第1話 異邦人 ―姉原サダク―
このクラスには闇がある。
それは、僕らの周りのあちこちにある物陰の、さらに暗いところに潜んでいて、
じっと僕らを見つめている。
◇ ◇ ◇
プロローグ:謎の美少女転校生
「今日は、転校生を紹介します」
普段は先生の言葉になんか無関心なこの学級が静まり返った。
「今?」
あちこちで囁かれる疑問。
夏休みが終わって1か月。転校には中途半端な時期だ。
先生に促されて入って来たのは、すらりとした体格の女子生徒だった。
ホワイトボードに、マジックで書いたとは思えない流麗な文字がつづられる。
『姉原サダク』
変わった響きの名前だった。
初見では性別はおろか国籍もわからない。
でも、彼女には不思議と似合っていた。
顎のラインで切り揃えられ、ゆるやかにウェーブした髪は艶やかな漆黒で、やや病的な生白い肌と絶妙なコントラストを描いている。
背丈は平均よりもやや高い。
なだらかな曲線で構成されながらも、全体的に引き締まったしなやかな体躯をしていた。
腰の位置が高くて、手足が長い。
「姉原サダクです。よろしくお願いします」
耳に心地よいやわらかな声。
姉原サダクは軽く頭を下げて、柔和に微笑んだ。
「とりあえず、今日はあの席に座ってくれ」
先生が指したのは、僕の隣の席だった。この席の本来の主は今日はたまたま欠席だったのだ。
「それと悪いんだが、手違いで姉原の教科書がまだ無いんだ。米田、今日は姉原に教科書を見せてやって――」
先生は僕を名指しして、「しまった」と言いたげに顔をしかめた。
教室の空気が一瞬にして淀む。
「米田さん、よろしくお願いします」
そんな重い雰囲気に気付いているのかいないのか、姉原さんは僕にむかって微笑いかけた。
桜色の唇が綺麗だった。
「姉原さん」
そんな彼女に、反対側の隣席に座る女子が声をかける。
「こっちおいでよ。一緒に見よ」
「はぁ……」
姉原さんは困ったように僕を見る。
「そうだな。女子同士の方がいい。頼むよ」
先生の言葉に、姉原さんの微笑みは僕から離れてしまった。
「よろしくお願いします」
僕の死角で彼女はきっと微笑んだのだろう、教室の空気が緩んだ。
「サダクって、変わった名前だよね。親は日本人?」
無遠慮な質問に、姉原さんは
「ええ。バリバリの日本人です」
と朗らかに返した。そしてやや小首を傾げ、じっと相手を見つめる。
「ああ、あたしは紅鶴ヘレン。カタカナでヘレン。よろしく」
「可愛い名前ですね。ご両親のどちらかが外国の方ですか?」
「よく言われるけど、生粋の日本人だよ。何ならじいちゃんばあちゃんもね」
そう答えると、紅鶴は不意に笑いを納めて目を細める。
「ホンット、よく言われる……」
声のトーンがわずかに下がる。
それだけで教室の温度が下がるようだった。
これは転校生に課せられた最初の試練だ。
紅鶴ヘレンは場の空気を操るのが上手い。
今もそうだ。自分からプライベートな話題をさりげなく振っておいて、相手が乗ってきたらすかさず声色と表情でカウンターを決める。
空気が読める思慮深い者ほど、彼女の雰囲気の激変に戸惑い、あっという間に主導権を奪われる。
だが、姉原さんは指先を唇に当てて「あらあら」とつぶやいただけでその空気を払いのけた。
「初めからずっと気になっていたんです、紅鶴さんの髪……とても綺麗……」
「え――?」
いつの間にか、姉原さんの細い指が紅鶴の長い髪をすくい上げていた。
「すごい、ルビーみたいな色。地毛? それとも染めてるの?」
「……半分地毛。元が赤っぽいから、ちょっと脱色すれば……」
会話で紅鶴が押されるところを初めて見た。それはクラスのみんなも同じだろう。
「よかったら、通ってる美容院を教えてくれない?」
「いいよ、もちろん」
紅鶴は笑いながら、すかさず先生に目配せした。
「姉原、挨拶は後にしろ。ホームルームの続きをするぞ」
姉原さんは大丈夫だ。僕はそう確信した。
紅鶴の試練で大切なのは無闇に謝ったり、しどろもどろにならないこと。気の利いた切り返しができれば完璧だ。
このクラスの女子はほとんど全員が紅鶴グループの傘下にある。彼女に認められれば、この学校での生活はひとまず安心だ。
それはつまり、僕にとっての不幸である。
姉原さんが僕を振り返ってまた穏やかに微笑んだ。
彼女が僕に微笑みを向けてくれるのは、そう長くはないだろう。
汚水でしわくちゃになり、落書きで読める場所がほとんどない教科書を広げながら、僕は思った。