第145話 最低その3 ―ロクタニ ケイ3―
穏やかな微笑みは、次第にへらへらと締まりのない歪みへと変わっていった。
「貴女……鹿谷慧なの?」
聞くまでもなかった。
世界広しと言えど、これほど見る者の神経を逆撫でし、嗜虐心を呼び覚ます笑みはそうあるものではない。
「どうして……生きて……」
したがって、由芽依朔夜の疑問は『相手が誰か』ではなかった。
そんなものは一目瞭然だった。
拳銃で顎から脳天を撃ち抜かれた少女が、こうして目の前でピンピンしている。
何より、彼女の顔には傷ひとつついていなかった。
まぶたを切り取り眼窩周辺の骨を削って移植した眼球も、もう一方の眼を封印する電磁石を仕込んだピアスも――それどころか、これまでのいじめにより開けられたのだろう顔中の無数のピアス穴すら跡形もなく消え失せ、そこにはナチュラルで健康的な若い少女の顔があった。
それが意味していることはただ1つ。
その貌はいちど溶解し、新たに再構成されたものなのだ。
「あ、その、すみません。なんか生きちゃってて……」
「なぜ生きてるのかって聞いてるの! 姉原サダクに憑依されて! 頭を撃ち抜かれて! どうして生きていられるの!?」
媚びた微笑みという仮面を纏う慧とは対照的に、朔夜の顔からは冷徹な仮面がバラバラと崩れ落ちていく。
「また比奈ちゃんに怒られちゃいました。ダメなんです私。恐いこととか、痛いことから逃げよう逃げようってそればっかりで、私、何のために生きているのか、生きていて何がしたいのか、そんなこともわからなくて……」
「質問に答えなさい!」
「あ、すみません。ですから、えっと、私なんか殺される価値も無かったっていうか、そんな感じで、えへへ……」
「……」
朔夜の口の中で、奥歯がギリッと音を立てた。それを敏感に聞き取ったのか、慧の大きな身体がびくっと震える。
「あ、あっ……」
何かを言いかけるように口を開閉させながら、意味もなくきょろきょろと周囲を見回す。
正解を探しているのだ。
相手を刺激しないために、自分がこれ以上責められないために、ありもしない模範解答を探しながら結局何もできないでいる。
朔夜は大きくため息をついた。少しでもこの苛立ちを静めるために。
「降りなさい」
「え……」
「もう貴女に用はない。今は貴女の顔も見たくない。私の視界から消えなさい」
勝利の美酒を台無しにされた怒りはもちろんある。
それ以上に朔夜の気を滅入らせるのは、慧の生存が15年の月日をかけて積み上げてきた姉原サダクに対する考察が否定されてしまったことにあった。
姉原サダクの弱点は脳だと思っていた。憑代の脳を損傷させれば、サダクは現世での存在を保てなくなる。
さらに憑代が過去の記憶をサダクの存在ごと忘却すれば、無意識の領域に封印することもできると。
だが実際はこの通りである。姉原サダクは大脳を完全に再生させ、記憶さえ復元してしまったのだ。
(楠比奈――!)
彼女がそこまで狙って慧の頭を撃ったのかは、今となってはわからない。だが少なくとも、彼女の慧に対する執念とも言える想いの強さが掴み取った結果であることは確かだった。
――あんな影の薄い、非力な少女に全てを覆されるとは!
(戦略を練り直す必要がある。まずは目の前のコイツから逃げなければ!)
また1つ、姉原サダクに敗北を刻まれたという思いに胸の傷が疼く。
今回、自分がしたことと言えば、山火事を起こして町を孤立させ、町長をはじめ住民を1か所に集めてしまっただけ。
これではまるで、姉原サダクのために狩場を整えてやったようなものだった。
(このままでは終われない。最後に勝つのは私だ)
まさか怨霊の手の平の上で踊らされていたとは、死んでも認めるわけにはいかない。
知らず知らずのうちに、朔夜は乱れた髪に手を突っ込んでガリガリと掻きむしっていた。
「もう一度言うけど、慧、私の前から消えて」
「あ、はい……」
返事をしながらも、慧は助手席から動こうとしない。それどころか、律儀にシートベルトまで締め始める。
「いい加減に――」
「怖いの? お姉ちゃん」
「!」
突然、慧の口調が変わった。
こちらをじっと見つめる黒い瞳。
口元に浮かぶのは、あの日以来目に焼き付いて離れないあの微笑み。
「輝夜……?」
だが、少女はふるふると首を振った。
「私は姉原サダクだよ」
「……」
「お姉ちゃんのことが大好きだった由芽依輝夜は、もう消えちゃった」
慧の貌が、少し寂しそうに微笑んだ。
次の瞬間、朔夜はジープのアクセルを思い切り踏み込んだ。
加速する車の中で、2人はもう言葉を交わすことはなかった。
他者に共感できない者と、人の感情を失った者。2人は起源こそ異なるが、今の姿に大差は無かった。
人の姿をしながら人の理を外れた者。――外道。
心身の化粧を落とし、まさに鬼の形相でハンドルを握る朔夜。
一方、姉原サダクは倒し過ぎたリクライニングシートの戻し方が分からず、ついに諦めてシートの様々な機能をいじって遊び始めていた。
人気のない道路に漂ううっすらとした黒煙を切り裂くように進む車体。
速度計の数値は時速140キロを超えようとしていた。
「死ね! 姉原サダク!」
猛スピードで電柱が迫る。
激突直前でハンドルを切り、助手席だけを電柱にぶち当てようとする。
「死ねればいいね」
猛スピードで電柱に激突し、大破するジープ。
その直前、運転席から人影が飛び出し、アスファルトの上を激しく転がった。
常人ならば即死しているであろう衝撃。事実、彼女の身体は全身あちこちの肌が裂け、肉が抉れ、黒い骨が露わになっていた。
漏れたガソリンに引火し、あっという間に燃え上がるジープ。もうもうと立ち上る黒煙の中から、小鳥が歌うような声が聞こえてきた。
「いーち、にーい、さーん……」
由芽依朔夜は体を引きずるようにしながら走り出す。
――怖いの? お姉ちゃん。
「ッ!」
慌てて耳を塞ぐ。
認めない。断じて認めてはならない。
呪われた身体同士の性能は明らかにサダクが上だ。
さらに今、彼女の憑代は鹿谷慧。
生まれつき極めて敏感な五感を持つ少女に、持ちぐされていた宝の使い方を無理矢理教え込んだのは他の誰でもない、朔夜自身である。
(勝てる気がしない)
ガクガクと震える身体に鞭を打ち、もつれる足で走り続ける朔夜。
(今だ。この震えは今だけだ! 私は、まだ敗けてない!
だが、もし今の彼女を見た者がいたら誰もが同じ言葉を連想するだろう。
気付いていないのは彼女自身だけである。
――敗走。
今の朔夜を著すに、これ以上の言葉があるとは思えなかった。
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