第124話 遺志 ―セノオ マミ―
底冷えのする固い土の上に、銭丸保孝は数人の男たちによって四肢を押さえつけられていた。
「逃げろォォォーーーッ!!!」
夜の闇に銭丸の声が空しく吸い込まれていく。
分かっている。
華奢な少年と、筋肉の萎えた少女、そして生きる意志の希薄な壊れた女性。
こんな面子で殺気立った人間の群れから逃げ切れるはずがない。
「許さない」
「許さない」
「ユルサナイ」
じわじわと包囲を狭める人間たち。
「言いたいことがあんなら、ハッキリ言えよ」
そんな彼らを、和久井終は精一杯睨みつけた。
少年の脚は小鹿のように震え、手は無意識なのだろうが、体を支える佐藤晶の服のすそをぎゅっと握りしめている。
「大勢で群れても、まだ自分の口で言えねぇのかよ! 『殺す』ってさぁ! この人たちを見てみろよ! いい加減気付けよ! 『いじめ』とか『嫌がらせ』とか、お前らみんなで割り算すりゃ罪が軽くなるとでも思ってんのか!? 逆だよバカ! お前らは寄ってたかって1人の人間を殺してんだよ!」
少年の気迫に圧されたのか、人々はたじろぐ。
だが。
「……」
地べたに這いつくばる銭丸を足蹴にする千代田育郎の身体は微動だにしない。
「流石は和久井の息子だな。発想がいちいち物騒だ。君は知らないだろうが、妹尾君のことは俺も、もちろん母も心を痛めていた。いや、ここにいる誰もが、彼の死など望んでなどいなかった。みんな心の中では「これではいけない」「何とかしたい」と、そう思っていた。でもね、君だってわかるだろう? たとえ正しいことだとしても、初めに意見を述べることはとても難しい」
晶の身体を支える終の手に、力がこもる。
自分の正義に従い、声を上げたばかりに心身を壊されてしまった少女。
「でも、アンタならできただろ。千代田家の人間ならさ……」
育郎は苦笑しながらやれやれと首を振る。
「たとえ千代田家でも、世論だとか流れというやつはなかなか変えられないのさ。両親も口癖のように『私たちは無力だ』と言っていたよ。いいかい? 人は、好き好んで誰かの死を望んだりはしない。良心を持った人間だもの、当たり前じゃないか。これは悲劇だ。不幸が重なってしまったんだ。運命の歯車のわずかなひずみがたくさん重なって、その結果、悲しい事故につながってしまったんだ」
終たちを取り囲む人々の中には、涙ぐみ、嗚咽を漏らす者たちもいる。
その姿が、終には心底気持ち悪かった。
「確かに、悲劇を止められなかったこの町のみんなにも責任の一端はあるかも知れない。でも、だからといって俺たちの家族が殺され、友達を失い、家を焼かれる理由にはならない」
千代田育郎は妹尾真実を見据えた。
「あなたの哀しみは理解できる。苦しみも怒りも分かっているつもりだ。だけど、あえて心を鬼にして言わせてもらう。あなたがこの町に抱いている憎しみは、完全な逆恨みだ。心苦しいが、あなたはやってはいけないことをしてしまった。そしてそれはもう、取り返しがつかないんだ」
哀しみに沈んだ人々の心が、徐々に怒りと殺意にすり替えられていく。
「「……」」
もはや、銭丸にも終にも、反論する気力は残っていなかった。
そもそも、この千代田育郎という扇動の魔物を論破できるなどと思っていない。
彼らが感じた徒労感は、そんな育郎の言葉に容易くなびく町民たちへの失望によるものだった。
――君たちは何も悪くない。
――君たちの怒りは正当だ。
育郎の言葉は結局この2点に集約される。
肯定と許容。
そこにある程度の権威が加味されれば彼らは何でもするだろう。
「さあ!」
育郎の右手が妹尾真実を指す。
「みんなで力を合わせて、悲劇の連鎖を止めるんだ!」
再び、じりじりと狭まる包囲網。
興奮と緊張が高まっていく。
誰もが待っているのだ。
きっかけを。
この際限なく張りつめていく空気に耐えきれず、一線を超える者が現れるのを。
「う、うぉぉぉぉおおおおおッ!」
そして当然、大衆心理を操る術を心得ている育郎が手を打っていないはずもなく。
1人のうらぶれた中年男性が凶器を振りかざして雄叫びを上げた。
その凶器とは、丈の長い靴下の先に砂を詰めた簡素なブラックジャックだった。
「この、生意気なガキ共がァァァ!」
男が向かったのは終と晶だった。
体が弱っている少女と、彼女を支えるので手一杯な少年。
自由に動ける成人女性である妹尾真実を相手にするより、なお負ける確率が低い相手。
「わ、わ、和久井家が悪いんだぁ―!」
必死に己を正当化し、鼓舞し、酔いながら、少年の頭を目がけて凶器を振り下ろす。
「ひぃぃッ!」
手を上げる男の影。
それだけで、終の身体は無意識に縮み上がる。
(ダメだ! ここで負けたら、俺は一生弱いままだ!)
少年は歯を食いしばり、目を見開いて影を睨む。
(逃げるな! 慧姉ちゃんも、晶さんも真実さんも、もっとずっと痛かったんだ!)
振り下ろされる凶器。
「ッ!」
背筋を凍らせるような鈍い音とともに、生温かい雫がぽたぽたと終の顔を濡らした。
「……大丈夫?」
「あ……あ、ぁ……」
終の前には、顔を血に染めた妹尾真実の優しい笑顔があった。
「ごめんねアキラ……こんなお母さんで……ごめんね……」
言葉が溢れるが、口の中に詰まったように出てこない。
終はただただ首を振った。
報われないまま人生を終えた妹尾明が、母親にどんな感情を抱いていたかはわからない。
だが少なくとも、憎い仇の肉親である終にも優しく接し、こうして身を挺して守ってくれる彼女に、終は思慕を感じずにはいられなかった。
「アキラ、愛してる……」
真実は終と晶、2人の身体をまとめて強く抱き締めた。
息子に似て、華奢な身体をした少年。
息子と同い年で、同じ『アキラ』の名を持つ少女。
彼女の目には、2人共が息子の姿に重なっているのだろうか。
「今だ! やれ! やれ! やれェ!」
男が狂ったように吠えたてる。
2人の身体を覆い隠すように抱きしめる母親の背中に、理性の糸が切れた民衆の乱打が降り注いだ。
「やめろォォォーーーッッッ!」
絶叫する終に、真実は優しい笑みを崩さなかった。
「今まで、ごめんね……。やっと……あなたを守ることが……」
「嫌だ! こんなの嫌だよ! お母さん!」
「生きて。どんなに辛くても、生きていれば、こんな私にもあなたのような宝物ができた……。だからお願い……生きて……生き抜いて……」
声が弱々しく途切れていく。その身体から、体温が急速に失われてゆく。
「クソ、しぶとい!」
「和久井のガキを引きずり出せ! こいつも何をするかわからねぇぞ!」
ぐったりと脱力した真実の身体を押しのけ、大人たちの手が終の身体に絡みつく。
「わあぁぁぁーーーーッ!!!」
終の心の中で何かが決壊した。
1日に2度も母親を失った悲しさと心細さ、体の芯にまで染みつけられた恐怖、津波のように押し寄せる感情の圧に、少年の精神は耐久力の限界を迎えていた。
「恨むんなら、テメェん中の和久井の血を恨め!」
誰かが拳を振りかぶる。
「ヒッ! ごめんなさ――」
だが、その拳は終の顔に届くことなく、空しく風を切った。
強い力が少年の身体を引っ張り、庇うように抱きしめたのだ。
「いい加減にしなさいよ!」
銃声のように張りつめた怒声が狂騒を切り裂く。
「大人たちが寄ってたかって、恥ずかしくないの!?」
白刃を思わせる鋭い眼光が周囲をなぎ払う。
「佐藤晶……」
女子にしては太めの眉が、キリキリと音が聞こえてきそうなほどにつり上がり、体の衰えは隠せないもののそれを補って余りある、全身から漲る怒気が周囲を圧倒する。
その片目からは、まるで血の涙のように一筋の赤い雫が流れ落ちていた。
おそらくは妹尾真実の血だろう。
血の雫が晶の目に入り、彼女の意識を完全に覚醒させたのかもしれない。
「う、うるさい黙れ!」
だが、1度着火した憎悪の炎は収まらない。それどころか、抵抗はかえって燃料を投下することになる。
流れに身を任せた人間にとって、冷静な指摘ほど不快なものはない。
「和久井の子を庇うあの女も同罪だ!」
「テロリストを許すな!」
「この町を守るために!」
佐藤晶は深いため息をついた。
「ホント、私っていっつもこう。何もかも手遅れになってから……」
伸び放題の髪を頭の後ろで束ね、手近な枯れ枝を拾うと周囲を威嚇するように振り回す。
「アンタも、泣いてないで腹括りなさい」
「え?」
「ここを突破するしかないでしょ?」
やつれた手を差し伸べられる。そんな晶の手を、終は少し躊躇いながら握った。
視界の隅に、物言わぬ体になった妹尾真実の姿が映る。
「生きなきゃ。最後まで……」
その手を握り返された時、終は心がふっと軽くなったのを感じた。
終もまた枯れ枝を拾う。
「……この状況なら、1人くらい殺しても正当防衛だよな?」
長年見続けてきた、父や兄の表情を真似てみる。
自己嫌悪のあまり全身に蟻走感さえ覚えるが、和久井の血の効果はてき面だった。
人々の顔に明らかな怯えが走る。
「今だ!」
この機を逃さず突撃した。終の威嚇は諸刃の剣だ。人々があえて巧みに避けていた『殺す』という言葉をを明確に発してしまった。
『死』を連想させるワードに誰もが本能的に怯んでいる、この刹那の時間を逃してはならない。
2人が目指すは、銭丸を押さえる男たち。
「わああああッ!」
「はああああッ!」
裂帛の気合と共に、2人は渾身の体当たりをかます。
「うおおおおッ!」
銭丸もまた、隙に乗じて力を振り絞り、男たちを押しのけて立ち上がった。
「行くぞ!」
銭丸が2人の肩を押すようにして走り出す。
(ごめん真実さん。必ず迎えに来るから)
一瞬、終は真実の方を振り返ったが、今は「生きて」と言ってくれた彼女の遺志を全力でかなえようと思った。
もう、自分は自分の意思では死ねなくなった。
そんなことを思いながら、終は走った。
「追え!」
「逃がすな!」
「殺せ!」
追って来るのはもはや人間ではなかった。
血の臭いに酔っ払った鮫の群れ。
もしくは、他人に判断をゆだねたまま引き返せないところに来てしまい、自分ではブレーキを踏むことができなくなった暴走車。
追手の手が、彼らの背中に届こうとしたその時だった。
大気を震わす爆音と共に、眩いオレンジ色の炎が夜空を照らした。
「「「何!?」」」
追われる者も追う者も、等しくその方向を見た。
「蔵だ!」
誰かが叫ぶ。
それは確かに、姉原サダクが閉じ込められた蔵の方向だった。
「比奈ちゃん……」
銭丸が苦渋の顔でつぶやく。
やがて、空から炎と同じオレンジ色の光が降ってきた。
「うわ!?」
「何だ!? 炎が!」
それは、火のついた無数の画用紙だった。
スケッチブックのページだ。
「くっ……」
銭丸は比奈の死を察し、唇を強く噛みしめた。
「でたらめだ! こんなの!」
「嘘! 嘘よ! 私たちはこんなことしてない!」
そこかしこで悲鳴が上がった。
画用紙には、町の中で人々が妹尾母子にしてきた様々な仕打ちが、リアルに描かれていたのだ。
「何だこれ!? 誰が描いた!?」
「燃やせ燃やせ!」
人々は狂ったように地面に落ちた画用紙を踏みつける。
かえって火が消えてしまうことに気付くと、今度はグリグリと踏みにじるようにして紙を引き裂き、泥に埋めようとした。
「これは悪質なデマだ! 根拠のない誹謗中傷だ!」
他の者よりも少し身なりの良い初老の男が喚いていた。
「私は断固抗議する! この作者を名誉棄損で訴え――ぶべ!?」
熱弁をふるう男は、突然上空から落下してきた巨大な板のようなものに押し潰された。
「畳!?」
男の真上に降ってきた畳の上には、1人の少女がちょこんと正座していた。
「姉原サダク……」
(土蔵を爆破して、爆風でここまで飛んできたのか!? もう何でもありだなこの子)
銭丸のつぶやきに、制服姿のサダクはにっこりと会釈した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
大変お待たせいたしました。
次回からはサダクの殺戮タイムになりますのでご期待いただければと思います。
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今後ともよろしくお願いいたします。




