!? ごめんなさい! すみませんごめんなさい!」
思わず慧のもとへ駆け寄る。
その時、寿美花に縋り付いていた各務野が「わ!」と声を上げて退いた。
慧の周囲には、薄黄色の水たまりができていた。
寿美花は構うことなく慧の側にしゃがみ込み、その瞳に視線を合わせる。
「ケイちゃん、大丈夫。私だよ。大丈夫だから、ね」
頭を撫で、背中をさすって落ち着かせる。
「立とう? ほら、ケイちゃんは立てる。大丈夫だから」
「お母さん! 早く! そんな奴いいから! 逃げようよ!」
床に伏したまま各務野が喚くが、寿美花はまるで聞こえていないように振る舞い、慧を安心させることに注力する。
「立てるね? 歩けるね? ほら、外に出るの。私が一緒にいるから、ね?」
コクコクと頷き、何とか歩き出す慧の背中をそっと押す。
「ヒナちゃんは? 立てる?」
さっきまで机に埋もれるように倒れていた楠比奈は、いつの間にか気絶している男性刑事の傍らにしゃがみ込んで、スケッチブックで顔をぺちぺち叩いて気付けをしていた。
(相変わらずマイペースだなぁ)
生まれつき言葉が不自由で、ガリガリに痩せていて、衛生面にも無頓着な彼女だが、精神的に不思議な安定感があった。
いつもスケッチブックに絵を描いている。どうもマンガらしいのだが、複数のコマ、複数のページを並行して描いているらしく内容はさっぱりわからない。
楠比奈もまた、寿美花の目の届かないところで有形無形の嫌がらせを受けている節があるが、そのことを比奈自身が超然と受け入れているように見受けられた。少なくとも、寿美花の目にはそう映った。
「うーん……」
ようやく男性刑事が目を覚ました。どうも頼りない印象をぬぐえない。
「みんな、大丈――うわああああ!」
案の定、目を覚ました瞬間に腰を抜かしていた。
無理もない。
血まみれの教室に惨殺死体が1つ、首無し死体が1つ、首だけの死体が1つ。そして何より、首が折れ、消火器で胸を潰されたまま悠然と微笑んでいる姉原サダク。
寿美花が正気でいられるのは、事前に由芽依から話を聞いていたためある程度の覚悟ができていたことと、クラスメイトを助けなければという使命感に突き動かされていたことが大きい。
極めつけは、サダクの胸を潰した時の感触。
あの時、寿美花は自分が越えてはいけない一線を越えてしまったのを感じた。
凄惨な死体を死体として認識できない。
生鮮市場に並ぶ豚肉を豚のバラバラ死体だとは認識しないように。
姉原サダクの黒い瞳がこちらを見ている。
「早く逃げよう! ねえ!」
各務野の叫びで我に返った。
それは刑事も同じだった。彼は一瞬で警察官の顔になると、足をくじいた各務野を軽々と抱き上げると「行こう!」と走り出した。
寿美花もまた、慧と比奈の手を引いて走り出す。
今は一刻も早く、彼女たちをこの血と死肉の結界から脱出させなければ。
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