第105話 群 ―クラスター― ◇田所時貞の制裁
「何てことをしてくれたんだ!」
「お前らさえ、お前らさえあんなことをしなければ!」
人の波が押し寄せている。
「出てこい! ガキ共!」
今はまだ扉の向こうで喚いているだけだが、あと少し興奮が高まれば一斉に押し入って来るのは身に見えていた。そうなれば、こんな教室の扉などひとたまりもないだろう。
割られたすりガラスからは、早くも血と脳内麻薬の入り混じった獣の臭いが流れ込んでいる。
「何してるんだ! 早くドアを押さえろ!」
千代田育郎の父譲りのよく通る声が響いた。
「!」
体育会系の悲しい性だった。サッカー部主将の指令に、部員である原兆と平尾邦明の体は反射的に従ってしまった。
教室の前後にある扉をそれぞれが押さえにかかるのと、人々の興奮が閾値を超えるのはほぼ同時だった。
「とても無理だ! 手を貸してくれ!」
だが、振り返った原と平尾が見たものは、教室の窓から外へ逃げていくクラスメイトたちだった。
「何で!? 何でェ!?」
疑問の念だけが込められた、素直な悲鳴。
仲間なのに。
ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン。
苦楽を共にし、青春を駆け抜けるかけがえのない絆を結んでいるはずなのに。
「俺たち、真の仲間じゃなかっ――」
扉が押し破られた。
原兆と平尾邦明は、なだれ込んできた者たちの見境の無い暴力の渦に飲み込まれていった。
◇ ◇ ◇
脱出した千代田育郎と田所時貞、そして和泉詩歌の3人は新たな選択を迫られていた。
新しい2-Aの教室はグラウンドに面していた。
グランドの三方は高い金網で囲まれている。
学校の敷地から出るには、この金網をよじ登るか、校舎を回って表から出るかの2択である。
「千代田の倅が逃げたぞ!」
「捕まえろ! あいつの首を捧げるんだ!」
彼らを怒声が追って来る。
「ちょ、アイツら何言ってんの!?」
和泉詩歌が信じられない思いで叫んだ。
彼女たちは、体育館で起きたことを知らない。
極限状態の中で、あえて道しるべを与えられなかった集団心理の恐ろしさ。
彼らは自身の心を圧し潰そうとする不安を取り除くため、無限の可能性の中からより安易で、より刺激的な選択肢を、唯一無二の道と信じて驀進する。
「どうすんだおい!」
田所が育郎を見る。
「……こっちだ!」
育郎はグラウンドへ目を向けた。
「でも! そっちは金網が!」
「破れている場所がある! そこから出るんだ!」
グラウンドを囲む金網の一点を指差し、育郎は「行け!」と2人の背中を押した。
そして自身は教室の窓を乗り越えてくる目を血走らせた群衆に対峙する。
「千代田君!?」
「彼らの狙いは俺だ! 俺が彼らを引き付けている間に逃げろ!」
背後で、足音が遠ざかっていく。
(それでいい)
だが、そんな育郎の手を、柔らかい手が握った。
「和泉?」
「あ、あたしは、千代田君と一緒にいる!」
和泉詩歌の指先は氷のように冷えて、震えていた。
「バカ言うな。行け!」
詩歌はブンブンと首を振る。
「あたし、バカだし、運動も普通だし、マジで普通っつーか、むしろ中の下で……」
大きな吊り目が育郎を見上げた。
「あたしなんかが千代田君の隣にいられるの、今しかないから」
えへっと笑う詩歌。育郎の唇に、先刻の柔らかい感触がよみがえった。
彼女の手を強く握る。
「行くぞ!」
「え?」
「せっかく恰好つけたのに台無しにしやがって。こうなったら何が何でも逃げ延びてやる!」
「……うん!」
少年と少女は、互いに手を取って走り出した。
◇ ◇ ◇
「無ぇ! 無ぇ! 無ぇ!」
グラウンドの一角で、田所時貞は喚き散らしながら暴れ猿のように金網を揺さぶっていた。
背後からは凄まじい怒気をはらんだ足音が近づいて来る。
「アイツ! 和久井とつるんでいた不良だ!」
「見た! アイツも妹尾君を殴ってた!」
「奴も罪人だ!」
(くそ! 千代田のヤロウ! 何が「俺が引き付ける」だ!)
こちらに迫って来る十数人の人間たち。誰もが死の恐怖と殺戮の興奮に口元を引きつらせ、異様な笑顔を浮かべている。
「クソッ! 無ぇ! どこだよ破れ目!」
それどころか、修繕した痕跡すら見当たらない。
「ヤロウ! 騙しやがったな!」
金網に破れ目など、初めから無かったのだ。
「チクショウ!」
部の悪い賭けとはわかっていながら、田所は高さ4メートルの金網をよじ登り始めた。
10代の若さが勝つか、アドレナリンだだもれの狂気が勝つか。
軍配は狂気に上がった。
「やめろォォォ!」
金網のちょうど中腹で、田所は無数の腕に捕えられた。お気に入りのスニーカーが脱げ落ち、ズボンを引っ張られる。
「わあああああ!」
田所は必死の思いでベルトを外した。
もしかしたら、これこそ彼が人生で下したもっとも主体的で賢明な選択だったかも知れない。
裏返ったズボンと共に、何人かの追手が落ちていく。ゴキ、と嫌な音が聞こえた気がした。
「へへ……」
だが、所詮は焼け石に水だった。
むしろ、仲間の犠牲を目にして余計に頭に血を上らせた者たちにより、追撃は勢いを増した。
ようやくの思いで金網の天辺にかけた手が強引に引きはがされる。
「バカ! 危ねぇ! やめろ!」
必死の抵抗も、次々に追いついてきた暴徒たちには無意味だった。
「あッ――」
すべての指が、金網を離れた。
(嘘だろ?)
ずり下ろされたボクサーパンツ、半脱げの靴下。よれよれに引き延ばされたTシャツ。そんな惨めな姿で落下していく金髪の少年。
(俺が何をしたってんだ?)
高さ4メートルからの自由落下。
現実は1秒にも満たないが、この時だけはやけに長く感じられる時間の中で、田所時貞は思った。
一番悪いのは和久井だ。暴力をふるっていたのは馬場で、女子を暴行していたのは宇都宮たちだ。
(俺はただのにぎやかしで、見張りばっかの下っ端なのに!)
美味しい思いなんで1度もしていない。むしろ自分は、和久井や馬場の顔色をうかがうつらい日々を強いられていた被害者だ。
「何でだ!? 何で俺ばっかァァァーーーッ!!!」
絶叫する少年を、固い地面が冷たく迎え入れた。
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