第143話 最低 ―ロクタニ ケイ―
15年。
とても長い時間だった。
姉原サダクのことを調べれば調べるほど、私は屈辱的な敗北感を味わい続けた。
愛する弟を喪った無念と奪った者たちへの憎悪を募らせるあまり、生まれ育った村を滅ぼし、逃げ延びた者たちを生涯をかけて追い詰めているうちに、やがて自らも外道となり果てた1人の女。
そこには、私が『愚者』と定義するすべての要素があった。
非合理的で、非生産的で、非効率的。存在するだけで周囲に害悪をまき散らす、まさにニンゲンの廃棄物。
そして、私はそんな存在に負けたのだ。
分身たる妹を奪われ、由芽依朔夜の名前を奪われた。
朔夜としての人格や名誉は、群生するニンゲンたちの足元にまるで野良犬に施されるエサのように放り捨てられ、おもちゃにされ食い荒らされながら忘れ去られてゆく。
そして、この肉体。
外見は輝夜を模したこの身体も、内蔵されている機能はことごとく姉原サダクの下位互換である。
この世界で、私だけが唯一の人間だった。
その私が、およそ考えられるもっとも愚劣な存在の風下に立たされ続ける地獄。
そして当の姉原サダクも、輝夜までもいなくなってしまった今、私の苦痛を理解してくれる者はこの世にいない。
だがそんな時間も、もう終わりだ。
「大丈夫。私は貴女を決して見捨てたりしない」
胸に抱く少女の髪を撫でながら、私は言葉をかけ続ける。
解る。
理屈ではなく感覚で。
今、鹿谷慧の脳内――精神世界では、私の言葉に縋りついて全てを忘れ去ろうとする少女の防衛本能が生み出す忘却の川の水圧に、姉原サダクの魂魄が激しく抵抗していることだろう。
「う……う、う……」
慧の両眼から血の混じった涙があふれ、いくつもの筋を作っている。
「忘れてもいい。つらい思い出はもう、すべて忘れていい。私も、誰も、貴女を責めたりなんかしない」
◇ ◇ ◇
――忘れてもいい。つらい思い出はもう、すべて忘れていい。私も、誰も、貴女を責めたりなんかしない。
頭の上から、甘いささやきが私を包む雪のように降り注いできます。
私なんて道の端に落ちている石ころほどの価値もないはずなのに、私の名を呼び、体を抱きしめ、愛してくださるあの人の声が。
(従わなくちゃ。あの人が私を見てくれているうちに)
あの人を失望させてはいけない。あの人に見捨てられたら私の生きる場所はどこにもない。
そんな、体を芯から凍えさせるような焦燥が私を駆り立てます。
でも……。
「……」
私は今、黒い水がゆっくりと流れる大河の中に立っています。
河岸は見えません。空もまた真っ黒で、月も星もありません。
光の無い、闇の世界のはずなのに、私は自分の姿をはっきりと見ることができます。
そして私の前に浮かぶ、見覚えのある女の子の姿も。
彼女は、ほっそりとした長い腕を投げ出すようにして、水面にゆらゆらと浮かんで言いました。下半身は見えません。黒い水に沈んでいるのか、それとも……。
口元にはやわらかな微笑みが浮かんでいて、その瞳は今私たちがいるこの空間と同じくらい真っ黒でした。
黒い瞳が、じっと私を見つめています。
私を責めるでもなく、何かを訴えるでもなく、ただそこに在って、ただ私を見つめています。
(鏡みたいだ)
ふと、そんな考えが浮かびました。
瞳という小さな面積に私の全てを吸収し、外側も内面も無意識の領域すら写し出す精密に歪んだ鏡。
――慧。もういいんだよ。疲れたでしょう? もう我慢しなくていい。貴女はもう、赦されている。
あの人の声が聞こえます。
ざわめく私の心を落ち着かせ、ふっと楽にしてくれるあの人の声が。
もっと聞きたい。
あの人の声を、もっとそばで、これからもずっと。
なのに。
どうして私は、うち捨てられた人形のように漂う目の前の少女から目をそらすことができないのだろう?
「ああ……」
吸い寄せられる。
彼女の瞳に、ブラックホールのような闇に、抗い難い力で引き寄せられる。
「やめて、もう許して、あね……さん……」
違う。
彼女が私を捕らえているんじゃない。私が、彼女に囚われているんだ。
黒い瞳が私を見る――いや、闇の中の私が、私を見る。
(前にも、こんなことが――)
ふと、不思議な感覚が私を襲いました。
無遠慮に振動するスマートフォン。
『すぐに来い』というメッセージ。
途端に私の頭が真っ白に染まり、身体が石化したように硬直する。
すかさず送られてくる画像。
そこにいるのは私の姿。他の人には絶対に見せられない――本当は『彼』にさえ決して見せたくない、私の姿。
『わかりました』
口答えも質問も許されない。私はただ、『彼』の言葉に従うだけ。
私は嗚咽を噛み殺しながら家を出る。
「ひっ……」
百段階段を下る途中に、2人はいた。
長い手足を投げ出すように倒れている少女と、そんな彼女を愉し気に見つめる『彼』。
「手伝え」
答えるべきは『はい』だけ。でも、この時ばかりは私は聞かずにいられませんでした。
「死んでるの?」
普段は私が質問するだけで機嫌を損ねる『彼』は、「見て分かれよ」と言いながらも饒舌に語り始めました。
『彼女』がどれだけ傲慢で生きる価値のない人だったか。どれだけ『彼』の心を傷つけたか。正当性は『彼』にあり、『彼女』の死は罰に他ならない――
「山に死体を埋める。手伝え」
「そんな……」
できない。私はそう言いたかった。
私は知っていました。
なぜか、それがとても罪深い行為であることを、理屈ではなく心の奥底で思い知っていました。
首を振る私の頬を、『彼』の平手が激しく叩きました。
「俺に逆らうんじゃねぇよ!」
目の前に突き付けられるスマートフォン。
「鹿谷、お前まだ自分がいっちょ前の人間だと思ってんの? 笑わせんなよ、お前は俺の奴隷で、裏切り者の罪人なんだよ」
スマートフォンに映る私の姿を見て、自分が『彼』の奴隷であることは嫌というほど分かりました。でも、裏切り者の罪人の意味は――
「俺、知ってんだよ。お前と楠があいつに何をしたか」
「ッ!」
全身に電流が流れたような衝撃。
嫌だ。
知りたくない。
思い出したくない。
ビニールシートに包まれた妹尾君の姿を。
両腕にのしかかる妹尾君の重さを。
私の友達だったばかりに、罪を背負ってしまった比奈ちゃんの涙を。
私たちが届けた息子の遺体を見た、妹尾君のお母さんの空虚な笑顔を。
人が、生きながら死んでいくあの瞬間を。
「嫌アアアアアッッッ!!!」
忘れていた記憶が流れ込んでくる。
妹尾明君。私なんかよりずっとつらい思いをしているのに、彼だけのやり方で愛する人を守り続ける強い人。
もし、彼の眼差しが私に向けられたらなんて毎晩のように夢想しておきながら、私のしたことは最低最悪の罪だった。
楠比奈ちゃん。私の大切な友達。言葉はなくても、私たちは確かに通じ合っていた。学校では他人のふりをしなければならなかったのは辛かったけど、久遠さんや佐藤さんが間に入って私たちを密かに繋ぎとめてくれていた。
そんなみんなの心遣いを無視して、私は自分だけ罪を忘れ、比奈ちゃん1人に背負わせてしまった。
米田冬幸君。彼に至っては名前すら忘れていた。私の恥ずかしい画像を使って私を虐げようとした人。彼の仕打ちは嫌で嫌でたまらなかってけど、彼もまた極限状態の中で助けを求めていたのかも知れない。私に縋りたかったのかもしれない。
でも私は、その手を振り払ってしまった。
あの時の感触がよみがえる。
呆然とした表情のまま、階段を転がり落ちていく『彼』の姿がはっきりとよみがえる。
うつぶせに倒れたまま、ピクリとも動かなくなった米田君に近づく勇気は、もう私には残されていませんでした。
そう。あの時も。
階段に座り込む私の姿を、壊れた人形のように横たわる彼女の目が見つめていた。
私の罪を、責めるでもなく、受け入れるでもなく、ただその黒い瞳に映していました――
「姉原さん……」
ようやく名前を思い出した彼女の身体を抱き上げる。
案の定、下半身は黒い水に溶けて消えてしまっていました。
「ごめんなさい」
「……?」
かすかに首を傾げる姉原さん。
「私、最低で……、自分ばっかり被害者だと思って、逃げ続けて……、友達のことさえ……」
言葉にならない私の懺悔を、姉原さんは微笑みながら黙って聞いてくれました。
やがて、彼女の両腕が私の首に回りました。手はひんやりとしていました。
黒い水の中に、私の身体が沈んでいきます。
水の中で、私の身体が少しずつ溶けていきます。
どうやら、私はついに自分自身をも忘れることにしたみたいです。
「……」
目の前に、姉原さんの穏やかな微笑みがあります。
私が私に下した罰に彼女が付き合ってくれるのは、彼女なりの優しさでしょうか? それとも、最後まで彼女は自分の手で私を殺そうとしているのでしょうか?
答えはわかりません。
だったらせめて、最期くらい私は自分が最低な人間であることを受け入れて、一緒に消えてくれるのは彼女の優しさだと思うことにしました。
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