第136話 邪悪 ―エヴィル―
この世界で、私だけが唯一の人間だった。
私以外のニンゲンは、みんな私の形を模して作られた人形で、私は地球という広大な箱庭の中でたった1人で生きている。
ずっと、そんな思いが私の心に巣食っていた。
それは、今も変わらない。
そんなことを思うようになったのは小学校に上がった時だ。正確には、物心がついたときからずっと感じていた違和感をこうして言葉にできるようになった。
違和感の原因は、私は他人のことを理解できるのに、彼らは私を理解できないことにある。
私が言葉を自在に操れるようになったのは3歳ころだと記憶している。
それ以前から、私は他者が何を考え、次にどのような行動を取るかを高い精度で予測することができた。
言語を習得したことで自分の思考を体系化できるようになった私が次に試したのは、この言語というツールを使って他人をどこまで操ることができるかだった。
さすがに赤の他人を操ることは難しかったが、親や保育士ならある程度行動を誘導することはできた。
同年代の子供――保育園の同級生に至っては、もはや手足の延長のように私の思うままだった。しかも、彼らが傷を負ったところで私は全く痛くない。その点では手足よりも便利だった。
私自身は、手の平についたちょっとした擦り傷を水で洗うことさえ嫌で嫌でたまらないのに、他人はたとえ車の前に飛び出して四肢が四散したとしても私は何も感じなかった。
私はただ、「道路の真ん中に子猫がいる」と言っただけだ。その子は私の予想通りに車道に飛び出した。もっとも、もう少し人の形を留めると思っていたが、その点は予想外だった。
人体が私の予想以上に脆いのか、それとも走行する車の破壊力が高かったのか。その検証は今後の課題だと思いながら、私は歩道に座り込んでぼーっとしていた。そうすれば、周りの大人たちは私を手厚く世話してくれると予想していたし、実際その通りだった。
そして、私は小学生になった。
初めは目新しい環境も、一通り見慣れてしまえば後はまた何もかもが予想通りのつまらない生活だった。
ただ、他の子どもたちも次第に言語を操れるようになって、極稀に私のことを「理解できない」「気味が悪い」と表現する子も現れた。
多少窮屈だったが、私は『彼らの望む同級生』を演じることで周囲に溶け込むことにした。これで表向きの摩擦は無くなったが、それがかえって私の中にあの疑問を生み出した。
この世界で、私だけが唯一の人間なのではないか?
私はみんなのことをこんなに理解しているのに、みんなは私のことを理解できない。
他人のことが、いよいよ人形のように見えてきた。
そんなはずはないことは、すでに実証しているのに。不安に駆られると、あの時の光景を思い出す。轢死したニンゲンの姿。他人だって私と同じく血と肉で出来ている。コンピューターも配線コードもどこにも無かったではないか。
それでも私は、時々大声で叫び出したいほどの孤独感に苛まれるようになった。
友達はいた。
というより、全校生徒が友達のようなものだった。
上級生も、先生も、みんな私を知っていて、みんな私のファンだった。
この頃の私は若干迷走していたというか、精神的に余裕が無かったのだろう。私のことを嫌ったり、猜疑の目を向けて来る者が煩わしくて、彼らを自動的に排除されるシステムを作っていた。そんな者たちは私の関知しないところで勝手に転校したり、天井からぶら下がったりしていた。
でも、いくら周囲の者たちを私のファンや信者で固めても、この全身を搾り上げられるような寂しさや不安は増すばかりだった。
誰からも注目されていながら、誰にも理解されずに、私はこのまま心を死滅させていくのだろうか?
小学校を卒業するころには、心の寂寥は精神的な孤独死の予感と恐怖に変わっていた。
そんな私を救ってくれた人物。
それは案外身近にいた。
由芽依輝夜。
私の、5歳年下の妹である。
◇ ◇ ◇
病院で母に抱かれた輝夜を見た時のことはよく覚えている。
身体が真っ赤で、驚くほど小さくて、床に落としただけで車にぶつかったのと同じくらい飛び散ってしまうんじゃないかと思えた。
もし、輝夜が生まれる前にあの実験をしていなかったら、私は輝夜を被験者に選んでいたかもしれない。
輝夜が最初に覚えた言葉は「ねぇね」だった。
私よりずっと遅く言葉を覚えてからは、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と私の顔を見れば何を置いても駆け寄って来て私の後ろをついて回った。
輝夜の相手は大して苦にならなかった。むしろ、私が進んで輝夜の世話をすると両親や周囲の大人たちが何かと都合の良い反応をするので、メリットの方が大きかった。
私は毎日輝夜の絵を描いた。両親は誤解していたようだが、これは私なりの観察日記だった。
初めはもぞもぞと蠢く赤い塊だったモノが、次第に人間の姿に――私の姿に似ていく様子は私に安心感をもたらした。
――この子は、少なくともこの子だけは人形じゃない。
それでも、私にとって輝夜はこの世界で最も距離の近い他人。それ以上の存在ではなかった。
私は輝夜のことなら何でも解った。輝夜が夜泣きをする理由も、母にわからなくても私はすぐにわかった。
でも、輝夜は私のことを何も知らない。
私のやること為すことに興味を示し、他の者たちと同様に「すごい、すごい」と褒めてくれるが、それ以上のことは何も無かった。
まぁ、無人島に何か1つ持っていくとしたら? と聞かれたら、私は輝夜と答えるだろう。
この世で最も信頼できる他人であるし、いざという時は間違いなく肉になる。
私にとって、妹とはその程度の存在のはずだった。
1度だけ、輝夜を巡って不可解なことがあった。
輝夜は成長するにつれ、甘いものが大好きな少女になった。特にチョコレートやカスタード、クッキーなどの洋菓子には目が無く、つまみ食いの常習犯となっていた。
あの日、私は輝夜と散歩をしていた。
「あそこにケーキがあるよ」
新しくできた喫茶店を指差して、私は言った。
この時の私は、何の他意もなく事実だけを述べたつもりだった。
たまたま、そのお店が道路の向こうにあったというだけだ。
すると輝夜は何の迷いもなく車道に飛び出した。
その時、私の頭の中に、久しく忘れていたあの光景がよみがえった。
車に轢かれ、一瞬で赤い塊に変わった同級生。
自分でも信じられないくらいの大声が、私の意思とは無関係に口から迸っていた。
私の腕の中で、無邪気に暴れる輝夜の小さな身体。
頭の上を通り過ぎていく「危ねぇぞばかやろう!」という罵声。
私は、本当にただ呆然としていた。
私に何が起きたのか、まったく解らなかった。
輝夜を抱きしめる力が、全然抜けない。
ボロボロとこぼれる涙が止められない。
自分の意思に反して体が動くなんて、生まれて初めての経験だった。
「お姉ちゃん? お姉ちゃんどしたの?」
そして、自分の身に起きたことを何一つ理解していない愚かな妹。
溢れ出るこの感情をどう説明したらよいか。苛立ちに近いが、根本的に何かが違う。胸の中に感じる輝夜の体温がどうしようもなく私の感情を掻き立てる。
私はただ、この感情に翻弄されるまま、泣き続けるしかなかった。
あの現象は何だったのか。
自分の意思を無視して体が動いたあの現象。そして、その後に訪れた苦痛と興奮がないまぜになったような感情の昂ぶり。
(解らないなら、調べればいい)
そう思わないでもないのだが、どうにも気が乗らなかった。
今まで、私のことを理解した他人はいなかった。まして、私自身が説明できないでいることを、他人に解ろうはずもない。
それになぜか、「理解されてたまるか」という妙な意地のようなものが私の中に芽生えていた。
(もう1度、確かめてみる?)
そんな欲求に従って、輝夜の背中に手を伸ばしたこともある。でもできなかった。
万が一、輝夜を失ってしまったら? 根拠があるわけでもないのに、それは私にとってとてつもない損失であるように思えてならなかった。
結局、私がこの時のことを理解する機会を得たのはそれから数年後のことになる。
私は地元の名門校である聖ガラテア女学院中等部で最上級生になろうとしていた。
何の前触れもない、普通の日。いつもと同じ、何もかもが予想通りの退屈な1日。
1時限目の授業が終わった休み時間、スマホに親からメッセージが入っていたことに気付いた。
学校で輝夜が倒れ、病院に運ばれたとの連絡だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




