第11話 被虐 ―ハートフル―
時は10分少々遡る。
地獄のような取り調べが終わり、地獄そのものの教室に戻った鹿谷慧は、クラスメイトからの猜疑と侮蔑の瞳に迎えられた。
そんな目線をかいくぐるように、少女はその長身を縮め、無意識の薄笑いを浮かべながら席に着く。
「ケイちゃん」
利田寿美花が話しかけてきた。今の彼女にとっては、数少ないオアシスのような存在だ。
「大丈夫? 顔色悪いよ? 保健室行く?」
「あ、ごめんなさい、大丈夫……」
「ケイちゃんは何も悪くないんだから、気にしちゃだめだよ」
利田が言っているのは、米田が死んだ事故現場がサンハラ神社――鹿谷家が宮司を務める神社であったことを指している。
「はい、飴ちゃんあげるから、元気出して」
「うん……ごめんなさい」
レモン味の飴をもらい、蚊の鳴くような声でつぶやく慧の唇に利田の人差し指がそっと添えられた。
「ごめん、じゃなくて、ありがとう。ね?」
「あ、ごめ――ありがと……」
利田は慧の髪をひと撫ですると、自分の席に戻って友達とおしゃべりを再開した。
その後は、慧に話かけて来る者は誰もいなかった。
ふと、視線を感じた。
隣の席に座る楠比奈がじっとこちらを見ているようだった。
ようだったというのは、比奈の量の多い前髪がほとんど目を覆い隠しているため、正確な瞳の位置がわからないからだ。
楠比奈は、小柄でか細い体つきをした存在感の希薄な少女だった。影が薄いというより、薄い影そのものといった印象である。
毎日洗っているのかどうかも怪しい、脂の浮いた黒髪。自分で切っているらしい、不格好なおかっぱ頭には寝ぐせがついたままだ。
皺だらけのワイシャツは、襟元がかすかに黄色く変色し、身体からはどことなく甘酸っぱい臭いがする。
比奈はいつもスケッチブックにシャープペンシルで絵を描いていた。
生まれつき脳の言語野に障害があり、言葉を話せず筆談もできない。
相手の話や文章は理解できるらしいのだが、言語でのアウトプットが一切できないのである。
そんな彼女のコミュニケーションは基本的に身振り手振り、本当に必要な場合のみイラストやカードを使う。
「な、何……?」
声をかけると、比奈はフルフルと首を振って、また一心不乱に絵を描き始めた。
「利田、今日はお前で最後だそうだ」
笛木教諭が入って来た。「最後」という言葉に、少しだけ教室の空気が緩む。
「はい」
利田寿美花が綺麗な所作で席を立ち、教諭に続いて教室を出て行く。
それは、鹿谷慧に許されていた静かな時間の終焉を意味していた。
「けーいちゃーん」
早速、神保ここあが一見子犬のような人懐っこさで絡みついてきた。
慧が利田からもらったレモン味の飴を当然のようにひょいと奪い取り、口に入れてしまう。
「警察と何話したの?」
つぶらな瞳の奥には、クラスの慧に対する眼差しを濃縮したような猜疑と敵意の光が宿っていた。
「別に、何も――」
「嘘つき」
被せ気味に否定された。それだけで、慧は心中を見透かされたような錯覚に陥り、狼狽する。
「あ、ごめんなさい……」
慌てて謝るものの、その先はのどに大量の言葉が詰まってしまったように何も話せなくなってしまう。
「ねぇ、教えてよ。うちら、隠し事なしの間柄じゃん?」
それは、慧だけに一方的に課せられた間柄である。
「お願い。うちらだって怖いんだよ。米田があんなことになって、警察まで来てさ。ね? 意地悪しないで教えてよ」
「そんな、意地悪なんて」
「じゃあ教えてよ。警察に何話したの?」
「ッ――あッ――」
言葉が出ない。頭の中に様々な考えが渦巻いてしまい、何を言えばいいのかわからない。
米田とのことは決して言いたくなかった。
自身の恥ずかしさももちろんあるが、すでにこの世にいない米田の罪を暴き立てるのは気が引けた。
彼の未来は閉ざされた。
それに、彼はもう充分に罰を受けていると思った。
階段から転げ落ちた時の痛みは慧だって知っている。とても痛かっただろう。
彼は即死したのだろうか?
もし、死ぬまでに意識があったとしたら、どれほどの苦痛と恐怖を味わっただろう?
だから、もう充分だ。彼の魂をこれ以上貶める必要はないと思った。
もうこの話はしたくないし、思い出したくない。
――姉原サダクを呼んだのはあなた?
女性刑事の、あの意味の分からない質問のことを話そうか?
いや、それもダメだ。
これがきっかけで、転校生におかしな偏見の目を向けるわけにはいかない。
このクラスの恐ろしさは自分が一番よく知っている。
こんな思いをする人を、もう増やしたくなかった。
口から出まかせを言うという選択肢は初手で潰されていた。
少なくとも、慧はそう思い込んでいた。
結果、彼女は何もしゃべることができなくなり、刻々と鋭さを増していく神保の瞳に震えるだけだった。
「ねえ、黙ってんじゃねえよ。うちらをバカにしてんだろ」
「ひ……」
脳のあちこちが負荷に耐えかねて強制終了し、慧の心はひたすら恐怖を受容するだけの感覚器官と化していた。
「鹿谷」
そこへ、新たな恐怖がのしかかる。
檀麗が背後から腕を回して慧を抱きしめていた。
「そう怯えるなよ。あたしらの顔を見るたびにそうガタガタ震えられたら、さすがに傷付く」
「あ、ご、ごめんなさ……」
そこへ、神保の人差し指が、慧の唇を突いて言葉を遮る。
「ごめんじゃなくて、ありがとう。ね?」
「え? え? え?」
どう考えても『ありがとう』という文脈ではない。言えばきっと『バカにしているのか』と怒られる。
かと言って、言わなくてもやっぱり『逆らうのか』と怒られる。
何が正解なのかわからず、慧の頭は真っ白に染められていた。
「だーかーら、緊張すんなって。リラックスリラックス」
檀が慧の両肩をもみ始めた。
「あら、お客さん凝ってるね、可哀想に」
剣道と合気道の有段者である檀の握力は男子並みである。
そんな彼女の親指が、慧の首筋にめり込んでいく。
「イッ、痛ッ! 痛い! 痛い!」
「そりゃそうだ。こんなコチコチに凝ってりゃね」
人がマッサージされて痛がる光景はよくあることだ。
端からみれば、女子3人がじゃれあっている微笑ましい様子に見えなくもない。
だが、慧にとってこれは拷問以外の何物でもない。
「痛いです……。もう、もう、やめ――」
「ん-? 何か言った?」
「う、ぐ……やめ……痛ゥッ」
勇気と言うよりは、溺れる者の必死の息継ぎに似た気力で痛みを訴える。
「ごめんなさい……。もう、許して下さい……」
ぼろぼろと涙を流して哀願する。
そんな彼女を、周囲のクラスメイト達が遠巻きに眺めている。
「鹿谷のヤツ、マジで泣いてんの?」
「檀さんに構ってもらって泣くとか何様? あれじゃ檀さんが道化じゃん」
「放っとけば先生に「仲間外れにするな」って言われるし、構ってやれば怯えるし、どうしろっての」
慧の周りを、嘲笑と嫌悪が渦巻いている。
彼女が持って生まれた発育の良い長身は、今の彼女にとって決して良いものではなかった。
目立ちたくないのに、どうしても目立ってしまう。
幼いことから、物陰で身体を縮めるようにしていても、教師をはじめ大人たちは目ざとく彼女を見つけて慧を仲間にいれるように周囲の子たちを注意した。
でも彼女は口下手で運動音痴で、人の輪に入れば必ず和を乱してしまう。
思春期を迎えてからは、自分を見つめる男性の目には欲望の色が、女性の目には嫉妬の火が見えるようになった。
両親の目にもそれが見えた時、慧は悟った。
――全部、私が悪いんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
だから、慧は謝り続ける。
恐怖と孤独に慄く心を必死に隠し、へらへらと笑いながら。
「あーあ顔ぐちゃぐちゃ。慧ちゃんせっかく可愛いのに、もったいないなぁ」
神保が愛用の可愛らしいポーチをまさぐっている。
慧の背筋にぞっと寒気が走る。
「慧ちゃん、オシャレしよっか」
取り出したのは、バネ式のピアッサーだった。
「ひッ!」
神保の小さな手が、慧の耳に付けられたピアスをいじる。
「やっぱ、今のピアスは慧ちゃんには小さすぎると思うんだ。今度のはメンズ用の18Gだから、きっと似合うと思うよぉ」
慧の耳についている不似合いなピアスは、「おしおきピアス」などと呼ばれている。
彼女たちはいつも慧に無理難題を吹っかけては、達成できない慧に時には罰と称し、時には教育と称して無慈悲に穴を開けて来た。
今回の針は、今までのものより明らかに太い。
「いいんじゃない? 新しいピアス」
「運勢変わるかもよ、鹿谷」
「少しは自信がつくんじゃね?」
無責任に囃し立てる周囲の女子たち。
がしっと檀の腕が慧の頭をホールドする。必死にもがくが、檀の鍛えられた腕はびくともしない。
そんな慧の耳元に、神保が口を寄せて周囲には決して聞こえないように囁いた。
「それとも、また男子に見せられない場所に穴開ける? ねぇ? こないだのは慧ちゃんピアス付けないから塞がっちゃったじゃん」
「あ……あ……あ……あ……」
――またお仕置きされる。
――私が悪いから。
絶望の中で、慧は必死に考える。
己の罪は何なのか。どうしたら償うことができるのか。
いつだって導き出される答えは簡単だ。
罪は生まれてきたこと。だったら償いは、死――。
「やめな」
静かな声が教室の空気を止めた。
「あんたら鹿谷に構いすぎ。あたしは放っておかれて寂しいぞー」
「ごめんねぇ、ヘレン!」
神保はコロッと表情を変えると、飼い主を見つけた子犬のように声の主に抱き着く。
「悪ぃ。つい、ね」
短い言葉で言い訳をしながら、檀は軽く肩をすくめる。
紅鶴ヘレン。
愛嬌の奥に底知れない残虐性を秘めた神保ここあや、強靭な肉体と狡知な頭脳を持つ檀麗を一も二もなく服従させるカリスマの塊。
紅鶴は口元に爽やかな笑みを浮かべながら慧の前に腰を下ろした。
「ほれ」
差し出されるハンカチ。
「あ……ごめんなさい……」
恐る恐る手を伸ばすが、ハンカチはすっと引っ込められてしまった。
代わりに、紅鶴は優しい手つきで慧の涙と洟を拭き始める。
「あ、だめ……汚い……」
「可哀想にギャン泣きじゃんか」
強い西日が、紅鶴ヘレンの白い肌と赤い髪を照らす。
慧に向けられる力強い眼差しと慈愛に満ちた微笑みに、涙が拭かれる端から溢れ出して止まらない。
分かっている。
分かっているのだ。
紅鶴ヘレンのこの笑顔が真っ赤な偽物であることは。
これまでも、彼女たちのこの手で何度も何度も何度も何度も騙され、弄ばれてきた。
神保に精神を、檀に肉体を限界寸前までいたぶられ、そこへ救いの糸を垂らして来る紅鶴。
マッチポンプも甚だしいと解っているのに。
「ほい、綺麗になった。やっぱこうして見ると鹿谷って美形だよな」
「あ、ありがとう、ございます……」
心の底から、歓喜の涙と感謝の言葉を発さずにはいられない。
カースト底辺が、上位からちょっとかまってもらえただけで舞い上がってしまう哀しい習性を、とことん利用され愚弄されているとわかり切っているのに。
心の底に悔しさが浮かぶが、それは苦痛からの解放感と自分を肯定してくれる優しい言葉の前には、儚い泡沫のようなものだった。
「ごめんな鹿谷。こいつらノリが良すぎるから、あたしも毎日くったくた」
ヘレンひどーい、とむくれる神保の顎をくすぐりながら、紅鶴は続ける。
「なぁ鹿谷、頼むよ。こいつらの悪ノリは謝るからさ、刑事と何話したか、教えてくれよ」
「……」
「言いづらいことなん? だったら、あたしにだけ教えてよ。誰にも言わない。こいつらにも。それならいいだろ?」
「あ……あの……」
いつもの慧なら、ここで全て話してしまっていただろう。
当然、紅鶴がここだけの話で納めてくれるはずもなく、慧はその度に友人を失い、プライドを失い、自分自身への信用を失ってきた。
「ごめんなさい……許してください……」
だから、この言葉は慧にとって、すり減り切った魂の最後の欠片を守るための、意地のようなものだった。
「ああ、そう」
紅鶴ヘレンの貌から、温度が消えた。
「残念だよ鹿谷。友達だと思っていたんだけど、あたしの片想いだったか」
紅鶴は紅い髪をかき上げると、不意にリップで濡れた唇を慧の耳元に近づけた。
「お前、米田を殺したろ」
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