第114話 小指 ―リトル・トゥ―
サンハラ神社の名物と言えば『百段階段』である。
急勾配な裏山の斜面に沿う昔ながらの階段には、手すりや踊り場といった気の利いたものは存在しない。
予算の不足からろくに修繕もされていない木製の段々は、所々が朽ちかけており足に余計な負担を強いる。
名物というより、悪名だ。
平成初期までは中学高校の運動部が足腰の強化に利用していたというが、今ではむしろ悪影響が懸念されており、膝や腰痛に悩むかつてのスポ根少年少女の憎しみを買っている階段である。
「呪いって、案外こういうものなのかもしれませんね」
百段階段のちょうど50段目に、姉原サダクは長い脚を組んで腰掛けていた。
「姉原さん……」
光の無い瞳が見下ろすのは、涼し気で精悍な印象の整った顔立ちをした引き締まった体格の少年――千代田育郎である。
「生きていたのか?」
今更な問いに、サダクは少し困ったように小首を傾げた。細長い人差し指を下唇に当てて考え込む。
「生きていたというか、生きているというか……。生きてないとも言えますし……」
しばらく考え込んでいたが、サダクはやがて諦めた顔で微笑んだ。
「わかりません。まあ私のことは、たまに足の小指をぶつけてしまうタンスの角くらいの存在だと思っていただければ」
「どういう意味だ?」
「取るに足らない存在だということです。たまに勝手に自己主張しますが、その時はご愁傷様ということで」
彼女の主観ではいいことを言ったと思っているのか、やけに得意げな笑顔だった。
「言葉遊びは嫌いだ。君は僕を殺すつもりなのか?」
「殺されるような理由に心当たりでも?」
「別に。俺はただ、みんなやっていたことをやってみただけだ。たまたま俺の時だけ……」
みんなやっていた的当てゲーム。
何年も前からずっと、当たり前のように繰り返されてきたゲームのはずだった。
育郎が今まで参加してこなかったのは、それがあまりに低俗だったからだ。
それがあの日は、たまたまムシャクシャしていた。
母が父以外の男と寝ていたらしい痕跡を見つけてしまった。もっとも、それは別に意外でも何でもない。青華はいつも性欲を持て余しており、一方の父は精力的なのは見かけだけだった。
気に入らなかったのは、青華のその日の相手が和久井春人だったのではないかと思えたことだ。
確証はないが、漠然とそう感じた。
その曖昧な予感が育郎を余計に苛立たせた。
そして彼にとって、そんな『曖昧』の代名詞が妹尾明だった。
父が、妹尾真実に産ませたのではないかと噂される少年。
自分の腹違いの弟かもしれない存在。
生きているだけで自分の周囲を騒めかせ、両親の心を煩わせる存在。
幼いころから、彼の存在は耳元を飛び回る小蝿のように、ふとした瞬間に育郎の心をかき乱す不快な存在だった。
あの日は、たまたま苛立ちが連鎖していた。
母が自分と同年代の、今の自分ではまともに戦えない相手と一夜を過ごしたのではないかという疑いが、父の不貞によって生まれた(らしい)妹尾明の不快な存在を思い出させたのだ。
育郎の蹴ったサッカーボールは、必要以上の殺意を乗せて明の頭を打ち、なおも有り余る苛立ちのエネルギーが彼の頭をゴールポストに打ちつけた。
(どうして、俺の時に限って――!)
妹尾明の死因は脳内出血。
公式には、直接の原因は不明であり、急性疾患と結論付けられている。
また、裏の事情を知っているとされる者たちも、妹尾明は野球部の部室で和久井たちの暴行を受けた際に頭を打ったと思っていた。
真相は育郎だけが知っている。
彼の蹴ったサッカーボールに込められた殺意が、ある種の時限爆弾となって明の脳内にセットされたのだと。
爆発のきっかけは何でもあり得た。もちろん、不良たちから暴行を受けている時が最も爆発の可能性は高かっただろうが。
はっきりしているのは、致命傷を与えたのは紛れもなく育郎であるということだ。
(何でよりによって俺の時に)
それでもなお、育郎は思う。
ストレスの発散は誰もがやっていた。誰もが、日ごろの鬱憤を妹尾母子にぶつけて日々の安寧を得ていた。
どうして、今まで不参加だった自分がふとした気の迷いを起こした時に限ってジョーカーを引かなければならないのか。
妹尾明を憎む理由で言えば、最も正統性があるのはこの自分ではないか。
罪に問われるべきなのは、むしろ大した理由もなく彼をいじめていた者たちのはずである。
「何で、俺が殺されなきゃいけないんだよ?」
育郎の問いに、サダクは「さぁ?」と微笑んだ。
馬場信暁を嬲り殺し、蒲生一真の首を刈り取った時と同じ、菩薩のように穏やかな微笑みだ。
「ふざけるな……!」
一歩一歩、階段を下りてくるサダクに向かって育郎は叫んだ。
「俺は、こんな田舎で終わっていい人間じゃないんだ! 俺は将来この国を背負って立てる人間なんだ!」
優秀な人間は常に最悪を想定する。
育郎は、ワイシャツの中に隠し持っていた護身用の武器を取り出した。
――靴下の先端に砂を詰めて結んだ、即席のブラックジャック。
「舐めるなよ姉原。お前は馬場のワンツーを顔に喰らった時、明らかにふらついていたよな。そして慌てて蒲生の頭と自分の頭を取り替えた」
ここに及んで、育郎はサダクが人外の存在であることを認めざるを得なかった。
今は生きるか死ぬかの瀬戸際だ。常識にとらわれている場合ではない。法律、倫理、人情、そして常識。いずれも大多数の凡夫を縛るための鎖に過ぎない。
人の上に立つべくして生まれ育った千代田育郎が、そんなものに縛られるいわれはない。
「お前の弱点は頭――脳だ!」
ブラックジャックを手の中で振り回す。ブンブンと空を切る音が次第に高さを増し、粗末な凶器に必殺のエネルギーを溜めてゆく。
「……」
対するサダクの手にあるのは、透明なプラスチックの器だった。短い柄のついた盃の形をした器には、わずかに生クリームがこびりついている。
「俺に……ゴミを向けるな――!」
「ちょっと捨てそびれちゃって」
「ふざ――ッ!」
こちらは命を賭けているというのに。まるで育郎の命がプラスチックごみと同等だとでも言いたいのか。
今になって、彼はようやくサダクが自分を『タンスの角』と表現したことを思い出した。
あれは自分を卑下していたのではない。
こちらを『足の小指』と見下していたのだ。
時折忘れたころに、たまたまタンスの角にぶつかる足の小指だと。
「命を何だと思ってやがるッ!」
育郎は咆吼を上げ、高速で回転するブラックジャックを振りかぶった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




