第10話 太母 ―グレートマザー―
「あ、姉原さん?」
一体何を言われているのかわからないとばかりに、呆けた顔をさらす鹿谷慧の姿に嘘は感じられなかった。
もっとも、彼女くらいの歳になると俳優顔負けの演技力を持つ子も少なくないが、彼女は嘘をついていないという確信があった。
正確には、彼女の心に嘘をつく余裕が無いと言うべきか。
「いいの。変なことを聞いてごめんなさい」
「あ……すみません……」
震える上目遣いが私を掠めるように見る。
「ごめんね、あなたは何も悪くない。意図の読めない質問をしたのは私の方なんだから」
私は慌ててフォローした。
彼女は、自分が私の期待に沿えなかったことで私から冷たくあしらわれたと思い、委縮してしまったのだ。
私は鹿谷慧を解放することにした。
これ以上は彼女にとってストレスだろうし、私にとってもストレスだ。
――それに、可哀想だが、彼女には別な役目がある。
「さて、まだ続けます?」
鹿谷慧と入れ違いに、銭丸刑事が半ば呆れ顔で入って来た。
彼の言いたいことは分かる。
深入りする気もないくせに、少女の心の傷を暴き立てて一体何をしているのか、と。
「そうですね。あまり授業を遅らせるわけにも行きませんし、あと1人で終わりにしましょう」
さて、誰にするか。
「あのー……」
そこへ、2-A担任の笛木先生が困り顔で入って来た。
「和久井が帰っちゃいまして……」
「はぁ?」
帰っちゃいまして、じゃないだろう。
「呼び戻してください」
だが、先生は「いやぁ、そうしたいのは山々ですが……」と煮え切らない様子で沈黙してしまう。
「和久井春人の父親は、この町の顔役みたいなもんなんです」
銭丸刑事が耳打ちする。少しドキッとしたが、幸い彼の目は笛木先生を見ていた。
「……仕方ないですね」
私が折れると、先生は露骨にほっと肩を撫でおろしていた。和久井家の傍若無人ぶりは中々のものらしい。
まあこの際、和久井春人はいない方が都合がいいかも知れない。
「先生、和久井君の他にクラスのまとめ役のような生徒はいますか?」
「ああ、それなら佐藤――あ、いや」
「佐藤さん?」
「ああ、いえ! 佐藤じゃなくて、今はやっぱり千代田育郎かなぁ。クラス委員長だし」
また千代田か。
町長と校長の顔がよぎる。どうも彼らは苦手だ。
権力がどうこうという意味ではなく、単に付き合っているだけ時間の無駄という意味で。
「他には?」
「あとは……利田寿美花か……」
「利田?」
てっきり紅鶴ヘレンの名前が出て来ると思った。
「あの子がいると、不思議とクラスが大人しくなるんですよ。毒気が抜かれるというか。何せあだ名が『お母さん』ですから」
◇ ◇ ◇
「失礼しまーす」
利田寿美花、通称『お母さん』は、私が思っていた以上にお母さんだった。
例えるなら、ちょっと裕福な友達の家に遊びに行ったら、笑顔で出迎えてくれて手作りのお菓子をふるまってくれそうなタイプのお母さん。
少し顔色が悪いのが気になると言えば気になる。
「生徒同士のトラブルですか? 私は知りませんけど」
彼女の困り顔にも嘘は感じられなかった。
「実は春から貧血気味で、休み時間も保健室にいることが多くって……。最近みんなとお話する時間がないんです」
困ったわぁ、と頬に手を当ててため息をつく。
それは、おそらくあのクラスの何人かにとっても不運だろう。
利田寿美花には、太母なんて言葉が浮かんでくる、どこか冒し難い包容力を感じる。
彼女の前では大っぴらに悪さができない。彼女には叱られたくないと本能的に思わせるような厳しくも温かいオーラ。
「そう言えば、これはトラブルと言えるかどうか……」
「かまいません。些細なことでも教えてください」
私もつい、大人に対する口調になってしまう。
「アキラちゃん、あ、佐藤アキラって女の子なんですけどね、夏休み明けからずっと病気でお休みなんです。入院しているらしくて、お見舞いに行きたいと思っているんですけどなかなか……。ほら、最近は感染症とか敏感じゃないですか。うちも思い立ったらとりあえずマスク買い置きしてるんですけどね、また以前みたいなことになったらって思うと――」
この子、本当に主婦なんじゃないだろうか?
「あ、ごめんなさい、そのアキラちゃんなんですけど、夏休みの時に私に『相談したいことがある』ってLINEくれたんですが、それからすぐに入院しちゃって、相談のこともうやむやになっちゃって……。私も入院したことあるんですけど、病院食って正直あまり美味しくないじゃないですか。栄養バランスは考えられているんでしょうけど、やっぱり日本人は塩気が多くないと満足できないようになってるんですかね。アキラちゃん塩辛いもの好きだから、おせんべいとか差し入れてあげたいんですけど――」
本来が話好きな性格なのだろう。最近は保健室にいるせいで友人と話ができず溜まっていたのかもしれない。
マシンガントークというわけではないのだが、こんこんと湧き出る泉のように後から後から話題があふれて来る。
1人井戸端会議である。
――一方その頃、教室では生徒たちの間で騒ぎが起きていた。
それは私の予想通りではあったが、その結末は私の想像を超えていた。
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