第4話 老人と海
カーテンが揺れている。波が打ち寄せては返すように 大きく 小さく。
病室の窓でも海を感じることはできるもんだな。老人は窓の方に向けて寝返りを打った。もうそれ程長くはないだろう。1年位かな。妻も先に逝ってしまったし、子どもたちも独立して元気にやっている。もう充分義務は果たした。最早思い残すことはない。日に日に心が透明になっていくようだ。
カーテンがひと際大きく膨らみ、そして次に小さく膨らむ。長い間付き合ってくれた海が最後まで見守ってくれそうだ。例え風の波でもな…。
老人は海洋学者だった。一生の殆どを海と向かい合って来たのだ。だからと言って海に散骨なんて面倒を言うつもりはない。子どもの手を煩わせたくはない。これは俺の人生だったからな。子どもらには関係がない。本音を言うと、誰かが海に興味を持ってくれたら嬉しかったが、それは仕方のない事だ。あの子らにはあの子らの人生がある。こうやって最後まで面倒を見てくれる場所を見つけ、まだ自分の足で浜辺まで歩いて行けるだけで充分に有難いことだ。
またカーテンが膨らみ、引き潮のように窓に貼りついた。ほほう、リズムは一緒だな。ま、当たり前と言えば当たり前かも知れんが…。
「よっしゃ」
老人は掛け声をかけて上体を起こした。浜に出るか…。
ベッドの下のデッキシューズに足を入れる。元々スウェットの上下を着ているので、アウターを羽織るだけで外に出られる。老人は杖をついて階段をゆっくりと降りた。
「あら、尾白さん、お散歩?」
受付の前で声を掛けられる。
「うん、ちょっと浜へ出て来るわ」
「はーい、気を付けて」
玄関を出た老人・尾白末吉は腰を伸ばす。緩やかな階段を降りて少し歩くと、県道がある。その向こうはもう浜辺だった。目の前に太平洋が拡がり、午後の陽射しにきらきらと輝いている。末吉は、定番のコースを歩いた。砂浜では足を取られないよう、一歩一歩着実に足を上げ、下ろす。杖の先端には丸いバスケットがついていて、砂に潜らないようになっている。これは末吉自身のアイディアだった。
汀に近いところまで歩いた末吉は、アウターのポケットから小さく畳んだレジャーシートを取り出し、拡げて腰を下ろした。寄せ返す波は先程のカーテンと同じリズムだ。人気のない3月の海を見渡すと、波打ち際の少し手前にキラッと光る何かが落ちていた。満ち潮が運んできたものかも知れない。末吉は杖をレジャーシートに置くと、立ち上がって光る何かに近づいてみた。
「なんだ、ペットボトルか…」
ったくポイポイ捨ておってからに。呟いて末吉は拾い上げる。ん?カラじゃない。よく見ると中に貝殻が入っている。
「子どもの忘れ物かな」
末吉はペットボトルを持ってレジャーシートに座り込んだ。よく見ると貝殻の他に紙が入っている。
「ほう。最近のボトルメールはペットボトルか…」
珍しく末吉はときめいた。今どきボトルメールもないだろう…。誰彼なく手紙を書きたいならSNSでも出来る。それをわざわざ…。勿論中身が手紙である保証はないのだが、偶然キラッと光った幸福を拾い上げた気になったのだ。
末吉は病室にそれを持ち帰り、水で周囲を洗い、ティッシュで拭いた後、壁のカレンダーを一枚千切って、その上でボトルの蓋を開けてみた。幸い水の侵入はないようだ。次にボトルを逆さにしてカレンダーに貝殻をぶちまけ、指を突っ込んで紙を取り出した。
「え?成績表?」
名前は黒く塗りつぶされているが、湘南の県の模試のようだ。ふうん、なかなか優秀だ。湘南海峰の判定はAか…。志望校は末吉もよく知っている高校だった。末吉が教えていた国立大にも大勢合格者がいた筈だ。なんでこれをここに入れたのだろう。動機を今一つ掴めぬまま末吉はもう一枚の紙を拡げた。レポート用紙に直筆で綴られている。
ほう。この字は女の子…かな。いろいろストレスがあるようだ。てっきり見込みのないラブレターかと思ったが、どうやら家族への不満を書き出したかったらしい。ときめきは空振りに終わったが、こうして吐き出すことでこの子の心が少しでも晴れればそれでいいか…。
最後まで読んだ末吉は、レポート用紙の一番下に描かれたイラストに目が留まった。それはウミガメ。青のマーカーでクルっと描かれた小さな絵だ。ふうん、ウミガメ、好きなのかな。だったら大丈夫だ。どこのどんなお嬢さんか知らんが、きっと大丈夫だ。
末吉は二枚の紙と貝殻をペットボトルに戻してサイドボードの上に立てた。