第129話 沈黙 ―サイレンス― ◇千代田育郎の制裁その3
そこは、何の変哲もない道端だった。
強いて特徴を上げるとしたら、歩道が広めで、片側には積み上げられたコンクリートブロックで補強された裏山の裾野が続いていることだろうか。
少なくとも、代々この日和見町を治めてきた、世が世なら未来の領主として敬われ『若様』と呼ばれていてもおかしくない千代田家の嫡男が這いつくばっていい場所ではなかった。
「姉原……」
そして、彼の眼前には氏も素性も定かではない少女の足がある。
(こんな屈辱があってたまるか)
千代田育郎は、努めてサダクを見まいとしながら、彼女に弾かれたスマートフォンへ向かってアスファルトの上を這っていく。
(金だ。金さえあれば……)
折れ曲がった指先がスマホに触れようとしたその時、革靴がスマホをさらに遠くへ弾き飛ばした。
「――!」
見上げる育郎。
見下ろすサダク。
「……やることが陰湿じゃないか?」
育郎は問うた。
「君がしていることは、結局加害者と同じじゃないか。相手が一番嫌がることをする、まさに『嫌がらせ』だ! 同じ穴のムジナだよ! それで妹尾明が成仏できるとでも思っているのか?」
「……」
サダクの表情は変わらない。
小首を傾げているあたり、言葉は耳に届いているのだろうが、果たして意味を理解しているのか。
「君のしていることは何も生み出さない! あまりに無意味だ! 誰も幸せにならない! こんなものは正義でも何でもない、ただひたすらに愚かで哀れな行為だよ! そうは思わ――」
サダクがしゃがみ込んだ。
真っ黒な瞳がじっと育郎を見つめる。
「な、い……か……?」
冷や汗が、どっと育郎の全身を濡らした。
サダクの顔に、ひと欠片でも侮蔑や怒りが見えればまだ救いがあったかもしれない。
だが、彼女の瞳から感じるのは、限りなく無に近い、精製され純化された殺意だった。
契約者に成り代わり、恨みを晴らす怨霊。
初めてサダクの素性を聞いた時、育郎は鼻で嗤ったものだ。
過去に囚われることも、他人に同情することも、何の生産性もない愚かな行為だ。
共感した他人の恨みを晴らして、自分を救おうとする。
そんな哀れな存在に身を堕とした姉原サダクなる少女は、さぞかししみったれで、甘ったれで、薄っぺらい正義観とお花畑な道徳観に染まった取るに足らない心の持ち主だったのだろう。
今の今まで、そう思い込んでいた。
(甘かった……)
育郎の言葉に対し、漆黒の瞳は小揺るぎもしない。
(声さえ、枯れていなければ)
その仮定がとても空しいものであることは、育郎自身がひしひしと感じていた。
例え彼の喉がベストコンディションだったとしても、サダクの黒い瞳はいささかも揺るがなかったろう。
(姉原は、もう死んでいる)
今さらに、そんなことを思った。頭では分かっていたつもりだったが、今ははっきりと実感した。
(目が死んでる)
こんな相手に、言葉なんて通じるはずがない。
彼女はまぎれもなく怨霊。人の心を失った呪い。共感なんてあろうはずもない。
(化け物!)
痛む体に鞭打つ思いで立ち上がる。
スマホは諦めるしかなかった。
逃げる。とにかく逃げる!
(このままでは喰われる!)
姉原サダクの視界から逃れなければ、彼は捕食されてしまう。
いや、すでに彼女の捕食行動は始まっている。
蜘蛛が餌の体内に消化液を注入し、溶けた肉を吸い上げるように、サダクは捕らえた獲物の心に絶望という消化液を注入してズタボロになった心をすすろうとしているのだ。
◇ ◇ ◇
コツ、コツ、コツ……。
炎と喧騒に包まれているはずのこの町で、この足音だけがやけにはっきりと聞こえてくる。
「助けてください! 追われてるんだ……」
「うわ! なんだコイツ!」
「ちょ! キモッ!」
「離れろ!」
道行く人々に助けを求めるが、誰も彼を千代田育郎だと気付かなかった。
「俺は千代田育郎だ! 助けてくれればお礼は――」
「うるせぇ! 何が千代田だ!」
「あんたのせいだ! どうしてくれんの!?」
むしろ、自分が千代田の息子と知れるのはリスクですらあった。
(まだだ。まだ希望を捨てるな。俺は持っている。持っているんだ!)
美貌を失っても、声が出なくなっても、彼には頭脳と知識がある。
彼の言葉を発進する場さえあれば、いくらでも人を動かすことができる。
スマートフォンを失い、パソコンを操作する指が無くても。
例えば、彼の言葉を代弁してくれる人間さえいれば……。
「千代田の子……」
「サダク様へ……」
「そうすれば、この痛みから……」
だが、町にはサダクに支配された亡者たちまで解き放たれていた。
彼らの垂れ流す呪詛の言葉が、町全体にじわじわと浸透していく。
一向に鎮まらない火事、連鎖する事故、錯綜する情報。人々の心に堆積していた不安や焦りは、鬱憤となり、元凶である千代田育郎に向かってベクトルを集中させつつあった。
(嘘だろ……?)
育郎の頭の中にある人名簿。そこに記されたすべての者たちが使えないと知った時、ようやく育郎の心に焦燥が生じた。
(詰みだというのか?)
コツ、コツ、コツ……。
足音が近づいて来る。
彼は今、この日和見町という巨大な盤上で、1つ1つ逃げ道を潰されていく詰将棋の王将だった。
(俺は、光の子じゃなかったのか!?)
光の速さは不変。その法則の前には、時間や重力すら捻じ曲がる。
だが、彼は見落としている。
それでも光は囚われる。質量の生み出す空間の歪みによって光は曲がる。
ブラックホール――超高密度・超大質量天体が生み出す歪曲空間。その『闇』の力の前には、光さえ逃れられない。
(いや、まだだ。まだ希望を捨てるな!)
必死に自分を鼓舞する。
彼の今までの人生は、ずっと準備期間だった。
すべては将来の指導者となるために。そして手に入れた理想の女に後継者を産ませ、選ばれた遺伝子を後世に伝えるために。
(俺にはまだ使命が残っている)
千代田家に生まれた男の、最後の使命が。
(この際、相手は誰でもいい。いや、この際1人を選ぶ必要はない! この町の女に、俺の遺伝子を!)
物陰から物陰へ、コソコソと移動しながらギラついた目で女性を物色するその姿にかつての若君の面影はない。
それどころか、物乞いの品格すら持ち合わせていないことに、いまだ本人だけが気付いていなかった。
(最低限、顔とスタイルが人並以上でなければな)
この際、頭脳や能力は問わない。千代田家にとって、もっとも大切なのは魅力である。魅力さえあれば、他の能力は育郎のそれを半分も受け継いでいれば家の存続には差し支えない。
(いい女! いい女!)
果たして、彼の前に理想の少女が現れた。
幼い少年と手をつなぎ、若い男に守られるようにして町を駆ける少女。
(佐藤晶!)
この状況で彼女を見つけられたのは全くの偶然だった。
(やはり、俺は『持っている』!)
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