第135話 防衛 ―アンコンシャス―
「あ……あ、あ、ああああッ!!!」
慧が胸を掻きむしるような動作で悶え始める。
「慧!」
慧は「はっ、はっ、はっ」と犬のように浅く息を吐きながら、何とか頷いた。
怨霊・姉原サダクが慧の意識に侵入したのだ。
私はリモコンのスイッチを切り替える。
慧の左まぶたに埋め込まれた、3対の極小ピアスがばちんと音を立てて慧の左まぶたを再び縫い付ける。
ピアスには強力な電磁石が仕組まれている。
姉原サダクが『視線』を媒介として他者の身体に乗り移っているのは、これまでの観察から明らかだった。これで彼女は、完全に慧の身体の中に閉じ込められたことになる。
「しっかりして、慧!」
私は彼女の大きな身体を抱きしめた。
あまり時間は無い。慧の脳にサダクの意識が完全に乗り移っると、身体組織は1度崩壊してサダクの身体に再構築される。
私が慧の身体に施した数々の仕掛けも初期化されてしまうだろう。
このわずかな時間で、姉原サダクを完全に斃さなければならない。
そして、鹿谷慧はそれができる少女なのだ。
「大丈夫、大丈夫だよ慧。自分をしっかり持って。私を感じて」
「朔夜様……」
この時まで、私は昼も夜もなくわずかな暇さえあれば慧の身体を抱き、愛撫してきた。
私の肌や体温の感触を、彼女の敏感な肌に覚え込ませるために。
私に抱かれれば、慧の心が安らぎを感じるよう条件反射を植え付けるために。
「大丈夫。大丈夫だからね。力を抜いて、私に全部委ねるの」
「はい……」
愚かしいほど素直に、少女の身体は弛緩し、私にしなだれかかって来る。
「それでいい。可愛い慧。愛してる」
慧の身体に染み込ませるように愛の言葉を囁いていく。
「貴女は頑張った。とっても頑張ったね。長い間ひとりぼっちで、辛かったね」
少女のこれまでの人生で、誰もかけてくれなかったであろう言葉。少女が焦がれるように欲してきたであろう言葉をかけてやる。ひくひくと弱々しく震える肩を温めるように抱きしめる。
「好きだよ、慧。私は、辛い日々をじっと耐えてきた貴女が大好き。これからは私が貴女を守る。ずっとずっと、死ぬまで愛してあげる。だからね、慧……」
「もう、忘れてしまいなさい。痛かったことも、怖かったことも、恥ずかしかったことも、全て」
「朔夜様……わ、わた……し……」
激しくしゃくり上げながら、必死に首を振る慧。
「いいのよ慧。貴女はもう、じゅうぶんすぎるほど苦しんだ。心も身体もボロボロになるほど罰を受けた。だから、もういい。もう苦しまないで。貴女はもう許されているのだから」
「ッ――」
「これからは私が貴女を幸せにしてあげる。だからもう、忘れなさい」
◇ ◇ ◇
「そう来たかー」
暗闇の中で、姉原サダクは呟いた。
もっとも、今の彼女は肉体を持たないため、呟いたというより思念したと言ったが近い。
本来ならば前後も上下もない無限の空間を、彼女自身も無限に広がっていておかしくないこの精神世界で、サダクは今だ自分を人型であると認識し重力の存在を感じて――あるいは錯覚して――いた。
「……」
果てしない闇の中に、サダクは立っていた。
だが今、彼女の足元は泥のようにぬかるんでおり、じわじわと彼女を飲み込もうとしていた。
(忘却の河か)
それはまさに、緩やかに流れる淀んだ大河だった。
流れているのは情報だ。鹿谷慧が五感で感じた情報、思考した情報が入り混じり、混沌となって流れている。
落書きだらけの教科書。
引き裂かれた下着。
自分を見下ろす血走った目。
針で刺される痛み。
親の財布からお金を抜き取る罪悪感。
真冬の風と冷たい水。
向けられるスマートフォン。
毎日が剣山の上で綱渡りをするような恐怖だった。
――私が悪いんだ。私が鈍いから。私が木偶の坊だから。
何をやっても、何もしなくても、周囲の人々は彼女を詰り、罰した。
彼女のやることなすこと、すべてが不正解だった。
彼女は正解を探し続けた。
自分がみんなに迷惑をかけているから。自分のせいで父や母、大切な人を困らせているから。
だから私は罰を受けている。
みんなが簡単に出している正解を出せないでいるのだから、これは当然のことなのだ。
だがある時、彼女は気付いてしまった。
本当は、正解なんてどこにも無いんじゃないか?
私は生まれてきたことがそもそもの×違いで、×ぬ以外にみんなを×らせない方×は××ん×ゃな×か?
サダクの手から情報がこぼれ落ち、沼の奥底へと消えていった。
――私が悪いんだ。私が鈍いから。私が木偶の坊だから。
そして思考は堂々巡りを続ける。
これが彼女――鹿谷慧の自己防衛だった。
学校にも、家にも、自分自身にすら逃げ場が無かった彼女にとって、忘却こそが自分の心を崩壊から守る最後の手段だったのだ。
「……」
記憶をすくい上げていたサダクの手の平に、酸で溶かされた金属のような穴がぽっかりと空いていた。
無意識の領域に沈められた情報と共に、サダクの存在も持っていかれたのだ。
どうやら、鹿谷慧が忘れ去ろうとしている膨大な苦痛の記憶に、サダクの存在も紐づけられてしまっているようだ。
サダクのことを憶えている限り、慧はつらい記憶を忘れることができないのだろう。
すでに、サダクの思念は半分以上が忘却の淀みに沈んでいた。彼女にしてみれば、下半身が沼に飲み込まれているイメージだった。
そしてサダク自身、脚を動かす感覚はおろか自分に脚があったという記憶すら失いかけていた。
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