第2話 Cafe Umigame
Cafe Umigame
それが佳月の家である。オーナーである母・ 佐々麗華 (さっさ れいか)が仕切っていて、学校から帰ると佳月も店を手伝う。ホールがメインだが、それだけじゃない。洗い物は勿論、時々キッチンで調理もやらされる。と言ってもやれることは限定的で、そもそもUmigameには麗華の味を楽しみに来る常連客ばかりだから、佳月に付け入る隙はない。それに麗華には佳月に味を伝授しようなんて気はさらさら無いようで、常連客が『そろそろ佳月ちゃんも覚えなくちゃね』なんて言おうものなら、『彼女には彼女の味がありますからね』とサラっと流される。
この家に父はいない。佳月がまだ小学校低学年の時に海で亡くなった。海洋写真家だった父は、魚図鑑からダイビングのパンフレットに至るまで、あらゆる海の中の写真を撮り続けた。その日も台風の接近を知っていながら南の海で潜った。
ベテランダイバーだった父に何があったのかは正確には判らない。一緒に居たダイバーの話では、父が沈んでいた辺りで、ウミガメがひょっこり顔を出し、そしてまた潜って行ったと言う。関係があったかどうかも判っていない。
台風のせいでは無かったかも知れない。しかし、その時の佳月は何故父を行かせたのかと母を責めた。
『じゃあどうすれば良かったのよ!』
母が切れて叫んだのを今でも佳月は覚えている。確かにその通りだ。普通に止めても父は出掛けただろう。今となっては母の無念さが判る佳月だったが、あれ以来、母の佳月に対する態度が変わったのだ。良く言えば、大人扱い。悪く言えば放任。遠足のお弁当も佳月は自分で詰めるし、佳月の成績表なんて母は見た事がない。
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「ただいま」
「お帰り。佳月、後で香辛料買ってきて。カウンターにメモってあるから」
「ん」
学校から帰った佳月は店の入口から入り、カウンター脇の扉を開けて二階へ駈けあがった。部屋にリュックを置いて、手を洗ってから制服をジーンズと長Tに着替える。髪を小さく後ろで縛って業務用のエプロンをつけると、また階段を駈け降りる。
カウンターの端っこに、ナイフレストを文鎮代わりにメモ用紙が置いてあった。陶器でできた淡い色合いのナイフレストは佳月もお気に入りで、こういう母のセンスは見習いたいと素直に思う。
メモ用紙には、ブラックペッパー(粒)からカパオシーズニングまで5種類のスパイスが書かれていた。
「母さん、パクチーってスパイス?」
「ああ、あるのよ、粉になったパクチーの葉っぱが。コリアンダーとは別にね」
「ふうん。どう使い分けるの?」
「自分で調べな」
やっぱり…。予想通りの回答に小さく溜息をつくと、佳月は買物バックを手に取り、店の入口の脇に立ててあるフォトスタンドに小さく手を振って店を出た。父が撮影したと言うウミガメの子どもの写真。ペパーミントグリーンの透明な海を必死で沖へ向かって泳いでいる姿を横から撮影した1枚だ。佳月はこの写真が大好きだった。見えているのかいないのか判らない目を真っ直ぐ前に向け、身体と同じくらいの長さの前脚(前ヒレ)で必死に水を掻く。幼いひたむきさが伝わって来る写真だった。佳月は密かにその子ガメに『パセリ』という名前を付けていた。パセリは今7歳位。どこの海を泳いでいるのだろう。
近所のショッピングモールにある輸入食品店でメモにあるスパイス類を買い求めた佳月は、30分程で店に戻った。夕食には少し早いこの時間帯、店内は近所の主婦らの憩いの場所となっている。
「あーら佳月ちゃん、買い出し?」
「はい、ちょっとスパイスとか」
声を掛けてきたのは常連の田島さん。ご主人は公務員とかで安定した生活に見えるのだが、本人曰く一杯一杯だそうだ。その割には毎日お茶を飲み来るのはどうなんだと佳月は思っていた。買って来たスパイス類をボトルに補充しながら、田島さんと母の会話を何気に聞いている。
「でさ、ついに始めたの、今週から」
「何をです?」
麗華はキッチンで仕込みをしながら大声で喋る田島さんの相手をしている。
「パートだよ、パート。ウチも苦しいからさ、自分のお茶代くらい自分で稼がなきゃってね」
「へえ、何を始めたんですか?」
「給食センター。佳月ちゃんも毎日食べてるでしょ」
いきなり振られて佳月は慌てた。
「はい」
「中学まで給食があるってそんなにないんだよ、全国レベルでは」
話の行き掛かり上、佳月はカウンターの中から相槌を打つ。麗華も10歳年上のお客様を無下には出来ない。
「どんなこと、やるんですか」
「まだ見習いだけどね。野菜切ったり、お肉仕訳けたり。でもさ、今ってみんな機械なのよ。ほら給食って衛生上の間違いがあっちゃ駄目じゃない。だから徹底的に機械化。野菜もさ、皮剥くのは機械だし、茹でた野菜をさ、サラダ用に冷やすのも機械で10分だよ。10分で80℃位が10℃位になるの。真空でやると早いのよ。でもさ、覚えらんないよ、似たような形の機械ばっかでさ…」
田島さんの講義は10分以上続いた。野菜も冷え冷えになる時間だ。麗華の相槌は明らかに生返事だったが、佳月は結構真面目に聞いていた。それだったらあたしでも出来るじゃん。
田島さんが帰ってから麗華は珍しく佳月に声を掛けた。
「機械化機械化って、お料理なんだから心籠めないでどうすんのよ。みんなが一緒に食べるものなのに」
「仕方ないじゃん、大量に毎日作んなきゃいけないんだから」
それでも麗華は引き下がらない。
「美味しい訳ないじゃない、重量とカロリーだけで考えるって」
「給食はそれでいいんだよ、誰も味わってないし」
「なによそれ。バチ当たるよ」
麗華は佳月を睨みつけて、ディナータイムの仕込みに戻った。ったく、自分が言いたい時しか話しかけて来ないくせに納得いかないと怒るんだから。相手してらんねぇ。佳月は店内を見回して客がいないことを確かめると、
「二階に上がってる。何かあったら呼んで」
そう言い捨てて階段を上がった。そう、基本的に佳月と麗華は仲が悪い。あたしの話をまともに聞いてくれるのは三上先生だけだ…。くっそ、お父さんがいないってこう言う事なんだ。佳月は、乱暴に自分の部屋のドアを閉めると、唯一の家族のようなスマホを取り出してベッドに寝転がった。