第110話 業火 ―ヘルファイア―
「うわああああああん!」
感情のままに泣き叫びながら全力疾走していた銭丸保孝は、かろうじて前を歩く小さな人影に気付き、慌てて心身に急ブレーキをかけた。
とぼとぼと歩くその後ろ姿は、両肩ががっくりと落ち、風が吹けばどこかへ吹き飛んでしまうのではないかと思えるほど弱々しかった。
「終君!」
銭丸は何とか大人の顔を取り繕う。
「!」
和久井終はようやく銭丸に気付き、慌てて両手の甲で涙と洟をぬぐった。
「……子猫みたいだな」
「うっせぇ。つーか、何でアンタここにいんだよ?」
気まずさに思わず顔をそらす。
「……逃げたのか? だっせぇ」
終に悪気は無いのだろう。むしろ、思ったままに毒をぶつけてくるのは、この少年なりの甘えのようにも思える。
「フラれたヤツにだせぇとか言われたくないやい」
拳骨を少年の頭にぽんとのせる。
「……気安く触んな」
口ではそう言いながら、もじもじと体を動かす仕草は決して拒絶の意思表示ではなかった。
「神社に戻ろう。嫌な予感がする」
恐らく、もう日和見高校は避難所の役割を果たせない。
不安に駆られる人々は、遅かれ早かれ裏山の寂れた神社を思い出すだろう。
「待ってよ……」
だが、終は探るような上目遣いで銭丸を見た。
「あの、母さん、連れていきたいんだけど」
「あぁ……」
うかつだった。
和久井准二が殺された今、和久井家の権力は宙ぶらりんの状態だ。暴徒化した人々の行き場のない感情が、和久井紫里――和久井家に2度嫁ぎ、2度夫と死別した薄幸な女性に向かわないとも限らない。
「急ごう!」
◇ ◇ ◇
「嘘だろ……」
少年の目の前で、和久井邸は猛火に飲み込まれていた。
窓という窓から炎を噴き出し、もうもうと黒煙を上げるその様子を、集まった大勢の人々は消火活動をするでもなく、どこか呆けた顔つきで見つめていた。
「何で……?」
少年の身体から力が抜け、銭丸のスラックスにしがみついてかろうじて姿勢を保つ。
「坊ちゃん!」
その時、路地の物陰から終を呼ぶ声が聞こえた。
「水嶋?」
振り返った先には、今どき珍しいパンチパーマ頭をしたヒグマを思わせる巨漢が、ポストの影から手招きをしていた。
「水嶋!」
終は巨漢に駆け寄る。
銭丸もこの男のことは知っていた。
早世した和久井准二の兄であり紫里の最初の夫である、春久の後見役だった男だ。
和久井春久は、『和久井家の突然変異』と言われるほど温厚で誠実な好青年だった。そんな彼に付き従っていたこの男も、粗野ではあるが卑ではない、現代のヤクザ者としては生きた化石のような人物だった。
春久の死後は、当主となった准二と折り合いが悪かったこともあり、一線を退いて紫里や終の身辺の世話をする執事のようなことをしていたらしい。
「何があったの!? 母さんは!?」
水嶋は小さな目をつぶり、首を振った。
「奥様が、屋敷に火を……」
彼が言うには、銭丸たちの予想よりもはるかに早く、暴徒化した人々が和久井邸に押し寄せたということだった。
彼らは和久井准二と春人の罪を糾弾し、紫里にも責任を追及した。
彼女はじっと目を閉じて人々の罵詈雑言を聞いていたが、突然立ち上がると屋敷の奥に姿を消し、水嶋が止める間もなく灯油を頭からかぶって火を点けたのだった。
「兄貴は? 兄貴は何してんの!?」
「春人坊ちゃんとは連絡がつきません。護衛の奴らとも、誰一人……」
「そっか……」
母の焼身自殺について、終は何の疑問も口にしなかった。
むしろ、いつかこうなるような気がしていた。
最愛の人を亡くし、お腹の中にいた忘れ形見さえも奪われた彼女は、ずっときっかけを探していたのだろう。
「すんません、坊ちゃん」
水嶋の謝罪は、母を止められなかったことではなく、止めなかったことに対するもののように思えた。
「奥様は、坊ちゃんに『ごめんね』と……」
「わかってる」
終はつぶやいた。自分の身体には、紫里からすべてを奪った男の血が混じっている。
母は、子に罪はないと思いながらも、春人や終を愛することができなかった。
そのために独りで苦しんでいたことも、何とか自分たちを愛そうと努力していたことも知っている。
「刑事さん、ですよね?」
水嶋の大きな体が、銭丸に向けてかがみこんだ。
「終坊ちゃんを、よろしく頼んます」
「わかりました。でも、アンタは?」
「俺ァ……」
小さな両眼が燃え盛る炎を見やる。
「俺ァ、和久井家に関わり過ぎました。俺みたいなモンが坊ちゃんの側にいたら、かえって邪魔んなる」
「やだよ。一緒に来てよ」
ごつい手が、終の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「坊ちゃん。お日様の下を胸張って歩ける人間になってくだせぇ。『不器用』だの『必要悪』だの、そんな言葉に逃げねぇでくだせぇ。ヤクザもんてのァ所詮、逃げ癖のついた日陰モンだ。俺たちァ逃げすぎた。色んなものを踏みつけて、気付かねぇふりして、その結果がコレだ」
ごつい手が、少年の背中を押した。
終はバランスを崩し、銭丸の体にもたれかかる。
「坊ちゃんを頼んます」
下げられたパンチパーマに見送られ、2人は走り出した。
◇ ◇ ◇
日和見町唯一の銭湯『日の湯』では、店主の三浦が『まいったなぁ』と頭を抱えていた。
……さっさと店を閉めてしまえばよかった。
状況がつかめず、タイミングを逸していたところに客が来てしまった。しかも高校生と思しき制服姿の女の子が1人である。
さすがに、裸の少女を1人置いて逃げるわけにはいかない。
(何でこんな時に風呂なんか……)
妙な少女だった。
小柄で、痩せっぽちで、目を覆い隠す長い前髪をしていた。
そして、肩にさげた大きな鞄からは大きなスケッチブックがはみ出ていた。
(まあ、アレじゃあ避難はきついか)
いったいいつから風呂に入っていなかったのか、皺のついた制服からは、腐りかけの果実を思わせるつんとした臭いがしていた。
(学校でいじめられてなきゃいいけど)
他人事ながら心配してしまう。
もしそうだとしても自分には何もできないが、せめてこの店では気持ちよくお風呂に入って辛いことを忘れてほしいと願った。
やがて、全身から湯気を上げながら少女が出てきた。
「ありがと。これ、初来店のサービス」
コーヒー牛乳の瓶を2本、少女に持たせてやる。
「ぁ……ぁ……」
あたふたする少女。お礼を言おうとしているのだと察し、三浦は笑顔で頷いた。
初対面の相手にうまく挨拶できない子はいる。自分もそうだった。だから、その気持ちは確かに届いたと伝えたかった。
少女の顔がぱっと晴れる。彼女はぺこりと頭を下げ、てくてくと歩き出した。
その後ろ姿を見て、三浦はふと違和感を覚えた。
彼女の着ている制服がやけに新しく、そして彼女の身体には大きすぎる気がした。
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