第138話 花瓶 ―フラワーベース―
リハビリを終えた輝夜が退院して、早くも1カ月が経った。
(今ごろはあの子も給食を食べているのかな)
何か話しかけて来る級友たちに反射で生返事をしながら、私はあの子のことを考えていた。
卵焼きが甘い。
正直、白米のおかずとしてはあまり私の好みではない。でも――
――あ! お姉ちゃんお弁当作ってる!
朝、私が弁当を自作していると、寝起きの輝夜が近づいてきた。
その目線はほかほかと湯気を上げる卵焼きに注がれている。
「甘いやつ? それ甘いやつ?」
頷くと、キラキラと光る大きな瞳がじっと私を見つめてきた。
「ほら、あーん」
素直に「あーん」と言いながら口を開けるその姿は、餌をねだるひな鳥そのものだ。
「おいしい!」
ぷっくりと膨らんだ頬に浮かぶ満面の笑顔。病床で夜を怖がっていたあの姿が、まるで悪い夢のようだった。
私は本来、卵焼きは塩味派だ。でも、輝夜のこの顔が見られるのなら、しばらく弁当に甘い卵焼きを入れても良いかと思った。
輝夜は私を「命の恩人」と言った。
ならば私にとって、あの子は救世主だ。私を乾いた孤独から救ってくれた。
相変わらず、輝夜の言うこと考えることは、よく言えば想像力豊かだが、悪く言えば根拠に乏しく非合理的で感情的だ。
愚かしいとさえ言える。
私と輝夜は、本当の意味で『会話』を交わしたことは1度もない。
あの子はただ私に向かって可愛らしい声でさえずっているだけだ。
もっとも輝夜に限らず、私はこれまで他の誰とも『会話』をしたことはない。
会話とは、対等な者たちが行う双方向コミュニケーションであり、私はニンゲンの鳴き声を聞いて自分の考えを変えたことは1度もない。
でも、他の者たちが発するけたたましい犬のような吠え声や猿のごとき金切り声に比べれば、輝夜の小鳥のようなさえずりは私にとってはるかに価値のあるものだった。
大切なのは、輝夜の中に間違いなく私の血が流れているということ。
遺伝的な意味でも、より直接的な意味でも。
輝夜は、かけがえのない私の一部なのだ。
この世界で、私と輝夜だけが唯一の人間だ。
(帰ったら、輝夜の宿題を見てあげよう。ご褒美のクッキーをどこに隠そうか)
眠気を伴う退屈な午後の授業。
前の座席に飾られた花瓶の花を眺めながら、私はそんなことをぼんやりと考えていた。
そして。
そんな私たちの前に、『彼女』は現れた。
時期外れに現れた転校生。
初めて見た時から、私は彼女の『異質さ』に気付いていた。
むしろ他の者たちが彼女を自分たちの同胞として扱うことに戸惑いさえ覚えた。
彼らには、アレがヒト属ヒト種に見えるのか?
いくら、ゆるやかに波打つ黒髪が美しくても。
口元に浮かんだ微笑みが穏やかでも。
「あねはらさだくともうします。みなさん、よろしくおねがいします」
口から言葉らしき音声を発していても。
「どうか、なかよくしてくださいね」
光の無い、真っ黒な瞳に私の姿が映っている。私はかつて、こんな瞳をした生きたニンゲンを見たことがない。
「……どうして私に?」
そして彼女は、教師に指示された座席を無視し、まっすぐに私の前にやってきた。
「だって、このくらすのちゅうしんはあなたなのでしょう」
いくつかの視線が私の顔でに交差した。
クラス委員長、不良グループのリーダー、運動部の部長……、表向きこのクラスの中心とされる者たちが私の顔色を窺い、私の意向を忖度しようとしている。
「やだな、私はそんなんじゃないよ」
「そうでしたか」
きょとんと小首を傾げるその様子は、どう見てもニンゲンに擬態した肉食昆虫だった。
久しぶりに感じる緊張感。
だが同時に、私の身体は歓喜にふるえてもいた。
姉原サダク。
彼女は恐らく、私が生まれて初めて出会った対等な『対局者』だ。
輝夜ではないが、これは根拠に乏しい直感だった。
姉原サダクは、私の日々の安寧を脅かすために現れた。
彼女から目が離せなかった。
彼女が何を考え、何をしようとしているのか、まるで読むことができなかった。
思えば、この時が私にとってもっとも幸福な時だったのかもしれない。
どこまでも続く灰色をした砂漠のような人生に、輝夜という癒しを得、姉原サダクという対戦相手を得た。
世界とは、なんて彩と輝きに満ちているのだろう!
私の人生にとって最大の敵は『退屈』だった。
その意味では、姉原サダクは私の敵対者ではなく、共に退屈と戦ってくれる共闘者であると言えた。
◇ ◇ ◇
姉原サダクが私の前に現れてから、1週間は特に何も起こらなかった。
彼女はクラスにするりと溶け込み、控えめで目立たず、されど舐められずな地位を確立していた。
普段は教室の片隅で静かに読書にいそしむ一方、放課後のクラスメイトからの誘いはほとんど断ることがない。
ある日は運動部に体験入部して汗を流し、ある日は生徒会を手伝い、休日は私も含めた数人とショッピングやカラオケを楽しんだ。
それはどう見ても、毎日を全力で楽しむ今どきの女子中学生だった。
やがて、ついに変化が訪れた。
それはあまりにもささやかだったが、その日を境に私の平穏はあっけなく、無残なまでに崩れ去った。
教室に花瓶が1つ増えた。
代わりにクラスメイトが1人消えた。
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