第122話 罰 ―クスノキ ヒナ3―
――私は、人を殺した。
ひと欠片の光も映さない、黒い鏡のような瞳に向かって、楠比奈は懺悔した。
変わり果てた息子の体をじっと見つめる母親の顔。
あの微笑みと、あの瞳を見た時、比奈は悟った。
もう自分は、心から笑ってはいけない人間になってしまったのだと。
(ずっと、待ってた)
姉原サダク。
どこまでも公平に、どこまでも容赦なく、自分を裁いてくれる人を超えた存在。
心神喪失、情状酌量、そんなものは関係ない。
生まれも、過去も、現在も、全ては無価値。
法の裁きなど、結局は未来を持っている者がこの先を心地よく生きるための言い訳だ。
(私は、人の心を殺した)
その罪の深さの前では、どんな権利も無意味。
人の命は還らない。壊れた心は戻らない。
(私は、私が許せない)
私はもう、笑ってはいけない。
私はもう、喜んではいけない。
私はもう、幸せになってはいけない。
自分の前にあるものはただ一つ。暗闇に覆われたどこにもつながっていない一本の道だけだ。
この道を孤独に歩む者にとっては、死さえも自分を解放してくれる救いに過ぎない。
(私はずっと、あなたを待ってた)
比奈の人生も、比奈の心も、比奈の何もかもを一切顧みることなく、絶対的な裁きを下してくれる存在を。
どこまでも絶望的で、残酷な罰を。
そんな罰の先に、この期に及んでまだ救いを求めている浅ましい自分を、どこまでもどこまでも追いかけて、永遠に……
光の無い黒い瞳が、光の無い透明な瞳をじっと見つめている。
(姉原さん……)
彼女が与えてくれる過酷な罰は、少しでも妹尾明の魂を安らげてくれるだろうか? 少しでも妹尾真実の心を癒してくれるだろうか?
だが、そんな比奈の願いは無残に打ち砕かれることになる。
「ッ!」
比奈の身体を包み込む、優しい抱擁によって。
(違う。……違う!)
「うッ……あッ……」
首を振り、もがく。
比奈はこんなものは求めていなかった。
赦しも、癒しも、それは命を奪われ、心を壊された者たちにもたらされるべきであり、比奈に与えられてよいものでは決してなかった。
(やめて! やめて!)
酒に酔った勢いで比奈を『失敗作』と言ってしまった母。
腫物を扱うように接してくる周囲の者たち。
周りから気を遣われ、保護されているのだから、対価を払って当然とばかりに有形無形の嫌がらせをしてくる姿の無い者たち。
私は、間違って生まれてきた。
死の誘惑と隣り合わせで、たった独りで生きてきた比奈が、ずっと求めてやまなかったもの。
生まれも、過去も、現在も、全てを無視して与えられる安らぎ。
「うッ、あッ、あああああーーーーーッ!」
赤ん坊のように泣き叫ぶ比奈を、どこまでも深い闇が親鳥の羽のように包み込む。
自分はここにいても良いのだという安心感。
(ひどい。ひどいよ……)
自分がずっと、心の奥底を焦がすように欲していたものを、自分にその資格がないと自覚した後でもたらされる。
これほど、残酷な罰があるだろうか?
――あなたは間違ってる! 姉原サダクはヒーローじゃない!
ふと、いつか誰かが言った言葉が思い出された。
「……」
「……」
泣き疲れた少女の頬を濡らす涙を、サダクの指がそっとぬぐった。
額と額がこつん、とぶつかる。
深淵を湛えたサダクの瞳に、感情の色は全く見えない。
(蟲の目だ)
サダクには比奈に対する同情や慈悲の気持ちなど一片も無く、ただひたすら比奈を1人の罪人として扱い、彼女のもっとも嫌がることを実行したに過ぎないのかもしれない。
だが、比奈は思う。
だからこそ、誰が何と言おうと姉原サダクは比奈の待ち望んだヒーローだ、と。
比奈もまた、ガラスのような瞳でサダクを見つめた。
透明な瞳が、徐々に黒に染まってゆく。
(ありがとう、姉原さん)
気がつけば、比奈は闇の中にいた。
見渡す限りの黒。まるでサダクの瞳の中に閉じ込められたようだった。
音もなく、風もない。暑さも寒さも感じない。
ただ、不思議なことに重力は感じた。
少女の両足は、確かに硬い地面に立っていた。
(姉原さん?)
別にサダクの存在を感じたわけではない。
根拠は何もないが、サダクもずっと同じ光景を見ているのではないかという気がした。
(行こう)
楠比奈は歩きだす。
確信めいた予感がある。この永遠の闇の中で、比奈を比奈をたらしめる自意識が、徐々に摩耗しやがて消滅することを。
でも、不思議と恐怖はなかった。
きっとこの道は、サダクが歩いた――今も歩いている道なのだ。
少女は自我が潰えるその瞬間まで、先の見えない暗い道をたった独りで歩き続けた。
◇ ◇ ◇
姉原サダクは立ち上がった。
足元には黒い塊が蠢いている。言わずもがな、彼女の『子供たち』たる黒い蜘蛛と百足の群れだ。
ぺち、とあまり上手くない指鳴らしをすると、子供たちは一斉にサダクに向かって這い出した。
か細い足首を伝い、蟲たちはピンと糊の効いた真新しいスカートの中に入っていく。
「……」
ほとんど皮と骨、枯れた細枝のようだったサダクの身体が、みるみる肉質を帯びてゆく。
皮膚と骨格の間に引き絞られたしなやかな筋肉が形成され、風が吹けば飛んでしまいそうだった体躯に確かな重量と安定感が加えられてゆく。
それでもなお、彼女の手足はすらりと細いのだが。
「……うん」
その場で軽くステップを踏み、くるりと体を回転させる。
日和見高校の新品の学生服は、サダクの身体に見事にフィットしていた。
「ありがたくいただきます」
軽やかなお辞儀は、足元に転がる死骸にではなく、彼女の内で今も孤独な闇の道を歩む少女に向けられていた。
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