第144話 最低その2 ―ロクタニ ケイ2―
「終わった……」
ゆっくりと脱力していく鹿谷慧の身体を支えながら、由芽依朔夜は吐息まじりに呟いた。
それから朔夜は慧の身体を触診するようにまさぐり、生命反応を確認する。
心拍、呼吸、体温いずれも正常だ。
「……」
床に慧の大きな身体を横たえ、立ち上がろうとしたときだった。
「――!」
慧の手が、パンツスーツの裾を遠慮がちに掴んでいた。
「あの……」
蚊の鳴くような弱々しい声。
「どなたか、いらっしゃるんですか?」
「……ええ」
指先にこもる力が少し強くなった。
「何も見えないんです。ここは、どこですか?」
朔夜はしゃがみ込むと、慧の額に手を添えた。
そのとたん、慧の身体がびくっと跳ねた。
(そう言えば、肌が敏感だったっけ)
慧の視力を奪い、痛覚を刺激することで感度をさらに高める調整をしておきながら、朔夜は他人事のようにそう思った。
「自分の名前を言える?」
さりげなく尋ねながら、朔夜は型手をスーツの内ポケットに忍ばせる。隠し持っているのは改造したスタンガンである。
もっとも、姉原サダクの呪いにより変質した肉体に電流はあまり効果がないだろう。それは朔夜が自分自身の身体で実証済みである。それでも、1秒にも満たない時間とは言え足止めにはなる。
だが、その用心は杞憂だった。
「名前……」
視力を奪われた少女はもどかし気に顔を歪ませた。
「私は……えっと……私は……」
「……」
「すみません。思い出せません……、すみません……」
朔夜の唇に、ふっと笑みが浮かんだ。
「貴女の名前は、由芽依輝夜。私のたった1人の妹」
「ゆめい……かぐや……」
「私は朔夜。貴女の姉」
「お姉様?」
「輝夜は私のことを『お姉ちゃん』って呼んでいたかな」
「お姉ちゃん……」
小さな声で何度も「お姉ちゃん」と繰り返しながら、少女の声には涙が詰まってゆく。それは、周囲が全て未知という不安に対する恐怖だった。
早くも少女の心の中では『お姉ちゃん』という言葉が不安という闇に対抗する唯一の灯となりつつあった。
「思い出せないんです。何も。自分のことも、あな――お姉ちゃん……のことも、何も……」
「心配しないで」
そんな少女に、優しい言葉と甘い愛撫がじわじわと注ぎ込まれてゆく。
「お姉ちゃんに任せて。これから少しずつ植え付けていきましょう。私たちの幸せな思い出を」
まるで肉食虫が獲物に注入する毒液のように。
「幸せな思い出……」
少女の思考があまく痺れ、ドロドロに溶かされてゆく。
「私……思い出したいです。お姉ちゃんのこと、お姉ちゃんの思い出……」
「大丈夫。きっと思い出せる。お姉ちゃんを信じて、お姉ちゃんに全てを委ねなさい」
「はい」
少女の唇に、幸せそうな笑みが浮かんだ。
(勝った――!)
由芽依朔夜は嗤った。
(取り戻した! 私は輝夜を取り戻したんだ!)
この世界でただ1人の、自分と同じ身体を持つ分身、すべての時間を共有する分身を。
朔夜にとって、それは思わぬ収穫だった。鹿谷慧が、自分自身の記憶まで消してしまったことは嬉しい誤算だった。
当初計画していたのは、慧をより朔夜に依存させた上で徹底的に人格を否定し、自我崩壊に追い込んでから輝夜としての偽りの記憶を植え付けることだった。
慧の人格破壊には細心の注意を払う必要がある。慧が彼女の中――無意識の領域に封印した姉原サダクの存在を思い出さないよう、最低でも10年はかけて慧の思考から希望を奪い、選択を奪い、慧が自分自身で崩壊こそが救いであると悟り、自壊する仕向けるつもりだった。
(鹿谷慧、貴女に出会えてよかった)
だが、慧の人格は自ら消滅を選んだようだ。
(おかげで、私はこんなにも早く全てを取り戻した)
自分こそがこの世界で唯一の人間であるという矜持を。
彼女を苛む孤独を埋める信頼できる分身を。
(勝った。私は姉原サダクに勝ったんだ!)
自身がサダクの劣化コピーと蔑むこの肉体も。オリジナルが消えた今、彼女の身体こそが唯一にして至高の存在だ。
「おいで輝夜。これからは2人で生きましょう」
「はい、お姉ちゃん」
雌伏の15年を経て、由芽依朔夜は勝利に彩られた人生の新たな1歩を踏み出すのだ。
だが――
その背後で。
ゴキリ、と異様な音がした。
「ッ!?」
振り返った先にあるのは、砂っぽい床にうち捨てられていたみすぼらしい死体。
カリカリに痩せこけ、肌も髪もろくに手入れされていない、トラバサミの歯に片足を挟まれた哀れな死体。
――そのはずだった。
だが今、死体だったはずの『それ』は罠に挟まれた足を自らへし折り、よろめきながらも立ち上がろうとしていた。
驚愕に見開かれた朔夜の目に、罠の中に取り残された小さな足首が映る。
引き千切られた皮膚と肉の間から除く、血にまみれた真っ白な骨。
(しまった――)
『それ』は、獣じみた動きで跳躍した。
咄嗟にスタンガンを構える朔夜。だが、『それ』が掴みかかったのは彼女ではなかった。
「慧!」
思わず、少女の真名を叫んでしまう。
ニヤリと笑う『それ』。その手には、1丁の拳銃が握られており、銃口は少女の下あごに突きつけられていた。
「ひ、ご、ごめんなさ――」
銃声。
刹那、少女の顔のありとあらゆる穴から血が噴き出した。
「この、死に損ないが!」
朔夜の手が、スタンガンを握ったままスイッチも入れずに『それ』の顔面を殴りつける。
突風に煽られた枯れ葉のように吹き飛ぶ小さな身体。あまりの軽さゆえか、その身体は空中で1回転しうつ伏せに倒れて床の上を滑っていく。
「……」
ボサボサに伸びた前髪に隠れてその表情はうかがい知れない。
だが、握りしめられた小さな手から、細い中指が朔夜に向けて立てられた。
「――!」
怒りに任せて突進する朔夜。痩せこけた身体を蹴り転がすが、『それ』はすでに、今度こそ事切れていた。
「あ゛あ゛あ゛ッ!」
苛立ちのうめき声をあげる朔夜。しばらくの間、髪に手を突っ込んで頭を掻きむしっていたが、ようやく思い出したように「輝夜!」と叫ぶと倒れた少女に駆け寄った。
「輝夜……」
下あごに小さな赤い花を咲かせた、血まみれの顔を見下ろす。
サダクを倒すためだけに無残に改造された顔に、ぽたり、ぽたりと透明な雫が落ちた。
「そんな……。また、2人で生きていけると思ったのに……。私はまた、妹をッ――」
膝を着き天を仰ぐ朔夜。
だだっ広い廃工場に、狼の遠吠えにも似た慟哭が響き渡った。
……。
だが、それは30秒も続かなかった。
(ま、仕方ない)
泣き叫んで望みが叶うなら何時間でも泣くが、それが許されるのは赤ん坊か後期高齢者だけだ。
1度気持ちを切り替えてしまえば、彼女はつい一瞬前まで妹と呼んでいた少女に対する興味を完全に失っていた。
(姉原サダクを倒した。今回はそれでよしとしよう)
輝夜を失った自分が慧に出会えたように、孤独を癒せる相手はまだどこかにいるだろう。
幸い、この先時間はいくらでもある。
今はただ、15年ぶりに感じる精神的自由を満喫しよう。
2つの死体を野ざらしにしたまま、朔夜は工場を出た。
蟲の侵入を阻むための炎の壁も大分小さくなっている。
朔夜は工場の裏手に向かうと、シートで簡単に隠していたジープ――千代田家から無断拝借した車――に乗り込んだ。
ばたん。
ばたん。
「――ッ!?」
ドアの閉まる音が2度聞こえたことにゾッとした朔夜が振り返った先――。
助手席に、巫女服姿の少女がいた。
その口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
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