第109話 迷い子 ―ダン ウララ― 檀麗の制裁その4
(私、何でこんなことしてんだろ?)
最後の得物となったバタフライナイフを振り回しながら、檀麗はふと思った。
体が加速度的に重くなっている。それは麗には心の重さに押さえつけられているように思えてならなかった。
ずっと抱えていた衝動。
この身体を、心の赴くままに動かしたい。
ルールにも作法にも縛られることなく、大地を駆け、宙を舞い、叫びたい。
この衝動を自覚したのはいつからか。少なくとも、ヘレンと出会った後であることは間違いない。
「死ね! 死ね! 死ねぇ!」
逃げ惑う人々の錯綜する視線の中を軽やかに飛び回るサダク。その霊体を全身の感度を極限に高めて追いかける。
捕えた獲物を引きずり倒し、切り裂き、殴り、破壊する。
自分を縛る鎖から解き放たれ、思う存分に衝動を満たしているはずなのに。
(ヘレン、私、何やってんだろ?)
何なのだろう、この感情は?
空しさとは何かが違う。
(ヘレン、ここあ、私はどうしたらいい?)
麗は泣いていた。
彼女の心を苛んでいるのは、心細さだった。
ヘレンを喪った麗の心は、都会の裏道に捨てられた子犬も同然だった。
かつて、ヘレンはここあのことを「善と悪の区別もつかないバカ」と評していたが、それは麗にも当てはまっていた。
ここあが両親から放置されていたように、麗もまた両親から褒められたことも叱られたことも1度も無かった。
両親から与えられたのは、こなせばこなすほどその身を圧し潰さんとするように増えていく課題と、その身に刻み付けられる折檻による苦痛の記憶だった。
そんな彼女にとって、紅鶴ヘレンは眩い輝きを放つ太陽だった。
自分の頭で考え、自分の脚で走るヘレンの姿。彼女と共に走るだけで、麗は安心することができた。自分は生きている。自分は生きていていいのだ。ヘレンの体から発する熱は、温もりとなって麗を包んでくれた。
「何でだよ、ヘレン……」
麗の口から、消え入りそうな声が漏れた。
「何で、私を置いて行っちゃったんだよ……」
この心細さには覚えがある。
ヘレンが、海老澤永悟と強引に交わった瞬間だ。
あの時も、ヘレンが自分を置き去りにしてどこかへ行ってしまうのではないかという不安に駆られた。
自身は気付いていなかったが、麗にとってヘレンは友人であると同時に、かけがいのない親代わりだったのだ。
「ヘレン……ここあ……」
涙が止まらない。
寂しくて。
心細くて。
不安でたまらなくて。
「姉原ァ!」
名前も知らない男性の体に馬乗りになり、その目にナイフを何度も突き立てながら、ついに麗は叫んだ。
「もういいだろ!? 頼むから! もう私を殺してくれ! ヘレンとここあに会わせてくれ! 悪かった! 私が悪かった! お願いだから、もう……」
動かなくなった男性の上で、麗は胸に下げていたロケットペンダントをそっと握った。
いくら自分にまじないをかけても、彼女の頭脳は騙されてはくれない。麗が求めるのは遺骨ではなく、友人たちの人格なのだ。
「どうすりゃいいんだ!? なあ、どうすりゃよかったんだよ!?」
――私はただ、ヘレンとここあと3人で、普通に生きていたかっただけなのに。
星空を仰ぐ。
いつの間にか、彼女の側には誰もいなくなっていた。
「姉原?」
もはや憎んでいたのかどうかも定かではない、友人の仇の名前を呼ぶ。
だが、いくら神経を研ぎ澄ましても、あの怨霊の気配を感じない。
「何だよ、それ……」
思えば、あの日から執拗に姉原サダクを追っていたのは、本当はヘレンの背中を追っていたのかもしれない。もし逆の立場だったとしたら、ヘレンはきっと自分の仇を取ろうとしたに違いないから。
「ふざけんなよ……。私に、独りぼっちで生きろってか?」
麗は危なっかしい足取りで、燃え尽きようとする篝火まで来ると、体に染みついた美しい所作で正座した。
「誰が、テメェの思い通りにさせるかよ」
刃こぼれに染み込んだ人の脂ですっかり切れ味を失ったバタフライナイフを、両手で逆手に持つ。
「痛いのには、慣れてる……」
へそのやや右側に切っ先を押し当て、一気に体重をかける。
少女の腹を、汚れた刃物が貫いた。
なまくらな刃を、のこぎりを引くように前後に動かしながら、少女は自らの身体を切り裂いていく。
「ぅああああッ!」
課題を1つこなしたら、次の課題をこなさなければ。
刃を抜き、一文字についた傷の下に、今1度突き立てる。
「おおおあッ!」
獣のような咆吼と共に、腹を下から上へ切り上げる。
少女の体に、歪な十文字が刻まれた。
「あぁ……」
篝火はいつしか小さな燻りに変わっていた。
体が急激に冷えていく。
(ヘレン、ここあ、仇は討ったよ。だから、できれば迎えに来てくれると嬉しいんだけどな……)
激痛に苛まれながらも、すり減るように意識が消えていくのをどこか心地よく感じていたその時だった。
強烈な白い光と共に、暴風の渦が麗の身体を包み込んだ。
「ウララーッ!!」
その声に、麗の身体は反射的にビクッと震えた。
(何で……)
それは、檀家の所有するヘリコプターだった。
中から男性が1人、飛び出すように降りると麗に駆け寄って来る。
「麗! 麗!」
少女の冷えた身体が抱きしめられる。
「お父様……」
(やっぱり、殺し損ねていたか)
頭髪を全て剃られた父親の頭に幾重にも巻かれた包帯を、麗は何の気なしに見つめていた。
「麗……、あぁ、麗……」
今は亡き町長、千代田純太郎に対抗するように見かけの筋肉をまとった体が麗を抱きしめる。
「すまなかった。私たちの教育が間違っていた。こんなことになるまで、私は……私は……」
今さら何を言っているのだろうか。
麗にしてみれば、「ヘレンたちと一緒にいたい」という彼女の生まれて初めての、唯一の一生の願いを無下にされた時から、父親の言葉には一片の価値も意味も無くなっている。
「お父様。私、友達の仇を討ちました」
それでもこんなことを言ってしまったのは、理性を無視して湧き上がってきた子供の本能――甘えだったのだろうか。
「あ、ああ……」
父親がこの状況をどこまで理解しているかはわからない。
だが彼は、この時だけは模範的な解答をすることができた。
「よくやった。頑張ったな、麗」
もしかしたら、それは娘がもう助からないと悟り、最後の親心を見せたのかもしれない。
(だが、悪くない)
父親の腕の中で、麗は思った。
(こうしてみれば、私の人生はそう悪いものでもなかっ――)
その時、電撃のような悪寒が麗の背中を走った。
「お父様」
「何だい、麗?」
「お父様は……アンタは本当に……最後の最後まで私の敵だなァ!」
「え――?」
麗は最後の力を振り絞って立ち上がる。そして全身全霊のヤクザキックで父親の体を蹴り飛ばした。
「麗――!?」
「何で来やがった!? アンタさえ、アンタさえ来なければ! 私はヘレンに! ヘレンに誉めてもらえたのにッ!!」
娘に拒絶され、呆然と立ち尽くす父親。不意に、彼は顔面を押さえると「ぐおおおッ!?」と苦痛に悶え始めた。
ドロドロに溶ける皮と肉。血に染まった包帯が半球状を保ったまま地面に落ちる。
「あね……はら……」
一歩進み出た麗の靴が、ぬるりとした柔らかいものを踏みつけた。
「あァァァねェェェはァァァるあァァァーーーッ!!!」
麗はサダクに掴みかかろうとして、何かに足を取られて転んだ。
「クソ! クソがァーーッ!!」
それは、彼女自身の腹からこぼれ落ちた臓腑だった。
かき集めて腹に戻そうとするが、粘液にぬめるそれはもう少女の両手に収まるものではなくなっていた。
少女の身体がぐらりと傾ぐ。
地べたに咲いた腸の花の上に少女は倒れ伏し、2度と立ち上がることはできなかった。
「姉原……テメェは……どこまで……」
父親の服を着た、穏やかな微笑みを浮かべる怨霊。黒い瞳が、じっと麗を見下ろしている。
待っていたのだ。
死体の山の中に隠れ、瀕死の体の中に潜んで、じっと待っていたのだ。
確固たる自分を持てず、圧倒的な能力を持て余し、他者を踏みにじるしかできなかった少女。
紅鶴ヘレンという道しるべを喪い、彼女の影を追い続けるしかなかった少女。
そんな少女が、己の人生に何かしらの答えを出す瞬間を。
自分の人生もあながち捨てたものではないと実感する瞬間を!
「この……外道が……」
サダクの作り上げた舞台で、麗は疲れ果てるまで踊らされ、奈落の底に突き落とされた。
そこに花束を持って現れたのが麗の父というわけだった。
「面白かったか……? 父娘揃った、道化芝居は……?」
投げかけられた問いは、遠ざかる華奢な背中に無下に跳ね返された。
「笑ってすら……くれないのか……」
親友の無念を晴らすこともできず、ようやく手に入れた親の愛をも汚された少女は、それでもなお希望を求めるように、汚物にまみれた己の腸を掴み、事切れた。
☆ ☆ ☆
日和見高校2年A組:檀麗:失血死。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になるという方は、広告の下にある☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。




