第118話 勝者 ―ウィナー―
(何だその目は……)
千代田育郎の心の底が、ブスブスと燻っていく。
妹尾真実はガラスのような瞳で育郎を見つめている。息子を殺したと思われる人間を感情の見えない瞳で見つめている。
――自分の無い女。
母、千代田青華は妹尾真実のことをそう評した。
日常の一部のように繰り返される罵詈雑言、無視、恐喝、そして暴行。
そんな数々の理不尽を、妹尾真実は諦めの笑みと共に受け入れてきた。
――虐げられるために生きている女。
抵抗もせず、逃げようともしない。
それはもはや、自らいじめられようとしていると思われても仕方あるまい。
(それなのに、どうして被害者面でそこにいる?)
甘ったれた偽善者にはわからない。いや、わかっているくせに認めたがらない。
世の中には、踏みにじられることが唯一の存在意義である人間が確かに存在するのだ。
一見、意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく者たち。だが、彼らの無価値な命は、大局で見ると確かな価値がある。
すなわち、彼らの無様な生と死を見ると、他の者たちが安心するのだ。
――あんな風にはなるまい。あれよりはマシだ。
彼らの命には価値がある。一服の清涼剤として消費されるだけの価値が。
(肉人形のくせに)
肩が痛む。
サダクに負わされた傷を知らないのだろう。刑事が無遠慮に押さえつける肩の筋が不快な悲鳴をあげている。
理不尽だ。
仮にも公務員ならば、どう考えても保護するべきはこの千代田育郎である。
その身を盾にしてでも守るべきは自分である。
社会にとって、未来の指導者がどれだけ希少で貴重な存在か。いったい、この刑事は警察学校で何を学んできたのだろうか?
少しでも大局を見る目があれば、使い捨ての消耗品やすでに破損してしまったモノにリソースを裂く愚かさがわかるだろうに。
「あれ? 比奈ちゃんは?」
「いなかった」
刑事と少年のやり取りを聞いたその瞬間、育郎は動いた。
「あッ!?」
一瞬の隙をつき、渾身の力で刑事の腕を振りほどくと、育郎はクラゲのように地上を漂うサダクに向かって突進する。
「俺はァッ!」
タックルを喰らわせ、土蔵にサダクを押し込む。
「こんなッ!」
ダメ押しとばかりに、サダクの髪を掴み、彼女の頭を大きな木箱の角に打ちつけた。
サダクの両目が潰れ、血と硝子体の飛沫が散る。
「こんなところでッ!」
ぐったりと脱力したサダクの身体をうち捨てると、転げるように蔵を出る。
「終わっていい人間じゃないんだァ!」
叩きつけるように扉を閉め、打ちつけられている巨大な金具に側にあった閂を差し込んだ。
「勝った――!」
育郎は叫んだ。
なんてことはない。ちょっとした発想の転換だ。
これでもう、サダクは自力で蔵から出ることはできない。
無力な怨霊など存在しないと同義だ。
「千代田君!」
「刑事さん、銃を下ろしてくださいよ」
ちょうどいいタイミングだった。
煙に燻された日和見町の人々が、ぞろぞろと長い階段を上って神社の敷地に入ってきた。
「見ろ! 千代田の息子だ!」
そう叫ぶ者もいるにはいるが、ここでも育郎に地の利が働いた。
百段階段を上ってきた彼らの精神は、疲労という砂漠に侵蝕されていたのだ。
「聞いてください皆さん!」
そんな疲れ果て、渇ききった人々の耳に、父親譲りの美声が染み込んでいく。
「一連の事件は終わりました。犯人はこの蔵の中に閉じ込められ、二度と皆さんに害を及ぼすことはできません」
育郎はここで一度押し黙った。
「終わった……?」
「犯人って、誰だったんだ?」
人々が彼の言葉を受け入れ、理解する時間を与えるとともに、次の言葉を待たせることで『聞く耳』の準備をさせる。
――指導者とは介護士や保育士のようなものだ。
そんな祖父の訓示が思い出される。
だが、そんな愚かしい存在だからこそ、民衆は愛しくもある。
「僕が突き止めた真実をお話しします。すべての元凶は――」
真実なんてどうでもいい。
彼らが望む答えさえあれば、すべて世は事も無し。
「あの女、妹尾真実と和久井家だ!」
何をやっても許される女。だが、今の民衆に溜まったフラストレーションは彼女を捧げたくらいでは解消されない恐れがある。
ならば、長年彼らに対して横暴を働き、今になって力を大きく弱体化させた和久井家も完膚なきまでに叩きのめしてしまえば一石二鳥。
真実を探るなど、徒に過去を見つめる非建設的な行為でしかない。
世界を回す者たちは、常に未来を見据えて動いているのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ここ数話、千代田育郎のアレな人生哲学講座が続いてしまっていますが、
サダクちゃん再起動まであと少しですのでお付き合いいただけると幸いです。
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今後ともよろしくお願いいたします。




