第126話 叫び ―スクリーム― ◇千代田育郎の制裁その1
「はっ、はっ、はっ……」
千代田育郎は軽快に山道を走っていた。
彼が自ら扇動していた民衆の前から姿を消したのはいつだったのか?
答えは、育郎に武器を手渡された中年男性がその凶器を妹尾真実に向かって振り上げようとしたその直前である。
(未来の指導者に醜聞があってはならない)
彼の人生プランは、高校卒業後は慶応大学に入学、そしてアメリカのコロンビア大学大学院へ留学して政治学を修めるとともに国内外に有力な知己を得、晴れて国会議員としてデビューすることだった。
最終目標は内閣総理大臣。それも、官房長官だの幹事長だのといった者たちの傀儡ではない、名実ともに真の指導者となることである。
この国の人間は、とかくクリーンな指導者を好む。
(疑惑をかけられる分には問題ない。限りなく黒に近いグレーならばいくらでも誤魔化せる。だが、たとえ一点であっても『黒い染み』を俺の経歴につけるわけにはいかないんだ)
だから、彼は真実が死ぬ瞬間を見るわけにはいかなかった。
あの場の当事者にならないために、彼はこっそりと消えたのだ。
(俺は、こんな田舎で終わっていい人間じゃないんだ!)
町が燃え始めてから何度目かの心懐をした時、彼は偶然にもサダクを閉じ込めた土蔵の扉の前を通り過ぎようとしていたところだった。
目の隅が、赤い光を知覚した。
「――!?」
その瞬間、轟音と共に凄まじい衝撃が育郎の身体に叩きつけられた。
◇ ◇ ◇
「一体、何が……?」
どれくらい気を失っていたのだろう。
目を覚ました育郎は自分の置かれた状況を把握すべく、周囲を見回した。
「うわっ!?」
育郎は仰向けに倒れていた。
体を起こした時、彼の股間のすぐ近くに太く重い木材が突き刺さっていたことに気付いた。
土蔵の扉を封印していた閂だ。
(あと10センチずれていたら……)
ぞっと鳥肌が立ち、冷や汗が背中を濡らす。
(だが、そうはならなかった!)
間一髪とは言え、危機は彼の側を素通りしたのだ。
(やはり、俺は『持ってる』!)
選ばれた人間とはこういうものだ。
――育郎さん、あなたは『光』よ。
母の言葉が思い出される。
そう。俺は光だ。光は決してその速度を落とさない。
光の前には重力や時間さえも歪んでしまう。
(誰にも俺に行く手を阻むことは許されない)
意気揚々と立ち上がり、一歩を踏み出そうとしたその時だった。
「ぐっ……」
右の足首に鋭い痛みが走った。
(さすがに無傷ってわけにはいかないか)
骨が折れていないことだけを確認し、育郎は足を引きずりながら茂みを出た。
「マジかよ」
土蔵は跡形もなく吹き飛んでいた。残されたのは無残にへし折れ、赤々と燃え上がる木材。
(姉原はどうなった?)
可能性は2つ。土蔵の中で爆死したか、それとも……。
「チッ……」
凡夫なら、ここで気持ちが楽になる可能性を信じることができるのだろう。
だが、育郎にそれはできなかった。
常に最悪を想定する、ある種の臆病さは人の上に立つものには必要なスキルの1つだ。
(姉原……)
またあの怪物と戦うのは、リスク以外の何物でもない。
炎の明かりを頼りに、足首をあらためる。目立った外傷は無いが、くるぶし全体が内出血をおこし、赤黒く変色している。どうやら爆風に煽られた際に強く捻り、筋を痛めてしまったようだ。
(筋肉冷却スプレーが欲しいな)
今はとにかくここを離れなければ。
だが歩けば歩くほど、足の痛みは増していく。
(おかしい。俺は、持ってるはずなのに。足を捻った程度で歩みを止めるような人間じゃないのに……)
「肩、貸しましょうか?」
「ッ!?」
危ういところで悲鳴を飲み込んだ。
振り返れば、口元に手を当ててクスクスと笑う少女がいた。
すでに何人かを血祭にあげたのだろう。真新しい制服に黒い飛沫が点々と染みついている。
「落とし物ですよ」
足元に放り投げられたのは、先端に砂を詰めたサッカーソックスだった。
「……」
育郎に向けられた細い人差し指がくいくいと動く。
――生きたければ、私を斃せ。
「舐めるなよ姉原ァ!」
凶器を振り回しながら、育郎はあえて痛む足を前に出して踏み込んだ。
(優先度の問題だ! 生きるか死ぬかの瀬戸際に、痛みなんて度外視だろうが!)
指導者の仕事とは、突き詰めれば如何にして少数を切り捨てるかを選択することだ。時には自身の身を切るような決断も迫られる。
「うおおおッ!」
渾身の力を込めながらも、適切に制御された筋肉の働きにより凶器は正確にサダクの顎を撃ち抜く――はずだった。
「何!?」
サダクの姿が一瞬ブレたように見えた。空を切る音だけが虚しく響く。
「クソッ!」
歯を食いしばって痛みをこらえ、2撃3撃と繰り出すが、サダクの姿はまるで幻のように捉えられない。
「バカな……」
人外が使う妖――ではなかった。
サダクの足が軽快なステップを踏んでいる。
馬場信暁が死の間際に見せた、ボクシングの足運びだ。
「……」
驚愕する育郎に見せつけるように、サダクはその場でシャドーボクシングをし始める。
「何だ……その動き……?」
スカートを翻し、楽しそうに育郎の周りを旋回し始めるサダクを見て、育郎は体が自分の意思に反して震え出すのを感じた。
(あの時は手を抜いていたっていうのか!?)
自分に酔うことで麻痺させていた足の痛みが、ズキズキと全身に響き始める。
「ふざけるなァ!」
苛立ちに任せ、闇雲に凶器を振り回す。だが、サダクはその合間を縫うようにして間合いを詰めると、何の恐れも躊躇いもなく、無造作に拳を突き出した。
パキッ! と。燃え盛る木が弾けるような音がした。
「……」
穏やかに微笑むサダクの手は、黒い骨が皮を裂いて露出していた。
対する育郎の顔面は――
「い、い、い……」
歪んだ頬骨の周囲がみるみるうちにどす黒く変色し、肉が盛り上がっていく。
「痛ああああああァァァァァァァーーーーーいッッッ!!!」
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