第15話 弱肉強食 ―ドグマ― ◇馬場信暁の制裁・後編
「ぶへっ! ぶげっ! おごっ! ぼごぉっ!」
もう、何発殴られただろう。
元々いかつかった馬場の顔は、あちこちが歪に腫れ上がって青紫色になり、腐りかけたじゃがいもを思わせるほどに変形していた。
サダクの拳は、一発一発はそう重いものではない。所詮、少女の細い腕から繰り出されるパンチである。
だが、それだけにかえって質が悪い。
(コイツ、いつまで続けるつもりだ?)
終わらない。
いつまで経っても、終わらないのだ。
一撃に重さがないせいで、こちらは気絶することができない。
だが、苦痛は着実に蓄積している。
いわゆる、ナマクラ刀のなぶり打ちである。
しかも反撃は全く通らない。と言うより、意味がない。
拳に拳を当てて破壊したとしても、サダクの傷は瞬く間に回復してしまう。
腕で顔をガードしてもかまうことなく上から殴ってくる。
今や、馬場の腕は青黒く変色し、手の甲は皮がずるむけて白い骨がのぞいていた。
そして、相も変わらず向けられる穏やかな微笑。
底なしの奈落を思わせる、黒い瞳。
冷たい汗が馬場の全身をぐっしょりと濡らした。
このままでは無間地獄に吸い込まれる――。そんなバカげた妄想が芽生え、芽生えた妄想は瞬く間に馬場の心を覆い尽くすほどに成長した。
「わかった。俺の負けだ。もういいだろ……」
機械的に繰り出されていた拳が止まった。
サダクがちょっと小首を傾げる。
「終わりにしようや。な?」
サダクがゆらりと立ち上がる。
終わった。ようやく――
馬場も立ち上がろうとしたが、手に力が入らなかった。
「おい!」
ぼーっと立ち尽くしている宇都宮と田所を怒鳴り付ける。
2人は我に返り、慌てて馬場を助け起こした。
「姉原……お前一体何モン――」
話しかけようとした馬場の顔に、サダクの助走をつけたドロップキックが炸裂していた。
「「「えぇーッ!?」」」
不良たちの口から、純粋な疑問が迸った。当の馬場の口からも。
だが、サダクはまた小首を傾げただけで、倒れた馬場の顔に踏みつけの雨を降らせ始めた。
「何でだぁ!? 俺はもう――やめッ――何でだぁ!?」
「やめろ姉原! もういいっつてんだよ!」
止めようとする宇都宮と田所を、サダクは見た。
光の無い瞳で、ただ見つめる。
「あ、いや……俺は……」
「悪ぃ……」
2人は首を振りながら離れていく。
彼らはサダクから問われた気がしたのだ。
――一緒に遊ぶ? と。
2人は完全にサダクの存在に飲み込まれ、すくみ上がっていた。馬場は自分が孤立無援に陥ったのを悟らざるを得ない。
「わかった! ギブだ。ギブアップだ! 姉原、今日からお前がボスだ。和久井は捨てる! それでいいだろ!」
「……」
ようやくサダクの攻撃が止んだ。
だが、馬場がほっとしたのも束の間、彼の口元にサダクの足がそっと突き出された。
「え?」
血に濡れた上履きが、つんつんと彼の腫れ上がった唇を突く。
「――冗談だろ?」
見上げても、そこにあるのは光の無い瞳と無情な微笑み。
(人間じゃねぇ――)
全身に鳥肌が立った。
ようやく彼は、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付いた。
視界の隅に、女刑事が放り出された、大穴の開いた窓ガラスがある。
どうしてあの時に気付かなかったのだろう?
これはケンカではない。死闘でもない。
言うなれば、カマキリにつかまった蝶が羽をばたつかせるような、絶対的捕食者に対するせめてもの抵抗。
靴を舐めて、許してもらえるかどうかはわからない。
でも、舐めなければ……。
あの黒い瞳に飲み込まれる……。
「……おい」
だが、馬場はなおも足掻いた。
「お前ら、何見てんだ! 助けろ!」
この状況で格下の2人、宇都宮と田所を睨みつける。
人前で女の足を舐めるくらいなら、卑怯者の汚名を被る方がまだマシに思えた。
「「……」」
しかし、2人は顔を見合わせたまま石のように動かなかった。
「テメェら、ただで済むと思っ――おごッ!?」
手下を怒鳴り付ける馬場の口に、少女のつま先が勢いよくねじ込まれた。
「もごぉぉぉぉ! もげぇぇぇぇ!」
半狂乱で少女の細い脚を殴りつけ、掴み、引き抜こうとする。
だが、抵抗すればするほど、足はぐりぐりと馬場の口内を侵蝕し、蹂躙する。
(くそぉ!)
ヤケクソで、ねじ込まれた足に噛みついた。その瞬間、サダクは足を引いた。
パキパキッ、と、乾いた軽快な音が響いた。
「お……お……お……」
馬場の口から、だらだらと血の滝が流れ落ちる。
引き抜かれたサダクの足には、折れた歯がずらりと並んでいた。
サダクは微笑んだまま、小首を傾げて無感情にそれを見つめる。折れた歯はひとりでにパラパラと床に落ちた。
もう一度、つま先で馬場の唇を小突く。
「……もう、勘弁ひてくれ」
馬場は床に両手をつく。
「もう認めてんだろうがよ! お前の勝ちだ! 俺ァもう、もう――!」
美しい円を描いた回し蹴りが馬場のこめかみを撃ち抜いた。
倒れた馬場を仰向けに蹴倒すと、あばらを踏み抜く。
「あ゛お゛ッ!」
そして手際よくベルトを抜くと、ズボンをトランクスごと引きずり下ろした。
「あーッ!」
その光景に、誰かが「へへっ」と乾いた失笑を漏らした。
痺れた手で必死に股間を隠そうとする馬場を嘲笑うように、引き抜かれたベルトが鞭となって彼の睾丸を打ち据えた。
「あいィィィィィーーーーーッ!!!」
スパークする馬場の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
あれは馬場が小学生の頃。この時からすでに、彼は同世代とは一線を画す体格を誇っていた。
学校という縄張りで純粋に頂点を目指していた彼は、和久井春人にケンカを仕掛けた。
あの頃は大人の事情など何も知らなかった。
「いいな。正々堂々、男の勝負だ」
息まく馬場に対し、和久井は物憂げに「ああ」とだけ応えた。
「おら!」
馬場の繰り出した大ぶりなパンチを、和久井は身を屈めて躱し、そのまま馬場の腰をめがけて突進した。
そして、馬場が履いていたジャージとトランクスを引きずり下ろした。
「あーッ!」
相手の予想外の行動に一瞬だけ戸惑った。その隙を見逃してもらえるはずもなく、馬場は股間を露出したままマウントを取られ、一方的に殴られたのだった。
「卑怯だ! 卑怯者!」
和久井はただ、つまらなさそうに自分を見下ろしていた。
勝者は上、敗者は下。
何を喚こうが負け惜しみにしかならないことを、誰よりも馬場自身が信じていた。
あの時、彼は確かに負けを認めた。
だがあれ以来、釈然としないしこりのようなものが心の奥に巣食っているのも事実である。
あの時、ズボンを下ろされなかったら自分は勝っていたのではないか?
あの時、自分に何事にも動揺しない鋼の胆力、もしくは勝利に対する狂気的な執着があれば?
(俺は確かに和久井に負けた。だからこそ、他の誰にも負けない。そしていつか、俺は和久井を――)
――そんなことはもうどうでもよかった。
「もうやべろぉぉぉげぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
クラスメイトの前で成長した股間を露わにされ、さらに再び靴を口に突っ込まれ、馬場は泣き叫んでいた。
「ぎぼぇ! ぎぼあっぽぇ! ぎぼぇへぇあへぇぇぇぇ!」
深層心理に封印していたトラウマが呼び起された上、それを上回るトラウマを叩き込まれ、ついに彼のプライドは崩壊した。
「もうやべろ! やべれ! やべれくらはい! おねがいれすかられろれろれろぉぉぉ!!!」
自分でも気付かないうちに、彼は自らサダクの足を押し頂き、靴の裏を舐めていた。
もう怒りは無かった。
悔しさも無い。
あるのは、泣きたくなるような惨めさだけだった。
そんな彼を、サダクの黒い瞳が見つめている。
力で負けた。心も折られた。後はただ、生きる許しをその目に請うだけだった。
「ごえ」
上履きが、これまで以上に深く馬場の喉奥に刺さる。
「お、おれがいひまふ……、こ、ころはないれ……」
せり上がる吐しゃ物が口内を満たす。
頬が風船のように膨らみ、口の端から、鼻の穴から、ぼとぼとと溢れ出る。
「ッ! ッ!」
(嫌だ、死にたくない! 同級生の前で、靴とゲロを喉に詰めて死ぬなんて――)
必死にもがき、訴え、そして祈る。今、自分の生殺与奪の全てを握る神なる存在に。
だが、返って来たのは相も変わらぬ微笑みだけだった。
馬場の瞳がぐるんと上を向く。そんな彼の網膜に、走馬灯が浮かんだ。
憂さ晴らしに殴りつけてきた男子たち、性欲のはけ口にしてきた女子たち……
彼ら彼女らの顔を馬場は憶えていない。
そんな顔の無い獲物たちが、一斉に口を開いた。
「弱い奴が悪いんだよ」
彼ら彼女らに向かって幾度となく吐き捨てて来た言葉が、今、全て跳ね返って来た。
馬場信暁は自らの信念を受け入れただろうか。
それとも自分だけは例外だと訴えただろうか。
しかし、彼の意志などもはや誰にもわからないし、関係ない。
あるのは事実。
彼は同級生の前に恥部をさらし、少女の足を舐めながら汚物にまみれて死んだ。それだけだった。
☆ ☆ ☆
日和見高校2年A組 馬場信暁:上履きと吐しゃ物を喉に詰まらせ窒息死。
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