第112話 虚栄 ―ヴァニティ― ◇千代田青華の制裁・後編
軽い足取りで自分のもとを去っていく息子の背中を、千代田青華は呆然と見つめていた。
(どうしてこんなことに?)
ほんの数時間前まで、彼女は全てを手に入れていたはずだった。
万人をひれ伏させる美貌。あらゆる男を虜にする肉体。
彼女の意のままに動く、この町の表と裏を牛耳る2人の男。
そして、自分の能力を継承し、理想を具現化した完璧な息子。
あと少しで彼女の人生は完成を見るはずだったのに。
(何がいけなかったの?)
青華の人生は、完璧なPDCAサイクルで回っていたはずだった。
Plan:計画、Do:実行、Check:評価、Action:改善。
長期的な大目標に向かって、小さな目標をひとつひとつ確実に達成し、階段を上るように人生を築き上げてきたはずだった。
(わからない)
民衆に乗っ取られた屋敷の前で、ぺたりと座り込む彼女を、行き交う人々が空き缶でも蹴とばすように道の端へと追いやっていく。
「や……め……で……」
毒に爛れた喉は、もうまともな言語を発することもままならない。
声なき声は、誰の耳にも届かない。
(私はゴミじゃない! 人間なのに! どうしてこんなことができるの!?)
嘆く女の頭上に、すっと影が差した。
「!」
顔を上げると、そこには自分を見下ろす一切の光を映さない黒い瞳があった。
(あなたね? 私の人生をめちゃめちゃにしたのは!)
青華の心の叫びに、黒い瞳は答えない。ただ、じっと見つめている。
(やめて)
それは、何も映さない黒い鏡だった。
(見ないで)
黒い鏡が映すのは彼女の心。彼女の記憶。
無意識の領域に記憶された、彼女自身は覚えていないあらゆる記憶。
(やめて)
鏡に心は無い。
それは、ただただ、ありのままを映す。
憶えていない記憶も、思い出したくない記憶も、ただそのままに映し出す。
取るに足らない、くだらない記憶も。
(まさか――)
はっと顔を上げる赤紫色に腫れ上がった醜い顔に、少女は穏やかに微笑みかけた。
千代田青華の誤算。
それは、他者の心を数値化したことである。
たとえ誰かから恨みを買ったとしても、それが青華にとって無視してもよい小さな値であれば無いものとして考える。
一方で、人ひとりの人生を食い物にして得られる利益は大きい。
リスクゼロでハイリターンならば、やらない理由はない。
孤独で主体性に乏しい少女を1人、女子の嫌われ者に仕立て、男子の性欲処理の道具に堕とし、時に人々の見せしめとして、時に人々の不満のはけ口として、そして時に人々の共犯の証として利用する。
彼女の息子も同じように――。
権力を得るのに最も効率的な資源は鉄でも石油でもない。
孤立した人間である。
千代田青華は見落としていた。
『無きに等しい』と『無』は違うということを。
そして、青華にとって取るに足らない人間の心に応える存在が現れる可能性を。
(どうして? それが何になるの? あなたに何の得があるの?)
「……」
黒い瞳は答えない。
ただ、穏やかに微笑むのみだ。
少女はそれきり、くるりと身を翻して育郎を追うように歩き始める。
「待、っ、で……」
細い背中に向かって、青華は必死に手を伸ばした。
「いっ、そ……殺、じ、で……」
その美貌だけを武器にすべてを他人から奪ってきた女。
だが今の彼女は、すべてを奪われ、唯一の武器も失い、身ぐるみすら剥がされた抜け殻だ。
失ったものを取り戻すには、時間も金も何もかもが足りない。
それなのに、負け犬として過ごす余生は気が遠くなるほど長いものに思える。
「お、願、い……」
不意に、少女は何かを思い出したようにてくてくと戻ってきた。
「あぁ……」
救われたような声を上げる青華。だが、少女は青華の顔は無視して、ポケットから油性ペンを取り出すと青華の背中に何かを書きはじめた。
身をよじり、腕を振り回して抵抗するが、青華の身体をアスファルトに押し付ける少女の力はまるで重機のようで、いくらもがいてもビクともしない。
「……うん」
やがて、少女は満足気に頷くと、スタコラサッサという擬音がぴったりな足取りで今度こそ立ち去った。
「あ、あぁ……」
絶望の吐息を漏らす青華。
そんな彼女の周囲に、みるみる人だかりができていった。
「え?」
人々の目には、燃えるような怒りと憎しみが宿っている。
「見ろよ、この女……」
「『わたしは、ちよだです』って……バカにしてんの?」
(!?)
「こいつのせいで……」
「俺たちの家が……」
「私たちの町が……」
(何を言っているの?)
己の妄想に耽溺してきた彼女にはわからない。
彼女に見えるのは、自分が見たいものだけだから。
世界は自分を中心に回り、人類は自分にに奉仕するべきだと心の底から信じてきた彼女には、自分のあずかり知らないところで巡る因果の存在など想像もできない。
「美貌の町長夫人も、こうなっちゃあおしまいだな」
世界に鈍感な分、自分のことには極めて敏感な彼女の耳に、侮蔑の言葉は槍となって突き刺さった。
「醜い顔」
「ヤッちまおうか?」
「遠慮しとく。何の病気持ってるかわかったもんじゃねぇ」
「不潔。臭いし」
言葉の鞭が、彼女の身体を乱打する。
(非道い。こんなの非道すぎる!)
夫を失った妻に、息子に捨てられた母に、体を汚された女に、なぜここまで心無い暴言を浴びせることができるのか。
(許せない。許されていいはずがない!)
その時、人垣の中からひょろりとした若い男が1人、歩み寄ってきた。
「俺にやらせてくれよ……」
色褪せたTシャツに、洗いざらしの擦り切れたジーンズ。背中には出前チェーン店のほぼ正方形をした大きなリュックを背負っている。
「このクレーマー女……、散々俺をバカにしやがって。底辺の無能だの何だの、テメェのくだらねぇストレスを俺で発散しやがって……」
青年はぶつぶつと恨み言をつぶやきながら、青華の手首を抑えつけ、ビニールひもを巻き付けていく。
全力で抵抗する彼女の身体を数人の男女が取り押さえた。
彼らの口元には、醜く歪んだ微笑みが浮かんでいる。
(嫌、嫌!)
手首を縛るビニールひもの伸びる先には、配達用の原付バイクがあった。
(許されない! こんなこと! 人間のすることじゃない!)
はやし立てる人々の中で、原付バイクが勢いよく発進した。
「これは――いじめ! いじめよぉ――ッ!」
魂の叫び。
だが、蟲の毒に爛れた喉から発した声を聞き取れた者は1人もいなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




