ヨウミ
―― 私はいつも影が見えます。
「おや」
それはおかしなブログだった。
待ち合わせに少々フライングしてしまったため、相手の仕事が終わるまでの暇つぶしにスマホを弄っていた西園寺は、行き着いたブログに眉を上げた。
「これはこれは … 本物かな?」
私にはいつも影が見えます。
昼夜問わず、いつも目の端に黒いもやっとした影。
子供の頃からずっと見えてるその影は、そっちに視線を向けても何も無いのですが、視線を戻すとスッと目の端に入ってくるのです。
たまにその下から鳥とか、酷い時は人の足のようなものまで見えるのに、そっちを見ると何も無いのです。
「西園寺さん、遅れてすみません」
「ああ、小木さん」
呼びかけに顔を上げた西園寺の隣に、コーヒーカップを持った中年男が腰を下ろした。
「わざわざ来てもらったのに申し訳ない」
「いえいえ。僕が早かっただけですよ。丁度いい所にコーヒーショップもありましたしね」
小木、と呼ばれた男は「そうですか」と相槌を打って自分のカップに口をつける。その風体は正にどこにでもいそうな男だ。勤め人なのかネクタイを締めているが、それ以外はどことなくラフで、何となく飄然としている。
「それで、どうでした? 彼」
「彼? ああウツロネの。まあなんとか間に合いましたね」
西園寺の脳裏に腰を抜かしたカヲルの姿がよみがえる。
「そうですか、それは良かった」
それを聞いた小木の顔も緩む。
「こっちに話が来た時にギリギリっぽいなと思ってたんで、間に合って良かった。やっぱりウツロネでしたか」
「僕にはまだ見えませんでしたが、彼にはハッキリ姿が見えたそうですよ。イメージしちゃったみたいで」
「それでどうしたんです?」
「柏手と祝詞1つで散らしました。地下道だったから音が響く響く」
また何か思い出したのか、西園寺が小さく吹きだす。
「よくそれだけで散らせましたねぇ」
「まだ1人でしたからね。当人の意識を逸らせばあっさり散りましたよ」
そのために遠慮なく柏手を打ったのだが、まさかあそこまでの効果を出すとは思わなかった、と笑う。後でカヲルが語ったところによると、その音がまるで何かの衝撃波のように身体を突き抜けていった気がした、だそうだ。本当にただの柏手ですか、と。
種を明かせば簡単なことだ。イメージした人間からそれを消せば、一度像を結んだだけの『音』は霧散する。
「いやはや、人間の集団意識とは恐ろしいものですよ」
と西園寺が冷めたコーヒーを飲み干せば、
「本ならまだしも、時代はネットですからねぇ」
と小木が湯気の上がる自分のそれを美味そうにすする。
もし誰かがあの『音』からイメージした姿をネットに上げでもしたら、あっという間にあれは実像を持つ『何か』に成るだろう。集団認識、というものはそれだけの力を持ち、また与えてしまうものだ。そしてそれは、あちらの存在に対してだけではない。
「まあ人の世の事はお偉いさんに任せるとして。それでカヲル君、できました?」
「できませんよ。一度自分で固めちゃったイメージなんてそうそう消えるもんじゃなし。まして彼の半生ずっと占めてた存在のようなものでしょ? あの虚音は。―― だから消しときました」
「おやおや。怖いですねぇ」
本人自身に消せないのなら、死にたくない、死なせたくないのなら、他人がそれを消すしかない。
だから西園寺は手を下した。
「おばあさんの言いつけ、という形は残っていますよ。そうじゃなきゃ逃げられないし」
そんなに都合よく記憶を操作できる能力とは、西園寺とは、一体『何』なのか。しかし小木はただ、うっそりと笑った。―― お願いして正解でした、と。
「ところで」
何気ない、けれど薄ら寒い話題をかき消すような軽い口調で会話を続けた小木は、西園寺の手元を覗き込んだ。
「随分熱心に見てたようですが、何か面白いニュースでも?」
「おもしろくは … どうですかね?」
西園寺は、自身のスマホを小木に向けた。画面は先程まで読んでいたブログのままだ。
「―― 見鬼、ですかね?」
「いや、恐らくは『影見』ですね」
「影見ですか。ああ、姿はあまり見えていないんですね」
古来より鬼が見える目を持つ者は見鬼と呼ばれ、厄災避けに重宝されたという。一般的には姿どころか気配がする、そんな気がする程度の能力者も見鬼と言われているが、それでは能力差がありすぎる、と区別されている。端的に言えば、姿まではっきりと視認できる者が見鬼、姿は見えないが影のようなもの程度なら視認できる者が影見だ。とは言え、こういった能力は移ろいやすく、見鬼が影見に、影見が見鬼になったりする事も多々あるため、そこまで厳密視されてはいない。
当然ながらその資質は特別な血筋のみに顕現するわけではなく、生まれながら、或いは何らかのショックにより発現する事がある。そのため自称霊能者が後を絶たないのだが。
―― 私が見ている『影』が何か、誰か判る人はいませんか?
何かこれといった被害があるわけではないんですが、とにかく気持ちが悪くて。ずっと目の錯覚じゃないかとか気のせいじゃないのかとか、そんな風に思ってました。けど、一昨日 ―― 。
「あー、どっちでしょうねぇ、これ」
「さて …。まあこのくらいなら実害もないし、大丈夫じゃないですか? 気のせいと思えるならそれで十分でしょう」
意識を向ければ向けただけ、それらは力を得る。その逆もしかり。
だからまだ実害が無いのなら、無視が一番なのだ。
なのに、こうして問うてしまう。
そして、答えてしまう者がいる。
故に、『あれら』は少しずつ少しずつ力を蓄えていく。
好奇心は猫を殺すとはよく言う言葉だが、たった一つしか命を持たない人間こそがこれとは ――。
「げに、愚かしきは人なり、ですねぇ」
「本当ですねぇ。正しい答えも得られたのかどうか」
と、小木に相槌を打ちながらスマホ画面をスクロールさせた西園寺は、ホラと、出てきた表示を指さした。
「問いかけておきながらコメント不可になってます。いわゆる炎上状態にでもなって閉めたんでしょうね」
「ですね、可哀想に」
小木もまた、覗き込んで軽く頷く。
始めから釣りなら元々コメント不可にしていたのかもしれないが、そうではないとしたら、マトモな助言が無かったのだろう。
そんなものがあったのなら、そもこんな記事がこの状態で残っているはずがない。西園寺達の同類なら絶対に削除させるからだ。力を付けさせない為に。
「―― まあ何にせよ、もう何らかの結果は出ているでしょうね」
西園寺の、男にしては細い指が指す記述を見て、小木も頷いた。
何らかの事件に発展したか、結局何もなくただのネット怪談で終わったのか、それは知りようがない。だが、そのブログ記事の日付は既に3年程前のものだ。
「昔の個人サイトなんかだと、下の空白部分に反転文字が仕込まれていたりしましたけどねぇ」
小木が遠い目をしてコーヒーを飲み干せば。
「ブログサービスじゃ無理でしょうしね。第一その空白部分がない」
西園寺はスマホの電源を落としてポケットに戻した。
そして会話の前提がかなり常人と違うくせに妙に穏やかなやりとりを交わしていた2人は、ようやく腰を上げた。
西園寺のポケットの中で鳴った、小さな通知音にも気付かず。
とあるブログのコメント欄に投稿された一言に。
誰も、気がつかなかった。
―― タス、ケテ …。
<了>