第131話 希望 ―チヨダ イクロウ2― ◇千代田育郎の制裁その5
「畜生! 離せ! 離せ離せ離せェェェーーーッ!!!」
股間を鷲掴みにされたまま、千代田育郎はうらぶれた繁華街の裏路地に引きずり込まれていた。
いったいいつから積み上げられているのか、ろくに分別もされていないゴミの詰まったポリ袋の山からは饐えた悪臭が漂っている。
「ぐおおッ!」
ギリギリと睾丸を締め上げて来る姉原サダク。その手は一見、ほっそりと美しい。だがよくよく見ると、指の関節は節くれ立ち、指先の肉は固く盛り上がった、猛禽の脚を思わせる獰猛さを備えている。
シルエットの細さに惑わされていたが、彼女の手の美しさはどちらかというと機能美に類するものだった。
(何なんだ、この女――!)
冷や汗が育郎の背中を濡らす。
サダクの生白い手から逃れられるイメージが思い浮かばない。
幼少のころからスポーツに勤しんできた育郎から見れば、サダクの運動能力は決して高くないはずだった。
だが、育郎の言う運動神経とは、瞬発力と俊敏性に評価が偏っている。
彼は知らない。
昭和初期、戦前・戦中世代を生きた者たちの野生児じみた逞しさを。
現代の子供たちが勉学やインドアの娯楽に費やした時間を、荷物を背負って野山を歩き泥にまみれて農作業を手伝わされてきた者たちの、桁違いの馬力と耐久力を。
「ぐぎぃぃぃぃぃーーーッ!」
少しずつ、少しずつ増していく握力。その力に比例して激痛もまた天井知らずに増していく。
育郎は白目をむきながら、痛みから逃れたいという根源的な本能にしたがってありとあらゆる抵抗を試みた。
酒瓶で少女の頭を殴り、割れたガラスでその顔を抉る。
「ぐええええッ!!」
だが、汚い悲鳴を上げるのは育郎の方だった。
どんなに殴りつけてもサダクが手を離さないせいで、その衝撃はすべて彼女の身体を介して最終的に育郎の股間に伝わってしまうのだ。
サダクを引きはがそうとする力は、そのまま睾丸を引き千切られる痛みとなって返って来る。
「おげえぇぇぇーーーッ!」
育郎は嘔吐した。
痛みのあまり、誤作動を起こした内臓筋が激しいひきつけを起こしたのだ。
自分の意思とは関係なく、ぐるんと上を向いてしまう眼球。暗転する視界の端が、血にまみれたサダクの穏やかに微笑む口元をとらえた。
「誰か……助け……」
誰でもいい。
この菩薩のような笑顔を浮かべた地獄の鬼から救い出してくれるなら、もう、誰でもいい。
自分のすべてを差し出しても、もう何も惜しくない。
「お母さん……お母さぁん……おか、おか、おかあ、さ、ん……」
いつしか、育郎はゴミの散乱する裏路地に体を丸めるようにして横たわっていた。
「痛い……痛いよぉ……」
ぐっしょりと濡れた下半身からは、アンモニアと鉄錆の混じったような異様な臭いを放つ液体が黒い水たまりのように広がっている。
育郎ははらはらと泣きながら、ひしゃげた親指を狂ったようにしゃぶっていた。
「おかあさん……お、お、おかあさぁん……」
いつの間にか、怖い人はいなくなっていた。
だが、彼の心から恐怖は消えるどころか、むしろじわじわと増大しているようだった。
「寒い……」
もう、助けを求めて動く気力もなくなっていた。
(俺はもうダメだ)
自分には何もない。
端正な顔も、張りのある声も、鍛えられた体も、すべてボロボロに破壊されてしまった。
それだけではない。
家も、金も、人脈も、すべて失われていた。
自分は何でもできると思っていた。
自分は選ばれた特別な人間だと思っていた。
だが、その信仰は股にぶら下がっていた二つの玉と共に跡形もなく粉砕されていた。
指をしゃぶる。
ただひたすら、指をしゃぶる。
生きてさえいれば、何でもできるはずだった。
その考え自体は誤りではない。
だが、今の彼には、生物が生きていくためにもっとも大切なものが失われていた。
希望。
(嫌だ。怖い。もう何もできない)
希望を持てば、姉原サダクがやって来る。
自慢の容姿は、顔の骨とともに砕かれた。
意のままに操っていた人民も、今や育郎を追い立てる側に寝返った。
電子マネーを使おうとしたら、スマートフォンを奪われた。
そして、子孫を残そうとしたときには――
「ヒィィィーーーッ!」
地獄の痛みがフラッシュバックし、育郎は指をしゃぶったまま歯を食いしばる。
幸い、前歯をへし折られていたためこれ以上指を失うことはなかったが、そんな幸運すら感じる余裕はなかった。
(生きられない! 生きようとしたらアイツが来る! 希望を奪いにアイツが来る! 怖い! 動けない! もうダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだダメだダメだダメだ……)
「寒い……おかあさん……寒いよォ……」
汚物に濡れた身体から、夜風が容赦なく体温を奪っていく。
――何を怯えている?
――このままではダメだとわかっていて、何もしない奴は死ぬしかない。
――何も行動しない奴に、生きる価値はない。
どこかから、張りのある精力的な声が聞こえてくる。
(勝手なことを言うな! お前は何も知らないんだ! 生きる希望を1つ1つ奪われる恐怖を! 誰も助けてくれない絶望を!)
わかっている。
自ら生きようとしない者の前には緩慢な死があるだけだと、そんなことは百も二百も承知なのだ。
だが、もう1つの真実を知ってしまった者はどうしたらいい?
絶望とは、存外簡単に作り出せるということを。
ほんのわずかな悪意と、それが培養され周囲に感染する土壌があれば、人は簡単に絶望を生み出せるという事実を。
生きる気力の源を、生きる希望を1つ1つ奪っていく。
それだけで、人間は誰かを簡単に絶望に叩き落とすことができる。
簡単な生命活動にさえ恐怖を覚えるほどの、地獄のような絶望に!
そんな知りたくもない真実を知らされてしまった者に、『強く生きろ』などとどの口が言う!?
育郎は親指をしゃぶりながら体を丸めた。
それ以外に、もう何もする気が起きなかった。
ついに、何度目かのフラッシュバックにも体が反応しなくなり、千代田育郎は朝日を迎えることなく巨大な生ごみとしてその生涯を終えた。
☆ ☆ ☆
日和見高校2年A組:千代田育郎:凍死。
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