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第117話 虚無 ―ファントム―

「その扉に触んじゃねぇ」


 千代田(ちよだ)育郎(いくろう)の背中に投げつけられた声。


「誰かと思えば……」


 振り返った先には、小さなマッシュルームを思わせる髪型をした、多分にあどけなさを残す顔立ちの少年がいた。

 コンパスのように真っ直ぐに広げた細い両脚が、地面を踏みしめている。


和久井(わくい)の弟か)


 少年を認識した瞬間、育郎は興味を失った。

 彼などいないかのように、土蔵の見るからに重厚な扉に手をかけようとする。


「やめろって!」


 その腕に、噛み付くような勢いで少年が(まと)わりついてきた。


「離せこのバカ!」


 育郎は力任せに腕を振り回す。完成形になりつつある大の男の腕力に、(しゅう)のか細い身体は紙切れのように振り回された。


「オラ!」


 地面に叩きつけた少年の身体を、サッカーボールをシュートするように蹴り上げる。


「げほッ――!」


 激しく咳き込む終の目に怯えの色が走ったのを、育郎は見逃さなかった。

 その簡単にへし折れそうな首を掴み上げ、見開かれた瞳を犯すように睨みつける。


「ひ……」


 絞められた喉から漏れ出る、かすかな呼気のような悲鳴。


(弱者め)


 和久井家の長男至上主義は育郎も知っている。特に当主の和久井准二(じゅんじ)はこの思想をかなり(こじ)らせていた。それが2人の息子をそれぞれの形に歪めていたのは想像に難くない。


 特に弟には相当な『負け癖』がついていることだろう。


「俺の邪魔をするな」


 心の底から恐怖に震える少年の顔は、ぞくりとするほど愛らしかった。

 兄の春人(はると)もそうだが、この兄弟は完全に母親似だ。


(身寄りがないなら、飼ってやってもいいかもな)


 そんなことを思いながら少年の潤んだ瞳を覗き込んでやる。水面のように揺らぐ弱々しい眼光。

 だが――


「いやだ……」

「え、何?」

「嫌だって言ったんだ! この――」


 最後まで言わせず、その人形のような鼻に頭突きを喰らわせてやる。

 少年の小さな鼻孔から真っ赤な鼻血が噴き出した。


「汚いんだよ!」


 無防備な柔らかい腹に膝蹴りを喰らわせる。


「何の力も無いくせに、吠えるなガキが!」




「だったら、国家権力のある大人はどうだい?」




 育郎の耳元で、ガチリと固い金属音が鳴った。


「遅ぇよ……」

「終君がやたらと突っ走るからだろ?」


 拳銃を構える、見るからに冴えない汗だくの青年。


「傷害の現行犯だ。千代田育郎君、君を逮捕する」

(警察か)


 だが、育郎の心にはいささかの恐れも、焦りも、さざ波程度の動揺すら生まれなかった。

 生まれたのは苛立ちだ。

 何が国家権力か。それを本当の意味で行使しているのは警察ではない。ましてや、一介の刑事が口にするのは噴飯ものである。


「飼い犬のくせに……」


 育郎の口から思わず漏れた言葉を、青年は「ふっ」と自嘲気味に笑い飛ばした。


「これでも、結構頑張って公務員になったんだけどなぁ」


 ご苦労なことだと育郎は思う。

 青春の貴重な時間を、権力者の犬になる努力に費やすとは。


「とにかくだ。抵抗はやめろ」

「邪魔をするな。こっちはそれどころじゃないんだ」

「わかってる」


 刑事は、陽炎(かげろう)のように立ち上がる姉原(あねはら)サダクに目線を向けた。


「千代田育郎の身柄は俺が保護する。彼が何をしたのか、それもきちんと明らかにする。相応の報いも受けさせる。だから、ここは引いてくれないか?」

「……」


 サダクは微笑みを浮かべて小首を傾げる。

 光の無い瞳は、明らかにこう問うていた。


 ――それができなかったから、私がここにいるのでは? と。


「君の恐怖はもうじゅうぶん伝わった。この町はもう、君の『目』を忘れることはできない。どんなに時が経っても2度とこんなことを繰り返さないために、今回のことはしっかりと調査して、記録する」


 フラフラとした足取りで近づいて来るサダク。漆黒の瞳が、育郎と刑事を交互に見、そしてクスリと笑った。


 ――人の歴史の中で、それができた例しがあったのか? と。


 戦争はいけないことだと言われながら現在も世界各地で銃火が人命を奪い続け、ナチスドイツを人類史の汚点としながらも独裁者や軍事政権が人民を虐げる国は今だ数多い。

 各国が核兵器を使用しないのは、核を持つもの同士の抑止力の結果であり、核兵器そのものの廃絶は遅々として進まない。


 身近でも、いじめを苦にした自殺やエスカレートの果ての暴行死、幼児虐待……人の営みは何もかもが変わらない。


「……そうだな。何も変わらないかもしれない。だから、これは俺のわがままだ。俺は変わりたい。悪を見逃さない人間になりたい。追い詰められた人たちを助けたい。そのチャンスをくれないか?」


 サダクの表情もまた変わらない。彼の言葉を聞いてはいるのだろうが、それを理解し、共感しているのかはまったくわからない。

 ただ、ゆらゆらとにじり寄る足は止まった。


「終君。あの人たちを」


 和久井終が弾かれたように土蔵の中に入っていった。


(そういうことか)


 終が連れ出してきた2人の女性。

 終の押す車椅子に置物のように座る壊れた少女、佐藤(さとう)(あきら)

 そして、彼らに付き従う影のように、空虚に(たたず)む女性――。


妹尾(せのお)真実(まみ)!)


 その時、育郎の心にささくれだった木材を擦り付けられたような不快な痛みが走った。




 妹尾真実。


 ()()()()()()()()()()()()()、母が心の底から軽蔑し、嫌悪していた女性。

 父が、母に対して負い目を感じるきっかけとなった女性。

 下世話な噂話で千代田家の名に泥を塗った女性。




(なぜだ?)


 なぜあの女が、この事件のある意味元凶とも言える女が、しれっとあちら側にいるのだろうか?


「……」


 妹尾真実がこちらを見た。

 光の無い瞳と、穏やかな微笑みが向けられる。

 そこに漂う虚無は、サダクのものとは似て非なる、もの哀しい透明さを湛えていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。


今後ともよろしくお願いいたします。

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