第102話 葛藤 ―ジャスティス―
話は少しだけ遡る。
まるで手品師のように姿を消してしまった由芽依朔夜と鹿谷慧。
取り残された銭丸保孝と和久井終は、決断を迫られていた。
2人を追うか、それとも……。
――もう、私は終君のことも忘れる。だから、もう私を追って来ないで。
はっきりと告げられた決別の言葉。終は手をぎゅっと握り、奥歯をかみしめる。そうする以外に、このやるせない気持ちを取り扱うことができずにいる。
「これからどうする?」
銭丸の問いに、
「……わかんねぇ」
と、柔らかい髪を揺らすしかなかった。
「由芽依さんが町長を利用して日和見高校に人を集めたのは、みんなを怨霊のエサにするためだ」
より正確には、撒き餌と言うべきだろう。本命の餌は鹿谷慧。由芽依がなぜ彼女を選び、どうやって彼女を使って姉原サダクを打倒しようとしているのかはわからない。
体育館には続々と人が集まっているのだろう。
人々のざわめきが徐々に、だが確実に大きくなっている。すでに100人を超えていると見ていいだろう。
(どうする?)
銭丸もまた迷っていた。
今すぐ、体育館に乱入するべきだろうか。
(で、どうする?)
町長を説得して彼らを解散させるか? だがその後はどうする? 他の避難場所へ誘導するか? だが、他に避難所になり得る日和見町の施設の大半は町のはずれ、すなわち山の麓付近に建てられている。
今頃は山火事の炎に炙られ、煙に燻されているだろう。
(他に安全な場所と言えば……)
サンハラ神社。
だが、あの場所には……。
「ダメだ。それだけは」
あそこには、自分で自分の身を守れない女性たちがいる。
奴らに彼女たちを会わせるわけにはいかない。
――銭丸さん、あなたの敵は姉原サダクではありません。
「くそっ」
銭丸は歯噛みした。早くも由芽依に心を読まれ、操られているような気がしたのだ。
「これからどうすんの?」
今度は終から問われた。少年の顔は銭丸の葛藤を理解していた。
彼女たちのために、ここにいる100人余りを見殺しにするか?
(ヒーローってのは、いないもんだな)
銭丸は小さくため息をついて、覚悟を決めた。
「二手に分かれよう。俺はここに残る。君は神社に戻って彼女たちを守ってくれ」
「……」
終はしばらく銭丸を見つめていたが、やがて小さく、だがしっかりと頷いた。
◇ ◇ ◇
走り去る少年の後ろ姿を見送ると、銭丸は煙草を咥えて一服した。
(これも偽善っていうのかなぁ?)
いや、善か悪かで言えば、彼の行為は間違いなく悪であろう。
何せ、彼はこれから100余りの命を見殺しにしようとしているのだから。
彼らにも縁者や愛する者がいるだろう。そんなすべての者たちがこの事実を知ったら、銭丸は数百の恨みを背負うことになる。
次にまた姉原サダクが現れた時、ターゲットが銭丸だったとしても不思議ではない。
終に別行動を提案したのは、まだ幼い彼にそんな重責を負わせたくなかったからだ。
一応、銭丸にも言い訳はある。
ここに集まる者たちは、多かれ少なかれ妹尾母子に関わりのある者たちであり、ひいては母子の置かれていた状況を知りながら『加担』もしくは『黙認』していた者たちである。
姉原サダクは彼らのことも決して許さないだろう。
ここで避難所を分散させたところで、彼らが1人残らず死に絶えるまで姉原サダクは何度でもこの世に顕現する。
ここで銭丸が何をしようと、彼らの未来はすでに閉ざされているのだ。
だが、それはしょせん詭弁だった。
結局のところ、銭丸は彼らを助けたくなくなってしまった。それだけの話だった。
「ま、それでも一応、税金でご飯を食べていたわけだし」
そんな彼の前に、漆黒の大型バイクが停まる。
(まったく。嫌な巡り合わせだなぁ)
バイクを降りる姉原サダクは、よりによって警察官の制服を着ていた。
「お疲れ様です」と会釈をしながら横を素通りしようとするサダク。
「悪いね。か弱い人々を守るのが、俺のお仕事なんだ」
彼女の背中に、銃口を向けた。
その瞬間、サダクの首がぐるんと回転し、光の無い瞳が彼を見た。
「……」
「……」
少女は、彼の心をじっと見つめていた。使命感、罪悪感、正義感、失望、絶望、諦観。入り組んだ彼の葛藤を、少女は若干小首を傾げながら読み取っていた。
不意に、体育館の方から悲鳴が聞こえてくる。
「……何かしたのか?」
少女は微笑みながらこくんと頷く。
「だったら尚更、これ以上は行かせられないな!」
引金を引いた。
火薬の爆ぜる乾いた音と共に、弾丸はサダクの横を抜けてはるか向こうの窓ガラスに蜘蛛の巣状のヒビを入れた。
「くそっ! くそくそくそっ!」
発砲、発砲、発砲。
だが、弾丸は一向にサダクに当たらない。
「ちくしょう!」
銃の反動が彼の神経を揺さぶっているかのようで、苛立ちがつのる。
知らず知らずのうちに、彼は弾丸に乗せて自分の心情を吐露していた。
「俺は何も知らずに、能天気にこの町を愛して生きてきた! この町はいい町だって信じ込んで、何にも気付かず、見ようともしないで!」
銭丸は運がよかった。
妹尾母子の住んでいた地区とは離れた場所で生まれ、いじめとは無縁の学校生活を送り、警官になった後も交番勤務でこの町の闇に触れずに来れた。
和久井家の横暴も、一般市民とは無縁の、いわばヤクザ世界のいざこざくらいにしか思っていなかった。
彼はこの歳まで、無邪気な少年の心を持ったまま生きてきた。
そんな彼の心をもっとも苦しめているのは、もし自分がどこかの段階で妹尾母子や佐藤晶に関わっていたとして、果たして彼女たちの味方になっていただろうか、という思いだった。
もっと言えば、今自分が心から軽蔑している者たちと、自分は変わらないだろうという確信が彼を苛んでいた。
きっと、いろんな理屈をこねながら、彼女たちを見て見ぬふりをし、見殺しにしていただろう。
無知だった自分が恥ずかしい。
それ以上に、無知だったがために安全地帯にいられるこの状況に、少なからず安堵している自分が恥ずかしい。
そのツケが今、100以上もの命となって彼の眼前に立ち現れているように思えてならなかった。
「俺は! 何にもできやしない! ただの坊やで! 本当は自分が今どうしたらいいかもわからない!」
それが、彼と今は亡き利田寿美花との決定的な違いでもあった。
「……」
そんな彼に、サダクはゆっくりと近づくと、自分に向けられている銃口を両手で包むように握り、自分の眉間に押し当てた。
真っ直ぐな眼差しを向けて、微笑みかける。
「うわあああああ!」
銭丸は絶叫と共に引金を引いた。
だが、拳銃からは弾切れを告げる間抜けな音が響いただけだった。
「……」
「……」
一瞬きょとんとした後、小さく肩をすくめるサダク。
その瞬間、銭丸の中で何かが決壊した。
「う、う、うわあああああん!」
今どき子供でも上げない泣き声とともに、銭丸は拳銃を放り投げると姉原サダクに、100の命に背を向けて走り出した。
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