第127話 絶叫 ―シュリーク― ◇千代田育郎の制裁その2
「痛ああああああァァァァァァァーーーーーいッッッ!!!」
千代田育郎が頬に感じている痛み。
それは、捻挫した足がもたらす痛みとは根本的に異なっていた。
敵意。
スポーツにつきもののケガや故障とは、そこが決定的に違う。
いまだかつて、育郎は他者から敵意を向けられたことがなかった。
嫉妬ややっかみといった視線を向けられたことはあっただろうが、育郎にとっては鬱陶しいコバエの羽音のようなものであり、敵意の範疇には入らなかった。
「何だよ、これ……」
自分と対等か、もしかしたら自分より格上の相手から敵意を向けられる恐怖。
自分の人格を否定し、人生を否定し、未来を閉ざそうとする者からの明確な意思表示。
それは、父親にも殴られたことのない育郎にとって初めての経験だった。
「何で……何でこんなことをするんだ!?」
腫れ上がった頬を押さえ、切った口内から血の混じった涎を垂らしながら育郎は問う。
答えるのは穏やかな微笑み。そして繰り出される拳。
真っ白な蘭の花を思わせる、儚げでさえある繊細な拳。
パキッ。
軽薄とも言える音。
だがそれは、骨と骨がぶつかり合う、暴力の音。
「あああああッ!」
折れ曲がった鼻から、血が滝のように流れ落ちる。
「待て! 待ってくれ! フェアじゃない! こんなのフェアじゃない!」
無残に裂けたサダクの手。白い皮膚を破り、薄い肉を抉って現れる黒い骨。
だが、それは一瞬のことだった。すぐに骨の上には薄い膜が張り、内部では肉の繊維が結び直され、新しい皮膚組織に覆われていく。
「君は再生するのに……、俺は、俺は……」
相手は傷つかない。なのに自分は一方的に傷つけられる。
一片の慈悲も憐みもなく、叩きつけられるのは真っ黒な敵意――すなわち、殺意。
「ヒッ、ひひッ……」
不意に、育郎の顔に笑みが浮かんだ。
(何で?)
そのことに驚いたのは育郎自身だった。
(何で俺は笑っているんだ?)
姉原サダクの披露する、見様見真似の不格好なシャドーボクシングが面白いのか?
本来の運動神経はそう高くないのであろう、軽快に見えて時折もつれるフットワークが滑稽なのか?
当然、否だ。
(違う! 嘘だ!)
育郎は必死に否定する。
彼の心の奥底で、すでに出ている答えを。
――この俺が、あんな素人女に怯えて、媚びようとしているなんて、ありえない!
たった2回、顔を殴られただけだ。
だったらこちらも、2回殴り返せばいいだけの話ではないか。
あのパンチには何の重みもキレも感じられない。重心移動なんて考えてすらいないのだろう。闇雲に腕を振っているだけだ。
ただ、やたらと思い切りがいいだけで。
何の躊躇いもないだけで。
一切、殴られた相手のことを考えていないだけで。
たったそれだけのこと、それだけの違いが、これほど恐ろしいものなのか?
「タイム! タイムだ姉原さ――」
パキッ!
何か固い物が舌に触れ、思わず飲み込んだ。
「ふわああああッ!?」
間の抜けた悲鳴。2本の前歯が消えていた。
「ああああああーーーーッ!!!」
育郎は駆け出した。
捻った足の痛みなんて、そんな些細なものはどうでもよかった。
全身を圧搾されるようなこの恐怖の前には、何もかもが些細なことだった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ァァァーーーーッッッ!!!!」
暴力。
話が通じない相手からの暴力。
自分のことを対等な関係とはまったく思っていない者からの、一方的な暴力!
「お母さァァァーーーーンッッッ!!!!」
こんな恐ろしいものがあっていいのか?
自分が同じ目に遭ったらどう思うか? そんな想像力、共感のひと欠片も存在しない相手が自分に害意を向けて来る。
人と人が支え合って生きているこの人間社会で、こんな恐怖が存在していいはずがない!
(逃げろ! 逃げろ! 逃げるんだ!)
逃げるは恥だが、罪ではない。
強者は、勝てる勝負を繰り返すから強者なのだ。
父親譲りのルックスと声、母親譲りの頭脳、そして先祖代々引き継がれてきた帝王学。
生まれながらに全てを持っている自分なら、どんな状況に置かれてものし上がれる。
そう。生きてさえいれば――!
自分がどのようにあの百段階段を駆け下りたかは覚えていない。
気が付いた時は、育郎は裏山のふもとで両膝に手を付いて必死に呼吸を整えていた。
「はぁ……はっ、あっ……げほっ……」
止まらない鼻血が喉に流れ込み、激しくむせる。
「…………」
「……」
「――ッ!」
少なからぬ勇気を振り絞り、後ろを振り返ったが誰もいない。
(追って来ない?)
ならば、今のうちにどこかに隠れなければ。
だが、どこへ?
自宅、学校、市役所、どこも安全とは言い難い。
(落ち着け。俺は千代田だ。この町のことなら何でも知ってる。この町は俺の領土――)
ぞくりと背中を悪寒が走った。
(いる!)
あの敵意だ。
頭の中が急激に深い靄に満たされ、思考が鈍る。両脚が情けないほどに震え出す。
肩に、べたりと誰かの手が触れた。
「――!」
筋肉が強張り、振り返ることができないでいる育郎。その顔を覗き込む何者か。
姉原サダクではなかった。
名前も知らない、若い女性だった。ただ、彼女の目は一方が真上を向き、もう一方の目はどこか遠くをぼんやりと見つめていた。
だらしなく開いた口の端が、歪に吊り上がっている。
「た……す……けて……」
彼女の耳の穴に、黒く細長いモノが身をくねらせながら入り込んだ気がしたが、恐ろしくて確認などできようもなかった。
「たすけて……」
「千代田君……」
「お願い……」
何か――人間であることは間違いないのだが、とてもそうとは思えない、見る者をゾッとさせる者たち――が、次々と群れをなして山を下りて来る。
「く、来るなァ!」
育郎はまとわりつく女性を突き飛ばした。
女性はよろよろと後退り、そのまま路上に仰向けに倒れた。
車道にはみ出した上半身。その上を、乗用車が猛スピードで通り過ぎていった。
「へ?」
育郎の口から、間の抜けた声が漏れる。
ぴくぴくと痙攣する女性の両脚。街灯の光にぬらぬらと照らされる大輪の花。
「何だ今の? 何だこれ? 夢?」
頭が痺れ、現実感が薄れていく。
「人殺し」
抑揚のない声が育郎の思考を無理やり現実に引き戻す。
「違う!」
振り返った育郎の前には、大勢の町の人間たちがいた。
いや、元人間たちと言うべきか。誰も彼も目の焦点が合っておらず、涎を垂れ流す口が半笑いに歪んでいる。
「人殺し」
「人殺し」
「人殺し」
「違うって言ってんだろ! 黙れよ!」
叫びつつ逃げ出そうとする育郎。だが、それよりも早く無数の手が彼の服を掴んだ。
「やめろ! やめろやめろォォォッ!」
だが、育郎の声は誰の耳にも届かなかった。
人々は神輿を担ぐように育郎の四肢を掴み、「わっしょい、わっしょい」のリズムで「人殺し、人殺し」と合唱しながら彼を運んでいく。
「やめろ! いやだ、嫌だァァァ!」
先刻、火事場の馬鹿力で駆け下りた百段階段を、強制的に担ぎ上げられてゆく。
そして階段の最上段では、案の定、姉原サダクが穏やかな笑顔で座っているのだった。
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