第132話 最後の1人 ―ファイナル・ガール―
――お姉ちゃん。
――お姉ちゃん。
「朔夜様」
遠慮がちに身体を揺さぶられ、私はまどろみから醒めた。
「千代田君が……」
小さく震える慧の声。
大きな図体は小刻みに震えながら、姿勢全体もゆらゆらと頼りなげに揺れており、疲労の激しさが見て取れる。
「ついに『最後の1人』、か」
肩を抱いてやろうと手を伸ばす。
だが、慧は私の手から逃れるように距離をとった。
「楠さんのこと、怒ってる?」
私の問いに、慧はふるふると首を振る。だが、表向きはそうでも、きゅっと引き締まった口の端や固く強張った所々の筋肉は、彼女の内面に燻る怒りを雄弁に語っていた。
「貴女との約束を守れなかったことは申し訳なく思ってる。でも、いくら私でも、自ら死を望む者を止めることはできない」
「はい……」
「私は、命とはその人のだけのものだと思ってる。どれほど汚名を被り、恥知らずと言われようと、意地汚く生きるのも自由。己の信念や美学に殉じて命を捨てるのも自由。そうじゃない?」
「……」
慧の両肩が力なく落ちる。そんな彼女の冷えた肩を抱き寄せる。
彼女の気持ちは手に取るように解る。彼女の怒りは、私にではなく慧自身に向けられている。
「辛いね。解るよ。同じ罪を犯しておきながら、のうのうと生きている自分が嫌いなんだ」
びくりと震える体。反射的に耳を塞ごうとするその手を掴む。
「楠さんは孤独な贖罪の道を選んだ。ううん、自分が罪を犯したと識ったその瞬間から選んでいた。きっと、彼女は誇り高い精神の持ち主だったんだね。私は彼女の生き方に敬意を表する」
「……」
「慧、貴女はどうかな?」
身体は冷え切っているのに、顔はかぁっと熱く染まる。
「ただただ怯えて、子供みたいに泣きじゃくって、結局誰かが何とかしてくれるのを待ってるだけ。勘違いしないで、貴女を責めているんじゃない。楠さんの精神が特別なだけ。貴女は何も悪くない。貴女は普通。どこにでもいる、薄汚い恥知らずな人間の1人。だからこそ、私は貴女がとても愛おしい」
「ぅ……ぅぁ……ぅ……」
歯を食いしばり、泣くまいとする慧。
本当に、素直で、愚かで、可愛い娘だ。
その怒りが見当違いと言われればそう信じ、羞恥に悶える資格が無いと言われればそう信じる。泣くことも許さないと言われれば必死に嗚咽をこらえようとする。
事実に基づいた否定。肯定に見せかけた否定。思いやりの言葉に潜ませた否定。
慧の中で、せっかく生まれた感情の芽が行き場を失って死滅していくのが解る。
そして、ここからが彼女の真価だ。
「起きなさい慧」
身体をそっと揺さぶると、慧ははっと顔を上げた。
「え? あれ? すいません、私……?」
「よほど疲れてるね。よく眠ってた」
「あ、すいません……」
手の甲で、包帯の上からごしごしと目元をこする。
視力を奪われた彼女には、その手を濡らしているのが血の混じった涙であることに気付けない。
勝てる。
彼女なら、姉原サダクに勝てる。
まさに姉原サダクを殺すために生きてきたような少女。
「もう少しだけ頑張って。今夜はゆっくり、ぐっすり眠れる。今度こそ約束する」
「はい……」
「私を信じてくれる?」
「はい、朔夜様」
今、私が彼女の身体を抱きしめ、その唇にキスをするのは、心からの愛情だ。
◇ ◇ ◇
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
両目がそれぞれ別の方向を向いた女性が、頭を掻きむしりながら哄笑している。
そんな彼女の胸倉を掴み、電柱に叩きつけながら男が叫んだ。
「うるせぇ! 何笑ってんだ!? 痛ェ! 痛ェ! 痛ェよォォォーーーッ!!!」
涙と鼻水、涎を滝のように流しながら、男は狂ったように女を殴りつける。
「きゃはははははははは!」
女もまるで負けまいとするように狂った笑い声をさらに張り上げる。
黒煙に飲まれた日和見町のそこかしこで、そんな光景が繰り広げられていた。
彼らは皆、姉原サダクが放った百足や蜘蛛によって脳を侵蝕され、神経中枢をズタズタに喰い破られたなれの果てだった。
発狂できた者や早々に死を迎えることができた者はまだ幸福な部類だった。
大半の者たちはまともに歩くこともままならないほどの頭痛に苛まれ、苛立ちのままに物を破壊し、他者を乱打する。
「お前のせいだ! お前のせいだ! 死ね! 死ね! 死ねェ!」
まだ10代と思しき少女が、親ほどに年の離れた男性の上に馬乗りになってガラス片を突き立てている。
「許してくれ! 悪かった! 俺が悪かったァ!」
胸から上を所かまわず滅多刺しにされながら、男性は牡牛のように泣きわめく。
「頼む! 病院を! 医者を! 金ならある! 金ならいくらでもあるんだァ!」
道端に座り込み、叫び続ける老人。
「もう無駄。何もかも無駄……。あは、あははは……」
やつれた笑みを浮かべながら、自ら燃え盛る建物に入っていく女性。
そこには、確かな平等があった。
力の強弱、地位の上下、財産の多寡――そんなものは関係ない。
平等に与えられた苦痛。それををどう使おうが、どう終わらせようが、すべては自由。
かつて、彼らは自分の理性で考える自由を放棄し、立場の弱い者に向かって『小さな悪意』という名の凶器を思うがまま振るってきた。
しかし、彼らは主張する。
こうするしかなかった。自分達もまた弱い立場の人間なのだ、と。
もし、自分たちがしがらみのない自由な立場だったら、こんなことはしなかった。
もし、自分たちに一部の権力者に逆らう力があれば、正義と思いやりを失うことはなかった。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
「痛ェ! 痛ェ! 痛ェーッ!!!」
「お前のせいだ! お前のせいだァ!」
彼らは今、『自由』と『平等』を与えられた悦びの歌を合唱していた。
そんな極楽絵図の中を、姉原サダクは相も変わらず柔和な微笑みを浮かべながら歩いていた。
その黒い瞳にはもう、燃え盛る町並みも、業火に焼かれる者たちの姿も、何一つ映っていない。
「?」
ふと、彼女の足が止まった。
町中に放った『子供たち』。彼女の身体から生み出され、感覚を共有する黒い蟲たちの一部が突然消えた。
刹那、灼けつくような痛みがサダクを襲った。
(焼き殺された?)
どうやら、どこかで『子供たち』が数百匹、まとめて焼却されたようだ。
サダクにとっては、焼き殺されるほどの激痛が数百倍になって襲い掛かってくることになる。
(昔は辛かったな)
だが、常人ならば狂死するほどの激痛も、今のサダクにとっては大した刺激ではない。
ある意味、彼女は何度も踏み潰され、ガソリンを飲んで爆死し、殺虫剤の毒霧によって臓腑を侵され、水に沈められて窒息している。
殺されることには、もう慣れた。
「んー……」
彼女は目を閉じ、こめかみに指をあてて考えこんだ。
子供たちが消えた場所。
そこに最後の1人がいる。
「……行きますか」
そう呟きつつ、サダクは無人となったコンビニに入って行くと、しばらくしてバナナクレープを頬張りながら出てきた。
そして今度こそ確固とした足取りで歩き始めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




