相談に乗りますよ③
(ああ、それでは母子ともに健康という事なのですね)
時間にしたなら幾分か早すぎる気がしないでもないのだが、もしかしたのなら地下通路に避難を始める時点で、陣痛が始まって いたのならそれなりの時間は過ぎている。
それに上臈の能力の具合はよくわからないけれども、産まれる時期が迫っているから、動けるうちに移動をさせたのだろうと、ラベル夫人は捉えていた。
何にしても、"無事に産まれた"という言葉に、同じ経験をしていて母でもある貴婦人は安堵する。
正直に言って、今の国の宰相の血縁として産まれた子どもの将来が、少しばかり不安がないかと言えば嘘になる。
学者一族に嫁いだ事もあって、一般的に比べたなら結構な読書量を誇っているラベル夫人は、異国の戦記物の暦もそれなりに嗜んでいた。
その殆どに共通するのは、戦があって打倒した相手に"息子"がいた場合、その時は年齢に関係なく容赦せずにその命を絶っている。
地上の戦況も判らないが、万が一にも国軍の国王が、"鬼神"とも例えられる末子のレジスタンスに打倒されていた場合の、産まれたばかりの宰相殿の縁者が気になった。
(男児でなければ、何とか見逃して貰えるでしょうか?)
"万が一"という表現を使っていながらも、心の中では既に産まれたばかりの赤ん坊の命の危ぶんでいた。
何にしても、国がレジスタンスに負けたとしたのなら鬼神と例えられているレジスタンスの頭、グロリオーサ・サンフラワーの裁量で、その命の運命は決まるのだろう。
ただ、これまでの話しに聞いたところによれば、頭となるグロリオーサ何にしても、大きな決断を下す際に、”独断"はしないと聞いている。
仲間と話し合い、そして結論をだして行動を起こす。
その一番の相談相手が、義妹が魔術師の教官として、"興味深い教え子"が、何かと口にしていたレジスタンスの悪魔の参謀と例えれる、アングレカム・パドリックという人物になる。
表だって名前を出される事は憚られるけれども、王都の殆どの民が鬼神のグロリオーサ・サンフラワーに併せて、その名前を悪魔の参謀の名前を知っていた。
ただし、その知られる原因の大きな幅を占めているのが学術として軍略を修めている、ラベル家の縁戚が、"国軍相手に見事"評した采配と……その"容姿"である。
褐色の肌に年齢的に不惑を超えている筈なのだが、青年期から翳りの見えない端麗な顔立ちに機敏な動きを見せる、レジスタンスの頭とは違った頭となる存在。
レジスタンス、決起軍の見事な戦略の話題は、王都の生活では表には出せない人気の"裏話"として活躍当初から評価をされていた。
そして、それが王都に近づく活動を見せる度にその戦術と戦略を練っている人物の姿が知られる事になる。
加て主だった決起軍の構成もの情報も浸透していき、男性は鬼神と例えられる力を誇るグロリオーサ・サンフラワーを支持しており、女性は戦略や強さは置いておいて、容姿端麗のアングレカム・パドリックというになっていた。
更に付け加えるのなら、グロリオーサもアングレカム程とは及ばないが武骨なりに容姿は整っていたけれども、女性の人気が上がらなかったのは、決起軍の初期からの仲間であるトレニア・ブバルディアと"良い仲"であるという噂があった為である。
その噂の発端には主がいて、何でも国中を旅しているラベル家と似たような田舎の学者あがりの貴族で、背は高く白髪に紅黒いコートを身に着け、コートの下に執事服を身につけた少年をお供に連れていた。
その白髪と執事の2人組は、国が落ち着いていないという位は研究の旅をしている上で察してはたらしい。
しかしながら、国の中に、レジスタンスという組織があるとは知ってはいてもどういう理念をもっているか誰が活動をしているか等は、全く知らない様子だった伝えられている。
またそんな噂話を運んできたこの2人の名前も、知られてはいない。
その理由は、その2人が出現した場所は、王都の時計台の側の昼に喫茶で、夜には酒場になる店だった。
しかも夜の状態も随分深まって、すっかり出来上がった人客人が多くいる状態での登場だったそうで、紅黒いコートを纏った白髪の御仁は未成年の様にしか見えない供を連れていた事で、入店で軽く揉める事になる。
傾いていた国ではあったが、王都の城下町は風紀が乱れるという事はなく寧ろ厳しい様子で煩くもなっていたので、"子ども"が入店する事で回っている兵士に見とがめられて、騒がしくなることを"客"に軽く喧嘩腰で注意をされる。
だが"少年"に見えた人物は、実は成人済みで主であるという白髪の紅黒いコートを纏った人物が確りとした証明をした後に、巧みな話術でいつの間にか相席になっていたとの事だった。
晩酌と夕食を兼ねて食事を取るという形で、供の青年は客でありながらも主の世話を焼きつつ、"研究の為に国中を旅をしている"という話は、王都に住まう他の客人は珍しく、聞き入っていた。
白髪の人物の話しが巧みな事もあるのだが、どうやら"決起軍"とは知らずに、グロリオーサ・サンフラワー、アングレカム・パドリック、それに余り名前は上がらないバロータに件の決起軍の主要メンバーと関わりをもってしまっていたらしかった。
またレジスタンスの方もわざわざ自分達から、"打倒国王"とは口にする筈もなく、そこそこ話しがあったのか、結構話し込んだという。
『どうも、何やら目的があって仲間や同士がいるらしいんだが、基本的には4人行動取っているらしいな?』
『はい、左様でございます、旦那様。
皆様、確かにそうおっしゃっていらっしゃいました。
ちなみに旦那様は、元は聖職だったというまるで武闘家みたいな神父殿と意気投合して、お酒ばかりを飲んでいました』
そんな調子で話す噂の発信源となった、白髪の人物と、酒場に入るのにも困るぐらい若く見られがちの執事の青年と会話は進む。
相席になっていた酒場の常連客達は、話しの流れがとても丁寧且つ流暢な事で、2人の名前は聞き忘れたが、その話の内容はよく覚えていた。
特に、執事の青年の方は日頃から補佐的でありながらも、主である白髪の御仁が、事あるごとに"ごめん、すまん、わるかった"と反省の弁を口にするので、"御守り"の役割が多いのを感じさせる発言も多い。
紅黒いコートを纏った白髪の人物が常連客の興味を引く道化の発言を行った後に、執事の青年が補填をする様に説明の言葉を世話を焼きながら口にする。
その寸劇のようなやり取りを聞くうちに、"旅人2人"は、決起軍という、王都の城下町では表立っては話せないけれども、裏では大人気とされるレジスタンスと関わっていると王都の民は気が付いて行く。
常連客達は、酒が入っていながらもレジスタンスの事についてこの2人に報せたなら、話すのを止めてしまうかもしれないと、妙に冷静に察し、聞き役に徹して口には出さないでいた。
周囲の方も何気ない酒を呑み会話を口にしながらも、耳の神経は白髪の御仁と執事の青年の語る話にを邪魔にならない程度にするのを暗黙の了解として聞いていた。
酒場で酒で酔う事を楽しむのを娯楽としておきながらも、完璧に酔う事が出来ない程度、世相は取りしまられている。
既に、酒に呑まれて"失態"を晒した民だった者は城下からは、"相応しくない"と宰相の執政によって、"一掃"済みでもあった。
―――きっと、旅人の2人はそんな事を知りはしないだろうとして、見回りの兵士が聞いたとしたなら、直ぐにでも掴まりそうな話の話しを聞いていた。
『私は読書家という、殿方なのにそれは端正な顔立ちの方に、田舎では手に入りにくい書籍を紹介してもらいました。
それに4人の行動の中で、紅一点といいますが凄まじく鞭の使い方が達者な御婦人がいらっしゃいまして。
その方は、あと1人残った……正直に言って私とは相性が悪いので、挨拶ぐらいしか出来なかったお方とどうやら、恋仲だったようです。
求婚はされているそうですが、ある事が片付かないと受けるに受けられないと』
『そのある事については、どうしても教えて貰えんかったんだ。
教えてもらったなら、2人の恋仲を協力しても良かったんだがなあ。
旅のすがらに出逢っただけの事だけれども、是非とも2人には、夫婦になって欲しい』
旦那様と呼ばれる、紅黒いコートを纏った白髪の御仁が酒の回った影響か、これまで滑らかに話していたのに、まるで劇場に上がりたての、大根役者の様に、淡々とそんな事を口にする。
『だ、旦那さま、何もある事を教えて貰うまでもなく、御ニ人はご結婚こそ目的を遂げるまで無理そうでしたけれども、互いに伴侶として認め合っていたではないですか。
それに何にしても、御家族としては、もうお子様を授かっていましたから成立していますよ』
自分の主の余りにもわざとらしいというか、棒読み過ぎる独白に様子に、酒場で相席になった人だけでなく、聞き耳をしていた周囲までも呆気に取られていたのを誤魔化す様に、執事の青年が被せる様にそんな言葉を口にした。
すると呆気にとられる事から、執事の青年の発言に、今度は驚愕といった状態で常連客の一同は声を上げそうになる。
しかしながら、 宰相の"一掃"を掻い潜っただけあって、唇の裏側ぐらいまで声は出そうになっていたけれども、何とか堪えていた。
それから騒ぎにならない様に、だが好奇心は抑えきれずに、酒場の常連客達は、王都に訪れた2人の旅人に根ほり葉ほり話しを聞き出していた。
その翌日から王都に訪れた2人の旅人によって齎された"噂話"は、瞬く間に広がり一部いた鬼神の支持者は、声にならない溜息を多く吐き出す事になっていた。
ただ、そのグロリオーサの相手となるトレニアの方にも同数位の、しかも同性ととなる女性の支持者がいたのと、こちらの方が支持者としての勢いは強かった分、落胆の声にならない悲鳴の量は大きかったかもしれない。
そして決起軍の勢いが王都にまで及ぶようになった時期には、グロリオーサとトレニアとの間に男児がいるという事は、ほぼ周知の事となっていた。
( もしもこちらが負けた場合、決起軍の頭として、下手な情けはかけはしないだろうけれども、でも"一児"の父親として、情けをかけてはくれないでしょうか)
国が傾ききるか、若しくは以前の様に平らに均されるのかは判らないけれども、暗愚の勝利とならなければ、宰相の、この世界に誕生したばかりの血縁の命は危ぶまれた。
(きっと、1人の子ども父と、新たに王となる身として迷う事になったなら、きっとレジスタンスの一番最初から共に戦って来た悪魔の参謀と謳われた人に相談をなされるだろう)
義妹によれば、アングレカム・パドリックは"温い"戦術とはしているが、時間も関係する戦略を必要とする場面では、血が流れる行動に躊躇いは見られなかったと、夫は教えてくれた。
(やはり、何より宰相殿のお嬢様が、男女のどちらのお子さんを産んだかでその対応も変わるのでしょうけれども……)
そこでラベル夫人はふと視線を感じたなら、上臈に見つめられている事に気が付く。
そして自分が、殆ど"クロッサンドラ・サンフラワーが敗北した場合について"という考えが無意識に頭を占めている事に気が付き、胸の内に恐縮の気持ちが上塗りする様に広がる。
気高い貴婦人に心が見透かされているのは、判ってい たから、ラベル夫人は直ぐに謝罪の言葉を口にしようとしていた。
けれども、薄絹の手袋の嵌めた掌を夫人に向けて、謝罪の言葉を止める声を飛ばしてくる。
《……いいのよ。"シャルロック・トリフォリウムの娘がこの世界に、無事に産まれた"という事は"そういう事"なのですから》
(……え?、ああ、"娘"が産まれるというのは、そういう意味だったのですか)
そして声で伝えられた内容で、今まで自分が誤解をしていた事に気が付いた。
"お子様を授かる程の御息女"が宰相シャルロック・トリフォリウム殿にいたという事?"
"そして、それをひた隠しにしていたという事?、でも、そんなこと可能なのかしら?"
"それに成人する程の御息女がいらっしゃるとして、臨月になる様なお付き合いがある殿方がいたなら、そういった事を含めて全く噂や話にならないものなの?"
自分の抱いていた疑問がまるで石鹸玉の様に次々と、弾けて消えていく。
《―――私も、シャルロックもクロッサンドラ様の為に、役に立ちたくて、家族を作る暇なんて、ありませんでしたわ》
すると今度は、家族を作る時間がないとしておきながら、家族を作った意味と理由という疑問がラベル夫人の胸に浮かぶことになる。
《それはね、"作っておく必要があった"からです。
"四つ葉"の血を引いた子どもなら、何が何でも、それこそ"命に代えてでも"向日葵"の味方をするでしょうから》
疑問には思っていたけれども、直ぐに答えが帰って来るとは考えずにいたラベル夫人は、激しく瞬きを繰り返した。
《でも、"|グロリオーサ・サンフラワー《次の世代》"には必要がないから、随分とゆっくりになってしまいました。
何せ、陛下に可愛らしいお孫さんが産まれた頃になって、やっとシャルロックは子ども―――しかも、娘ですものね。
ー世代時間が開いてしまいましたわ。
でも、執念深いシャルロックの血です。
"後の事"は解りませんが、きっとどんなに手間取っても、陛下と最もよく似た血を継いだ"花"の元へと、必要とされる時に、姿を現すでしょう》
声でそう一気に告げられたと同時に、貴婦人は悠然とし優しく微笑みを浮かべた後、ふっと表情を引き締めて地下の通路避難している夫人達に呼び かける。
『皆様方どうやら、決着がついた様です。
大変残念なことながら、国王陛下は、宰相シャルロック・トリフォリウム殿とご一緒に"旅立たれた"との事です。
私は、これからこちらの近衛兵の方を伴って、敗軍の側の立場として投降し、捕虜として交渉に当たります』
そこで一度息をついて、間を取って再び続ける。
『私についてくる方は、いらっしゃるのならここで御起立くださいな。
但し、子どもは置いて行くこと。
その間の面倒は、私の唯一の弟子である、シズクが承ります。
こんな時に弟子の自慢となるようですが、保育は当たり前ですがこの娘の歌の才能は、私よりもありますから、ご安心して預けてくださいな』
それまで上臈の側で控えていた、少女が恭しくお辞宜をしながら、一歩前に出る。
『身命を賭して、奥様方が御帰りなさるまで、お子様達のお相手をさせていただきます』
まだ少女ながらに、よく通る声は信頼を与えてくれる力があった。
それでも、上臈と行動を共にするという事は、その先に命の保証はない。
上臈の誘いは、全く強要を滲ませず、まるで夫人同士で、昼の茶会に誘うような声色だった。
その際には、いつも子ども達を乳母に預けて、夫人同士の情報交換の為に出かけていた。
乳母の役割は、滅多に自慢話などをせぬ上臈が、敢えて行った弟子の少女が引き受けてくれるという。
薄暗い地下通路ながらも、普段通りの、いつもの通りの事を提案されている様な安心感が漂っていた。
誰からという事はなく、夫人達は立ち上がる。
少なくとも、国王の側室、若しくは重用されたその近習の伴侶の夫人として、暗愚の王とは言われていたけれども、その政の恩恵を受けていた。
国王が国を傾けたことで、レジスタンスの決起軍が狼煙を上ったという事は、セリサンセウムという、広すぎる国に住む民からの不満が積もり積もった故での現状かもしれない。
でも、どんな結果になろうとも、国王の行く末を見届ける為に残ると決めた上臈ついて行こうと決めたのは、夫人達自身だった。
ラベル夫人も夫や義妹が国軍とし て参戦し、互いに人質の様な立場となっている事でもあるのだが、軍学校の教官や研究所の学者として重用をされていたのも事実でもあった。
重用されているだけあって、男女の双子揃って命を第一に選んだのなら、上臈と行動を共にする事が出来るのならそうするといいを進められて、それを受け入れる。
他のラベル家の人々は、その他多くの貴族と同じ様に国教である大地の女神信仰の本拠地となる、王都の最も東側にある聖堂の巨大な地下室へと避難していた。
本来なら後継ぎとなる子どもは、祖父母、夫人にとっては義両親が健在で、そちらの方が良いとも他の縁戚から勧められていた。
けれどもある程度、子どもも成長しており自分の意志で決めさせたなら、出来る事なら両親の側が良いという事で、流石に父親のシトラスの方は無理だけれども、母となる夫人について来ていた。
そして、今、母の膝の上で眼を覚ましたなら、話しの内容からして、代表となる上臈が投降して、レジスタンスで決起軍の頭に敗戦した軍の側として交渉をしに行くというのに、母親がどうするべきか、迷っている事を察した。
『お母様、行っても大丈夫ですよ。私は乳母さん……というよりは、お姉さんですね。
あちらのお姉さんと待っています』
眠ったら深く眠り過ぎるところと、穏やか気質と年齢の割に確りとし過ぎているのは、父親に似ている子は、そう言って母の膝から頭を上げていた。
『お母様はいなくても、大丈夫ですか?』
『はい、それに多分この中でいる子どものなかでは、お姉さんに次いで多分私が一番年上だと思うから、手伝いをします。
子ども達は、ここに全員残って、お母様達やお姉様達は上臈様と共に行きたそうな雰囲気を感じますから』
自分がいなくて大丈夫かと尋ねたなら、直ぐに"大丈夫"と返事をした上で大人達は全て上臈についていっても大丈夫とまで、口にする。
その事に両眉を上げて驚いているうちに、後にラベル家の家督を継ぐことになるだろう子は更に続けた。
『シトロン叔母様が、"時代が動く様な場面は、子どもにはきついかもしれないが、大人として出来るだけ向き合わなければいけない"と仰っていました。
それがその国に住む、民の務めだと』
『ふふふ、流石ラベル家の後継ぎ。本当にその通りです― ――』
貴婦人本当に感心するといった調子でそれまでしまっていた、豪奢な扇子取り出して、口元を隠して朗らか声を出して笑う。
『皆さん、ラベル家の御嫡子の仰る通りです。
とはいっても、努め、"義務"としなくてもクロッサンドラ・サンフラワー陛下の民として権利とも言い換える事が出来るでしょう。
それでは―――』
貴婦人は、これから淑女に紳士なるだろう子ども達に、薄暗い通路の中でも、気高く品よくお手本になるだろう"お辞儀"を披露する。
それを見ていた殆どの小さい少女達は、思わず自分のスカートの裾を小さな手で摘まんで真似をして、男の子は初恋すら済ましていないのに、思わず見惚れていた。
『本当は、クロッサンドラ・サンフラワーの縁者にあたる皆さんに、人として生きていく上で恥ずかしくない振る舞いを、教授したかったのですが、少々時間が足りない様です。
でも、貴女たちの母上やお姉様に教えました。
知りたかったなら、尋ねてくださいね。
それでは、これからもお健やかに。
―――ごきげんよう』
柔らかく、優しい声でそう告げて、子ども達の前から貴婦人は姿を消した。
『さて、"グロリオーサ"の事ですから、一通り終わったなら、中庭にでもお友達と集合して、今後の事を打ち合わせをしているでしょう。
近衛、敗軍側で申し訳ないですが、付いて来て下さいな。
私の予想が当たっていれば、無駄な時間が省けて、皆さんは直ぐに大切な方達の元に"帰る"事が出来ますから』
数少ない近衛兵にそう呼びかけ、先頭になり、地下通路を出て、慣れた王宮の中を進み、中庭へと進む。
そこに話し合う鬼神とも例えられる新しい王となる、かつて慈しみ育てた息子と、その親友となる褐色の肌に、緑色の瞳をしたと顔の整い過ぎている顔立ちの青年がいる。
『……サンフラワーの同性の親友は二枚目であるべきという呪いでもかかっているのでしょうかねえ』
貴婦人が半ば呆れる様に冗談にもとれる言葉を口にしたなら、次世代の王とその宰相になるだろう2人が、投降する一団に身体を向き直っていた。
褐色に顔の整い過ぎた人物の方は、全く動揺をしなかったけれども、鬼神とも言われている人は、立派過ぎるキリリとした眉を使って深い縦のシワを眉間に刻んでいた。
しかし、上臈は、そんな鬼神とに例えられる人の 反応は全く意に介さないといった状態で、語り掛けていた。
『身の振り方は、新しい王となる人に従えと、命じられております。
死ねと申されたのなら、一振りの剣を施していただければ、お手を煩わせずに自害しましょう。それも嫌でしたら、どうか高い場所に案内していただけますか?』
先程、共に投降している貴婦人達に言葉ををかける時と同じ様に、まるで午後の紅茶を誘う様な口ぶりで、中庭にいるかつて"息子"と思っていた人に語り掛ける。
『"家族"の命は、必要がない限り、奪いたくありません』
上臈の明るい声とは対照的に、グロリオーサが絞りだすように、傍らに親友のアングレカムを置いてそう返事を返したなら、貴婦人の纏う雰囲気が一変する。
『鬼神の名前を携えているというのに、甘いこと。
その甘さ、"気を付けなさい"と、老婆心でご忠告申し上げておきましょう』
正に"叱りつける"といった調子で、そう返事を行った時、再び眉間にシワを刻んだところで、アングレカムが割って入り、これからの政事の一切に王族として関わらない事の確約する念書を差し出した。
『此方に、先王と血の繋がりがある方、伴侶としての契りがあった方は、御署名をお願いします。
内容を読んで、納得し、一筆認めてくださったのなら、貴女方に害をなしません。
それをセリサンセウムの新しい統治者グロリオーサ・サンフラワーは、この賢者の呪いをかけた紙を以て誓いましょう。
これは、どこまでも"平等"な確約書。
念書に書かれた事を違えなければ、新しい国が貴女達を蔑ろにする事はありません』
新たな王の恐らく宰相となるだろう褐色の美丈夫が、先頭に立つ上臈の後ろにいる"親友の腹違いの姉"や、義理の母の立場にもなる婦人達にそう声をかけたなら、一斉に安堵の息を漏らす。
ただ先頭に立つ貴婦人はその安堵の雰囲気にも静かに、豪奢な扇子を口元にあてて押し黙り、何かしらを考え込んでいた。
(上臈様……)
ラベル夫人は周囲の雰囲気に調子を合わせつつも、褐色の美丈夫が、命が助かった事で安堵する暗愚の側室よりも、考え込む上臈に神経を研ぎ澄ましているのが、感じ取れた。
(あの方も、王様の為になら、自分の苦労など意に介さない方なのでしょうか)
もう、この世界から旅立ってしまったとされる癖っ毛と八重歯の宰相が、不思議とこの世界にいた頃、数回社交の場で遠目に見た時よりも、ラベル夫人ははっきりと思い出せていた。
外見上似ているのはきっと、高い背丈位なものなのだが、距離はあっても目の当たりにすればするほどその佇まいは、漆黒の衣を好んで纏っていた国王の側にいた存在に似ている様に感じられる。
これからの親友の納める事になる国の為に、その存在の全てを捧げる覚悟は、きっと王都に来るまでに固めて入るのだろうと思えた。
(でも、まだ少しばかり、"迷って"もいらっしゃる感じもしますね。それに―――)
"鬼神"と例えられる新しく王様になる人は、堂々としていながらも、眉間に深い皺を刻んだまま、敗軍の力ない婦人を取りまとめる1人の貴婦人に意識を取られていた。
ただ、それに気が付いているのは当事者達位にも、ラベル夫人には伺えた。
(上臈様とあちらのグロリオーサ様の御年を考えたなら、幼い頃は少なからずお世話をなさった事もあった筈。
そうでなければ、"家族"の命は、必要がない限り、奪いたくありませんという発言は出ないでしょう。
それに―――)
―――鬼神の名前を携えているというのに、甘いこと。
―――その甘さ、"気を付けなさい"と、老婆心でご忠告申し上げておきましょう。
上臈は厳しい人で、これまで"淑女"や"紳士"を躾けるのを見たことはあったけれども、"国の王"になるだろう存在に対し、指導をするのを初めて見た。
(上臈様は、あの方を新しい王として認めてはいるんですね。でも、まだまだ、"王様"としては未熟と言葉を評された)
そして、グロリオーサ・サンフラワーをそう評され、一番応えているのは、その傍らに立つ褐色の美丈夫の様にラベル夫人には見える。
そのまま延長で、褐色の美丈夫を見たならば上臈に指摘された忠告を、薄い唇の内側で、痛みと共に噛みしめている。
でも、このままで反省をし続けるというわけにも いかずに、褐色の美丈夫は話しを続けた。
『―――この場にいらっしゃらない縁戚の方々で、もし連絡先をご存じの方があったら教えていただけませんか。
同じような、措置を取らせていただきます。
ただ、念書に書いてもありますが、生活の保証はしますが、この国に関する政に関われなくなります。
それは一般的に、この国の民としては大いなる不満に繋がる事になるとも思います。
それを考えた上での署名という事を、忘れないで頂きたい。
もし、参政権がないことが御不満が耐えられなくなった場合、他国への亡命も、橋渡しまでは、グロリオーサ・サンフラワーが責任をもって請け負います。
ただ、その後の事は保証できません』
褐色の美丈夫の説明に、側室とその家族達は素直に、頷き従い数名は早速"報せよう"と言葉を交わしている。
中には、説明するアングレカムの整いすぎた面立ちに、命の保証があった事で、余裕も取り戻したのか、仄かに頬を染めている―――恐らくは何らかの形で、グロリオーサ・サンフラワーと血の繋がりのある婦女子もいるだろう。
"顔"の使い方を判っている美丈夫は、作った笑顔で"余計な"事が入らぬように言葉を差し込む。
『―――ただし、亡命することでセリサンセウムの不利に繋がる情報を漏洩したとしたなら、その念書に施されて呪いが発動します。
若しくは呪いが動く前に、"悪魔の参謀"の息のかかった手下が、夜中にお邪魔すると考えて頂ければ、それで』
その一言で、それまで比較的穏やかな物言いだった美丈夫の声は冴えと冷えを伴っており、僅かに漂い始めていた安堵の雰囲気を、一掃していた。
揃えた訳でもないのに、血の気を引かせて思わず薄絹を嵌めている手袋の手で貴婦人達は口元を抑えているその中で、先頭に立つ上臈が静かに唇を開く。
『一筆を認めたなら、後は念書に書いてある契りを違えなければ、私達は自由にしても良いと、そう考えても宜しいのでしょうか』
代表となる貴婦人が、最終的確認の様に、地下通路の中でも僅かにしか乱れなかった結い上げた髪のある頭を傾けながら尋ねる。
口元を豪奢な扇で隠して、新しくこの国の宰相となる褐色の美丈夫の顔に真直ぐと視線を向けていた。
涼しさを感じさせるほどの澄んだ眼差しを、ある程度年齢を重ねた貴婦人のシワの多い目元から向けらた美丈夫は、その中にある意を汲み取り、緑色の瞳を細め、申し訳無さそうに口を開いた。
『"新しい王"は、貴女の血を吸った大地の上に、新しいセリサンセウムという国の礎を造っても、決して幸せにはなれません。
だから、どうか、これからの余生は、生きて心穏やかにお過ごしください、"おねがい"します』
そう口にして、褐色の肌より更に濃い、焦げた大地の色の長い艶やかな髪が垂れる程、深く頭を下げる。
(上臈様、もしかしたら……クロッサンドラ陛下の"後"を追うつもりでいらっしゃる?!)
貴婦人はは自分に頭下げる、悪魔の参謀とも呼ばれる褐色の美丈夫に、先程暗がりの中でも子ども達に向けた、慈愛を滲ませた表情を浮かばせ微笑んだ。
そしてその後ろに佇む、かつその生育に関わっていただろう、今は鬼神と例えられる程逞しく育った、優しく微笑んでみせた。
夫人達の間でも俄かに、無言のざわつきが起こりはしたけれども、それは直ぐに治まった。
(……あの方達は、上臈様が、この後取ろうとしている行動が、判っていらっしゃる)
"クロッサンドラ陛下の御世に役に立てる事が、私の人としての喜びなのです”
何時の頃からか、幾度となく耳に入れた貴婦人の誇り高き宣言を思い出し、ラベル夫人もまた、上臈が"自由にしても良い"と保証を、遺憾なく使うつもりなのが解った。
自由が保障されたその瞬間に、躊躇わず、何らかの方法を用いて、今生の"伴侶"と定めた暗愚の後を追いかけるつもりであるのが判る。
先程からキリリとした立派な眉を使って、眉間にこれでもかという位深い縦皺を作っている鬼神と例えられる、それ程と屋内未来に新しく"国王"と認められる人もそれを危惧している。
本当は、叶う事なら貴婦人は今すぐにでも最愛の人や、親友で好敵手を"追いかけたい"。
でも上臈は懸命に、"身の振り方は、新しい王となる人に従え"という大切な人たちとの約束を違えぬ為、今は堪えている。
『"自由"の定義、難しいですね』
後ろから見つめてもその凛として佇まいは、いつも遠くから眺めていないと圧倒されてしまい傾国の宰相、息絶えた国王の後を追うようにして殉じたしまったと聞いている人と全く同じだった。
癖っ毛と八重歯を携えた、暗愚と例えられたクロ ッサンドラ・サンフラワーだけを、王と認め、従う宰相と同じ意志を、貴婦人は携えている。
『命令には従います。けれども私"達"、―――いえ、今でも私の中で、王はクロッサンドラ・サンフラワー陛下唯一人。
参政権はなくとも、私達を蔑ろにしないとは仰った言葉を信じましょう。
それでは、失礼します』
そう言って、アングレカムが差し出していた念書を、貴族の嗜みで嵌めている手袋している手で、颯爽と受け取り側にいる貴婦人に手を差し出したなら、心得た様に携帯用のインクのセットとなった羽ペンを取り出し、渡す。
『私の"自由"を保証されている内に―――』
品良く微笑んで、滑らかにペンを念書の上に走らせたなら直ぐ様に呪いのかかった念書が反応する。
その瞬間にグロリオーサが、幾分血の気を引かせ、ハッとして顔をあげて、褐色の美丈夫は心隅で僅かに考えていた不安が的中したかのように整った顔を歪め―――細剣を抜いた。
『まあ、賢者が作ったというのは、本当の様ですね。"反応"の宜しいこと、早速私が行った、新しい王への不利益を察した』
貴婦人は見事な手品でも見た様に上品に笑う。
『何をしたのです?!』
上臈発言の最後の方は被さるように、アングレカムが詰問すると、貴婦人はドレスの裾をつまみ跪き会釈し、両足を膝のところで曲げ、片方を後ろに引いた。
『"|シャルロック・トリフォリウム《やんちゃな宰相》"の娘を亡命させました』
再び姿勢を戻す貴婦人の前で、次の瞬間には宙に浮いたまま念書が紅く発光し、賢者が施したという呪いの作用で燃え上がり、"契り"を違えた紙は黒く塵の形になって舞う。
穏やかに終わりそうにも思えた、敗軍の投降者との取引を行われていた王宮の中庭の中が、俄に騒然とした。
『亡命させた、その国は、何処ですか?』
褐色の美丈夫が鋭い細剣の先を、上臈に向けた瞬間、貴婦人達は短い悲鳴をあげ、その近衛兵達も一同に剣の柄に手をかける。
ただ、近衛の人数では"悪魔の参謀"、”鬼神”の倍以上だけれども、最初から、先頭に立ち会釈する貴婦人以外は、怯んでいるのが目に見え、剣を抜くことなど出来ない。
もし、剣を抜いたなら、悪魔と鬼神とも呼ばれる新しいこの国の統治者となる存 在に、刃向かったと切り捨てられても、仕方のない状況とも言えた。
そして"敵"でないのなら、決して彼らは命を奪うような事はしないのが判ってもいる。
"ここまで生き延びたなら、死にたくはない"
そんな思いを、新しい統治者に、破れた統治者を心酔する上臈以外、皆同じような気持ちを抱えて、滲ませていた。
その事を機敏に察知した褐色の美丈夫は、冷徹の声で以てその感想を口にする。
『―――皆さんの判断が懸命で何よりです』
そう口にする褐色の美上部は冷たく微笑んだまま、貴婦人を見据え、細剣の鋒の向ける向きは定まっていた。
そんな中で、ただ一人、"護衛"としての意地があるようで、最も側にいた近習―――ペンとインクを差し出した婦人が、古参の側室である上臈を庇う為に前に動こうとする。
しかし、貴婦人がそれを閉じたままの扇子を動かし、往なして止めた。
視線で"指示"を出し、その夫人が安全な位置まで下がったのを確認してから、優雅な仕草で扇子を開き胸元に当てる。
『決起軍の参謀殿、"彼女"の居場所、こればかりは申し上げられません。例え、愚かで、懸命でないと言われてもね』
まるで歌劇の一幕で、最も重要な台詞を口にする主役様な振る舞いの後、静かに、開いた扇子を静かに畳み、貴婦人は瞳を伏せる。
『何故なら、貴方達の眼に留まることなく、"親友であり好敵手の唯一のご息女を逃す事が、私がこうやって生き恥晒して、この場所で生き残っている理由でもあるのですから』
それから、"にこり"と優雅に、上臈は"|仇《グロリオーサ・サンフラワーとアングレカム・パドリック》"に向かって微笑む。
それに併せて時期を待っていたかのように、先程書き上げたと同時に、賢者の呪いの力で以て、焼け焦げ塵となった念書が、風に乗る。
塵は、上臈と褐色の美丈夫の間に音もなく、宮殿の庭園の石畳の舞い降り、まるで相容れぬ一線を画す様に、貴婦人と褐色の美丈夫、そして鬼神と例えられる人の間に流れた。
『さあ、署名をしておきながら、念書に書かれた契りを、私は反故しました』
厳しさを潜ませ、かつて 息子と同等、若しくはそれ以上に慈しんだ人の、未来支えとなるだろう、腹心で、親友である青年を見つめる。
『やがてグロリオーサ・サンフラワーを支え、この国の新しい宰相となる貴方は、クロッサンドラ・サンフラワーの意志を継ぐかもしれない者を、残したこの国を仇なす行為を行った"罪人"をどうします?』
暗愚の名の信頼の元に、"頼まれ"、傾国の執政を行った、宰相と、己が"比較されている"のを感じ、僅かながらに悩んでいるのが、ラベル夫人には伝わって来ていた。
けれど、そんな悩みなど意に介さず気高い夫人は更に続ける。
『クロッサンドラを支えた宰相にして、親友のシャムロック・トリフォリウムを越える采配を、是非私の前で振るってくださいな―――』
再び歌劇で情熱的な詞を朗読するように、暗愚と共にこの世界から姿を消した、宰相の名前を張り上げた時、"タン"っと、王宮の中庭の石畳を蹴る、軽い靴底が鳴る。
その2歩目で、塵となった念書を踏みつけ、微塵にした人は、綺麗な緑の瞳で"標"を見つめる。
《皆さん、私の"旅立ち"に付き合ってくださって、ありがとうね》
これまで流暢に聞こえていた正しい発音から外れた、一般的に言う訛りを含んだ、それでいてとても暖かい、上臈の声が、恐らく"敗軍"とされる側の人々の胸に響いた。
次に見える情景は、褐色の美丈夫がその手に武器さえ持っていなそのいのなら、まるで報告事があって上臈に平伏する騎士のようにも見えるものとなった。
そうやって、身を屈めなければ、貴婦人より背の高い人の細剣が、胸骨と、それに繋がる肋骨の間を擦り抜け、下から、彼女の心臓を貫きあげる事が不可能だった。
《上臈様……》
ラベル夫人が思うまでもなく、誰かしらともなく胸に浮かんだのは同じ事。
貴婦人は出来る事なら、暗愚の王と傾国の宰相が、共に消え去ったあの玉座のある部屋で、共に消え去りたかった。
上臈なら、自分の"旅立ち"も、心酔する暗愚の王の権威を損なわない、花のように自分の命を散らす事も出来たように思える。
けれど、決戦の場で行われる事が、最愛の人達の最期の妨げになると恐れがあると弁えていたから、それならせめてと、生き恥を晒す事になっても、役に立てる仕事を引き受けた。
だから、役目を確りと終えた、上臈がこの世界で望むことはただ1つ―――大切な人達、その人との約束を違えず、追い付くこと。
けれども、"身の振り方は、新しい王となる人に従え"という大切な人からの言葉を裏切りたくもなかった。
だから、勉学は苦手としながらも、良く回るその頭の中で、誰とも約束を違えずに、それでいて自分の願いを"犠牲"になどしない方法を、考えた。地下通路から投降し、褐色の美丈夫に提案を受け、その極短い時間で見事に貴婦人は考えつき、実行に移して、成功し、見事に"旅立った"。
―――緋色の衣を纏った、褐色の美丈夫が"平伏"している姿から、立ち上がる。
褐色の美丈夫は下から突き上げる様にして、貴婦人にほんの僅な時間の痛みと驚きを与えて、細剣は彼女の心臓を貫いていた。
カタンっと、心地よくすら聞こえる音を石畳の上に響かせて、力の入らなくなった貴婦人の手から豪奢な扇子は落ちる。
豪奢な扇子が石畳とも奏でた音を区切りとする様に、その音の発信地となる場所にいる、貫いた人と、貫かれた人、そしてその後方いる人物を除いた人々は、凍ったように固まってしまった。
風すら凍えてしまったような雰囲気の中で、褐色の美丈夫は細剣をそのままに、貫いた上臈を抱き止める。
血は貫いた細剣が傷口を塞ぐ"栓"となっている為、一滴も雫ともならずに貴婦人の躯からは、滴る事はなかった。
ただ、褐色の美丈夫の細剣の一突きは彼女の心の臓の動きを止めた事は公然とした"事実"となる。
そして、確実に落命をしているという認識は、彼女が心から愛した、伴侶以外の殿方に抱き締められている事で、同じ立場だった婦人達には一斉に伝わった。
貴婦人達の間で、小さな悲鳴があがって、それが直ぐに哭き声に変わる。
その声が誘い伝染する様に、連続して皆、勝利した決起軍に投降してきた貴婦人達は、貴族の証のとして填めている薄絹の手袋を嵌めている手を顔にあてて、涙で湿らせていく。
それは、ラベル夫人も不思議と同じだった。
学者を祖とした貴族の一族に嫁ぐぐらい 、自身でも一般的な夫人よりも理屈屋のな性分で、どちらかというのなら冷めている性分だと弁えている所もあったつもりだった。
けれど、上臈の事を、少しばかり恐ろしいやら、小うるさいやらと、思っていながらも、貴族社会で生きて行く為に、必要な事をその人物に対して過不足なく教えてくれた。
誰に対しても"クロッサンドラ陛下の寵愛を受ける婦人"として、恥をかかない様に親身なって世話をやいてくれた。
こうやって、上臈の"旅立ち"に目の当たりにして、漸く、もう二度とその"声"を聴けることはないのだという現実の喪失の感覚が、涙と悲鳴という形で身体に表現されてしまう。
ラベル夫人も避難の間のほんの短い付き合いでしかなかったのだけれども、上臈の慈しみ深い面に接する事で親しみを覚えた。
それが"もう、二度と話せない"という現実が、これまで縁があって離れた人々達の別れよりも、不思議と悲しく重く、気が付いたなら頬に雫を滑らせていた。
―――上臈のこの形での"旅立ち"が仕方のないもの。
それが理解る教養も、側室達は彼女から、学んでいた。
けれども、流される涙は理性で抑えつける事が出来ない程の人望を、上臈は、大切な人達と戦う力は持てていなくても、集めていた。
敬愛される存在でもあった証明にもなる、敗軍の貴婦人達の声を耳に入れ、涙を一瞥し、褐色の美丈夫は、細剣を抜かぬまま横抱きに、自分の母親の年齢にも近いだろう婦人を抱えた。
『御婦人に、失礼します』
もう既に声は届かないと判り切っていながらも、言葉をかけて、もう夫人の力で閉じる事が出来ない瞼を、掌をあてて伏せた。
更に掌に氷の精霊に呼びかけて、まだ熱を持つ上臈の胸を貫いた付近の血液を凍らせ、固めてから細剣をゆっくりと抜いた。
細剣を鞘に納めた後に上臈の遺骸を、宮廷の庭園の石畳の上に横たえた後、貴婦人達に向き直り、口を開く。
『―――それでは、先程の書類にサインを頂いた方から、ひとまず捕虜として扱わせて頂きます。
それから、王都で"学校"とされている場所でもって、拘禁としての扱いとなります。
こちら側の態勢が整うまで、暫く間、御辛抱をお願いします』
褐色の美丈夫がそう発言 をしてからは、代表となる上臈が不在になった事で、貴婦人達はただ粛々と従うだけとなる。
上臈の遺骸は、結局貴婦人達が移動されるまでその場所に安置され、その後は判らない。
ラベル夫人はそれらを全て目の当たりにした事で、上臈の"その後"を随分と心配している内に、先ずは子どもと再会し、その後に夫と義妹と再会する。
そして、その心配する胸の内を伝えたならば、義妹と夫と共に、アングレカム、グロリオーサと面識があった事で直ぐに調べてくれた。
上臈の遺骸はグロリオーサが後宮の更に奥にある、王族の縁戚があるものが"眠る"事が許される墓地に、自分で穴を掘り、最期まで気高かった貴婦人を見送ったという事だった。
『それで、その時にはグロリオーサ様と、その、トレニア様と、2人のお子様になるダガー殿下も一緒だったらしい。
だから、義姉さんが心配する様な事は全くなかったと思う』
平定直後、トレニア・ブバルディアの立場はグロリオーサの"伴侶"ではあるけれども、まだ王妃としては発表はされておらず、義妹はそう告げる。
義妹の言葉に、ラベル夫人は取りあえずは落ち着いた。
ただ、落ち着いたと同時に新国王に見送られた女性の弟子としていた"シズク"という名まえの少女の事を、不意に思い出す。
捕虜収容所となる学校で再会した際には、既に姿はなかったが、確りしている娘の様だったので、心配はあまりしていないが気にはなる。
今更と思いつつも、その事を夫と義妹に話をしたなら、そちらの方も直ぐに調べてくれた。
敗軍の捕虜になった際に名簿が造られており、名前も確りと残っていたが、どうやらその後の動向は知られていない。
しかしながら、義妹が言うには、今は戦後処理で人の出入りを城門で厳しく検問している。
もしも、未成年者の少女が1人で出て行こうとするなら、何らかの形で注意を受けるし、記録にも残るという。
それがないのだから、恐らく王都に残っているし、子守が巧いとラベル夫人の話しで聞いていたので、乳母として何処かの貴族の乳母として召し抱えられているのだろうと話した。
当時、女性の職業として手堅く堅実な物として腕の良い乳母は常に求められていたので、義妹 《シトロン》の言葉に、ラベル夫人はすっかり落ち着いた。
落ち着いた事で、改めて家長の伴侶として今度は、魔術師としての義妹を夫と共に応援したいと告げる。
『―――義姉さんが応援してくれるのは、とても嬉しい。
それに、時流的にもう少ししたなら、気兼ねなく実地調査に行ける事になりそうだわ』
義妹、シトロン・ラベルそう姉に伝えたのは、戦後処理も落ち着き、平定の四英雄の1人としてセリサンセウム王国の民にトレニア・ブバルディアが女性ながらに認められた事にあった。
それに併せて婦人ながらに公にトレニアが政治に参加する事、平民の出自ながらも新国王となったグロリオーサ・サンフラワーの正式な妻、王妃として迎えると公布もされる。
平民のトレニアが貴族を差し置いて"王妃"となる事に、王都を含め国の領地を治める貴族に少なからず反発する意見は出される。
ただ、トレニアの出自が平民という事で、彼女を王妃に反対する意見が出るのはかまわないが、平定の活躍からして、"なってはいけない"という、決定的な理由を貴族達は出す事が出来なかった。
そして平民が王妃にもなった事も少なからず関係しているのだろうが、女性が政に参加する機会が、これを境に徐々に増え始める。
社交界という華やかな場所に限らず、学問に関するものや、やはりトレニアという英雄の活躍があった為か、武芸の方も才能がある婦人も社会参加する事になる。
シトロンはその時勢の波に乗り、今度こそ躊躇わず実地調査に、兄と義姉とその間に授かったラベル家の後継ぎとなる子どもに見送られて旅立つ。
旅立ちと同時に、後に孤高の稀代の魔術師とセリサンセウム王国の暦に認められる人の頭に過ったのは癖っ毛で八重歯が牙の様に飛び出した、やんちゃ坊主の様な笑みを浮かべる宰相の事である。
結果だけに注目をしたなら、あの時、八重歯と癖っ毛の宰相のお陰で、シトロン・ラベルにとって、一番最高の機会に実地調査の旅に出れる事になっていた。
出発前に義姉から、傾国の宰相が、"娘"を残した事は話されて聞いていた。
その詳細の調書も、新しい国の宰相となったアングレカム・パドリック立ち合いのもと、上臈と行動 を共にしていた他の貴婦人と共に取られた。
ただ、如何せんそのシャルロック・トリフォリウムの"娘"というのが、"誕生したばかりの赤ん坊"という事で、その足取りを追う事は困難を極める。
それに、正直に言って"今更逃がした意味が解らない"というのも、調書を取る場面に居合わせた、人々の感想でもあった。
―――"|シャルロック・トリフォリウム《やんちゃな宰相》"の娘を亡命させました。
貴婦人が投降してきた宮殿の庭園でそう口にした時、褐色の美丈夫も、最初に話しを聞いたラベル夫人と、同じ誤解を抱いていた。
亡命させたというシャルロック・トリフォリウムの娘という存在が赤ん坊ではなく、ある程度成長した、少なくとも、自分の足で歩く程度であるものばかりだと思っていたという。
加て、ある程度は"教育"も済まされ、父親と同じ様に暗愚の王の臣下としての心構えをたずさえているのではないか。
そんな心配もあったので、上臈からその娘の亡命先を何としても聞き出さねばならないと、アングレカムは考えていた。
けれども、貴婦人の決意は固く、どんなことがあっても口を割らない覚悟もあの場面に当事者としていた、新たにこの国の宰相となったアングレカムにも判っていた。
―――決起軍の参謀殿、"彼女"の居場所、こればかりは申し上げられません。
―――例え、愚かで、懸命でないと言われてもね。
―――何故なら、貴方達の眼に留まることなく、"親友であり好敵手の唯一のご息女を逃す事が、私がこうやって生き恥晒して、この場所で生き残っている理由でもあるのですから。
あの貴婦人の宣言にに嘘偽りが一切ないと、あの場を目の当たりにしていたの人なら信じる事は出来る。
―――さあ、署名をしておきながら、念書に書かれた契りを、私は反故しました。
―――やがてグロリオーサ・サンフラワーを支え、この国の新しい宰相となる貴方は、クロッサンドラ・サンフラワーの意志を継ぐかもしれない者を、残したこの国を仇なす行為を行った"罪人"をどうします?。
その時、アングレカムが取った行動もまた、その場に居合わせた者達は納得出来るもので、それ以外の行動を取ったなら、大きな心残りになったと断言できる。
けれども、この"逸話"をまた聞きとして耳に入れたとしたなら、上臈から情報を引き出しもせずに、挑発に乗せられてとったと行動と指摘されても、反論できる物でもない。
何しても、この話を実際にその場に居なかった者が耳に入れたなら、"剣呑"だと言われても仕方がないという冷静さと判断力も、現場に居合わせた人々は兼ね備えていた。
そして、この上臈の旅立ちに際し、口にした言葉に関しては、箝口令の処置がとられる事になる。
その処置をを取ったのを、ラベル兄妹と共にユンフォ・クロッカスが知る所になったのは、当時アングレカム・パドリックの副官であった為である。
加て、ラベル夫人が声でまるで内緒話を行うように伝えられた、"シャルロック・トリフォリウムが家族を作った"理由も上司と共に、知る事になった。
但し、それはまるで話しを聞いた当初は、ユンフォ・クロッカス青年には謎解きの様な、上臈の残した文言でもあった。
―――それはね、"作っておく必要があった"からです。
―――"四つ葉"の血を引いた子どもなら、何が何でも、それこそ"命に代えてでも"向日葵"の味方をするでしょうから。
貴婦人の行ったという声は、あくまでも向日葵という王族を気遣う四つ葉という一族について語るの物の様に、ユンフォ・クロッカス青年は聞き取れた。
上臈は、それをラベル夫人に伝えた時には、暗愚の王が打倒されている事は、恐らくもう察してはいる。
それを込で伝えてきたのだとしても、内容が独特過ぎる声は更に続けられたという。
―――でも、"|グロリオーサ・サンフラワー《次の世代》"には必要がないから、随分とゆっくりになってしまいました。
―――何せ、陛下に可愛らしいお孫さんが産まれた頃になって、やっとシャルロックは子ども―――しかも、娘ですものね。
―――、 ー世代時間が開いてしまいましたわ。
―――でも、執念深いシャルロックの血です。
―――"後の事"は解りませんが、きっとどんなに手間取っても、陛下と最もよく似た血を継いだ"花"の元へ と、必要とされる時に、姿を現すでしょう。
ラベル夫人が声で伝えられたという、上臈の言葉は、彼女の言葉というよりも、まるで傾国の宰相の"遺言"の様にも、ユンフォ青年には受け取れてしまった。
そう感じた理由を具体的に説明しろというのは、とても巧くは出来そうになくて、上司と共にラベル夫人の話しを聞いている時は、終始無言となる。
しかしながら、終始無言というのは、ユンフォだけではなく話を聞いている、付き添いとして共に赴いていた王宮に男女の双子のラベル兄妹に、上司も同じことだった。
上臈という、一時は国王を慈しみ育てたという貴婦人が、命と誇りをかけてとった行動に関して、話を聞いて直ぐに結論を出せる物でもないというのが、その時出された"答え"の様にも思えた。
ただ、アングレカム・パドリックは、上臈によって残された、一応"先輩にあたる宰相"が取った行動が、何かしら琴線に触れる物があった様に見受けられた。
『"四つ葉"の血を引いた子どもなら、何が何でも、それこそ"命に代えてでも"向日葵"の味方をする。
けれども"|グロリオーサ・サンフラワー《次の世代》"には必要がない"。
あの言葉は、御婦人に、私はグロリオーサ・サンフラワー陛下の宰相として認めて貰っているという事と受け取れば良いのでしょうかね』
決起軍の王都の平定戦の敗軍となった"セリサンセウム軍"の処理で文面に残す物も、残さない物も一通り調査を終えた後。
アングレカムは宮殿で歴任の宰相達―――無論先代のシャルロック・トリフォリウムも使っていたという執務室の椅子に腰掛けてそんな事を呟いていた。
青年のユンフォは、アングレカムが決起軍時代から使っていた文献を、執務室の両側に嵌めこまれるように設えられている本棚に、整頓の手筈が書かれているメモを見ながら片づけている手を止めずに聞いていた。
アングレカムには、副官に任務に就く際に
"私は何気に思案事をしていると独り事が多いので、言葉を求めていると、ユンフォの主観で感じない限り、反応しなくても大丈夫ですよ"
という旨を言い渡されていたので、今回のは反応をしない 事にしていた。
ただ、上司の視線が自分の取り組んでいる作業、"本棚に本を移す"に視線を注がれるのを感じと取れた。
それもユンフォの作業に文句をつけるというわけでもなくて、アングレカムは本当に本棚の方に意見があるような、しかも上司にしては珍しく少しばかり恨みがましいものであった。
『……少しぐらい、それらしい手がかりを残しておいても良いものでしょうに、先代の執政に関わる物を悉く焼き払い、塵芥にする意味は何なのでしょうね』
『……"最後"の方は、本当に上の方達で色々決められて、そういった資料は勿論、特に肖像画といった姿や御性分が知られるような物は、御自分達の手で処分をしてしまったと話に聞いています。
多分、自分達が行った政を、人の記憶に残る以外の物を全てを、それこそ悉く焼き払う様に消すのが、御意思だったんだと思います』
きっとアングレカムは自分が口にする内容等は、既に承知しているのだろうけれども、それでも今回は必要があると思って、副官の青年は意見を口に出していた。
本を片付ける手を止めぬまま、ユンフォが告げる内容にアングレカムは耳を傾ける。
相変わらずまだ本で埋っていない本棚の枠を、緑色の眼で眺めつつ今度は自分から語り掛けていた。
『ユンフォ、君は前の、……シャルロック・トリフォリウム殿の執務室を覘いた事はありますか?』
国が平定されてからはまるで禁句の様に、以前の主な為政者達の名前を出される事はなくなってしまったが、新たな為政者となった新国王は特に禁止としている事もなかった。
ただ、王都に住まう者達は誰もが無意識にか自然にかは判らないけれども、名前を出す事を拒む風潮と傾向を、当時は全体的に醸し出していたと、過去を振り返った時、当時を過ごしていた者は一様に感じていた。
なので"別に名前を出しても平気”としている、特に平定の四英雄とされる人達は必要がある時は名前を口に出してもいた。
但し、名前を出す事で相手によってはそれなりに心的外傷を軽く抉るか、塩を刷り込むような事態になるので、取りあえず選んで出してもいた。
そして国王グロリオーサ・サンフラワーの宰相アングレカム・パドリックの場合は、自分の副官 であたる、人当たり良い青年に専ら尋ねる事が多かった。
彼がシャルロック・トリフォリウムから重用されていたという事は全くないが、接触の方に関して言えば、普通の若人よりは多かったという事実は仕入れている。
ただしそれは彼が物凄く薄く遠いが、王族と血の繋がりがある事と、若く優秀で国の学校の指導者として関わっていた事も併せて、やはり"使える人材"という立派な理由もあった。
その事もあって、国の運営する学校と王宮を往復する事が多く、そのついでに前宰相シャルロック・トリフォリウムに遭遇する事も多かったという事だった。
加て、天然か養殖なのかは定かではないが、年齢の割に肝が据わっているようで、驚くような出来事があっても、必要な分驚いたなら引きずらない所も、副官として採用した言うのもある。
当時の王都では禁句並みの扱いの前為政者の名前を耳に入れても、露骨に驚くわけでもなく、しかしながら正直に、眉根に僅かに縦シワを刻んだ程度で、直ぐに上司が質問した事に関して、作業の手を止めずに考えてくれていた。
『はい、覘いたというよりも、必要最低限で今の様に入室させてもらっていました。
あの時勢は、政権の関係で王都に住んでいる自分達は、半ば強制で軍に所属していたのと高学府を出たものは、階級をあげられての"入隊"でしたから。
階級を上げられると、自然と上の方と接する機会も増えていました。
けれどシャルロック様に関して言えば、回数にしても手足全ての指を足した本数に満たない程度です。
それに部屋を覗いたといいますか、当時の宰相様から"俺の、私の執務室から荷物を取って来てくれ"か"この荷物、執務室のどこそこに置いといてくれ"みたいな感じで、言いつけられて、"お使い"ぐらいなものです。
これだけは断言できますが、あの方は副官といいますか、秘書的な役割に関しては、自分の知る限りでは特に誰に拘るという事もなかったです。
適当に側にいた使える者は、使っていたんだと思います』
『適当にですか……。しかしながら、シャルロック殿には、宰相という立場上副官という役割の者も必須なはず』
これから続けられる”上司の言葉は、独り言”だと判断した、副官の青年は抱えていた本が一通り本棚に整頓できたので、次の本達を棚に納めるべく、手に取る為にメモを見つめながら移動する。
決起軍の頃から集めていたという本加えて、王都に入って来てから気になって購入した書籍。
まだまだ蔵書は増える予定ということなので、予め“書籍収納計画表”を上司が造ってくれており、副官の青年はそれに従い整頓を続けていく。
その間もアングレカムは執務室の椅子に腰かけたまま、考え込んでいた。
『……確か、宰相の副官は記録には残っていましたし、戦後に一通り面談もしましたが、特に何もなくて、トレニアも大丈夫と言っていました。もう既に王都から離れて普通に田舎に戻っている……』
己が抱いた疑問も気になるけれども、副官ユンフォ・クロッカス青年と話す事で、思いついたように浮かんだ不思議が、揃ってアングレカムの胸の内で浮かんだ。
自分が副官へ尋ねようと思った疑問と、不意に浮かんだ不思議を、頭の中で天秤にかけて、"直ぐに答えが出そう”という事を比重で考えたなら、後に浮かんだ方がそれに当たると考え至る。
『ユンフォ、君が覚えている限り、前宰相殿が重用していた若人はいなかったんですね?』
改めて尋ねて頃、副官は腕に抱えられるだけの本を抱えて本棚に向かいながら返事をしてくれた。
『はい、私が覚えている限りではそういう事になります。
ただ、シャルロック・トリフォリウム様がお仕えしてきた方は、グロリオーサ・サンフラワー陛下の御父上に当たる人物、クロッサンドラ・サンフラワー陛下。
その方と同年代という事は、私の実際の倍の年齢、それにアングレカム様よりも年上という事ではあります』
副官の青年が、言葉で何を言いたいのとしているのかが十分伝わって来たので、ここは独り言で済まさず返事をしていた。
『成程。それくらいの年なら、もしかしたならユンフォが産まれる前くらいの昔になら、シャルロック・トリフォリウムにも重用していた若人がいたかもしれないという事ですね。
ただ、そんな以前の人の記憶が王都に残っている民の間に保証もなく、記録の方も私達が王都に来る前に焼き払われて、塵芥というわけですね』
先ず、アングレカムが"不思議"に思う事に関しては、現状で得られる情報は拾えた。
ただ、掘り下げて調べたのなら、まだ"シャルロック・トリフォリウムが重宝していた若人はいなかったかどうか"に関しては、新たな情報は得られそうという感触も得る。
というよりも、アングレカムからしてみたなら、何にしても前宰相殿に対して、誰かしら支えになる存在というべきか、"家族"という存在がいない事が腑に落ちない。
"最後の最後で"、彼は"娘"を作ってはいたけれども、その行動にどうも"彼らしさ"というべきなのか、精彩差を欠いている様な気がしてならなかった。
傾く国を平定したいと親友に誘われ、レジスタンスの決起軍を作って、参謀として勤めさせて貰って、現在まで来た。
平定にかかった年数から言わせて貰ったなら、子どもが生まれて十分独り立ちが出来る位の年数を要している。
その年数の間、アングレカム・パドリックはシャルロック・トリフォリウムとは"戦って"きたつもりである。
無論、直接的な戦いではなく、判り易く砕いて言うなれば、"知恵比べ”でもあった。
決起軍としての戦略から始まり、レジスタンスとしての協力を求める為に、広い大国の主要となる領地にを治める相手を説得する、それに加えて言いくるめも多用した。
その度に相手は違うのだが、必ずと言って良い程、”宰相のシャルロック・トリフォリウム様が……"と、暗愚の王の前に、その人物の名前を怯えと共に口に出していた。
ある程度の力をつけたレジスタンスとしての決起軍が、平定への助勢をして欲しい、決して無謀ではない―――。
出せる限りで良案を出し、全くないとはいえないけれども、考えうる限りで無理も危険もごく少ない協力を求める。
しかしながら、それでも協力を求める相手に希望が頭を掠めはするけれども、先ずその名前が怯えとともに、出てきてしまう。
それ程、彼の行う執政に歯向かう決起軍の味方をしたなら、痛い眼を見るという事を十分理解をしている相手の説得は、正直にいって毎度困難を伴うものだった。
何にしても、人の心を拾い読める能力を持つ、魔女とも例えられたが、平定後には王妃となったトレニアと、決起軍の頭で鬼神とも例えられるグロリオーサの強さとカリスマ性、更に信仰深い者には、神父バロータの言葉が利いた。
日頃から、己の力を過信するつもりではないもだけれども、本当に独りではど うにもならない事ばかりだと思い知らされる事の連続となる。
勿論アングレカム・パドリックの整い過ぎた容姿やその強い魔力も、それなりに役に立つこともあったけれども、彼らの協力なしには絶対に成し得ない事ばかりだった。
必ず成し遂げる意志で正しく我武者羅にやってきて、"振り返れる"時期にやって来たからこそ、思い返せば返す程、仲間の協力があってこそ、成し得たことなんだと思えて仕方がなかった。
加て、1つの国の中でも様々な"人"がいるというのも、宰相という立場に来るまでに目の当たりにする事にもなる。
どちらかと言えば、想像力も共感能力、また相手の立場に立って考える事は出来る方だと、アングレカム自身も思っていた。
けれどもの目の当たりにしたり、実際に接しなければ判らない"独自の思考"をと良い言葉で例えられるが、誠に身勝手と思える考え方をしている"人"もいるのだと、思い知る事にもなる。
ただ、幸運だとアングレカム自身が思えているのは、そういった思考は"天然"の物なのか、"養殖"された物なのかが、幼馴染の魔女のお陰で知る事が出来た。
『……私は、天然の方が、特に身近にいたから。
何気に、周りに迷惑をかけている行為や発言だったりもするけれども、実はしている方も苦しんでいる時があるの。
それなら"しなければいい"という理屈にあなるんでしょうけれど、それが自分の意志や能力では難しいという事もあるのよね』
いつもの様に明るくしながらも、少しだけ寂しそうに口にする、魔女は自身の過去の琴線に触れるものもあるから、そういった出来事が起きた時には、積極的に交渉役を担うアングレカムに協力をしてくれていた。
それでアングレカムなりに理解した事は、天然の―――本当に自然に、不可解と思える行動や発言を取る人には、その人のなりの理屈や拘りがあって、私情というよりも、強迫観念の様な物が働いて無茶や、理解不能に思える行動を取っている事が多かった。
そんな究極に絡まりきった思考の順路を、細かい糸を解す様に心の拾い読める魔女の協力もあって解きほぐし、説明をしてくれたのなら、受け入れるかどうかは兎も角、周囲はその人物の行う発言や行動を理解する。
そしてそんな交渉の場にも、癖っ毛の八重歯が特徴的なやんちゃ坊主の宰相は、姿を滲ませてい た。
不思議とその人達の抱える拘りに関しても、トレニアの様な心を拾い読める能力をもっていないとしながらも、周囲から扱いにくいという印象を与えるが、人より秀でている物を抱えている者達の心を、僅かながらに怯えさせながらも、惹きつけていた。
しかしながら、説得する時勢も良かったと言うべきなのかレジスタンスとして決起軍の活動を起こした時期には、やんちゃ坊主の宰相殿がその人物を取り込んでから、結構な時間が過ぎていた。
その中で一つだけ、気にかかるというべきなのか後になって疑問に思う一言を、交渉相手が漏らしていた。
その人物は拘りや理屈はそれ程絡まっているとこともなかったのだけれども、どうにも義理堅い人物だった。
トレニアにも協力して貰ったけれども、心を拾い読めたとしても判る事は、もう数十年前になるだろう、丁度その時期の決起軍の面々と同じ位の若さの、癖っ毛の宰相は、当時は"変人"扱いしかされなかった、交渉相手の"才覚"を身抜いて、認めていた。
中々認められ難い分野での事で、やんちゃ坊主の様な国の高官青年の、少々口は悪いが手放しに褒める言葉に、その人物は救われていた。
―――お前がやっている事が、将来認められるかどうか何かは知らないけれど、私は俺は、凄いと思うし好きだな。
トレニアが言うには、その言葉が、そのずっとその人物の心に残っていて"支え"になっている様だと、伝えられた時には、正直、説得を諦めようと、アングレカムは考えていた。
尊敬する、惹かれている想いを抱いている相手に、掌を返す様な気持ちを起こさせる説得を考えるのは困難とする前に、"無駄"であるのは、よく判っているつもりである。
少なくとも、自分に親友を裏切れと言っているのとも、変わらないし、相手が腕に覚えがある者なら、やり返されても文句は言えない。
あまり使いたくない手段だが、力推しで相手に"仕方なく"協力"を促す方法を考える方が余程楽で、時間の短縮になる。
仮に説得に成功した後、決起軍の助力した為に、交渉相手にとっては嘗ては恩人となる相手の命を奪う結果に繋がる、結末が当時から濃厚だった。
それが十中八九判っているのなら、一時でも助勢をしたならば後悔をしても、しきれないだろうとも思える。
―――決起軍に、悪魔の様な参謀 に脅されるようにして、本当に仕方なく協力する様に仕向けるのが、時間にも限りがある状態で、効率的にも良かった。
自分が悪漢になり、"非情"という意味での風評被害が、親友に火の粉がかからない程度(当事者は無自覚に笑い飛ばすであろうが)、広がる分には全く困らない。
敵対する立場になった存在に、恨まれたり憎まれたりするぐらいなら、綺麗に微笑んで流せるくらいの度量はある。
けれども、自分が唆した提案に相手が不承不承、従い、その後に親友が国王に据えた国で、民として鬱々として暮らしていくことも、出来れば避けたい。
全てを綺麗に後腐れなくが一番の希望でもあるけれども、それが叶わないことも十分理解しているつもりでもあるが、踏ん切りが着けられない。
それを傾いた国を"平定"をするまでの間に、何度も何度も繰り返した。
それと同時に、シャルロック・トリフォリウムという人物は、良きにしろ悪きにしろ裏表がなく、暗愚を冠にしているとはいえ国王から、絶対の信頼を得るほどの人物という事も嫌という程知らされてもいた。
信頼の度合いなど、比べる物ではない、人によって受け取り方が変わるもので、優劣をつけるのは愚かしいとも判ってはいる。
それにグロリオーサ・サンフラワーという幼馴染で、新たに国の王として相応しいと思える人物からは、アングレカム自身が、申し訳ない位の信頼を得ている自信がある。
けれども、"何かが"、まだシャルロック・トリフォリウムに比べて、届かず及ばない。
父と子を比べて信頼の具合がどうこうというのではなくて、あくまでも宰相と参謀との中で、埋めるに埋められない、縮まらない何かしらの"差"を感じていた。