第141話 別離 ―エチュード Op.10,No.3―
この時、私が凶器に包丁を選んだのは、姉原サダクが学校での虐殺に西洋包丁を使っていたのを見て「これなら私にもできそうだ」と思ったからである。
深夜2時を回った頃、私は両親の寝室の前に立った。
この時、私は一糸まとわぬ全裸だった。返り血を浴びた時に服の処分に困らないようにするためだ。
髪だけはヘアゴムでまとめ、輝夜が入院する時に買って結局使わなかった水泳帽のようなインナーキャップで抑え込んだ。万が一反撃に遭ってしまった時、髪は弱点になり得る。
これも、女子生徒の髪を掴んで首をかき切っていた姉原サダクから学んだことだ。
問題はシナリオだった。
世間からの心無い誹謗中傷を苦にした一家心中。今回はこれがもっとも自然だろう。この場合、父が母を殺したと見せるのがより説得力があるように思える。だが私としては先に動きを封じるべきは父の方が都合がよい。母を殺している最中に父が目覚めたら厄介だ。
それに……。
――朔夜、あなたは私を母親だと思ったことはないでしょう?
母の私を見る冷たい眼差しが脳裏に浮かぶ。
母に私の心中を見透かされたことに、胸の中にモヤモヤとした苛立ちが漂っている。
2人はできるだけ速やか殺すつもりではあるが、もし死の恐怖を感じる瞬間ができてしまった時は、それを味わうべきは母の方だと思った。
まずは父の胸を刺す。
次に母の首を切り、包丁を母に持たせる。
シャワーで血を洗い流したら、家を燃やし、輝夜を連れて外に出る。
今にして思えば穴だらけの計画だが、当時の私はまだ中学生で、特に犯罪マニアでもなかった。死体の切創の形状からからどれだけ多くの情報が得られるかなど、当時の私は考えもしなかった。
音を立てないよう、細心の注意を払って寝室に滑り込む。
両親は2人用サイズのベッドに並び、静かに横たわっていた。仲睦まじい2人だった。
私はベッドに上がり、父の身体をまたいで膝立ちになった。頭の中に記憶しておいた人体図を思い浮かべ、父の姿と重ね合わせる。
細心の注意を払いながら包丁の切っ先を心臓の位置に合わせ、片手で柄をしっかり握り、もう一方の手を上に添える。
そこに自分の胸を押し当て、一気に倒れ込んだ。
大の男を殺すのに、私のごく一般的な女子中学生の腕力は信用できなかった。今この瞬間だけは一切の後先を考えず、全体重を刃に乗せることに専念した。
胸に熱い飛沫を感じた。父の身体が強張り、2、3回震えた。そして、それっきりだった。
……よくもまあ、ぶっつけ本番であばら骨の間を貫き通せたものだと今は思う。
(あっけないものなんだな)
母は目を覚まさなかった。
そのことに8割の安堵と2割の落胆をもって、私はさらにあっけなく母の首筋に刃を突き立てた。
◇ ◇ ◇
(シャワー浴びたい)
これが、両親を殺めた私が最初に思ったことだった。
私の身体の前半分は、2人の返り血で真っ赤に染め上げられていた。
とは言え、まだまだやることは多い。
包丁を母の手に持たせ、返り血を洗うために寝室を出ようとしたその時だった。
「お姉ちゃん……」
半開きのドアの向こうに、いてはならない者がいた。
「かッ、ぐ、や!?」
その瞳は、哀しみに満ちていた。
その腕には、快気祝いに家族で出かけた巨大テーマ―パークで買った大きなぬいぐるみが、ぎゅっと抱きしめられていた。
「どうして……」
口を突いて出た疑問は、今ここに輝夜がいることに対するものか、それとも本来その瞳に宿るべき感情――驚きや恐怖――が一切見られないことに対するものか。
「お姉ちゃん……」
輝夜の目から涙がぽろぽろと零れ落ちる。
この時、私は自分の身体がカッと火照るのを感じた。
なぜか、妹にこの血まみれの身体を見られたことがとてつもなく恥ずかしく思えた。
「違うの。これは……」
必死に物語を組み上げる。輝夜を安心させるための、輝夜が私から離れないための、私たちのための夢物語を。
母が父を殺し、私たちも殺そうとした。
でもできなかった。母は我が子を手にかけることができず、私に輝夜を託して自殺した。
だが、私が裸である理由は?
そもそも、輝夜はいつから私を見ていた?
「あのね、輝夜――」
それでも何か言わなければと口を開いた私を、清水のように透き通った目で制した。
「お姉ちゃん、悪いことしたの?」
輝夜の言葉は、その字面とは裏腹に、まるで法壇に座る裁判官のように厳かだった。
「ッ……」
質問のあまりの純粋さ、単純さに言葉を失う。
たった今私のしたことは、殺人という『悪いこと』だろう。だが、ここで輝夜を上手く説得することができれば――母が父を殺して自殺したというストーリーを納得させることができれば、私は罪に問われない。
罪が無いなら、『悪いこと』をしたとは言えないだろう。
それが、法治国家における善悪というものだ。
「私は……」
思えば、ここが分岐点だった。
解っていた。本当は、解っていたのだ。
「あのね輝夜、これはお母さんが……」
違う。そうじゃない。
輝夜が問うていたのは、法的な解釈や実証の可否ではなかった。
純粋に、単純に、私がどう思っているのかを聞いていたのだ。
私の口から垂れ流される出まかせを聞きながら、輝夜は静かに泣いていた。
「ごめんね……」
やがて、小さな口から、ぽつりとそんな言葉が漏れた。
「私、お姉ちゃんのこと、何にもわかってなかった。妹なのに。ずっとそばにいたのに。寂しかったよね。ごめんね。こんな妹で、ほんとにごめんね……」
目を伏せる輝夜。その手からぬいぐるみが、家族が一番幸せだった時の思い出が、冷たい床にぽとりと落ちた。
「ごめんなさい」
再び顔を上げた輝夜は、なぜかとても大人びて見えた。
「それでも私は、やっぱりお姉ちゃんが大好きです。自分でもわからないけど、でも、どうしてもこの人を嫌いになれません」
(何を言ってるの? いったい誰に向かって?)
その目は確かに私に向かっているのに、明らかに別の誰かに語りかけていた。
「か……ぐ……」
言葉が出ない。
まるで、意識と身体が切り離されてしまったように。
突然、自我が体の奥に向かって引きずり込まれるような感覚に襲われた。
(何? これは――)
すぐそばに気配を感じた。
この肉体の中にある、もう1つの存在。私の身体に侵入し、乗っ取ろうとする意識体を。
(姉原サダク!?)
間違いない。
私には到底理解できない、どす黒い思念。
非合理的で非生産的な、誰にとっても益にならない無価値な闇。
それが、あの聖ガラテア女学院事件の渦中で私が観察した姉原サダクという存在だった。
人が闇を覗く時、闇もまたこちらを覗いているのだ、とは誰の言葉だったか。
「今の私の命は、お姉ちゃんに分けてもらったものです」
私の目で見ているはずの輝夜の姿は、まるでカメラをつないだディスプレイを見ているように遠く感じた。
「だから、私もお姉ちゃんと一緒に行きます。お姉ちゃんと一緒に地獄に落ちます」
本当に、何を言っているのだろう?
この子が私の造血細胞を移植したことと、私の罪の間に何の関係があるのだろう?
解らない。
あまりに愚かすぎて、もう私にはこの子が理解できない。
そして何より信じがたいのは、姉原サダクが、このヒトに擬態した異形の化け物が、輝夜の口から発生する音の波に共振しているらしいことだった。
「お姉ちゃんと私は、この世界で2人きりの姉妹だから!」
私の手が、私の胸に食い込んでいく。
爪が肌を裂き、指先が肉をかき分け、肋骨を暴き出す。
私の骨は、石炭のように黒くて、鈍く光っていた。
その身体はもう、私のものではなかった。胸を抉られる激痛さえ確かに感じているはずなのに、まるで夢をそうと知りながら見続けている時のように、自分のものとして感じられなくなっていた。
(やめろ! やめろ!)
私の叫びも、どこにも届くことはない。
へし折られた一本の肋骨。
輝夜は、穏やかな笑顔を浮かべてそれを受け取る。
「お姉ちゃん」
そして輝夜は、躊躇うことなくそれを自分の胸に突き刺した。
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