第103話 人々 ―エイプ―
散乱するバスケットボールの中心で、老人が血の海に沈んだ。
静まり返る体育館の中で、少女の鼻唄だけが響いている。
「これで、我々は許してもらえるのか?」
ビジネススーツを着た中年男性が尋ねた。上司と部下なのだろうか、その一歩後ろにはひょろりとした若い男性がカバンを抱きしめるようにして立ちすくんでいる。
「どうなんだ!?」
声を荒げるのは、恐怖と不安の裏返しだった。目の前の少女――殺人鬼の体から羽化するように出現し、何の感慨も見せることなく老人を撲殺した人に非ざる存在――への恐怖はもちろんある。
だが、それ以上に彼は自分の行いに怯えていた。
顔面にバスケットボールの直撃を受け、床に蹲まった老人。その間、少女はボールを弾ませながら鼻唄を歌うばかりで何もしようとしない。
不気味な停滞。
誰もが、誰かが動くのを待っていた。
誰かが、気を利かせるのを待っていた。
だから、彼が動いた。
会社組織の中で鍛え上げた、空気を読む力。この場を支配する者は誰かを察し、支配者の望むものを察する力。
それをフル動員した結果、彼が選んだ行動は老人を無理やり立たせて羽交い絞めにすることだった。
「痛い痛い痛い! 乱暴にするな! 早く! 病院だ!」
何を勘違いしているのか居丈高に喚く老人の頭を掴み上げ、少女に捧げる。
「なッ!? 何を――」
待ってましたとばかりに高速で叩きつけられるボール。その時、彼は自分の忖度が間違っていなかったことを悟った。
「やめろ! 誰か止めろ! 死ぬ! 死んじまう! やめろ! やめてくれ!」
命令から哀願に変わってゆく老人の声を聞き流し、男は背後で震える部下を睨みつけた。
「何をしてる! お前もやれ!」
部下は「はい!」とも「ひぃ!」ともつかぬ返事をし、2人がかりで子供のように泣き始めた老人を締め上げる。
床を転がる血染めのバスケットボールが1つ、また1つと増えてゆく。
……やがて、老人の泣き声がやんだ。
再び沈黙が体育館を包んだ。
……。
「何とか言ったらどうなんだ!?」
ビジネススーツの男は叫んだ。
乱暴な言葉遣いとは裏腹に、その口調は哀願に近かった。
頼む、何か言ってくれ。救いの道を示してくれ、と。
だが、彼は1つ大きな見落としをしていた。
ずぶり、と。
異様な感触が彼の背中を貫いた。
「何だ?」
一拍置いて、耐えがたい激痛が背中から全身を貫く。
「ぐッ!? ぉぉッ……」
背中には、出刃包丁が深々と突き刺さっていた。
「ヒヒ……」
「な、お前……」
部下がニタニタと笑いながらすくい上げるような目でこちらを見ていた。
長年、組織の序列の中で生きてきた男は、簡単なことを忘れていた。
「課長が教えてくれたんですよ。指示待ち人間はクソだって……」
上司と部下の絶対的上下関係など、ひとたび会社を離れれば何の意味もないということを。
まして、この生きるか死ぬかの状況下、支配者に忖度しようとする者は自分1人ではないということを。
これが始まりだった。
直後、精神のタガが外れた100余人の町民たちは、沈黙する少女に気に入られるために考え、行動し始めた。
と言っても、所詮は愚者の思考である。
彼らは自分の頭で考えているようで、その実は少女の暗示した安直な道を暴走しているにすぎなかった。
「アンタのせい! アンタのせいだからね! アンタが和久井には逆らえないなんてビビるから!」
「お前だって千代田の奥様に気に入られようと必死だったくせに!」
「あいつよ! あいつがみんなを煽ってた!」
「それを言うならコイツだって――!」
「そうだ!」
「まずはコイツを!」
「待って! 待って! お願ッ――やめ――」
つまるところ、壮絶な責任転嫁と凄惨な殺し合いである。
気が付けば、彼らの数は半数ほどに減っていた。
少女がこの場に現れてから、わずか数十分のことだった。
救いがたいのは、彼らは互いに責任を擦り付け合いながら、さらに大きな枠組みとしてこの少女に責任を転嫁していることにあった。
――人知を超えた存在には逆らえなかった。
この言い訳があるおかげで、彼らは安心して暴走することができたのだ。これは、神を信奉しながら異教徒を殺戮できる信者たちの精神に似ている。
返り血が冷えると同時に頭も冷えた彼らが気付いた時、すでに少女の姿は消えていた。
「どうして……」
「俺たちはどうすれば……」
彼らは再び思考する。
いや、思考の猿真似というべきか。
したがって、その結論は初めから決まっている。
「そもそも悪いのは……」
誰かが、無残に転がっている千代田純太郎の首に唾を吐きかけた。
「原因はあそこの息子だろ!?」
「俺は最初から知ってた! 普段優等生ぶってる奴ほど裏でヤベェことしてるってな!」
「あの女はどこ行ったの!? 元はと言えばあの女が!」
責任逃れは、社会的上位者の専有物ではない。
全ての人間の所有物である。
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