ウツロネ
第十回書き出し祭り第二会場に掲載していただいたものです。
幼い頃繰り返し言い聞かされた祖母の言いつけ。
不思議で怖いそれの理由を知りたいと思ったのはおかしなことではないはずだ …。
―― カショリ …。
…… カショリ。
… カショリ。
ああ、お逃げ。
その音が聞こえたのなら。
―― カチョリ …。
…… カチョリ。
… カチョリ。
その音が変わったなら。
その手にあるもの全部捨てて。
荷も柵も親すら捨てて。
お逃げ。
お逃げ。
その音が聞こえたら。
逃げられるのはお前だけ。
お逃げ。
お逃げ。
…… すべてを失くす、その前に。
八尺様、くねくね、テケテケ。『音』や『知見』に特徴のある怪奇は珍しくない。民俗学専攻の大学院生、矢崎カヲルの知る『それ』はそのどれでもなかった。
数年前にこの世を去った田舎住まいの祖母が折りにつけ語っていたその怪異は、彼が長ずるにつれ興味を引き、遂には大学で専攻するまでに至った民俗学においても局地的過ぎるのか、全く記録が見つからなかった。類似する怪異譚もない事から、もしかしたら幼い孫を怖がらせるための創作話ではないのかというのがゼミの担当教授や同輩達の総意だ。
実際、カヲル自身もそう思った事がある。しかし、ふと気づいたのだ。おかしい、と。
夜更かしする幼児を寝かせる、いたずらを嗜める等の怪談であるならば、伝承にしろ創作にしろ、何がしかの罰則、何が来てどうする、がなくては効果がない。
例えば、夜に口笛を吹くと蛇が来る、はそれが嫌なら吹くなという抑制力につながる。他にも、夜更かしする子は鬼が来て食われるぞ、辺りがテンプレートだ、しかし、カヲルの祖母が彼に繰り返し繰り返し言い聞かせた怪異話はそのどちらもなかった。ただ、逃げろと、その音が聞こえたら逃げろというだけだ。はっきりしているのはその音だけ。それなのに、祖母は夏休みのたびに遊びに訪れたカヲルに繰り返し言い含めた。
逃げろ、と。
その音の主は何なのだろう。どんな姿をしているのだろう。聞こえたら、見つかったら、つかまったら、どうなってしまうのだろう。
それが知りたくて、カヲルは民俗学の門を叩いた。
〝でも、見つからなかったんだよな …〟
最初は全国区、続いて地方、そして祖母の住んでいた地区と範囲を絞りながら同じ怪異譚、類似する怪異譚を探し、図書館や博物館、郷土資料館などを回り、口伝を求めて老人会にまで足を運んだが、何も見つからなかった。無論祖母には真っ先に尋ねた。が、祖母はその親や祖父母から語り継がれてきた話だとしか教えてくれなかった。いや、祖母自身、正解を知らなかったのだろう。その音が聞こえた時、逃げなければとても恐ろしい目に遭うという漠然とした恐怖だけが引き継がれてきたのかもしれない。口伝は一度失伝してしまうとほぼ復元できない。生き証人でも現れない限り、もしくは全く同じ事象が起きない限り、永遠に失われてしまう。
「まあなー …」
まだキツイ日差しを逃れて街路樹の影に立ったカヲルは、今さっき自販機で買った缶コーヒーを煽った。
「ばぁちゃんとこは今でも熊が出て騒ぎになる所だから、案外熊避けの口伝かもしれんけどなー」
藪がガサついたら近づかれる前に、熊を目視する前に逃げろ、という生活の知恵かもしれないが。その対応が正しいかどうかも判らないけれども。そういった山中のあれこれから生まれたのが妖怪の類なのだし、とまた一口。
しかしそう冷静に分析してなお、違う、と訴えかけてくる自分がいる。ガサガサ、がカチョリ、なんて音にすり換わるか? カチョリ、なんて音、草木が出すか? むしろ何かの刃物を連想するんじゃないのか? そしてあの祖母の語り口。あれは本当に心配している声音だった。祖母自身が恐怖を押し殺して子や孫の安全のために語り継がなければという必死さがあった。子供の頃はその覚悟そのものの圧に怯えていた気がする。それくらい、祖母は真剣だった。
だから、知りたかった。
あれ(・・)は何なのか、を。
それがいつの間にか、彼の中心になっていた。そうして遮二無二探していたおかげで、普通ならば実在しているかどうかすら怪しい職種の人間ともつながりができた。
いわゆる、拝み屋、祓い屋と呼ばれる人達である。カヲル自身は霊的なものを信じてはいないが、その有無は別にして、彼らの知識の中には世間一般に知られないものが多い。失われた、あるいは忘れられた祭事や神事、諸々の由来等に詳しい。そして、もちろん怪異にも。
これから会う人物も、そちらから紹介された男だ。ある意味由緒正しい血筋の出だという。カヲルとしては、何かを依頼するわけではないので能力が本物かどうかはどうでもいいし、聞けるであろう話をすべて鵜呑みにするつもりもない。だが、答えの見つからない問いに対する一打、というか、ヒントになればいいという程度だ、礼を失しているといえばそうかもしれないが、海千山千のあっち方面の情報を信じて馬鹿を見る確率の方が圧倒的に高い。少なくとも、それくらいの心積もりで挑まねば、という認識だった。―― の、だが。
「虚音だね、それは」
待ち合わせの喫茶店で出会ったその男は、えらくほっそりとした体格の、そのくせ妙に雰囲気のある姿をしていた。
西園寺、と名乗った彼は、店奥のボックス席について一息ついてからすぐにそう言ってのけた。
「ウツロネ、ですか …?」
言われた単語を把握できず疑問符塗れの言葉を返したカヲルに、西園寺は軽く頷いた。
「虚ろな音、と書いて『ウツロネ』という。有名なところだと八尺様やテケテケ、ぺとぺとさんなんてものもあるね。姿と特有の声や音がセットになってるアレだよ」
「その辺りは知っていますが … 例の音の正体というか、姿とか知らないんですよ。もし知っているのなら教えてもらえませんか?」
「それはできない」
カヲルは、知らず前のめって尋ねた問いにあっさり拒否を返されて一瞬鼻白んだ。その間を読んだように店員が西園寺の注文したコーヒーをテーブルに置いたため、そのまま座り直す。その様子を静かに見ていた西園寺は、伝票を置く店員に礼を言い、立ち去るのを待ってからゆっくりと口を開いた。
「理由は三つ。一つ目はその『音』が何か、僕は知らない。二つ目は地域が限定されすぎて他所に全く知られていない、いや秘匿されているから。で、一番重要なのは三つ目。―― 名を付けてはならないから」
そう告げられた瞬間、空調の整えられた店内が凍えた。いや、それはカヲルの感覚のみがそう知覚したのだろう。他のテーブルから聞こえる明るい会話に変わりはない。
だがカヲルにとっては確かに、物理的に感じる程のずん、という重圧と、怖気がする程の冷気をその身に受けた。息までが、苦しい。
西園寺は、固まるカヲルをよそに、自分のコーヒーをゆっくりとすすると、何事もなかったように続けた。
「もう今の民俗学の学生さんは知らないのかもだけどね。小泉八雲しかり、民俗学と怪異は君が思う以上に密接で、表裏一体といってもいい。まあ、あれとかそれとか呼ぶのは構わないんだけど、名とかイメージを与えちゃうとまずいんだよ。存在が確立されちゃう」
「存在が …?」
「そ。怪異じゃなくてもそうだろう? 友人の彼女、と認識と、友人の彼女のA子ちゃん、という認識、どっちがはっきりする? さらにその姿まで知ってたら? もう彼女、なんてぼんやりした存在じゃなく、A子ちゃんというれっきとした個人になるだろう? それと同じ。名と姿が判ってる怪異もそうやって『固定』されてきたんだ」
「じゃあ …」
カヲルの手元で、飲み干したアイスティーの氷がカラリと崩れた。
「じゃあ、ばぁちゃんのあれは …」
「おそらくだけど、君のおばあさん達の村ではそうやって怪異を防いでいたんじゃないかな? 決して名を、姿を与えないように。でも『音』は防げないから、それだけを警戒して伝承してきたんだろう。あとは、君が正体を暴こうとしなければ害はないよ。忘れた方がいい」
西園寺は、カップをそっとソーサーに戻して微笑んだ。
「『音』はここまで追ってきてはいないんだから」
「は …、まさか。この現代にそんなバカな」
カヲルの、吐き捨てるように呟かれたその言葉が聞こえなかったわけではないだろうに、西園寺は「とにかく」と続けた。
「これは僕からの心からの忠告。絶対に名やイメージを固めないように。―― 死ぬよ?」
おばあさんの言いつけからすると間違いなく、ね。
そう言い置いて、西園寺は席を立った。
人生の大半を占めてきた疑問を早々忘れられるものか、と駅に戻りながらカヲルは舌を打った。平日の昼間、人気のない階段を降りる。
音。音か。
―― …カショリ。
金属音というか、何かが重なった音?
―― …カチョリ 。
ああ、アレに似てるか。戦国武将の鎧の …。
―― ガシャン!
何かが背後に『居る』
しっかりとした『形』を持った何かが。
こすれ合う帷子の音を耳に聞きながら、どこかで西園寺の声がした気が、した。
―― だから言ったのに。
〈了〉
思いついたときにゆるゆると続きを投稿できたらいいなと思っております。