第146話 黄昏 ―エンドゲーム―
「きゅーう、じゅーう、もーいーかい♪」
……。
当然、返事などあるはずがない。
黒く渦巻く煙の中で、ひしゃげた板金が耳障りな音を立ててめくれ上がった。
現れたのは黒い腕。炭化した皮膚と赤黒い肉片を纏った、黒い骨だ。
「んしょっ」
可愛らしい声とは裏腹に、残骸を押しのけて這い出たモノは、内部骨格が露わになった醜悪と言える姿をしていた。骨盤からは収まりきらない臓物が溢れ出ている。
「脱ぎ過ぎた……」
そんな独り言を漏らしながら、黒い骸骨は車道に大の字に寝そべった。
「うぃー、朝日が眩しいー」
失敗した、と彼女たちは思った。
せめてまぶたが再生するまで待つべきだった。筋肉も損傷が激しく、しばらく動けそうにない。
「ま、しょうがない」
とは言え、眼球を日光に灼かれ続けるのは、地味ではあるが中々の苦痛なのだろう。
全身が再生するにともない、両目からは涙があふれ、ぽろぽろと流れ落ちた。
(15年……。ずっと待ってたんだけどな)
大好きな姉。目の前で両親を奪われてもなお、嫌いきれなかった姉。
一緒に地獄に落ちると決めたのに、肝心の姉はとうとう来なかった。
己の罪を見つめた者なら訪れずにはいられない場所、家族の眠る墓地に。
(さすがに疲れたな。次に転校する時も、近くにおいしいスイーツのお店があればいいな)
そんなことを考えながら、彼女たちは目を閉じられないながらも器用に意識だけをまどろませていった。
◇ ◇ ◇
「はぁ、はぁ……」
由芽依朔夜は、雑木林に覆われた山の中を危うい足取りで走っていた。
山林は今だ、ところどころに赤い炎がチラチラと揺らめいており、うっすらと漂う白煙が時折ツンと鼻を刺す。
――ごーお、ろーく、なーな……。
頭の中に、小鳥のさえずりのような声が響いて来る。
白血病を患うまでは元気が有り余っていた妹に付き合って、よくかくれんぼや鬼ごっこをした。そんな耳に馴染んだはずの声が、今はとてつもなく恐ろしいものに聞こえる。
――お姉ちゃんのことが大好きだった由芽依輝夜は、もう消えちゃった。
煙が目に染みる。
視界がにじみ、喉が詰まる。
(今だけだ。山を越えれば、少しは楽になる)
常人ならば、とっくに火事の熱気と有毒ガスにやられて一歩も動けなくなっていただろう。
だが、朔夜もまた姉原サダクと同じ不死身の身体を持つ者である。また、これまではリスクの高さから試すことのできなかった脳の再生力も、先刻サダク自身が立証してくれた以上、朔夜に躊躇う理由は無かった。
(ここは強行突破だ)
今はとにもかくにも、一刻も早くこの町を離れたかった。
体勢を立て直し、今回得たデータを検証し、次の手段を講じなければならない。
(私はまだ敗けてない)
脳や血液の再生に膨大なエネルギーを要するのか、先ほどから凄まじい飢餓感に襲われている。
ガンガンと響くような頭痛は留まるところを知らずに増大し、幻聴や幻覚が朔夜の精神を苛んでいく。
(私は、まだ敗けてない!)
現在の――いや、15年前から――彼女を突き動かすのはこの一念だった。
他者から見れば、それは朔夜自身が最も侮蔑する『非合理性』に映るかもしれない。姉原サダクに相対しながら命を長らえ、しかも不死身の肉体を手に入れておきながら、打倒姉原サダクに人生の全てを注ぎ込むのは無駄以外の何物でもないと思われるかもしれない。
だが、それは違う。そしてそれこそが由芽依朔夜の弱点だった。
法律を嘲笑い、倫理を軽蔑する彼女を縛るのは、他でもない彼女自身だった。
この世界で、由芽依朔夜だけが唯一の人間である。
したがって、彼女が従うのは彼女だけである。他の何者にも従わない彼女は、逆説的に彼女自身にだけは逆らえない。
その彼女が、『このまま敗けるわけにはいかない』と感じてしまったのだ。
この自意識に決着をつけない限り、朔夜は自分の人生を生きることができない。
……もしかしたら、朔夜があれこれと理由をつけて妹の輝夜に執着していたのは、心のどこかでそんな自分自身から逃げ出したいという思いがあったせいかもしれない。
そんな、極端に肥大化した自意識に自身をも飲み込まれる哀れな習性は、確固たる自分を持てないために周囲の可能になすがまま翻弄される鹿谷慧の人生とは真逆のようで、本質は同じコインの裏表に過ぎないのかもしれない。
「姉原サダク! 姉原サダク! 姉原サダク!」
憎い者の名を叫びながら、炎の燻る道を駆ける。その姿はさながら地獄をさまよう亡者だった。
そんな亡者を救ったのは、釈迦の手でも蜘蛛の糸でもなく、ぬかるんだ泥と枯れ葉だった。否、それはもしかしたら煙に巻かれて死んだ小動物だったかもしれない。
「あッ!?」
ずるりと滑る足。
斜面を転がり落ちていく身体。
「あがッ!?」
朔夜の身体を受け止めたのは、焼け焦げて倒れた一本の木だった。
幹から突き出た太い枝が、彼女の口から後頭部を刺し貫いていた。
(この私が――)
己の無様さに対する怒りが一瞬彼女の身体を駆け抜ける。
(でも、私の脳の再生力を試すいい機会だ)
そう思い直し、体を起こそうとする。
(――あれ?)
身体が思うように動かない。
すぐに察した。木の枝が脳の運動を制御する箇所かもしくは脳の命令を伝達する神経を傷つけたのだ。
(この程度のことで……)
力がうまく入らない。このままでは、枝が邪魔をして脳が再生できない。
(待って、まさかこんな――)
脳が再生しなければ、枝を抜くことができない。
「はは……はははは……」
倒木に接吻しながら、朔夜は笑った。
(やはり姉原サダクの弱点は脳だ! 頭蓋骨の隙間を狙って摘出不能な異物を刺しこむことができれば、姉原サダクの機能を停止させることができる! 勝てる! 次こそは姉原サダクに勝てる! 次は! 次は! 次こそは――!)
――果たして、その『次』が来るのはいつになるのか。
「はははは! ははは! あははははははははははは!」
耐えがたい激痛と耐えがたい飢餓感のために、眠ることも気絶することもできない。
狂気に陥るには、彼女の精神は強靭すぎた。
もう、彼女には笑う以外にすることが無かった。
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