スプーン曲げの男
スタジオの中、バラエティ番組の収録中、男はマジックを披露していた。周りには出演者が座っており、タネを見破ろうと男の手元を凝視している。男の手元には一本のスプーンが握られていて、男はゆっくりそのスプーンを揺らす。ゆらり、ゆらりとスプーンは男の動きに従って左右に振れ、首を傾げるかように曲がっていく。拍手喝采の中、男は少し乾いた唇を舐め、笑顔で続けてマジックを披露する。この男、匙曲太郎はスプーン曲げの男として様々なメディアに出演し今や時の人となっていた。
この男に曲げられないスプーンはなく、鉄製以外にも木製、銀のスプーン、プラスチック製のスプーンなど様々な種類のスプーンを曲げてきた。匙は常々スプーン曲げではいつか飽きられる、何か別のものを見つけなければならない、と考えているがこれまでスプーンより重いものを持ったことのない匙にとってこの問題は重すぎたためにあまり真剣に向き合ったことがなかった。
そして今、匙は一般人に気づかれるかどうかのギリギリの変装をした状態で気づかれるまでの時間を測る、という番組の企画で、公園に来ておりベンチに座ってスプーンを曲げていた。すると近くでキャッチボールをしていた親子がボールを取り損ねたために、そのボールが匙の方へ向かって勢いよく飛んできた。匙はスプーンを曲げている最中だったために突然のことに反応できず、これは直撃するなと予感しとっさに身を硬くした。しかしボールの軌道は突然曲がり匙を避けていった。匙は目をぱちくりさせたのちに、思い出したようにスプーンを見るとスプーンは曲がっていなかった。これは匙にとって初めての失敗であったが、匙はこう考えた。僕はスプーンではなくボールの軌道を曲げたんだ、と。
そして匙はその日の収録を終えたのちに家に帰りスプーン以外も曲げることができるか試してみた。食器類、家具、小物、全てに対して曲げることができた。しかし虫などの生物に対して曲げることを試みたが何も変化は起こらなかった。そこで匙は何も考えずに自分の妹に対しても試してみた。何も変化はなかったように思われた。しかし妹はちゃんと曲がっていたのである。妹は突然不機嫌になり、
「何見とんねん、キモいからどっかいけよクソ」
と、匙に対してぶっきらぼうに言い放ちその場を去っていった。
匙はすぐに自分は妹のへそを曲げたことに気がついた。匙はそとに飛び出し、腰の曲がったおばあちゃんを見つけると、そのおばあちゃんに対しても試してみた。するとおばあちゃんの腰は少しずつ伸びていき、ついにおばあちゃんの腰は真っ直ぐな状態になった。
匙は自分がスプーンだけでなく、全てのものを曲げる、または曲がったものを逆方向に曲げて伸ばすことができることに気がついた。スプーンを曲げること以外に自分にできることを探していた匙にとってこのことは天からの祝福のように思われた。その日から匙はスプーンを曲げることに飽きていたのか、様々なものに対して曲げることを試みるようになった。暇な時には街を出歩き、通行人に対して曲げることを試してみると人それぞれ反応が違い、匙にはそれが面白かった。ある人は鼻が曲がり、顔を歪めながら走り去っていった。それを見て匙は一種の優越感や支配欲が満たされたように感じ、にやりとしてしまうのだった。
その日も匙はさまざまなものを曲げ、満足げに家に帰っているとふと純粋な好奇心から自分に対して試みるのはどうかと考えた。仮に都合の悪いものが曲がってしまったとしても伸ばすようにまた曲げてしまえばいいと思い、軽い足取りで家に着くとすぐに鏡を見ながら自分にはどんなことが起きるのか期待しながら試してみた。すぐに変化は表れた。
「僕は一体何をしてきたんや……うせやろ…」
匙は自分がとても愚かなことをしてきたように感じた。激しい自己嫌悪と後悔が匙を包み込んで離さない。
匙はスプーン以外のものを曲げ始めた時からじわじわと自分の根性も曲げていっていたのである。そして次第に曲げられた匙の根性はひん曲がっていた。そして匙は自分に対してまた曲げることを試してみることでそのひん曲がった根性が元に戻っていた。
その後、匙は二度とスプーンもスプーン以外も曲げようと思うことはなくなり、曲がったことが嫌いな男となった。
(おしまい)