第15話 背中
翌日も小梅は、青海リハビリ診療所への配送トラックに同乗していた。前日の診療所の蛍との打ち合わせは、薬膳効果も期待できるスパイスを作ったから試してみて欲しいと言う依頼だったのだ。小梅は1食だけ、蛍が作ったスパイスを使って調理してみた。それをタッパに入れ、蛍に試食してもらわねばならない。その為の同乗だった。
タッパを持ってロビーを横切り、事務室に向かう小梅に、ロビーのソファで休んでいる患者が声を掛けた。昨日の元学者である。えっと、何て名前だっけな…。
「あんた昨日の給食センターの人だね」
「はいそうです。吉良と申します」
「吉良さんですか。昨日は自己紹介もせず失礼しました。私は尾白末吉と言います。ここの生え抜き患者ですわ」
「昨日栄養士さんに伺いました。ウミガメの研究をしていらしたとか」
「ええまあ昔のことですがね。ちょっと伺いたかったんだけど」
「はい、何か」
小梅はタッパを持ったまま末吉と向かい合った。
「給食センターに、茶髪っちゅうか、もう金色に近い髪のお嬢さんはおらんですかな」
「ああ、いますよ。中学卒業して4月に入ったばかりの子で佳月ちゃんって言うんですけどね」
「佳月ちゃんか」
「ええ、しっかりしてて、お料理も上手なんですよ。尾白さんは佳月ちゃんをご存知なんですか」
「ご存知って程じゃないけど、一度浜で喋った事あってね。給食センターで働いてるって言ってたもんだから」
「そうなんですか。けど、まだ15歳ですからね。昨日もお母さんらしき人がセンターの前にいらっしゃったんですけど、すぐに立ち去られて。やっぱり心配なんでしょうね」
「そうですか。お母さんがね」
「本人は違うって真っ向否定してたから本当は判らないんですけど、でも面影があったからそうなんじゃないかな」
「真っ向否定ね」
「反抗期でしょうかねえ。ウチの娘もそうだったし」
「まだ若いのに、きっと一人で闘ってるんですよ、何かの事情と」
急にしんみりとした表情になった末吉は杖を持って立ち上がった。
「いや、すみません、お仕事中に呼び止めちゃって」
「いいえ、お大事になさって下さい」
「有難う。今日もご馳走さまです」
また笑いながら末吉は階段を上がって行った。昨日の態度と言い、佳月ちゃん、何と闘ってるんだろう…。小梅は気になりながら事務室のドアをノックした。
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「もうあと2週間位だな」
8月になってから、末吉は頻繁に浜辺を散歩している。柵の中の様子を見るためだ。幸い、佳月が拵えた頑丈な柵のお蔭で荒らされていない。その日も浜辺を見下ろした末吉は、柵の手前に座る佳月を見つけた。
一人、海を見ている。小さな背中だ。何かを憂いているようにも、何かを後悔しているようにも見える、儚げな背中だった。末吉は歩み寄ることが出来なかった。震えながら一切の干渉を拒んでいる。15の子が一人で闘っている。ワシらには何ができるんだろう。末吉は心をぎゅっと掴まれた気がした。
末吉はしばらく佳月の背中を見つめ続けたが、結局その日は佳月に声を掛ける事は出来なかった。
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3日経って、また末吉は佳月を見掛けた。今後は杖を突きながら浜辺に降りる。佳月はすぐに末吉に気がついた。
「キミのお蔭で卵は無事だ。有難うな」
佳月は末吉をじっと見てコクンと頷く。きっとこの人が小梅さんが言ってた元学者さんで給食を楽しみにしてくれてる人なんだ。なんて言えばいいんだろう。佳月が逡巡している間に末吉が隣に座る。
「もうちょっとしたら子ガメが生まれて来るんだよ」
「もうちょっとって?」
「来週くらい…かな」
「柵、取らないと」
「そうだな。子ガメが生まれるの、見に来るかい?」
佳月は目を丸くして末吉を見た。見れるんだ…、考えた事もなかった。
「仕事があるから」
「夜だよ。大抵20時ごろかな」
だったら、見れる…。佳月は大きく頷いた。
「私が毎日チェックしてるから、今夜あたりと思ったら連絡するよ。給食センターに電話すればいいのかな」
「いや、ケータイにして…下さいっ!」
しまった…焦り過ぎ?恥ずかしい。佳月は俯いた。
「はは。空振りもあるから覚悟しといてね。それと、夜だから1枚羽織るものがあったほうがいい」
「判った。えっと番号だけど」
「はいはい」
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ジジィとケータイ番号交換しちゃったよ…。友だちが聞いたらジジ活かよって笑われそうだ。
末吉が立ち去った浜辺で佳月はまだ海を見ていた。ジジィ、尾白末吉って言うんだ。結局、給食のことは何も聞けなかったな。まあいいや、子ガメの生まれる日にも話できるし。滅入ることの多かった佳月の心に、ほんの小さな子ガメが侵入し泳ぎ回っている気がした。
早く生まれないかな。早く出てお出で。
立ち上がった佳月は柵の真ん中に向かってそーっと声を掛けた。