第16話 黄泉路 ―ロード・トゥ・ヘヴン―
「え? 何?」
「ちょっと、ヤバいんじゃない?」
この教室で起きたことを正確に把握している者は誰もいなかった。
クラスメイトの1人、久遠燕が突然ブチキレたかと思えば、大量の血飛沫を上げながら転校生姉原サダクに変身した。
そこへ女性刑事が乱入し、サダクを拳銃で撃ちまくるもなぜかサダクは死なず、逆に女性刑事を3階から外へ退場させた。
止めに入った男性刑事も一撃でノックアウトされた。
そしてクラスメイトの1人、馬場信暁に対する執拗な暴行。
ギブアップも敗北宣言もあの穏やかな笑顔で跳ね返され、哀願も命乞いもあの漆黒の瞳に吸い込まれて儚く消え去った。
姉原サダクが、馬場の口から上履きを履いた足を引き抜いた。
ごぼっ、と血と吐しゃ物が噴き出し、馬場は床にぐったりと倒れて動かなくなった。
何もかもが彼らの理解を超えていた。
「ねぇ、マジでヤバくない?」
女子の1人が誰へともなくつぶやく。
「ああ。あの転校生、何者なんだ?」
「そうじゃなくて! 救急車呼んだ方がいいんじゃないかって!」
傍らの男子の見当違いな返答にいら立ちの声を上げた女子生徒は、名前を各務野紗月といった。
ソバージュのかかった髪を後ろに束ねた、細い吊目が印象的な女子バスケ部に所属するスポーツ少女だ。
「だったらお前呼べよ」
そう応じたのは蒲生一真。先刻、由芽依刑事に黙秘権のことを尋ねた男子であり、黙っていればクラス1のイケメンと言われている。
「あたしの携帯、机ん中……」
乱闘により散乱した座席は、もうどれが誰のものかわからない。
「何で俺が……」
蒲生が小声で悪態をつきながらスマートフォンを取り出したその瞬間、サダクの首がぐるんと回って彼を見た。
「ひ……」
――見られた。
そう感じた瞬間、スマートフォンが指から滑り落ち、かつん、と音を立てた。
立ちすくむ蒲生に向かって、サダクは一歩、一歩、よろけながら近づいていく。
「ば、バカ野郎……、お前が話しかけるから、俺が、俺が……見られちまったじゃねぇか……」
サダクの手が蒲生の胸倉をつかみ、引き寄せる。
真っ黒な瞳で彼を見据え、微笑んだ桜色の唇が言葉を紡ぐ。
「顔、貸して?」
「――え?」
何を言われたのかわからない。
だがサダクは相手の答えを聞かないまま、蒲生の胸元を掴んで窓際へ引きずり始めた。
「待て! 待て! 何だよ! 俺ァ関係ねぇよ! ちょ、離せ! 離せって!」
サダクの足取りは、まるで酔っ払いのようにおぼつかない。それなのに、彼女の細い腕は蒲生がいくら力任せにもがいても振りほどくことはできなかった。
◇ ◇ ◇
「刑事さん! しっかりして!」
グラウンドで、利田寿美花は3階から窓ガラスを突き破って落ちて来た由芽依刑事を介抱していた。
彼女は刑事に言われた通り、素直にグラウンドに逃げていた。
しかし、他のクラスメイトが一向に外に出てこないので気に病んでいたところに、この由芽依刑事がガラス片と共に降って来たのだった。
「大丈夫……寝ていれば治るから……」
大人を呼びに行こうとした利田を、由芽依刑事は止めた。
「そんなわけないじゃないですか!」
どう見ても頭から落ちていた。
刑事の身体を中心に、赤黒い血だまりがじわじわと広がっている。
最初は、女性刑事がケガで錯乱しているのではないかと疑った。
強引に人を呼ぼうと何度も思ったが、由芽依輝夜は真剣な眼差しで寿美花を見つめ、彼女のスカートの裾を掴んで離さなかった。
「お願い。私の話を聞いて。もう手遅れかも知れないけど……、みんなを、逃がさないと……みんな殺される……」
「え?」
「姉原サダク……、あいつは、2-Aの生徒を殺すために現れた……」
「何を言っているんですか!?」
「お願い……。黙って聞いて。質問はしないで……」
……。
「そんな……」
寿美花はただ、そうつぶやくしかなかった。
告げられた事実があまりにも信じがたかったせいもある。
だがそれよりも、事実の重さに圧倒されてしまっていた。
「ごめんなさい。本当に……。でも今は、あなたに託すしかない……」
どう返事をしたらよいかわからず、寿美花はとにかく由芽依の手を握った。
「できるだけやってみます」
利田寿美花は、胸にそっと手を当てて呼吸を整えた。同時に思考を切り替える。
立ち上がった彼女の耳に、またパリンと窓ガラスが割られる音がした。
「いけない!」
教室を見上げた寿美花は、それを認識した瞬間走り出していた。
(助けなくちゃ! みんなを!)
彼女が見たもの、それは、窓ガラスを突き破った人間の頭だった。
(早く! 早く早く!)
ここ最近の保健室生活で鈍った身体を恨めしく思いながら、彼女は走る。
(みんなを助けなくちゃ! 私はみんなの、『お母さん』なんだから!)
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