第100話 王 ―ワクイ ハルト― ◇和久井春人スペシャル回
「ナム……ナム……ナム……ナム……」
「ナームーアーミーダー……」
校舎裏の部活棟。野球部の看板を掲げたこの一室は今、爽やかな青春とは全く逆の、むせかえるような血と硝煙の臭いに満たされていた。
「クソ! ざけんなよテメェら!」
錆付いたロッカーを背に、和久井春人はひしゃげた金属バットを剣のように正眼に構えていた。
彼の前にいるのは4人の男子生徒。全員かつては春人の不良仲間であり忠実な配下だった者たちだ。
「和久井君……。君モ……オイデ……」
「宇都宮!」
かつて宇都宮直樹だったモノは、今は頭の半分をかち割られ、どろりと崩れた脳を露出させていた。灰色の脳には、無数の真っ黒な百足が蠢いている。
「痛イ……痛イヨォ……」
「助ケテ……コンナノ……嫌ダ……」
「殺シテ……和久井君……」
宇都宮の頭を叩き割った時、頭蓋の内から飛び散った無数の百足が彼らの体内に入り込んだ。ある者は耳から、ある者は鼻から、ある者はこめかみを食い破られ、脳に侵入した蟲は増殖し、彼らを操っているのだった。
「うぜぇんだよ! ゾンビ共が!」
縋りついて来るモノたちをバットで殴る。ひたすら殴る。嫌悪感に急き立てられるままに、何より湧き上がる恐怖を誤魔化すために。
「和久井君、モット……モット殴ッテ……」
「頭ノ……痛ミ……忘レサセテ……」
「ナム……アミ……ダイ……ブツ……」
彼らは春人に危害を加えようとするわけではない。
ただただ、縋りついて来るだけである。
ただし、本能のおもむくまま、加減を忘れた凄まじい力で。
今や春人の服はボロボロに引き裂かれ、引き締まった身体には肉まで抉れるような引っかき傷がところかまわず刻まれていた。
「クソ! クソ! クソ! クソッ!」
幸い、この部屋には凶器だけはたくさんある。
春人は考えることを放棄し、狂ったように得物を振るった。
まとわりついてくる生ける屍たちを引きはがし、殴り、すり潰す。
その光景はまさに地獄だった。
その地獄に、人間は1人もいなかった。
いるのは、1匹の鬼と亡者たちだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
永遠と思える時間を経て、ようやく全ての亡者が沈黙した。
(俺は、一体何してんだ?)
津波のように押し寄せる疲労感に、頭がうまく働かない。
今はとにかく水が欲しかった。
鉛のように重い体を引きずるようにしながら部室を出、蛇口を探そうとしたその時だった。
爆音と共に猛スピードで疾走する黒い塊が春人を襲った。
「うわっ!?」
反射的に前に跳ぶ。
その反応速度は流石と言えた。普段の春人ならば十分に躱せたかもしれない。
だが、今の彼は満身創痍で筋肉は疲労の極致にあった。
「ぐわああああッ!」
倒れこんだ春人の両足の上を、大型バイクが通り過ぎた。
飛距離がわずかに足りなかったのだ。
「あ゛……あ゛……お゛……」
春人は口から泡を吹きながら悶絶する。いっそ気絶してしまえば楽になるのだが、砕けた足から電撃のように全身を駆け巡る激痛がそれを許さない。
「あ、ごめんなさい」
アイドリングするバイクの上から、女性警官が見下ろしてきた。
「て、め、え……俺を、誰、だと……」
警官を睨みつける。だが、そこに光の無い瞳と穏やかな微笑みを見た時、春人の思考は停止した。
「……」
バイクを降りようとするサダク。その瞬間、春人は思わず目をそらした。
(――何!?)
それがあまりにも自然だったので、誰よりも春人自身が驚愕した。
敵対者から目をそらす。
それは、王者たる者が決してしてはならない行為。
たとえ右手を失っていても、両足を轢かれ、全身傷だらけで疲労困憊であっても、目だけは――気合だけは敗けてはならなかったのに。
(嘘だ……)
格付けの終了を告げるように、エンジン音が遠ざかってゆく。
(嘘だ! 俺は!)
全身を針で刺すような筋肉痛をこらえ、やっとの思いで身体を起こし、すでに見えなくなっているバイクの残影を睨みつける。
「俺は! 俺は和久井春――」
「邪魔だどけぇ!」
後頭部を強烈なヤクザキックが襲い、彼は再び地面に倒れ伏した。
ブラックアウトしていく視界の隅に、なびく黒髪と白刃のきらめきが映った。
◇ ◇ ◇
満たされない人生だった。
ほしいものは何だって手に入る。生まれた時から、それは彼の常識だった。
だからこそ、何を手に入れても満たされることがなかった。
自分の人生は、永遠の暇つぶしだ。
それに気付いた時、彼は自分がこの世で最も不幸な人間だと思った。
孤独で、無為で、退屈な日々。
なのに、抗いがたい飢餓感だけはずっと心の奥底に巣食っている。
(このままで、終われるかよ)
だが、彼はようやく出会った。
この飢えを、少なくとも紛らわせてくれるかも知れない存在に。
(俺を見ろ)
彼は認めないだろうが、その想いは恋に近い。
(俺はここにいる! 俺を見ろ! 俺だけを見ろ!)
より正確に言えば、母親の愛を独占したがる幼子の心か。
「姉原!」
和久井春人は目を開いた。
「おはよう、和久井君……」
だが、そこにいたのは姉原サダクではなかった。
「お前ら……」
鈍重そうな贅肉をまとう子豚のような男子と、イタチを思わせるひょろ長い身体つきをした男子。
名前は憶えていない。
春人が暇つぶしのために日々玩具にしてきた奴隷たちだ。
「ちっ」
それきり、春人は彼らに対する興味を失い、周囲を見回した。
赤黒い血飛沫が飛び散り、乱雑に散らかった野球部の部室。
春人はベンチプレスの台に寝かされていた。
「くそ……」
筋骨がきしみ、悲鳴を上げるのをこらえて体を起こそうとするが、子豚がそれを押さえた。
「ダメだよ。ひどいケガをしてるんだから」
「気安く触んな!」
「はは、勘違いしないでよねぇ」
突然、子豚は歯をむき出して嗤うと、拳を春人の顔面に叩き込んだ。
「グッ――!」
「僕たち、ここでよく和久井君にヒドイ目に遭わされたよねぇ……」
「テメェ、自分が何してるのかわかって――」
「君こそ」
再び、手加減の無い殴打が春人を襲う。
「ガッ――!」
「自分の立場、解ってる?」
春人の心がすっと冷えた。
大げさに振りかざされる拳を静かに見つめる。
そして振り下ろされる拳を左手で受け止め、強く引き込んだ。
「ほぇ!?」
子豚が間抜けな鳴き声を上げ、バランスを崩す。その顔に、春人は頭突きを喰らわせた。
「ぶぎゃあ!」
「バカが!」
運動不足の小太りなど、片腕で十分だった。
昏倒したらしい子豚から、もう1人のイタチに目を移す。そこで春人は初めてぎょっとした。
「お前、何して――」
彼の手にはカッターナイフやドライバーが握られていた。そして足元には、もはや人の原形を留めていない肉塊が転がっていた。
「わ、くい……」
こちらを見るイタチの目は真っ赤に充血し、大きく膨らんだ鼻腔からは荒々しい鼻息が、まるで全身に充満する憤怒を少しでも排出しようとするかのように吐き出されていた。
「わ! く! い!」
イタチが何かを投げつけてきた。それは、しなびたドレッドヘアーの一束だった。その先には手荒く引き千切られた頭皮がくっついている。
「グヒ、ヒ、ヒ……」
異様な笑い声をあげながら、昏倒したはずの子豚が立ち上がる。
「痛くない。全然痛くないよ和久井君……。だって、だって僕はもう!」
自らの服を裂くようにはぎ取る。彼の太った体は、その半分が黒焦げになってじゅくじゅくとした膿に濡れていた。
「僕らはもう死んでいるんだ! 姉原さんに殺された! でもね、あの人には感謝してるんだ! 僕たちは、残った時間を好きに過ごしていいってさ!」
大口を開けて笑う子豚。その口の奥に、黒い蜘蛛が潜んでいるのが見えた。
「ゲ、ゲ、ゲ、ゲ……」
イタチも笑う。彼もまた、サダクに何かをされたのは容易に想像がついた。
(ふざけるな!)
春人の心が怒りに染まってゆく。
姉原サダク。
どこまでも自分を無視した挙句、こんなザコたちを差し向けるとは――!
「どけ!」
這いずりながら出口へ向かう。
「どーん!」
その背中に、子豚の重い尻がのしかかった。
背骨がミシミシと音を立てた気がした。
「和久井くーん! どうしたの? 今日に限って冷たいじゃないか! いつもは僕らがどんなに嫌がって無理やり遊びに付き合わせるくせに!」
「るせぇ! どけ! どけぇ!」
四肢の中で唯一無事だった左手を地べたに抑えつけられる。
「グ、ゲ、ゲ……」
そこへ、ハンマーを持ったイタチがゆっくりと近づいてきた。
「待て、待てやめろ!」
「やめたら、僕らに何かいいことあるの?」
「……」
「僕らがそれを言って、1度でもやめてくれたことあったっけ?」
「調子こいてんじゃねぇぞ豚!」
ハンマーが力任せに振り下ろされる。
「ッ!!?」
春人は歯を食いしばって耐える。王者たる自分が、格下の奴隷に悲鳴を聞かせるわけにはいかない。
「次は石を挟んでみようか」
「ッ……!」
「指を縦に潰してみよう」
「ッ! ッ! ッ!」
「安心して、指はまだ4本もある」
「もうやめろォ!」
ついに春人は叫んだ。
痛みもそうだが、この苦痛がいつまで続くのかという恐怖に押し切られてしまった。
この瞬間、彼の中で張りつめていた糸がぷつんと切れた気がした。
「ねぇ、和久井君……」
そんな彼に、子豚は場違いなほど穏やかな笑みを向けてきた。
「僕たち、君の気まぐれで色んなことをさせられてきたよねぇ。男同士でさせられたり、さ」
春人の背中に、ぞっと怖気が走る。
「何を言って……」
「君たちは笑っていたけど、僕らは必死だった。生きる延びるために、必死で自分を騙して、心を殺して耐えていたんだ」
ベルトを外され、ズボンを下ろされる。
「待て、待て、待て待て待て!」
「でも、まさかあの時の経験が役に立つ時が来るとはね。おかげでほら、僕ら、和久井君のことも愛せそうだよ……」
「待ってくれ! 頼む! それだけは――」
ついにプライドを捨て、哀願する春人。
その顔に、イタチが熱い鼻息を浴びせてきた。
「許して、ほしい?」
こくこくと頷く。
「俺たちの、名前、は?」
「え?」
子豚が名案とばかりに手を打つ。
「そうだねぇ。僕たちの名前を言うことができたら、考えてあげようかな?」
やめるとは言っていない。それは春人もわかっている。
たとえ彼らの名前を言い当てたとしても反故にされるに決まっている。
だが、それでも思い出さないわけにはいかない。
それこそが弱者の屈辱だった。
「は、はは……」
春人は笑った。
奴隷の名前など、覚えている以前に興味すらなかった。
だが、今、この部室という王国において、王は彼らであり自分は唯一の臣民にして奴隷だった。
「何ヘラヘラしてんの? 名前だよ、早く」
「はは、ははははは……」
そんなことを言われても、他に何もできない。笑って、媚びて、許しを乞う以外には、もう何も――
孤独だとか、飢えだとか、そんなものは些細な問題だった。
この苦痛と、屈辱と、絶望から逃れられるなら、もう何も要らなかった。
この地獄の時間が終るのは、自分の命が尽きる時だ。
それを心の底から理解しながらも、和久井春人は手を合わせて終わりの時を祈るように待ち望んでいた。
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