第142話 屈辱 ―バイツァダスト―
目を覚ますと、私は病院のベッドの上にいた。
身体を起こそうとすると、全身の筋肉がビキビキと悲鳴を上げた。
「あらちょっと、ダメダメ」
私の側で何やら作業をしていた看護師の女性が慌てて私を制した。
「動いちゃダメ。私が見える? お名前言える?」
「由芽依……」
反射的に自分の名前を言おうとして、ふと思考にブレーキがかかった。
強烈な違和感。
記憶を手繰るが、どうにも思い出せない。
私はどうして病院にいるのだろう?
あの後何があった? 輝夜は? 姉原サダクは? 私は?
「うぅ……」
うめき声をあげ、意識が朦朧としているふりをする。
自分の状況を把握するまで、相手の質問には安易に答えるべきではない。
「じっとしててね。先生呼んでくるから」
小走りに去っていく看護師の背中を見送る。病室には私が横たわっているものの他に2つのベッドが並んでいるが、いずれも無人だった。
今、この病室にいるのは私だけだ。
医師が来るまでにこの違和感の正体を探らなければならない。
もう1度、痛む身体に鞭打って起き上がった。
全身筋肉痛であるにもかかわらず、身体が妙に軽い。それに、さっき上げたうめき声。自分の声とは思えないほど音程が高かった。
(鏡は……)
部屋の奥に洗面台がある。幸い、私のベッドも部屋の最奥だ。少し身を乗り出して首を回せば、私の顔が見えるかもしれない。
「……」
まさかとは思っていたが。
信じがたいこととは言え、実際に起きていることは受け入れるしかないだろう。
「ああ! だから動いちゃダメだって!」
駆け寄ってきた看護師に押さえつけられるように寝かされる。彼女の背後からぬっと現れた初老の医師が事務的な手つきで私の目に片方ずつペンライトを当て、全身を触診した。
「自分の名前を言えるかい?」
看護師と同じ質問をされる。
だが、今度ははっきりと答えることができた。
「由芽依輝夜」
この肉体が本来の私――由芽依朔夜のものであることは、他の誰でもない私自身が確信している。
胸に穿たれた傷痕。自らの手で皮膚を破り、肉を抉り、黒い肋骨を掴み出した痕跡は見間違いようがない。
逆に言えば、たったそれだけだった。
私が確かに由芽依朔夜であったという証拠は、この二目と見られないほど醜く引きつったグロテスクな傷痕だけだった。
「私は輝夜。由芽依輝夜」
私の身体は、悪魔のような姉に両親を殺され、自身も深い傷を負った哀れな少女の姿に変貌していた。
顔も、体格も、何もかも。
◇ ◇ ◇
当時の地方新聞によれば、早朝、由芽依家の家屋から火の手が上がっているのを隣家の主婦が発見し通報した。
駆け付けた消防隊によって消火活動が行われるも家屋は全焼。焼け跡からは男女3人の焼死体と、唯一燃え残った浴室から生存者が1人発見された。
寝室から発見された男女は、状況から世帯主の由芽依爽とその妻夕美、浴室の前に座り込むようにして死んでいた女性は、体格から長女の朔夜と推定された。
当初は事故と事件の両面から捜査が行われたが、両親の死体から多量の睡眠薬の成分と、何より致命傷と見られる刺し傷が発見されたことから、警察はこれを無理心中事件と断定する。
ほどなく、長女由芽依朔夜を被疑者死亡のまま殺人、放火および殺人未遂で書類送検した。
日頃から素行に問題のあった由芽依朔夜は、学校や近所とのトラブルから自暴自棄となり一家心中を計画。あらかじめ睡眠薬で眠らせていた両親を殺害して自宅に放火。そして次女輝夜の殺害を試みるも抵抗に遭い、浴室に追い詰めるもそこで酸欠となり焼死したとする捜査結果を発表した。
「ご両親、お互いの手をぎゅっと握っていたそうよ」
事件のことを教えてくれた看護師がそんなことを言っていた。
「お姉ちゃんにも、人の心が残っていたんじゃないかな」
看護師は私が両親を殺す際にせめてもの手向けとして2人の手を握らせたのだと思っているようだった。そんな勝手かつ見当違いな話を聞き流しながら、私は考えていた。
両親に睡眠薬を飲ませたのは誰だろうか? と。
私に身に覚えがない以上、考えられる可能性は2つしかない。両親自身か、それとも輝夜か。
恐らくは両親だろう。互いに手を握っていたという情報がそれを裏付けているように思える。2人はあの夜、私に殺されることを悟っていたのだ。
そして、私が輝夜を殺すことはないということも。
震える私の肩を、看護師が優しく撫でる。
だが、私が震えているのは哀しみのためではない。羞恥と屈辱のためだ。
他人は私の置かれた状況を幸運だと思うだろうか?
妹が全ての罪を被り、私は新たな名前と身体で新しい人生を生きる。それを逃げ切ったと考えるだろうか?
冗談じゃない。
私だけがこの世界で唯一の人間だった。
私は他者を理解し、心理を読み、行動を予測し操ることができる。
でも、他人は私を理解できない。何人も私を縛ることは許されない。
だが今はどうだ?
由芽依朔夜は他人の好きなように分析され、曲解され、死人に口なしとばかりに貶められている。
受験競争の悲しい被害者。
社会の歪みのしわ寄せをより弱い者に押し付けようとする現代人の病巣。
長年にわたる政権与党の失策無策によって生み出された哀れな怪物。
いじめの主犯とやらに祭り上げられるのはまだいい。
両親が私の心理と行動を読んでいたという事実には多少の衝撃と敗北感を覚えるが、まだ許容できる。
だが、由芽依朔夜が下等生物たちに同情され、憐れまれ、慰みものにされる様子を見続けるしかない屈辱、この無念だけはどうにもできない。
しかも、由芽依朔夜はすでに過去の存在だ。
これから先、由芽依朔夜は徐々に忘れられ、取るに足らない不良グループや通り魔などと比較され、同列に扱われていくのだ。
これが私への罰とでもいうつもりだろうか?
否、輝夜がここまで考えていたとは思えない。
あの子は愚かだ。今の私がいるこの場所――両親の生命保険で生活を保障され、しがらみも束縛もなく、大人たちからは手厚く保護されるこの環境をあっさり手放してしまうほど先の見えないおバカな子なのだ。
あの子は利用されたのだ。
仕組んだのは、菩薩のような微笑みの内側にどす黒い底なし沼のような思念を宿したあの女だろう。
「姉原サダク……」
やがて、私は由芽依輝夜として児童養護施設に移され、警察学校を卒業して警察官になった。
すべてはあの女、姉原サダクの正体を探るために。
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