第12話 絶望 ―ディスペア―
「お前、米田を殺したろ」
紅鶴の声には一切の抑揚も温もりも無かった。
「何、言って……」
「知ってるんだよ。鹿谷お前、ちょいちょい夜中に米田と会ってたよな。学校とか、神社とか」
「あ、あぁ……」
そうだ。この町は、いつもどこかに人の目があって、少しでも普段と違うことがあればあっという間に広まってしまう、そんな閉じた共同体なのだ。
紅鶴ヘレンは艶っぽく慧を流し見ながら、リップで濡れた唇を慧の耳たぶに甘噛むのではないかと思えるほどに近づけた。
「お前、可愛い声出すのな」
思わず耳を塞ぐ。だが、その手は檀によって無理やりはがされてしまう。
「わかってる。お前だって本当は嫌だったんだろ? 何て言うか、すごく哀しくなるよな。哀しいって気持ちの中に、ぽつんと取り残される感じになるよな」
「紅鶴さん……」
「だから殺したんだろ?」
「違う……、私、殺してなんか、ない……」
慧の言葉に嘘はない。
あの日、神社で米田冬幸と姉原サダクに出くわした彼女は、その場から逃げ出して、それきりだった。
だが、そのことについても慧は誰にも言っていない。
状況的に一番怪しいのは姉原サダクだ。
でも自分がそれを誰かに告げたために、姉原サダクがたとえ本当に殺人犯だったとしても、自分の一言が彼女の人生を決定づけてしまうかも知れないという事実に慧の疲れた心は耐えられそうになかった。
鹿谷慧の、逃避と保身とわずかな優しさによって生み出された沈黙が、翻って彼女自身に襲い掛かっていた。
「証拠もある」
「え?」
紅鶴は自分のスマートフォンをひらひらと振って見せる。
「あぁ、殺しのじゃないよ。あんたが米田の前でオナ――」
「嫌ッ! 消してェ!」
慧自身が驚くほどの大声を上げ、スマートフォンを奪おうと紅鶴に掴みかかる。
「おっと」
だが、慧の身体はあっさりと檀によって組み伏せられてしまう。
「びっくりさせるなよ、もう」
紅鶴は驚いた顔を作ってはいるが、実質彼女は慧の襲撃に対しまばたきひとつしていなかった。
「いきなり大きな声出すから、うっかり送信しちゃったよ」
「……え?」
何を言われたのか解らなかった。理性より先に感情が事態を把握したらしく、頭皮から冷たい汗がどっと噴き出した。
「え? え? え?」
助けを求めるように紅鶴を見るが、彼女はもう用はないとばかりに檀と神保を連れて自分の席へ去っていく。
「待って……話す……全部話すから……」
「遅ぇよばーか」
振り返ったのは神保だけだった。
その代わりに――
「どけゴラァ!」
周囲の机をなぎ倒すようにして近づいて来る男子の一団。
慧の隣に座っていた痩せっぽちの楠比奈が、木の葉のように吹き飛ばされる。
「鹿谷、これ何だ?」
突き付けられるスマートフォン。そこには暗い画像が表示されている。
「嫌ッ――」
反射的に目をつぶり、顔をそむける。
心の奥底に沈めていた恐怖と恥辱が浮き上がるのを必死に沈める。
「お前、米田とデキてたんだな」
熱い息と共に勝手な解釈をぶつけて来るドレッドヘアの男子、宇都宮直樹。
札付きの不良である宇都宮だが、それよりも恐ろしいのは彼の背後にどっしりとかまえる男子――いや、もはや一匹の雄。
さっきまで比奈が座っていた席に大股を開いて腰を下ろす馬場信暁。
顔も体も威風堂々としているが、いかつい顔の割に小さな目からは、隠しきれないギラギラとした獣性が慧の身体に注がれていた。
「なぁ鹿谷、野球部入れよ。マネージャーやってくんね?」
馴れ馴れしく肩を組もうとしてくる宇都宮に、慧は身を固くして抵抗ともいえない抵抗をする。
この高校では、野球部とは名ばかりで実態は不良のたまり場である。校舎裏の片隅にある野球部の部室は、ただでさえ教師も近寄れない無法地帯だったのが、今では和久井の権力により完全に治外法権の場と化している。
そんなところに、女子が一歩でも足を踏み入れたら、その子の人生は終了だ。
恐怖のあまり声はおろか呼吸すらままならない。
だが、ここでの沈黙がどんな曲解を招くかは生存本能のレベルで直観できる。
慧はひたすら首を横に振った。文字通り必死で拒絶の意思を示す。
「おい」
だが、獲物の弱いところに食いついた獣にとって、慧はもう意志を持った人格ではなく、骨の髄まで貪るための肉体でしかなかった。
ついにしびれを切らした馬場が立ち上がり、慧の頬に強烈な張り手を見舞った。
パン! と響く破裂音に、さすがに見て見ぬふりを決め込んでいた他のクラスメイト達が一斉に振り向くが馬場は意に介さない。
椅子から転げ落ち、糸が切れた人形のように放心する慧に、馬場は低い声で告げた。
「学校終わったら部室来い。こいつをネットにバラ巻かれたくなかったらな」
誰が聞いても明らかな恐喝である。しかも階下の進路指導室には刑事がいるのもお構いなし。
紅鶴グループのような狡猾さはもちろん、5分後の未来すら想像しない、衝動的な暴力の化身。それが馬場信暁という男だった。
彼の行動に自信を与えているのもまた、この刹那的な凶暴性である。
権力、資金力、学力、いかなる力もこの刹那の暴力の前には意味を為さない。
それが彼の信仰であり、唯一の例外が和久井春人だった。
そう。和久井だけが唯一の例外であるはずだった。
他の何者も、馬場に逆らうものはいないはずだった。
「いい加減にしろ!」
だが、ここに今、激しく机を叩き、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった生徒がいた。
「お前ら、そうやって……、そうやってアキラのことも追い詰めたのかよ……」
「んだよ? 何か文句あんのかよ?」
田所時貞が嬉々として声の主に絡み始めた。
不良の中では序列が最下位のため、女子を追い込むときはハブられてしまう田所が張り切っているのは、声の主もまた女子だったからだ。
ここで真っ先に露払いを務めれば、何かしらのおこぼれに与れるという醜い打算の結果だった。
「答えろ! アキラを追い込んだのもお前らか!」
赤いフレームの眼鏡の奥から、刃のような眼光で馬場を見据える久遠燕。
だが、馬場は彼女の方には見向きもしない。
「だったら、何だよ?」
代わりに田所が応じた。
「おい久遠、今さら正義面してんじゃねぇよぼっちのクセに。てめぇも見て見ぬふりだったじゃねぇか。一匹狼気取っていつも図書室に逃げ込んでたヤツが何言ってやがる」
口惜しげに唇を噛む久遠。だが、彼女は一瞬そらしかけた目を再び不良たちに向けた。
「そうだよ。あたしは一匹狼気取りの、ぼっちの腰抜けだよ。ほら、認めてやったぞ。次はてめぇらが答えろ! お前らアキラに何をした!? 腰抜けの質問に答えられねぇのか腰抜け共!」
その瞬間、馬場が動いた。未だかつて、彼を腰抜けと呼んで無事で済んだ者はいない。
久遠燕の小さな顔に、岩のような拳が叩き込まれた。
眼鏡が砕け、細い身体が窓際まで吹っ飛んだ。
「佐藤は弱かったから死んだ。それだけだ」
ずるずると床に崩れ落ちる久遠の身体。
無謀で空虚な勇気、甘ったるい夢想など、馬場の拳一発で無惨に粉砕される。
暴力の前には何もかもが無意味。その絶望的な現実の前に、誰もが戦意を喪失する。
そして彼女にはその代償として、この先は過酷な学校生活が待っているのだ。
そう、誰もが思っていた。
「痛ってぇな……」
だが、久遠燕はふらふらと立ち上がった。
「ごめんな、鹿谷。ごめんな、アキラ。あんたらずっと、こんなのに耐えてたんだな……。ずっと逃げてたあたしが、知ったようなこと言って、友達面して、ほんと、ごめんな……」
そして幽鬼のように虚ろで、怨念に満ちた目で、馬場を見据える。
「「「!?」」」
ぴくりと反応したのは、武道の心得のある檀麗と、他者の心に敏感な鹿谷慧、そして直接殺気を向けられた馬場信暁。
「んだよ……?」
馬場がかすかにつぶやいたその時だった。
「げほっ!」
久遠が咳込んだ。口から尋常ではない量の血が溢れ出して教室の床を穢す。女子の誰かが悲鳴を上げた。
「げほっ、おおっ、おおおおッ!」
久遠燕の顔が血に染まっていく。
両方の鼻の穴から、両目両耳から、赤黒い血が滝のように流れ落ちる。
「おい……ヤバくね?」
「ちょっと、病気!? え? 毒!?」
「おおおおおおおおおおおッ!!!!」
少女は少女らしからぬ雄叫びを上げながら、顔を無闇やたらに掻き毟った。
べろりと皮が剥がれ、肉が落ちる。ばさりと三つ編みのおさげ髪が床に落ちた。
久遠燕の、気が強くも可憐な顔は無惨に崩れ、肉と血の間から白い髑髏がのぞいでいた。
悲鳴は上がらない。代わりに、まさに息を飲むという言葉がふさわしい「ひゅっ」という音が教室のそこかしこで発生していた。
真っ白だった骨が、みるみる黒く変色していく。
木炭のように黒くなった頭蓋骨に、剥がれ落ちた肉片が動画の逆再生のように重力を無視して群がっていく。
やがて肉塊の表面に薄い膜が張り、次第に白い肌へと変質していく。頭部にはいつの間にか黒い髪が生え揃っていった。
「お前……転校生……?」
呆然と問う馬場に応えるように、姉原サダクは目を開き、微笑んだ。
その漆黒の瞳には、ひと欠片の光も映っていない。
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