冷たい二次方程式
『冷たい方程式』の作者トム・ゴドウィンに捧ぐ
西暦1957年、ソ連はスプートニク1号を打ち上げた。これが、記録に残る範囲で初めて、人類が宇宙へと旅立った瞬間だった。そこから宇宙開発は始まったといっても過言ではない。ユーリ・ガガーリンの台詞『空は非常に暗く、地球は青みがかっていた』はあまりにも有名だ。あれから3世紀たった今でも、その台詞は、宇宙に憧れを抱くものにとって一番最初に覚える名言であり続けている。
そして7年前、宇宙開発史、いや人類史にとって大いなる発見がもたらされた。地球からわずか4.8光年という短い距離にある惑星ノアが、地球とほぼ同じ気候であることが探査機によって判明したのだ。大気中の酸素が27%を占め、地表には水が流れ、そして大気中、海中、地中のどこからも、人類その他の生物にとって有害となる物質は発見されなかった。さらに、ノアには先住民となる知性を持った生命体は確認されず、十分に人類との共存が可能であった。それを知った人類は、早速入植を開始した。これが箱舟計画である。
ノアの箱舟の名の通り、これは人類の存続を賭けた計画である。人類は、というか地球は危機に瀕していた。長きに渡る戦争、紛争、化石燃料の消費等により、25世紀には今と同じ生活ができないだろうと推測されている。最近になってようやく地球の回復量と同等程度まで落ち込んだが、結局元には戻らないだろうと推測されている。今までの消費が酷かったせいだ。嘆いても仕方がないことではあるが、今、地球は徐々(じょじょ)に死の星へと化している。箱舟計画は、そのための起死回生の一手だ。
まず、我々国際宇宙開発局の職員が現地に基地を建設している。その基地を拠点として、食料生産設備を作り、住宅を作り、宇宙船の発着できる港を作る計画だ。現在は地球から移民を募っていて、5000人規模の町が作られている。順調に進めば、このまま人類の7割程を移住させる計画である。地球には、3割弱の人類が残る予定だ。いや、正確に言えば予定だった。
今、箱舟は大きな暗礁に乗り上げている。つい最近、ノアであるウイルスが発見されたのだ。そのウイルスは、地球ではすでに絶滅しており、一応ワクチンは残ってはいるものの、現在のノアではワクチンを生産することはできなかった。さらにたちの悪いことに、そのウイルスは感染力が非常に強く、致死率も高い。唯一救いがあるとするなら、それは発症してから死に至るまでの期間が長いことか。けれどもワクチンがなければそれは大した違いではない。箱舟計画は潰えようとしているのだ。
それを打破する方法はたった一つ。地球で生産したワクチンを宇宙船でノアまで運ぶこと。時間や予算の都合上、用意できたのは3人乗りの小型宇宙船一艇であった。その宇宙船でノアまでワクチンを届けられなければ、ノアの人類は絶滅してしまう。箱舟計画も頓挫し、人類が無くなりかねない。
そんな計画に、私は配属された。いや、正確に言えば私から志願して配属してもらった。とてつもない責任のある仕事だからだ。私が配属された理由は、ただ一つ。私の隊のメンバーは私を含めた3人ともチェスが同等レベルで下手だから。ただそれだけだった。
「ミハイル、いよいよだな」
「ああ、そうだな。私の無理に巻き込んでしまってすまない」
ジェームズが私に話しかけてくる。ジェームズ、ニコライの2人を、隊長の私は巻き込んでしまった。共に手塩にかけて育てた部下であり、私の長い付き合いのある隊員であり、そして大切な親友だ。そんな彼らを、私の身勝手な責任感で任務につき合わせてしまった。最悪、死ぬ可能性も無くはないというのに。
「そんなことないさ。ミハイルが行きたいって言ったんだ。それくらい、付き合って当然さ」
「どうせいつかは行くんだ。それが少し早くなっただけ、気にするな」
ニコライとジェームズが言う。私のせいではないと言ってくれる。それは、私にとって救いになることだった。
「大丈夫だ、失敗なんてしないさ。させられないしな」
ニコライが笑う。もう後1分もすることなく、私たちの乗った宇宙船は出発する。母なる星、地球から離れ、ノアへ向かうのだ。どうやら2人は窓の外を眺めているらしい。おそらくこれからの任務に思いを馳せているのだろう。私もそうすべきなのだろうが、生憎、そうはできそうに無かった。私の心は、地球に残していく私の恋人に囚われていた。
ユーリャ。ああ、愛しのユーリャ。願わくば、地球を発つ前に、もう一度、せめてもう一度でいいから会いたかった。通常我々隊員は、外部との接触が制限される。けれども、出発前の宇宙船に乗り込むその一瞬、その一瞬だけは我々は解放され、家族や友人、そしてもちろん恋人との別れを告げることができるのだ。ニコライは自分の妻と2歳になる娘に。ジェームズは7つ年下の妹に。
私も、ユーリャに告げたかった。必ず、必ず再び戻ってくると。だから、ここで待っていてくれと。そう、告げるつもりだった。けれど、ユーリャは現れなかった。現れると信じて呼ばなかった。それは私たち宇宙に生きるものにとって常識だと思っていてから。いや実際常識で、誰もが見送りにくるものだと思っていたから。だから、今日この日に旅立つことだけ伝えた。それで十分だと思って。でも、それはただの幻想だった。私はユーリャにこの思いを告げることができなかった。
無残だった。告げるはずだったその思いは空を切って、虚無感となって私の胸を支配した。魂を抜かれたような気がして、とるものが手につかなくなった。そして何より、失望した。ユーリャは来てくれると信じていたのに。他でもない恋人の私に会いに来てくれるものだとばかり思い込んでいたのに。それとももう私のことは好きでもなんでもなくなってしまったということなのだろうか。そう考えると、私はスパイラルに陥り何も考えられなくなってしまった。
「ミハイル、しっかりしな。お前らしくも無い」
ジェームズが私を励ましてくれた。そうだ、今考えるべきなのは愛しいユーリャのことじゃない。
「恋人に会えなかったのはショックだろうが、もう発進したぞ。ミハイル、今は操縦に集中すべきだ」
ニコライも言う。そうだな、まさか宇宙で会うはずも無い。今はそんなことより、目下の任務を考えよう。
「ニコライの言うとおりだな。よし、やるか」
そう言って、私は操縦席に座りなおした。火星木星間の小惑星帯を抜けるまで、油断はできないのだから。
「それじゃあまず私が休憩に入るな」
「ああ、おつかれ」
小惑星帯を抜けたところでまずニコライが休憩に入った。8時間ごとに休憩は回ってくる。それまでの間、2人で操縦室にこもるのだ。
「こっちもそろそろワープだな」
2人きりになった操縦室でジェームズが言う。そこからまもなく、宇宙船はワープ空間へと入った。
「あれでもするか」
「そうだな」
その一言でジェームズはチェスボードを取り出し、勝負を始めた。
基本的に、宇宙船が飛んでいる間、私たちのやることは無い。コンピューターが自動的に制御してくれるため、私たちはそこにいるだけでいいのだ。ワープ36時間、ノアまで12時間の間、眠らずに、異常事態に対応できるよう操縦席にいる。
ここで大切なのは、眠らない、ということだ。宇宙空間は単調である。小惑星帯を抜ければ、ほとんど景色は変わらない。ましてやワープ空間に至っては色彩が無い。あまりにも単調な景色を見続けると、眠気を催し、事故を起こしてしまう。ハイウェイヒュプノーシスという現象だ。それを避けるためには、チェスなどに代表された、頭脳を使うゲームがいいとされている。その中でも特に互角程度だと、つまらなくなることはないのだとか。眠りさえしなければいいので、チェスに熱中していてもかまわないらしい。さらに私たちは全員下手にも関わらずチェス好きということで、上達の余地ありとのことらしい。そのことも、私たちがこの任務に任命された一因というわけだ。というか主要因だ。
チェスを5回やって、結果は私の2勝3敗だった。ここで一旦食事休憩を取る。といっても真空容器内に入った味付のゼリーを飲むだけだ。私はボルシチを、ジェームズはハンバーガー味のものを選択している。ちなみにニコライのお気に入りはすき焼きらしい。
とにもかくにも私たちは暇だ。チェスしかやることがない。一戦のながさはそこそこ長いものの、完全に時間をつぶせるわけではない。いくらチェス好きだといっても、次第に飽きてくる。ましてや私たちは下手なのだから。
「暇だな」
「暇に越したことはないがな」
ジェームズがつぶやく。
「チェスを教えてくれる人がいればいいのだが」
「無理だ。この宇宙船は3人乗りなのはジェームズも知ってることだろ」
そうは言いつつも、私の心中も同じだ。
「そういえば、さ。ミハイルの恋人はチェスが得意だったな」
「そう、だったか」
思わずユーリャのことを思い出す。仕方ないことだ。仕方ないことだと割り切ってはいるけれど。そんな簡単に振り払えるはずもなかった。
「すまん、今のは忘れてくれ」
ハッとする。しまった、顔に出ていたか。そんなこと、考えているときではないというのに。操縦席の窓にユーリャのかわいらしい顔が見える。ああ、かなうことならば今すぐにでも会いたい。その小さな体を抱いていたい。
好きだったはずなのに。本気で結婚を考えるくらいユーリャのことが大好きだったはずなのに。愛していたのに。なのに、どうしてユーリャのことを想うと虚しくなってしまうのだろう。
「それより、チェスの続きをやろうぜ」
ジェームズに現実に引き戻される。ユーリャの幻影もフッと消えた。今は、それを考えないようにしよう。
ジェームズとの対戦成績は、3勝9敗と惨敗だった。
「ジェームズ、交代だ」
「了解。ミハイル、お先にな」
ニコライとジェームズが交代する。隣の席にジェームズが座った。
「どうだ、調子は」
「ああ、順調に進んでるよ」
ニコライがチェス版に駒を並べながら言う。そしてニコライとも対戦を始めた。
「なあ、ミハイル」
キャスリングをしたところでニコライが言った。私の手が止まる。
「やっぱり気にしてるだろ、恋人のこと」
「そんなつもりはないが」
「その手、お前らしくもない」
そうなのだろうか。自分では、考えないようにしているというのに、やっぱりそれは無理なのか。
「それ、悪手だぞ」
ニコライがルークを取りながら言う。さっきから負けっぱなしだな。
「気になるのはわかるけどな、早々悲観したものじゃないぞ」
ニコライが言う。家族のいるニコライの台詞が胸にしみた。
「別にこなかったからといって、ミハイルのことが嫌いになったとは限らないだろ。相手のことも考えてあげるのが、パートナーってやつだぞ」
そう言って、ニコライはクイーンを動かした。
「チェックメイトだ。ま、気にするな」
そう言ってニコライが笑う。
「ひょっとしたら船内に身を潜めてるかもしれないしな」
真面目なニコライらしからぬジョークに、思わず心が綻んだ。
ニコライとの対戦成績は、私の5勝8敗だった。
「ミハイル、交代だ」
「了解、ジェームズ、後は頼む」
ジェームズと交代し、仮眠室へ入る。3段になっているベッドの内、一番上が私のだ。そのまま寝転ぶ。頭の後ろで手を組んで天井を眺めるうちに、私はまどろみの中へ落ちていった。
もうユーリャのことを吹っ切れそうだった。
「おい、ミハイル、大変だ!」
そのとき、私は何かふわふわしたような夢を見ていた。天国に来たような、そんな浮遊感から、一気に現実へと引き戻される。目を開けると、ジェームズが私の肩を揺さぶっていた。
「密航者がいた。倉庫だ。ニコライが対応している。ミハイルも来てくれ」
密航者、だと。こんな小さな宇宙船に、密航者が乗り込んだとなれば一大事だぞ。いったいなぜそんなことが起きた。
ジェームズについて操縦室へ向かう。そこでニコライと共にいたのは、私と変わらないくらいの年齢の少女だった。目を引くような美少女だ。そして。
「どうして君がここにいるんだ、ユーリャ!」
そして、私の恋人のユーリャだった。
「それはもちろん、ミーシャ、あなたに会いたかったからよ」
うれしかった。手段はどうであれ、ユーリャが私のことをそんなにも想ってくれていたことが。決して、私を嫌いになんかなって居なかったことが。むしろ私のことをこれ以上なく愛してくれていたことが。でも。
ずっと会いたかった。地球を離れたときから、いや、離れる前から、君に会いたかった。君に会いたくて、そばに居たくて、背中を抱きしめたくて。ユーリャと一緒に居たくて仕方がなかった。とても切なかった。でも。
「馬鹿! どうしてこんなことをしたんだ!」
そんなこと、して欲しくなかった。そんな最悪の禁忌を私のために犯すなんて、絶対にして欲しくなかった。うれしいのに、許されないことをしたユーリャに、怒りの念さえ覚えてしまう。
「悪いことをしたのはわかってるよ。でも、どうしてもミーシャに会いたかったの」
ユーリャが言う。その顔は、本当に私を心配してくれたみたいに見える。でも、何も理解してはいない。私は、ユーリャに密航なんて真似をして欲しくなかった。他でもないユーリャのために。
「あなたが心配だったの。だって、もし宇宙鼠に遭遇したら、死んじゃうかもしれないんでしょ。二度と会えなくなるかもしれないんだよ。そんなのいやだよ!」
ユーリャが叫ぶ。そりゃそうだ。私だってだから一目会いたいと想ってたんだから。
宇宙鼠というのは、ノア近郊に出現する宇宙生命体だ。ノアの開発の障害の一つで、そのせいで何艇もの宇宙船が沈んでいる。意思疎通は不可能で、出現したならば逃げるもしくは、迎撃するしかない。迎撃するにしても、宇宙鼠は知能が高いため、戦闘力のある大型船の場合はともかく、私たちが乗っている小型船の場合は囮が必要になる。戦闘機で囮をしている間に、もう一艇の戦闘機で宇宙鼠を倒すのだ。けれど、囮の戦闘機に命の保障はない。たいていの場合、宇宙鼠を撃破するまでに餌食となってしまう。考えたくはないが、そうなった場合は隊長の私が囮役をやることになるのだろう。考えたくはないが。
だからユーリャの心配は杞憂ではない。現実に起こりえることだ。それは怖い。死ぬのは怖い。誰だって。私だって。ユーリャに会えなくなるのは悲しい。それはもう、とてつもなく。でも、だからこそ、ユーリャには自分の命を粗末に扱って欲しくなんかなかった。
「ユーリャ、君は密航の罰がどれくらいか知っているのか?」
確認のつもりだった。知っているはずだと。一般人のユーリャでもわかると思っていた。でも、その予想は裏切られた。
「罰って、罰金程度じゃないの」
唖然とした。地球上ならともかく、ここは危険の伴う宇宙空間だ。下手をすれば隊員たちの命もなくなる。そんなに温い罰なはずがない。でも、私はそれを伝えられずにいた。伝えるのが辛くて、うつむいて黙り込んでしまった。
ジェームズが、私の様子を見ていった。
「船外投棄だ」
「え?」
ユーリャは、何も知らなかったように聞き返す。実際何も知らなかったのだろう。けれど、無知は罰を免れる要因にはなれない。
「船外投棄って、私死んじゃうじゃない! 嘘だよね。それ、何かの冗談だよね! 嘘だと言ってよミーシャ!」
ユーリャが叫ぶ。私に同意を求めて。けれど私は、何も言わずに、下を向いていた。握り締めた拳が震える。
「真実だ」
斜め45度に吐き捨てるように言う。そんな真似しか私にはできなかった。できることならそんな残酷な台詞を言いたくなくて、でも告げないといけなくて。さんざん揺れ動いた末、私は言った。言わされた。
「そんな……。酷いよ、どうして、どうしてなの! どうして私が死ななきゃならないのよ!」
「悪い、でも、ユーリャ、君を船外投棄しなきゃならないんだ」
ヒステリティックにユーリャが叫ぶ。私だってできればしたくない。でも、しなければならない。それは、私たち隊員と、ノアで待つ5000人と、さらにはこの計画に関わる全員のために。
「誰なのよ! どうしてこんな規則を作ったの!」
ユーリャの目が潤む。私はユーリャに何もできずにいた。沈黙が場を支配する。
静寂を割ったのは、ジェームズだった。
「それは、規則じゃない、法則なんだ。人間には変えられない、絶対の法則なんだ」
「どういうことなのよ!」
「そのままの意味だよ」
私も言う。ユーリャの潤んだ瞳をつめた。
「……燃料が、足りないんだ。君を乗せてノアにたどり着くには、燃料が、足りない。このままじゃ、着陸時の燃料が足りなくなって、墜落する」
開発局の局員なら、それこそみんな一番最初に叩き込まれることだ。守らなければならない、絶対の法則。さもなければ自らの命さえ危ないからだ。昔から、それこそ宇宙開発が始まる空想の時代から、その法則は変わらない。冷たい方程式を満たす解は、密航者を船外投棄するのみなのだ。たとえそれがどんな美少女であっても。あるいは、どんなに大切な恋人であろうとも。
「そんな……、何でこんなことに」
ユーリャがぼやく。そしてついに、その瞳から涙が溢れ出してしまった。
「私は知らなかった。そんな規則なんて知らなかったのに。ねえ、どうして。どうして私は死なないといけないの」
ユーリャは座り込んで泣き出してしまった。両手で顔を抑えて。手の隙間から涙が漏れ出ている。私はユーリャを抱きしめられずに、ただ見つめているだけだった。
「……私は死ぬようなことは何もしてない。死ぬようなことは何も」
「ああ、その通りだよ、ユーリャ。でも、私はこの宇宙船のクルーとして、君を船外に投棄しなければならない」
私の怜悧なナイフがユーリャの胸をえぐる。そのまま殺してしまうかのように。いや、実際私もユーリャを殺さなければならないのだ。
ああ、ユーリャ。君はなんてことをしてしまったんだ。そして私はなんてことをしなければならないんだ。これから、ユーリャを船外に投棄する。ワープ空間内に弾き飛ばされれば、体は瞬時にバラバラになることだろう。それをユーリャにしなければならないなんて。そしてこればっかりは隊長の私がすべきことだ。決してジェームズやニコライにやらせることじゃない。隊長であり、ユーリャを止められなかった私がやらなければならないことだ。
ああ、どうして。どうして私はユーリャを止められなかったのだろう。宇宙船に密航するなと言えなかったのだろう。どうして、最後に会いに来てくれと言わなかったのだろう。そうしていたら、ユーリャは密航しなかったかもしれないのに。私は、なんてことをしてしまったんだ。
後悔ばかりが私の胸に募る。もし、もしユーリャの存在に気づかなかったら。そのまま墜落していたとしたら。こんなに悲しい思いはしなかったはずなのに。残酷な事実をユーリャに告げなくて済んだのに。どうして見つけてしまったんだ。
いや、この話はよそう。どれだけIFを重ねても、今のユーリャは密航者だ。ここでは私の恋人という身分は役に立たない。どんな理由であれ、船外投棄は、なされなければならない。
私は、動けずにいた。ジェームズとニコライも、私を見て固まったままだった。そしてユーリャは、私に体を預けて泣いていた。私は自分の服が汚れているのを、どこか遠くから眺めていた。
方程式を移項したままの状態で、私たちは立ち尽くしていた。
沈黙を破ったのは、ニコライだった。
「ユリア、君の体重はいくらだ?」
「……こんなときだからって、レディの体重を聞かないでください」
消え入りそうな声で、私の胸に顔を押し付けながら言う。
「こんなときだからだ! 頼むから教えてくれ!」
冷静なニコライにしては珍しい叫び声に、私たちは体を震わせた。観念したかのようにユーリャが言う。
「……90ポンド、です」
「そうか」
そういったニコライの表情を、私は読み解くことができなかった。悲観しているようにも、楽観しているようにも見える。
「計算してみたんだ。戦闘機の燃料をすべて宇宙船に回したら、どれくらいの重さまでプラスできるか。そしたら」
「そしたら?」
私は気になって聞き返した。どっちだ。どっちなんだ。
「ぎりぎり、100ポンドまでなら耐えられる!」
「ということは」
「私助かるのね!」
ユーリャが私に抱きつく。私とユーリャはその場で抱き合って飛び上がった。
「ニコライ、ありがとう。ユーリャの命を救ってくれて」
すべての作業を終えた後、ニコライに改めて礼を言う。ニコライの冷静な計算がなければ、ユーリャを殺さなければいけないところだった。それを助けてくれたのは、ニコライのおかげだ。
「ジェームズもすまない。これからひもじい思いをさせることになる」
「いいってことよ。大丈夫、人間1日くらい何も食べなくても死なないさ」
「人の命のほうが大切ですからね」
ジェームズが言う。私たちは戦闘機に積まれている燃料を宇宙船のタンクに運び込み、さらに少しでも重量を減らすため、必要不可欠なものを除いて、すべて船外に廃棄した。食料、水、そして操縦席の椅子など。ベッドなどの作り付けのものは廃棄できなかったが、それでもだいぶ軽くすることができた。これで、ユーリャを助けることができる。その反面、みんなにひもじい思いをさせる羽目になってしまったが、それを2人は快く受け入れてくれたのだ。2人には感謝の念しかない。
「本当にありがとう。ジェームズ、ニコライ」
改めて2人に礼を言った。2人はそれを気にしないように言った。
「いいさ、それよりミハイル、仮眠の途中だったろ。戻っていいぞ」
「ユリアも、ミハイルと一緒のほうがいいよね」
「え、はあ、はい」
「それじゃあ、操縦席には私たちがいるから」
そういうニコライに送り出されて、私とユーリャは休憩を取ることになった。
仮眠室に向かうとき、2人の隊員の、いや、親友たちの優しさが胸にしみた。
流石にユーリャを2人のベットに寝かせるわけにはいかないので、私のベッドで2人で横になる。私は頭の後ろで手を組んで、天井を見上げていた。
「ねえ、ミーシャ」
「なに?」
ユーリャが私に向いて声をかける。手を私の腰に回しながら。私もユーリャを至近距離で見つめる。
「私を抱いてくれない?」
「え?」
ユーリャを抱く気はなかった。今は任務中だし、こんな状況で何も考えずにユーリャを抱いていられるほど私の神経は図太くない。だから、断ろうとした。
けれど、その前に、ユーリャに唇をふさがれた。
そのキスは、いつもよりも甘く、さらにしょっぱかった。
「お願い、私を抱いて欲しいの。ミーシャが今大事な任務中だってことはわかってる。でも、もし、もし宇宙鼠に会ったら、私たちは死んでしまうかもしれない。そうなる前に、ミーシャと、ちゃんと向き合いたいの。ミーシャに愛して欲しいの」
そうか。ユーリャの言うとおりだな。私たちの命は明日をも知れない。今日だってユーリャは死ぬところだった。そんな中を生きるのは、不安で不安でしょうがないのだろう。だから私の愛が欲しい。私に抱かれたい。そうやって不安を紛らわせたいのだ。そんなことを言われたら、断るわけには行かない。
「わかったよ、ユーリャ」
赤く染まった、けれどももう乾いたユーリャの瞳を見つめる。
「ミーシャ」
「ユーリャ」
私はユーリャを抱いた。それはいつもよりも激しく、そして気持ちよく、私たちの不安を晴らしてくれそうだった。
「おはよう、ミーシャ」
「おはよう」
ユーリャの声が聞こえる。ああ、そうだった昨日はユーリャと寝たんだった。白磁のようなユーリャの肢体を見て思い出す。
「それじゃあ、行こうか」
服を身に纏って仮眠室を出る。ニコライと交代の時間だ。
「ニコライ、交代だ」
「了解。どうだ、眠れたか?」
ニコライの何気ない言葉に、少しだけぎくりとした。
「あ、ああ。まあ、な」
意味有りげにニコライが笑う。
「まあ、いいさ。私は仮眠室に引っ込むとするよ」
そう行ってニコライは去って行った。取り繕うように私は言う。
「それよりジェームズ、早速チェスしようぜ」
そう言って私は盤に駒を並べ始めた。
「昨日みたいに圧勝してやるよ」
「そう上手くはいくかな。今日の私は一味違うよ」
そう言って私はジェームズに不敵な笑みを浮かべた。
「ここ、ナイトで取れるよ」
「ありがとう」
「ユリア、勝負に口を挟まないで!」
ユーリャの助言にジェームズが悲鳴を上げる。そりゃそうか、ユーリャはチェス上手いからね。
「あ、ごめんなさい」
「ミハイルがやけに自信あったのはこのせいか」
「違うさ。何ならユーリャの助言なしで勝負したってかまわない」
「じゃあ私は見ているだけにしておくね」
そう言って、ユーリャは完全に見るのみに徹した。
「私に楯突いたことを後悔するがいい」
ジェームズがのりのりで言った。
それから約4時間後。
「馬鹿な、こんなにも私が敗れるとは……」
「だから言ったろ、今日の私は一味違うと」
対戦成績は、私の5勝1敗、圧勝だった。
「ユーリャの助言がなくても、ユーリャがいるだけで私は百人力さ」
「そういうことか……」
ジェームズがガックリと膝をつく。もとから床に座ってたけどね。
「面白そうなことやってるじゃん」
「ニコライ、なぜここに?」
突然のニコライの声にジェームズが反応する。
「仮眠室で寝てるんじゃなかったのか」
「今は休憩時間ってだけで寝てないといけないわけじゃないさ。休憩時間にチェスをやったってかまわないだろ。それに、私は十分寝たしね」
そうニコライはあっさりと言ってのけた。
「それにユリアはチェスが上手いんでしょ。せっかくだから私に教えてよ」
「おい、ずるいぞ抜け駆けは」
ジェームズが言う。何を言う。ユーリャは私の恋人だぞ。
「いいよ、でも、癖がわからないからまず3人で対戦してもらえる?」
そう言って、ユーリャは僕に目配せした。仕方ない、やるか。
3人の対戦成績は、1位が私、2位がニコライで3位がジェームズだった。恋人がいる前では負けられません。それを見ていたユーリャがそれぞれにアドバイスをくれる。
「ミーシャはナイトを疎かにしてる。ナイトの動きがわかってないのを自覚するべき。ニコライは先読みもできてるし、一番伸びしろがありそう。でも、ポーンの昇格があるのを忘れちゃだめ。ジェームズは、適当すぎよ」
「私だけ扱い酷くない」
「気のせいよ」
にべもなくユーリャが言う。でも言ってることは正しい。私がナイトの扱いが苦手なのは事実だし、ジェームズが直感でやってるのも知っている。
「それよりニコライ、お前は寝とけよ」
「いやいや、ジェームズもう交代の時間だよ。君こそ寝るべきじゃないかな」
ニコライとジェームズがどちらが寝るかで口論を始める。2人とも下手だけどチェス好きだからなあ。どっちも寝そうにない。
「私は眠くないからいいんだよ」
「自分が寝ないのに人に眠れはおかしいでしょう。私は寝ません」
堂々巡りである。これは長くかかるな。
「ハンデ戦でもいい?」
「ミーシャの頼みなら」
そして私は2人を尻目にユーリャとチェスを始めるのだった。
そして気づいた2人に自分たちも参加させろと言われるのであった。
「いくらなんでも3対1なら勝てるだろう」
「ふふっ、私を甘く見てると痛い目を見るわよ」
ジェームズの台詞にユーリャが挑発で返す。
「上等! こっちもハンデはいらない。全力で勝負だ!」
そうしてなし崩し的に変則的なチェスが始まるのであった。いや、ユーリャは私の恋人だから、そこんとこ忘れないでね。
約1時間後。
勝負はまだ続いていた。下手な私たちからすれば、こんなに続いたのは初めてだ。素人に形勢とかはわからないけれど、駒の数なら圧倒的に私たちのほうが多い。ただ、ユーリャにさっきから攻められて、キングが隅にいるのだが。
「チェックよ」
ユーリャがクイーンでチェックをかける。でもそこはポーンの斜め前だ。ノータイムでジェームズがクイーンを奪う。
「クイーンいただき」
こっちのクイーンはまだ健在だ。これで形勢が有利になったかな?
「とったわね」
そう言って、ユーリャは笑ってルークを動かした。まるで、規定路線だったかのように。
息を呑む。そしてユーリャは言い放った。
「チェックメイト」
ニコライが黙る。こっちのほうが駒は多く残っていたのに。
「くそ!」
ニコライが叫んだ。ユーリャが諭すように言う。
「チェスでは、クイーンは大きな役割を持つ。それこそ、とってしまえば大きく形勢が傾くくらいに。だからクイーンを大事にしようとするし、たいていはポーンもクイーンに昇格させる」
ユーリャはそこで一旦息を吐いた。歌うように言う。
「でも、チェスの最終目的は、キングを取ること。チェックメイトをかけること。そのためなら、クイーンだって捨て駒になる。キングを取らなければ勝てないのなら、クイーンを捨ててでもキングを取りにいかなきゃならない。クイーンはあくまでも、便利なただの捨て駒なの。キングとクイーンじゃ、クイーンのほうが動ける範囲は広いけど、キングのほうに絶対に価値がある。それを忘れちゃいけないよ」
その言葉に、私たちは聞き惚れていた。自分たちが優勢だと思っているのは虚像だったのだから、なおさらだ。
「さて、私との対戦はこれでおしまい。ジェームズも寝たら」
ユーリャにそう言われて、ジェームズは仮眠室へと引っ込んでいった。
「私はやっぱり見てるだけにするね。チェスはやっぱり同じ実力の相手とやらないと」
そういって、ユーリャは壁にもたれかかった。
ワープ空間を出て、ジェームズも休憩から戻ってきた。ちなみにニコライとの対戦成績は5勝4敗と僅差で勝った。ユーリャいわく、確実に上達しているのだそうだ。そしてもうすぐ、あと8時間もしないうちにノアにたどり着く。任務は終わるのだ。もちろんユーリャの件で問題はあるだろうけれど、船外投棄しなければならないのは宇宙空間内の法則であって、地表の規則ではない。罰金くらいはあるだろうが、たいしたことにはならないはずだ。もうすぐ、本当に、任務が終わるのだ。
思い返してみれば、波乱万丈な任務だった。出発時にユーリャがいないと平静を忘れ、ニコライとジェームズに迷惑をかけた。そもそもが立候補したとはいえその中からチェスが下手な人がそろっているというだけで選ばれたわけだから、その時点で波乱万丈だったとも言える。でも、ユーリャに鍛えてもらったおかげで、もうその候補からは外れるのだろう。
そして旅の途中で密航者のユーリャを見つけた。その時点ではユーリャが助かるとは思ってもみなくて、すごく葛藤して、すごく哀しい思いをして、ユーリャを船外投棄しなければいけないところだった。あの時は本当に哀しかった。せっかく愛しのユーリャに会えたのに、地球で会えなくて動揺するほど愛していたユーリャを殺さなければならないということで、とてつもなく思い悩んだ。そしてすごく後悔した。でも、それは、冷静なニコライのおかげでどうにかなった。ジェームズにも助けられた。
そのあとは、ユーリャも交えてチェスをした。ユーリャは強かったし、何よりも指導が適切だった。そのおかげで私もニコライもだいぶ成長した。そして何より、ユーリャといる時間が、チェスの話をしたり、対戦したりしている時間がとても楽しかった。
私はユーリャのことが好きだ。それは地球を離れる前からわかっていた。でも、宇宙空間で、極限状態でユーリャと出会って、それは決して偽りの愛じゃないことを知った。愛し合って、私にはユーリャが必要なんだとよくわかった。ユーリャがいないと寂しくて虚しくてとるものも手につかない自分がいたこともわかった。きっと、私はユーリャに依存しているのだろう。でも、私はユーリャをこれ以上なく大切に思っているし、それはきっとユーリャも同じことだと思う。不安で不安で仕方がないと言っていた。そんなユーリャの力になりたい。その思いは偽りじゃない。ユーリャにはこの思いを打ち明けてはいないし、今は任務中だけれど、この任務が終わって、地球に帰ったら、互いに寄り添っていこうと伝えたい。結婚しようと、弱いもの同士助け合って行こうと伝える。そう決めた。
ユーリャは密航者ではあったけれど、私にとってのユーリャの大切さに気づかせてくれた。言い方は変だが、ユーリャが密航してくれたおかげだ。そのおかげで、私は、とても、とても幸せだと気づいた。
任務はもうすぐ終わる。そうしたら、ニコライとジェームズに礼を言って。そして、ユーリャにプロポーズするんだ。そう決めた。
「ミハイル、宇宙鼠だ! やつが出やがった!」
ジェームズが叫ぶ。くそ、なんて時に! あと4時間で到着だっていうのに。
「場所は?」
「5時の方角だ! このままじゃつかまる!」
ニコライも計器を見て叫ぶ。どうして今に限ってやつが出るんだ。
「逃げられるか?」
「無理だ! 燃料が足りなくて墜落する!」
ニコライが叫ぶ。何てことだ、こんなときに燃料が足りなくなるなんて。ユーリャを乗せたせいか。
「おい、どうするんだよ!」
ジェームズが叫ぶ。どうするか、手段は一つしかない。でも。
「迎え撃つしかない、か」
「迎え撃つって、本気かよミハイル!」
「それしか方法がないんだ!」
私も叫ぶ。宇宙鼠の被害を免れる方法は二つ。一つは全力で逃げること。そしてもう一つは、迎え撃つこと。でも、それは大いなる犠牲を伴う。
「ニコライ、捕まるまであとどれくらいある?」
「30分弱だ!」
「そうか」
30分。長いようにも見えて、実際あまりにも短すぎる時間だ。そこで私は、辛すぎる決断をしなくてはならない。
「それじゃあ作戦を立てる、ユーリャも聞いてくれ」
「わかった」
それまで隅でじっとしていたユーリャが言う。そして私は、話し始めた。
「危惧していた宇宙鼠が出現した。ただ、逃げようにも燃料が足りない」
ユーリャがハッとする。
「それって、まさか、私のせい? いやよ、そんなの」
「落ち着いてくれ。宇宙鼠も、場合によっては燃料があっても逃げられないことだってある。ユーリャのせいじゃない」
「そう、なのね。それは、よかったのかしら」
嘘だ。確かに、逃げられないこともあるけれど、それはワープ直後に遭遇したり、前方に出現したりする場合だ。5時の位置に30分の距離で出たのなら逃げ切れる。でも、真実を告げてユーリャを傷つける気にはなれなかった。ユーリャにそんな何重もの責め苦を味あわせる必要なんてない。知らないままで、いい。
「だから、宇宙鼠を迎撃する。ただ、そのためには……」
今から告げるのは、残酷な宇宙の常識。冷たい方程式の解。でも、それを、私は言わなければならない。
「囮が必要だ」
ユーリャが、ジェームズとニコライまでが息を呑む。いくら迎撃時に囮が必要とはいえ、それを私たちが知っているのは机上での話しだ。そんなものが必要になったことなんてない。いくら宇宙開発局の職員だからと言って、そんなに簡単に割り切れるわけでもないのだ。
「そしてこの作戦で一番重要なことだ。囮は絶対に帰ってこられない」
辛いことだ。悲しいことだ。囮になる人は、絶対に生きて帰ってくることはかなわない。通常は撃墜する時間が囮の生存に左右する。でも、今回ばかりは、燃料が足りない。囮を帰す余裕はない。ゆえに、囮となる人物は、必ず、死ななければならない。
いつだって、冷たい方程式の解は死だ。まごうことなき死だ。それが満たされなければ、それより多くの命が失われる。本人の命も含めて。だから方程式の解は求まる。求めることができる。でも、だからと言って、それが本人の心を傷つけないとは限らない。
いつだって方程式を作るのは人間だ。だからと言ってそれを求めるのが人間だとは限らない。もしもそれを神様が求めるというのなら、私は神様を恨む。こんな理不尽な方程式を解かせる神様を。
「囮役をやるのは、囮役をやるのは……」
声が震える。言えない。言わなければならないのに。必要条件は満たされないのに。震える声帯を抑えて、涙をぬぐって声を出す。
「……密航者だ」
ユーリャが私を見る。ユーリャではなく密航者といったのは、私の意地だ。密航者として、私の恋人のユーリャとしてではなく、密航者として、君を燃料のない戦闘機に乗せる。
できることなら、ユーリャを殺したくない。ユーリャを死ぬような目に合わせたくなんかない。でも、私は隊長だ。宇宙開発局の、ノア計画の核心を握る計画の、輸送を担当する、全責任を託された人間だ。私の背中に、人類の未来はかかっている。その私が、私情を挟んで計画を頓挫させるなど、あってはならないことだ。あってはならないことなんだ。
もしも変わりに囮になれる立場なら、私はユーリャを守るために志願したい。でも、私はそんなことをしてはならない。だから、感情を捨て去って、私はユーリャを戦闘機に乗せさせなければならない。殺さなくてはならない。
本当はそんなことしたくないのに。かなうことなら、ユーリャと2人で何の柵にも囚われることなく、のんびりとすごしていたい。でも、その願いをかなえることはできない。
哀しい。とてつもなく哀しい。言葉にできないくらい哀しい。ただただ、哀しい。どうして、どうしてこんなことをするのか。どうして死ななければならないのか。
ユーリャが泣いているのが見える。ああ、愛しのユーリャ。私の恋人の、かわいいかわいいユーリャ。私もできることなら泣きたい。恥も外聞もはばかりなく、大声を立てて泣き叫びたい。でも、私は、感情を殺して、そしてユーリャを殺さなければならない。
声を殺し、感情を殺し、表情を殺して言う。
「ニコライ、発進の仕方だけ教えろ。撃墜は私がやる」
「ミハイル、それって!」
「ジェームズ黙れ!!!」
私の叫び声が操縦室に響き渡る。泣いていたユーリャが驚いて泣き止むくらい。自分自身も驚くくらいの大声で。
「そんなことをしたらミハイルが!」
「黙れといった!!!」
ニコライがミハイルの口を押さえる。私だって辛いんだ。
「知らせる必要のないことを、言う必要ない」
限界だった。これ以上、私は耐えられなかった。逃げ込んだ仮眠室で、私はシーツに顔を押し付けて泣いた。くぐもった嗚咽がその場に響いていた。
「ミーシャ」
もう、私に話しかけないでくれ。
「ミーシャ、ミーシャ」
頼むから何も聞かないでくれ。時間になったらやるべきことをちゃんとやるから。
「ミーシャ、ねえってば」
「……ユーリャ?」
そこには間近にユーリャの顔があった。
「私ね、私ね、囮役、やることにしたよ」
ユーリャが遠い目をして言う。
「ユーリャ、すまない、すまない」
「ミーシャ、いいの」
私の台詞をさえぎってユーリャが言う。私の口をふさいで、手で黙っていてと指示した。
「いいの、ミーシャはそれでいいの。責められるべきは私なんだからさ。だから、ミーシャは、そのままでいて。いつもの強いミーシャのままでいて」
ユーリャがへたり込んだ私を抱きしめる。私の制服に、水が4筋、流れ落ちた。愛しいユーリャの声が耳元で囁いた。
「私は、ミーシャが泣いてる姿は見たくないの。私に、いつもの姿を見せてよ」
無茶なことを言うな、と思う。でも、そういうところもユーリャらしい。そうだ、私は、そういうところも全部含めて、ユーリャを好きになったんだ。だったら、笑って、笑顔で、なんでもないように送り出してあげなければ。ユーリャのためにも。そして私のためにも。
「そうだな、わかったよ。ちゃんと見送りに行く。これでいいか」
顔をそむけながら言う。
「もう、ミーシャったらかわいいんだから」
涙を気にすることなくユーリャは言った。
「そろそろ行かない?」
「ああ、そうだな」
時間はまだある。でも、早めに行くことにした。ユーリャが私の右腕をとる。私も腕を絡め返した。
「私ね、ミーシャに会いたい、ミーシャと一緒に居たいって一心で、宇宙船に密航したんだ」
ユーリャが歌うように言う。そこはもう、戦闘機の発着用ドッグだ。
「それでね、1日だけだったけど、すごい短い間だけだったけど、ミーシャといられて、とっても楽しかった。とっても幸せだった」
ユーリャが言う。その声に私は聞き惚れていた。甘い酔いの回ったようだった。
「死んじゃうのはとても残念だけど、ユーリャといられてとっても幸せだったからね。それだけは、疑わないで」
そう言ってユーリャは戦闘機に乗り込もうとした。
「なあ」
私は知らないうちに口走っていた。
「本当に、本当にそれでいいのか?」
ユーリャに聞く。ユーリャはクシャっと笑って言った。
「……怖いよ、死ぬのは怖い。そりゃそうだよ、当たり前じゃん。死にたくない、死にたくないよ」
そのまま私に抱きついてくる。涙を流しているのがわかった。
「でも、ミーシャが死ぬのはもっといや。これって、私が密航したせいなんでしょ。私のせいでミーシャが死ぬことに比べれば、ずっともっと、耐えられるから。チェスだってキングを取るためなら、強いクイーンでも捨て駒になる。だからね」
そう言った顔は、涙を流してはいたけれど、世界一かわいく見えた。
「だからね、ミーシャは生きて。生きて、また、好きな人を見つけて。そうして、その人と幸せになって。ね?」
「ああ」
ユーリャの顔が目の前に迫る。そして、私は、私たちは、どちらからというわけでもなく、唇を重ねた。
何秒か、何分か、あるいは何時間か。無限とまでも思えるくらい長いキス。ユーリャと舌を絡めて、しっかりと、私たちの愛を伝え合う。その瞳から、私たちの生きた証が決して消えないように。
それは、間違いなく、人生で最も甘美で妖艶なキスだった。
「それじゃあ、ミーシャ。約束、だからね」
「わかった」
それを聞くと、ユーリャは戦闘機に乗り込んでいった。私は隔壁が閉まるのを、ただボーとしたまま見つめていた。
「いいのか、ミハイル」
ユーリャが飛び立ったあとでジェームズが言う。
「ああ、いいんだ」
私はそう言い、もう一台の戦闘機の操縦席に座った。
「そうか、達者でな」
ジェームズが今生の別れを告げる。
そう、私は今から宇宙鼠を撃墜するべく飛び立つ。けれど、その戦闘機にも、帰還用の燃料は残されていない。私は死ぬのだ。死ななければならないのだ。
本当のことを言えば、ユーリャが飛び立った瞬間、私は少しほっとした。最期まで、隠し通すことができたと。私もまた、死ななければならないことをユーリャに知られずに済んだことを。
最初から、2人の犠牲が必要だったのだ。私も、ジェームズも、ニコライも、隊員たちは全員知っていた。知らなかったのはユーリャだけだ。私はユーリャに知らせなかった。ジェームズが口走りそうになったとき、それを止めようとした。実際ニコライは止めてくれた。
私は、私が死ななければならないことを教える気はなかった。教えてしまえば、きっとユーリャは泣き叫んだだろうから。自分のせいで私が死ぬことになれば、ユーリャは耐えられなかっただろうから。ユーリャにそんな哀しい、胸の潰れるような思いをさせたくなくて、私は黙っていることにした。いや、違うな。私はそんなユーリャを見たくなかっただけなのだ。
「ミハイル、本当なら私にこんなことを聞く権利はないが、教えてくれ」
ニコライが言う。
「ニコライ、やめろ」
「いや、いいんだ」
ジェームズをさえぎって私は言う。
「戻ってこないか? 本当に死ぬのはやめにしないか? ユリアと約束したんだろ」
「ああ、したな」
「だったら!」
ニコライのらしからぬ台詞を聞くのもこれで二度目だな。そう思いながら言う。
「別に、私は隊長の責任とか、人類のためにとか考えているわけではないんだよ。ただ……」
そうだ。私はそんなこと、これっぽっちも考えちゃいない。こういう場合、私が死ぬのが妥当だけれど、そう言った理由で立候補したんじゃない。
「……ただ、ユーリャがいないこの世界で生きていても仕方がない。そう思ったからだけだよ」
そうだ。ユーリャは法則ではなく規則で死ななければならなかった。残りの一人、誰が死ぬかを考えたわけではなく、ただ私が死にたかった。だから、立候補したんだ。そう、これは、ある意味の自殺なんだ。
「どうしてですか! 約束したじゃないですか! ユーリャさんに生きるって!」
ニコライが叫ぶ。私はそれを淡々とした感情で聞いていた。
「ああ、そうだな。でも、私は、私にはユーリャしかいないんだよ。ユーリャ以外と幸せになる未来なんてみえないんだよ」
自分の感情が驚くほど振れていないことに今更ながら驚く。
「ユーリャに許してくれとは言わないさ。許してもらえるとも思えないしな。でも、私は、ユーリャのことが好きだったんだ。大好きだったんだ!」
ニコライも、ジェームズも、一言も発することはない。
「約束を破ってすまないと思うよ。でも、私はユーリャといられて、とても幸せだった。他の人じゃ変えられないくらい、幸せだった」
そうだ。私はとても幸せだったんだ。地球で2人で過ごした日々。そして、宇宙空間で、チェスをしたり、抱き合ったり、キスをしたり。そんなことをしたユーリャといられてとても幸せだった。ユーリャといた時間の一瞬一瞬が幸せだった。ユーリャと触れ合った指先や、チェスのポーン、髪の香りまで、愛おしい。
「ユーリャのいないこの世界に未練なんかない。それで死に様が役立つなら儲けものさ」
「そうか。わかったよ」
ニコライが言う。ああ、そろそろお別れの時間だな。
「それじゃあな、達者でな。ジェームズ、ニコライ、後は任せたぞ」
そう言って、私はニコライとジェームズの返事を聞くことなく操縦席の扉を閉めた。私の死出の旅は、もうそこまで迫っている。私が飛べば、冷たい二次方程式は満たされる。
ありがとう、ジェームズ、ニコライ。
ごめんな、ユーリャ。




