第5話 社会人
四月、佳月は初めての職場である矢の浦給食センターの会議室に緊張して座っていた。引越しは二日前に終わり、さすがに麗華も店を閉めて手伝ってくれた。と言ってもロフト付き1Kアパートにあるのは小さなベッドに座卓とクッション、単身用生活家電類に少々の文房具位だ。調理器具と食器は店のお古を持ち出した。ただひとつ、勝手に店から持ち出したパセリの写真だけが彩だった。
給食センターの面接は2月に終わっていた。履歴書と成績証明書を提出し、面接は給食センター近くの昭和っぽい喫茶店で行われた。パートという事もあって、特に異論なく佳月は採用されたのだ。
トントン
ドアがノックされ、そのまま開いた。入って来たのはおじさんとおばさん。佳月には誰だかさっぱり判らないが、立ち上がって頭を下げる。
「キミが佐々さんだね」
「はい。佐々佳月です。宜しくお願いします」
おばさんの方が佳月の頭からつま先までを舐めるように眺める。
「あんた、何、その髪の色」
いきなり先制パンチが来る。佳月は立ったまま答えた。
「仕事の時は帽子で頭を完全に隠すと聞いたので影響はないと思います。ショートにして清潔にしてます」
「そう言う問題じゃないでしょ。高校でも髪染めるのは禁止でしょ?あんたまだ未成年でしょ?」
「染めてません。元からこの色です」
「嘘でしょ。あんた日本人でしょ?」
のっけからケンカを売っているようだ。おじさんの方が見かねて割って入った。
「まあいいじゃない。どうせ見えないし、プライベートまでは言えないよ。職員じゃないんだから」
「最近の若い子はね、常識ってもんが」
「いやほら、我々の頃の常識とは違うんだよ。ま、清潔にしてもらえるんならそれでいいよ、衛生上の問題には厳しいからさ、ネイルとかは大丈夫だよね」
佳月は指を見せた。
「これまでも家の店を手伝ってましたから、ネイルはしませんし爪もいつも短くしています」
「うん、オッケイ。いやー、若い手だねえ」
「ちょっと、それセクハラになるんだよ、知ってるの?これだからオッサンは嫌なのよ、ねえ」
おばさんは今度は佳月に同情を求め、佳月は曖昧に頷いた。
「褒めてんだからいいじゃない」
「私が傷つくんだよ、較べられちゃ」
「はいはい、水野さんも素敵な手だよ」
「なにさ、取ってつけたみたいに」
お笑いか…、佳月は思ったが口には出せない。水野さんと呼ばれたおばさんはそれで黙った。
「さて、と」
おじさんの方が持参した茶色い封筒から書類を取り出して咳払いをする。
「紹介遅れたけど、私はここの事務関係の面倒見てる野田と言います。役場から来てるんだ。それでこっちはここの調理チーフの水野さん。もう20年になるのかな」
「いいよ、歳、バレちゃうじゃん」
「いいじゃないバレたって。どうせバレるんだからさ」
水野奈津子チーフは『進めろ』とばかりに手を払った。野田浩司事務長は書類をパラパラ見せて
「幾つか書いてもらわなきゃいけないのがあるからさ、今日終わってから事務所に寄ってくれる?細かい話だからそこで説明して書けるものは書いてもらうし。で、もうちょっとしたら他のパートさんも来るからね、それまでに上から羽織ってもらうジャンパーとパンツと帽子のサイズを水野さんに見てもらって、それで着替えてみんなに紹介してもらうから」
「はい」
「じゃ、水野さんお願いね」
その後は水野チーフに連れられて、ユニフォームのサイズ合わせとロッカーの割り当て、手を洗ってから着替えてコロコロを当てられる。その頃には他の人たちが次々に出勤して来た。佳月は水野チーフと一緒に一足先に調理室に入る。
わお・・・機械だらけ・・・ 田島さんが言ってた通りだ。
そして朝礼が始まった。今日の注意事項に続いて水野チーフが紹介してくれる。
「えーっとぉ、今日からの新人さん。超若いよ、子供くらいだけど体力あるからねー、よろしく。じゃ、自己紹介して」
佳月は一歩前に出て事務的に頭を下げた。
「佐々佳月と言います。先月汐田中学を卒業したところです。よろしくお願いします」
目の前にはお母さん位の人たちばかり。一瞬ざわついたが水野チーフの声にぴたっと治まった。
「じゃ、吉良さん、試用期間の間、一緒について面倒見てくれる?イケると思ったら任しちゃっていいからさ」
吉良さんと呼ばれた、やはりオバサマが頷いた。その後、みんなで軽く体操をして給食センターの一日が始まった。
+++
佳月の傍に吉良さんがやって来た。
「えーっと、吉良小梅です。佳月ちゃんって呼んでいい?ウチの娘と同じくらいだからさ」
「はい。宜しくお願いします」
1日目は、ほぼほぼ見学に近かった。ちょっとやってみて、と言われたのは野菜を切るのみ。こうするのよ、やってみて、と言われて佳月は包丁を握った。
「あら上手ね。ウチの娘に見せたいわ。お手伝いとかよくしてたの?」
「家がカフェなんで手伝ってました」
「そっかー、セミプロだったのか」
「そこまでじゃないです。殆どホールだし」
「ふうん。後でまた聞かせてね」
しかし、全体を通じて言うと、何が何だか判らなかった。戦争みたい…。時間に限りがある中で、下拵えして、スープを作って、調理して、容器に入れて、食器を整えて、トラックに運び込んで・・・で午前が終わる。お昼ご飯は自分たちで作った給食だが、勿論これは給料から差し引かれる。午後には戻って来た食器類の洗浄と格納、そしてユニフォームの洗濯に調理場の清掃。あっと言う間に午後3時になっていた。ロッカールームで大きく溜息をつくと小梅さんが笑った。
「まだついてけないでしょ」
「はい。全然判りません」
「ま、初めは部分的に手伝ってもらいながら、全体の流れを理解してって感じかな。何かを任されるのはまだその先ね」
「はい」
「力仕事も結構あるからさ、若い子は頼りにしちゃうよ」
「・・・」
水野チーフがやって来る。
「どうだった?」
「まだ全然判りません」
佳月は同じ事を繰り返す。
「そんなすぐに出来ちゃったら、私ら立つ瀬無くなるわ。ぼちぼちやってって」
「はい。有難うございます」
他のパートさんからも声を掛けられた。悪い人はいないみたい。自分の不愛想さを棚に上げて佳月はひとまず安心した。帰り際に事務室に立ち寄る。なんか職員室に行くみたい。
「失礼します」
中には机が数個寄せ合って置かれているが、座っているのはその半分くらいだった。
「あー佐々さん、お疲れさんでした」
野田事務長が書類を持って来て、窓際の応接セットに案内された。
「いやー、見逃してたんだけどさ、佐々さん、中学の成績凄いじゃない。こんなの見たことないよ」
「いえ」
「なんで高校行かなかったの?これだったら東大目指せるんじゃないの?」
「ムリです。ウチ、カフェやってるんで調理師免許をとらなきゃいけないんです」
「そうなの?勿体ないなあ」
ああ面倒くさ…、佳月は思った。
「ま、途中で心変わりしたら早い目に言ってね。補充も考えなきゃだから」
「大丈夫です」
「じゃ、書類だけど…」
こうして佳月の社会人初日は終わった。明らかに学校とは全く違う世界。やっていけるかどうかさえ見当つかない。だけど大見得切って出てきた以上、音を上げるわけにいかない。
1Kの部屋の窓を開けてみる。畑に囲まれ灯りが少ないので空の星はきれいに見える。海からは少し遠くなったけど、風向きによっては潮の香りが漂う。母さんは今頃一人でUmigameを切り盛りしている筈。料理を作って、カウンターに並べて、表に出てサービスもする。会計だってしなくちゃいけない。大丈夫かな。あたしには冷たい母さんでも、離れてると妙に懐かしく、変に愛おしくなる。引っ越しの時、透けて見えないカーテンを選ぶのにめっちゃ時間かかってた。防犯考えないとって言ってくれた。一応心配してくれてんだと思った。
「母さんおやすみ」
ほんの小さな後悔の欠片を抱いて、佳月は窓を閉めた。