大農家 大いに嘆く⑤
『実を言えば、消えたのはついさっきなんです』
その言葉には、無言だが思わず両方の眉を上げる反応をしたら、部下は少しばかり言いづらそうにして話を続ける。
『その、隊長とサザンカ様が睨みあうわけじゃないですけれど、美味しくなさそうな空気の中で黙ってしまった直前なんですけれど』
『変な気を使わないで"気まずい"とはっきり言え。というか、そんなに早くついていていたのか』
上げていた眉を降ろし、軽く呆れた様に言うと、今度はミストが眉の端を下げて困った表情を作って更に続ける。
『はい、ロップ様―――じゃなくて、ロッツ様があの立派な"大精霊の杖"を法王様の寝室を出た途端に軽く振るったら、安らぎを司る精霊達が種類構わず集まり始めて。
私は、側にニブルが側にいてくれたら、何ともなかったんですけれど、どうやらロッツさまの私室から陛下の私室に繋がる通路に一斉に飛んでいきました。
それで、その通路に周辺にいる近衛兵を含めて、近習さん達も寝てしまったみたいです』
ミストからその説明を受け、キルタンサンスが思い出すのはロブロウに旅立ったダガーが口にしていた言葉だった。
"ああ、静かにして、闇の精霊に協力して貰ってここまで来ておくれ"
("精霊に愛される性質"とは伺っていたけれど、その威力は考えている以上に凄まじいみたいだな)
『陛下は闇の精霊の能力を借りてと言っていたが、ロッツ様はどうやらあらゆる精霊の能力を借りたみたいだな。
じゃあ、私に椅子を差し入れてくれた近衛兵殿も?』
『はい、でも、綺麗にゆっくり倒れたみたいで、いきなり昏倒するみたいに眠ってしまったわけじゃない様で、良かったです。
そんな感じで、陛下の部屋にまでは極力スムーズに来ることが出来ました。
氷の精霊も、法王様の法衣が入った風呂敷を抱え、小さな子供がするみたいに人差し指を口元にあてて、眠っている人の側を通り過ぎる時にはしていましたよ』
『そうか、それは良かったな』
そう応えながら、先程兄が弟に告げていた続きを思い出してもいた。
"もしかしたら、兄上は仕事でもういないかもしれないが、その時は"先生"達の言う事を良く聴くんだよ"
(思えば、もう1人の先生については聞き逃したままだったな)
考えている内に、ミストは氷の女帝ニブルが消えた瞬間の説明を始める。
『それで、陛下の私室の方に入って寝室にの方に向かいました。
陛下が"セリサンセウム王国、国王ダガー・サンフラワーの本体"やら、いつもの様に冗談だか本気だか、よくわからない言葉が漏れているのが聞こえた瞬間に、ニブルが抱えていた風呂敷が落ちたんです。
私はそれを咄嗟に受け止めたので、音は出しませんでした。
出したなら、隊長は気が付いていたでしょうし』
『まあ、そうだな。で、それからはさっきミストが言っていたような"美味しくなさそうな空気の中で黙ってしまった"から、取りあえず通信機のスイッチを入れたというわけなんだな?』
『はい、隊長かサザンカ様のどちらかに気が付いてもらわないと、私には入る度胸がありませんでしたから』
そう言いながら、通信機を取り出し苦笑を浮かべる。
『それで、その時のロッツ様の方はどうだったんだ?。流石にニブルが消えたなら何らかの反応を示しただろう?』
『それが……"これではグラン君が困ります"と短く言ってそれきりで……』
『グラン君……とは、大農家のグランドール・マクガフィン殿のことか。どうしてだ?』
(―――どうして、指揮官であるマクガフィン大将の名前が、氷の女帝の話をしている時に、法王猊下から出てくるのだ?)
口では不思議そうに、心では大いに驚きながら、グランドール・マクガフィンから王族護衛騎士隊の隊長の職務を委ねられた人はそんな事を考える。
『私だって、判りませんけれど!。
その、隊長の言う通り"グラン"君て、隊長の前に護衛隊長していた、国の英雄でもある、日に焼けた身体が陛下みたいに大きい御方ですよね?。
陛下と親しいか、農家の仕事の方かで良く知りませんけれど、よく城にいらしているのは見てます。
でも、グランドール様が法王猊下の所に行っているのなんて、噂にだって聞いた事ありませんけれど。
それとも、氷の女帝を最初に呼び出すのに、グランドール様が何か関わっていたという事なんでしょうか?』
『それはなぁ―――』
そこで寸の間、言葉に詰まる。
"必要があれば、ワシが"王族護衛騎士隊の指揮官"としてまだ軍に在籍している事を話してくれても構わあない。
まあ、出来る事なら黙っていて欲しいがのう"
(ここはマクガフィン大将の事を"黙っていても障りがない"ところだから、適当に話を逸らすかな)
そしてミストが話を逸らすのに、水を向ける為に口を開いた。
『さっき言った通りに"氷の精霊に関しては、我々は管轄外"だと言っただろう?。王族護衛騎士隊側は、一切関知していない。
そうだ、精霊だから、法院の騎士の方はどうなんだ?』
やや強引だが、共同で護衛しているという事に世間ではなっている、国教の教会の騎士団の名前を出した。
すると、部下は目に見え渋い表情を浮かべ、少し厚いの唇を曲げてしまう。
『それを言われたなら、国王の弟であるロッツ様ではなく、法王ロッツ猊下の護衛気である法院の騎士さん達の方も、ここ数日ご一緒しましたけれど、掌握どころか、全く関わってない様でしたよ。
それに、どっちかというと、ニブルの事を怖がっているみたいでしたし。
ああ、でもニブルがいてくれたお陰で、あんまり嫌味を言われなくて済んだ部分もありました』
曲げていた唇を普段の仕様に戻しつつ部下がそんな事を言うのを、"上手く誤魔化せた"という気持ちと共にキルタンサンスは、聞いていた。
ニブルがいるお陰で、"誇り高き法王の護衛騎士"に何かと絡まれなくても済むという事も、実は既にディンファレの情報で知ってもいた。
ただ彼女自身は我慢強い愚痴など滅多に吐き出さない人物が、
"遠回しの嫌味は蠅以上に鬱陶しい。
それに、何かと性差について私が騎士の役目を熟している事に、批判しながら最後に取って付けた様に肯定の言葉で勝手に話して、勝手に話をしめる。
本当の蠅の方がまだいい。
剣で斬り捨てても誰かも文句は言われない"
と口の端を上げてはいるが、俗に言う"眼が笑っていない"状態で言っているの、丁度人攫いに関する法改正と行われる前に、一度だけ聞いた事がある。
理由が判らないが"氷の精霊"がロッツの元から朝から姿をくらまし消していた日があって、その時に散々絡まれたそうだった。
ただ、その日は幸いにも昼から代休を取っていた。
ディンファレは、可愛がっている後輩のリコリス・ラベルとライヴ・ティンパニーを連れて、郊外にある森の天然の滝の方まで、息抜き代わりに"訓練"に行ったと報告されたのを今になって思い出す。
(ああ、そう言えばロッツ様も休息を取られて、ご一緒に外出されていたみたいだったな)
そして、夕刻にディンファレに護衛されて戻って来た、法王はいつも以上に穏やかさを携えていた。
その事で、昔から世話をしている近習達も随分と喜んでいたのを、退勤をしながら眺めていた。
『こんな事なら、ディンファレにもっと突っ込んで氷の女帝について聞いておけば良かった……。
って、隊長!もし、このままニブルが消えたままだったら、私、結構大変な事になりません?!』
『あ、そうだな』
忍耐強いディンファレでさえ、斬り捨てたいと毒ついている法院の騎士団の"世間話"に、ニブルがいない事で、ミストが多分絡まれる事になる。
ニブルが消える事は、本当に想定外の事でもあったので、思わずに口元に手を当てて考える。
絡みは元より、部下のミスト・ランブラー個人に対して心配もある。
(ミストの"過去の事件"を知ったなら、それを遠回しに絶対に言ってくるだろう。
それなら、いっそ私が護衛を交代した方がいいかもしれない。
ああでも、それを行ったなら、法院の方が陛下の不在に文句をつけてくるかもしれない)
ミストの方もキルタンサンスが考えている事を察し、表情を暗くする。
"知っていて知らないふりをする"という事が、思った以上の困難になってしまいそうにその時―――。
『成程、"弟子"がパン屋を1日ほど、乃至は己が城に帰って来るまで休んで欲しいというのは、こういった理由があったからだったか』
ダガー・サンフラワーの寝室で聞くには初めての声が、響き渡る。
『―――誰だ』
考えていた悩み事を一旦畳み込んで、瞬時に頭の隅に追いやる。
誰何(すいか※「だれか」と声をかけて名を問いただすこと)しつつ、キルタンサンスが剣を抜く、僅かに遅れる事、ミストも剣を抜いた。
ほぼ同じタイミングで護衛騎士隊の剣の切先が向いているのは、先程ダガーが螺鈿細工の手鏡を仕舞った、壁に密着して配置されている机だった。
『"机"から、声?』
訓練と経験を積み重ね、それにあわせて培った"勘"で、声の発生源を視線と先に捉えたまでは良かったミストだが、どうしてそんな場所から聞こえてくる不思議に、瞬きをする。
だが"机"という変わった場所から声が聞こえて来ることで、キルタンサンスの方は、琴線に触れる物があった。
それから肩の力を抜き、構えていた剣の切先を下げ、口を開く。
『もしかして―――サザンカ様も使ってこちらにこられたという抜け道か、穴がその机にあるということなのか』
ダガーから教えて貰った、秘密の抜け道で穴に関しての四方山話を思い出す。
先王で、鬼神とも謳われたグロリオーサ・サンフラワーも、お忍びで出かけるときに使っていたという、抜け道。
(それに陛下は、確かこう仰っていた筈―――)
"後1人は、会った事はないかもしれないが、名前は聞いた事が必ずある筈"
"ただ、どうやら遅れてやってくるらしいから、私―――俺は逢う事が叶わないが、その先生、俺は"師匠"と呼んでいる方がきたなら、例え国王が不在だとしても、上手くやってくれるだろう"
(陛下が、"師匠"と呼ぶ人物)
それを思い出し、キルタンサンスが無言で剣を降ろし、鞘に戻したなら、ミストもそれに続いた。
『すまん、驚かせてしまったようだが―――取りあえず、今から君たちの前に姿を現すつもりなのだが、これ以上、吃驚しない様に、頼むよ。
勿論、今君達が警戒をしているダガー・サンフラワー陛下の机の、一番下にある大きな引き出しから出てくるからね』
聞こえてくる声だけで判断をするのなら、随分と落ち着いたもので、不思議と"年寄り"なのだという事を感じさせる。
促される様にして落ち着きを取り戻す2人の男女の騎士は、この状況に取りあえず、警戒を緩めた。
更に、机から聞こえてくる声でダガーが弟に語っていた事も思い出す。
"もしかしたら、兄上は仕事でもういないかもしれないが、その時は"先生"達の言う事を良く聴くんだよ"
旅立ったダガーに"先生達"について聞き逃していたとばかりに考えていた、正体が判らない先生に、キルタンサンスはこの声の人物を当てはめた。
(そうか、国王ダガー・フラワーや法王ロッツという立場ではなくて、"見習いパン屋のダン・リオン"と"見習い花屋のロッツ"として頼りになるという事か)
そこで思い出すのは、ダン・リオンパン屋というよりも、何かの武術の師範の様に泰然としているバロータという老人だった。
"例え国王が不在だとしても、上手くやってくれるだろう"
ダガーはそうは言っていたが、頼りになるだろうが、幾らなんでも言い過ぎだろうと思いながら、"机"に向かって語りかける。
『"バロータ殿"ですよね?。良かったら、此方から机の引き出しを開けましょうか?』
『いや、大丈夫、構わないでくれ。一応、王宮と城下町のパン屋を繋げているだけあって、色んな仕掛けがある。
特に、出入り口は特に厄介でな。下手をしたら"負傷"する』
負傷という言葉に揃って、王族護衛隊の騎士達は揃って眉毛を上げていた。
『判りました、待っています』
キルタンサンスがそう答えたなら、部下からの視線を感じて振り返ったなら、瞳に好奇心の色を浮かべているのが見て取れる。
『どうかしたか?』
『隊長、机の秘密の抜け穴から、いらっしゃるという方のお名前は"バロータ様"と仰るのですよね。
それって、ロッツ様、サザンカ様の前に法王様を勤めていらした、平定の四英雄の1人の、通称"神父バロータ"様と同じ名前ですよね?。
私、一応代理ですけれど法王様の護衛になるんで、歴史の教本を読み直したですよ』
『ああ、言われて見ればそうだな。でも、偶然だろう。
確か御訃報は、法王を退位された後に小さくだが、布告されていた。
それに御生存だったなら、相当なご高齢のはずだぞ。
平定の英雄の中でも最年長だった』
"英雄殺しの英雄"を調べるにあたって、近代の事を調べたなら、必然的に"平定の英雄"の方も情報として入る。
何度も目にした事もあり、キルタンサンスはり覚えてしまった先々代の法王の年齢を、今の暦に当てはめ、実際に生存していたなら後2年程で、90に近い年齢になる。
(流石に、ないよなぁ)
ダガーが"見習いパン職人ダン・リオン"となって、会っているバロータは、髪こそ真っ白であるが背も曲がることなく真っ直ぐであった。
年を取っているにしても精々60を過ぎたばかりで、とても、90間近にまで年をとっている様には見えない。
(ダガー陛下は"法王バロータ"と、父親で英雄でもある先王グロリオーサ陛下を通して面識があっただろうから、その名前に親しみがあったのかもしれない)
キルタンサンスも自分の名前自体にはそこまで反応しないが、勤務中にしても休日にしても、街中で自分の妻や娘達の名前が耳に入ったなら、思わず振り返ってしまう時がある。
勿論十中八九は"他人"で、同名か、若しくは親しみを込めて呼ぶ愛称が被っただけという事が殆どだった。
それで、その時呼ばれた名前の人物に勝手に親しみを抱き、笑っていたなら安堵する自分もいる。
愛しているのは、妻や娘ではあるのだけれども、それは名前も"込み"で愛情を持っているのだと、齢は30を過ぎ、家族を持ってから気が付いた事でもあった。
『それなら、陛下の小さい頃には、法王のバロータ様と面識もあったはずですから、名前が一緒だから、城下に出た時に親しみが湧いて出来た御縁という事でしょうか』
どうやらミストも名前について、思い当たる所があるらしくそんな意見を口にしたなら、キルタンサンスも同調して頷く。
『ああ、恐らくはそういう御縁だろう』
そう返事をした時、再び机の方から声がする。
『―――久しぶりだから、勝手が判らないな。少しばかり、大きな音を出すから、よろしく頼む』
『判りました』
『どんな仕掛け何でしょうね、隊長―――』
キルタンサンスが返事をし、ミストが尋ねた時、まるで岩石が流れを起こすような音と共に、足元が大きく揺れた。
騎士2人は日頃の成果もあってか、バランスを崩したが座り込む事はなかったが、一般的な人なら手を床につけてしまう程の揺れだった。
『地震か!?』
先ずは家族の安否を第一に思い浮かべている内に、揺れは直ぐに納まった。
それから、ダガーの机の引き出しが物凄い速度で開いて、流石の騎士達も驚く。
続いて五指を伸ばした、手は音があるわけでないのに"にゅっ"と出てくるのを見つけて、2人の騎士はまた揃って驚いて固まる。
『やれやれ、この正拳付きをしないと開かない仕掛けは、いい加減止めて貰わないと、年寄りにはきついな』
そんな言葉と共に、ダン・リオンが師匠とする、"パン屋のバロータ"が姿を現した。
(やっぱり、"名前"が同じという事で始まったご縁なんだろうな)
地震があったり、いきなり姿を現した事で驚いてもいたが、"パン屋のバロータ"の机の引き出しから現れた上半身を見てそう感想を抱く。
見た目からして矍鑠と印象を与えるという白髪の、結構な年季を積んだコックコート姿の老人は、机の引き出しの縁に手を置いて、身軽に飛び出し、ダガーの私室の床に着地する。
すると次の瞬間には、寝室の扉が開き法王の衣に着替えたロッツが、杖を手に再び寝室に入って来た。
直ぐに兄の寝室にいるパン屋を見つけて、そちらに駆け寄り挨拶を行う。
『おはようございます、バロータ先生、お久しぶりです』
『おお、法王猊下もお元気そうで何よりです』
『あ、ロッツ様、大丈夫でしたか地震!?』
"ロッツ様は、急激な環境や状況の変化に弱い"
同室のディンファレから、忠告を貰っていたのを思い出したミストが、尋ねる。
『地震?、そんなのがありましたか?』
ロッツに続き、サザンカが多分花屋のロップの衣装を仕舞っている風呂敷包みを手にし、寝室に姿を現した。
法王の代理の護衛騎士の言葉に随分と驚き、小さく口を丸く開けてしまう。
『え!時間にしたなら、確かに一瞬でしたけれど、地震は確かにありましたよね?!。そうですよね、隊長』
『どうやら揺れた事は確かだが、それが地震と呼べるものではなかったみたいだな、ミスト』
そう言いながら、キルタンサンスが視線を向けるのは、ロッツと談笑しているパン職人だった。
バロータは尚も語り掛けているロッツに"少し、御話休憩です"と断わりを入れた後に、サザンカの方を向いて口を開いた。
『サザンカ"さん"、入り口を開ける際に行った手順で、この部屋だけ大きく揺れたのです』
バロータがそう丁寧で且つ厳かにも感じさせる穏やかな口調で言ったなら、サザンカはパン屋が何を言わんとしているか理解をする。
『そうでしたか、私は陛下に入り口を開いてもらったので。
それでは秘密の通路と繋がっているこの部屋だけが揺れたという事で、護衛騎士隊の皆さんは驚いたみたいですね』
パン屋と現在は花屋となった2人の会話と、"正拳付きをしないと開かない仕掛け"、という発言を元にして女性騎士の方は漸く"地震"の正体が判る。
『それでは、先程の揺れは秘密の抜け道を開く為に行われた、行動で、その仕掛けを動かす為にパン屋のバロータさんが起こしたというわけですか?』
ただ今度は揺れの正体は判ったけれども、地震と勘違いさせるほどの衝撃の"正拳突き"を繰り出したという老体でもあるバロータに驚きの視線を注ぐ。
その視線に気が付いて、少々わざとらしく白いコックコートの袖を捲ったなら、上腕の箇所だけを見たなら並みの体力自慢の兵士にも劣らない筋肉をつけていた。
『パンを捏ねるのには、力がいりますから。
後は、少しばかり武道を"齧って"おりました。
今も筋力維持の鍛錬が癖づいております。
若い頃は1つ道場を、任せて貰ったりもしたのですが、パン屋の夢を捨てきれずに、五十路前に一念発起したわけです』
まるで説法をする神父のように滑舌よくバロータが喋る事に、ミストが少しばかり驚いている内に、パン屋は捲り上げた袖口を元に戻していた。
『ああ、やはり何らかの武道を嗜んでいらっしゃったのですね。
……っと、いきなり言葉を差し込んですみません』
バロータの説明に、初見の時から抱えていた疑問が解けたキルタンサンスが無意識に頷きながら、思わず口を挟んでいた。
バロータの方は苦笑いを浮かべて、ダン・リオンの"正体"と性格をよく知っているだろう護衛騎士に、構わないですよ、言葉を返す。
『弟子のダンは、無類の"猛者好き"ですからな。
だが、いきなり"強そうなパン屋だから、弟子入りを頼みたい"と言われた時には、流石に驚きました。
御近所の花屋のサザンカさんが、元法王なのは存じ上げていたが、その縁がこちらまで及んだのですから』
ダガーのダン・リオンとして弟子入りした経緯も説明しながらサザンカにバロータが視線を向けたなら、風呂敷を抱えたままゆっくりと頷いた。
サザンカが頷いたのを確認してから、パン屋は側にいるロッツに手を伸ばした。
『さ、それでは法王猊下、杖を少し貸して貰えますかな。一応師匠であるからには、不肖の弟子の頼み事を聴かなければならない』
『はい、判りましたバロータ先生、"返します"』
丁寧と慣れ親しむ口調を織りまでながら、パン屋が伝えたなら法王は素直な子どもの様に杖を渡す。
キルタンサンス、ミストもロッツの"返します"という言葉に少しだけ、違和感を受けながら、日頃護衛するディンファレから、
"ロッツ様は少しばかり変わった物言いをするのも、また魅力なのだ"
と、付き合いが長い者なら判る、彼女の熱い語り口で聴かされた事もあるので、今回の言葉遣いも、その延長なのだと納得する。
『実は、今でこそ落ち着いていますが、若い頃は何かと精霊に好かれる体質でした。
それなり調整する術があったので、難儀はしませんでしたが』
『へえ、それって、ロッツ様と同じなんですけれど!。年を取ったら、そう言うのも落ち着くものなんですか?』
まるでバロータの口調が移った様に、ミストが丁寧さと慣れとそして自分の口癖を混ぜながら尋ねた。
バロータは結構な重量がありそうな杖を天井に翳す形に、鍛えられた片腕で持ち上げながら、苦笑を浮かべていた。
『いや、儂の場合は12年程前に少しばかり大きな病に罹っいてな。
それまでは、意識をしなくても精霊が寄って来てくれたんだが、それからなくなってしまった。
だが、ある時"見習い花屋のロップ君"が法王の仕事の際に使う、先々代の法王様の杖を花屋まで持ってきてしまった。
花屋は外から見え易い造りをしているから、取り敢えずうちのパン屋で預かる形になったんだ。
そこで杖を手にしたなら、昔の様に自然に、精霊が寄って来て集める事が出来た』
そうバロータが答える時には、国王の寝室に冷気が漂い始める。
冷気が寒気にも繋がりそうな勢いになる中でも、キルタンサンスはバロータが口にする"先々代の法王"という言葉に思わず反応していた。
『若い頃には、先々代の法王様と同じな名前という事で、揶揄された事もあったよ』
如才なくその視線に応えた瞬間に、この部屋にいる一同は寒さが一瞬"痛み"になるのを感じたなら、バロータの前で青い旋風が出来上がる。
『さて、巧い事造形出来たら良いが――』
ここまで来ると、護衛の騎士達は武道だけではなく、精霊とも縁深いパン屋の老人が何を行うとしているのか大方の予想が出来ていた。
『法王様、氷の女帝、ニブルを思い出してください』
短く具体的な言葉でバロータが伝えたなら、法王は薄紅色の髪を青い旋風の余波で揺らしながら、はい、とまた素直に頷く。
寝室内で細氷、ダイヤモンドダストとも呼ばれる現象を目の当たりに、ミストが金属である鎧が冷える事に身を縮ませながら、尋ねる。
『これって、氷系の精霊を集めて"ニブル"の形に造っているという事なのでしょうか、隊長?』
そう言って横を見たならいつの間にか鎧の肩の部分に、トカゲの姿をした火の精霊を呼び出し、キルタンサンスは暖を取っていた。
『多分な。だが、あの氷の女帝の姿は精霊を集めて造れたとしても、維持をすることが出来るのか?。
私は、魔法はそれなりに勉強しているが、五感や感情を優先する精霊術は、武力に関係する"火"の方しか使わないのでよくわからない。
ああ、それとミストも寒いなら、無理するなよ。女性に冷えは大敵らしいからな』
そう言いながら、ミストの鎧の肩の箇所に、もう一匹、トカゲの姿をした火の精霊を呼び出し、自分と同じ肩の箇所に置く。
今、ダガーの寝室内は大気中の水蒸気が昇華して、ごく小さな氷晶が出来る事で、火の精霊などは極めて呼びづらい状況ながらも、はっきりとした個体で呼び出せている"隊長"の実力に驚きながらも、感謝をする。
『隊長、ありがとうございます。
後、もし気が付いてないなら、お知らせしますけれど……。隊長が、休憩時間に奥さんやお嬢さん達の肖像画を手にしている時、風の精霊が結構集まっていますよ』
『お、そうなのか?。そうか、それで結婚してから、風の精霊の治癒術なら上手く出来る様になったのか』
どうやら気が付いていなかったキルタンサンスの返事が出た時、バロータが掲げていた杖を大きく振るい、今まで渦巻くように動いていた青い旋風が、その形のまま凍り付いて固まる。
そして、ニブルの大きさ―――成人した一般的な女性の身長の高さの氷の、旋風の形をした物体が、国王の寝室の中央に出来上がった。
バロータは掲げていた杖をおろし、握っていない方の手を首の根にそえて、細く長く息を吐き出しながら、肩を鳴らす。
『バロータ殿、その集めた氷の精霊を"ニブル"の形にして、ロッツ様の傍らに置いておくという事ではないのですか?』
『ああ、中身はロッツ……様が思い浮かべたニブルの"型"に固まった精霊が、詰め込まれている。
ただ、その前に1つ仕込まなければならない事がある。
サザンカさん、持ってきているか?』
冷気に満たされている室内で、キルタンサンスが尋ねると、杖をロッツに返しつつその質問にバロータは返答し、今度は"ご近所さん"であるサザンカに尋ねる。
『はい、ダガー陛下はルピナス様とランブラー様が持っているから、それを使えと申し使っておりました』
相変わらず風呂敷包みを抱えたままのサザンカがそう言うので、姓で呼ばれた騎士達の方が顔を見合わせるが、自分達が持っている物には心当たりがあった。
『私達が持っている物という事は、通信機の事か?。これをどう使うというのですか?』
疑問も口に出しながらも、"ニブルの不在"を何とかできるのと、ダガーが通信機の事を言っていたならと、キルタンサンスが自分の使っている物を取り出して見せた。
『そうだな、ロッツ様を護衛しているのが、そちらの女性騎士殿なら、隊長殿の通信機をおかりしようか。
ロッツ様、こちらをご覧ください』
パン屋は懐に手を突っ込んだなら、紙とペンを取り出しすぐ傍にある机を使って、伝えたい内容を簡単な箇条書きにして、法王に見せる。
ロッツはそれを声にだして読みあげた。
『1、ニブルが帰ってくるまで、ニブルがいない事はここにいる、バロータ先生、サザンカ先生、キルタンサンス、ミスト以外には"秘密"です。
2.氷の精霊の人形を、バロータ先生が作ったので、ロッツの魔力で動かします。
3.ただ、喋る事が出来ないので通信機を入れて声を出します。
4、ニブルが帰ってきたならおしまいです。
はい、わかりました……』
"わかりました"と返事をして1度口を閉じる。
けれども、まだ真剣にバロータから渡された紙を眺めながら、ロッツは再び口を開く。
『バロータ先生が造った氷の精霊のニブルの人形に、通信機を入れます。
通信機から声は、出ます、ニブルみたいになります。
私は小さい頃、兄上と遊んでいたから知っています。
でも声は、ニブルの声は、誰がしますか?』
おっとりとロッツが尋ねたなら、まるで事前に示し合わせた様に、他の3人の視線がミストに注がれる。
その視線を遮る様に、眼前で鎧の小手を着けた両手を振る。
『わ、私ですか?!。そ、そんな、無理なんですけれど!。っていうか、本当に無理ですから!』
"手"だけでは視線を防ぎきれないと思ったのか、今度は更に前髪とサイドの髪が、顔面にぶつかる程、激しく頭を左右に振っていた。
『"無理"で言うのなら、陛下の護衛をしている私を含め、パン屋のバロータ殿に、現在花屋のサザンカ様もだ。
それに何より私では、声が低すぎる。
それに氷の精霊の口調は、ディンファレが今は王都にいないのなら、ミストが一番詳しいだろう』
キルタンサンスが言ったそばから同調する様に、パン屋と花屋は上下に頭を動かし、法王はニコニコと微笑んでいる。
だが、自分が氷の精霊の声の代わりなど出来る訳がないと、ミストは拒む姿勢を崩さない。
『口調が少し詳しいのは認めますけれど!。でも、ニブルは結構、その女の子みたいな声っていうか高いし、私が無理してだしても、通信機越しにだって誤魔化せませんよ!』
『それでは、"通信機越し"で氷の精霊の声だと認識出来る様になれば、口真似も吝かではないという事でいいかな、ミスト殿?』
普通のパン屋にあるまじき眼光と、少しばかりふざけている様な口ぶりで、武道の心得のあるバロータは腕を組みながら"確認"する。
『な、何ですか?!確かに吝かじゃないっていうか、声の問題さえ誤魔化せれば、確かに口真似出来る自信はありますけれど』
確認をされた事には応えなければいけないという義務感から、思わずミストが考えた中で、正直に答えたなら、風呂敷を抱えているサザンカが器用に両掌を合わせて、微笑んだ。
『なら、問題は解決ですね。
ルピナス様のお使いの通信機を貸してください。
私でも、通信機越しなら声の高低の調整は直ぐにできますから』
サザンカに言われ、キルタンサンスも素直に通信機を運び渡した。
受け取ったなら少しばかり表の精霊石を撫でたり、裏側を確認して花屋は頷く。
『ああ、これなら直ぐにできますね』
『こ、声の高低を調整が出来るなら、それこそサザンカ様で!』
『すみません、私はニブルという精霊の存在は知っていますが、性格が判らないので……』
返事をしつつ、サザンカが早速調整を始めたので、ミストは慌てて食い下がる。
『だったら、私が教えますから!』
『―――エマスカラ!』
通信機を弄っていたサザンカの手元から、ミストが発したイントネーションで聞き覚えのある精霊の声が響く。
その現象には、それまで寝室に漂う冷気に、火の精霊が居なければ凍えそうだったミストの身体が、一気に火照っていた。
そのまま急いで両手で口元を塞ぐ形で抑え、サザンカを見つめると、柔らかく微笑んでいる。
そこに追い打ちをかける様に、ロッツがパチパチと杖を手にしたまま器用に手を叩いて、笑顔で口を開いていた。
『わあ、ミストさんの声が、ニブルの声になりました。
それに、ちょっと"ムキ"になった時の言い方がニブルにそっくりでした。
サザンカ先生凄いです』
これはもう、一番"氷の女帝ニブル"の声を聴いている法王ロッツからの"お墨付き"が出たようなもので、女性騎士は目に見えて項垂れた。
『調整が予想外に上手く行ったので、早速スイッチを入れてみましたが、ミストさんが持っている通信機から拾った声でも大成功みたいで何よりです』
『おー、いつも氷の女帝を侍らせているロッツ様がこう言っているんだから諦めたら―――受け入れたらどうだ、ミスト?』
少しばかり気の抜けた声で、キルタンサンスが揶揄う様に言ったなら、普段なら上手くやり過ごすミストも激しく言い返してしまう。
『隊長、今、あからさまに"諦めたら"と言った後に、受け入れたらと言いましたよね?!』
勿論、その声も通信機越しになったなら、音階は高くなってサザンカの手元から漏れた。
『"法王猊下"、先程のミストの少しばかり子どもの様になった物言いはいかがですか?。
個人的に氷の女帝に詳しくはありませんが、調子は合っていると思うのですが』
そこで挑発され、心は幼いニブルという精霊が出しそうな声を引き出されたのだと知って、ミストは再び項垂れる。
『判りました、通信機越しですけれど、法王猊下の側にいる偽物のニブルの、声真似は引き受けます、
どっちにしろ、護衛と側にいる私がやった方が気取られなくて済みますし。
法院の騎士達も、ニブルがいればそれで騒ぎ立てることもないと思います』
ミストがまるで降伏する様にそう述べた。
『何はともあれ、どうやら、話は纏ったようだな。
女性の騎士さんの方も此処で落ち込む必要は、ないだろう。
どうやら、あんたの上司は義理堅い様だから、今回の貴女への恩は高く買い取るだろう』
慰めると言うよりも、気持ちの切り替えを促すようなパン屋の言葉に、下げていた頭をミストは上げる。
『はい、前向きにそう考える様にしておきます』
それから"前向き"になった女性騎士は普段の様に抜かりなく仕事をこなす熟す為にと、ロッツに通信機越しの声を聞いて貰い、いつも遠巻きにしている法院の騎士を誤魔化せるくらいには十分になった。
『それではサザンカさんは通信機の方を、そちらの氷の柱に。
それと、ロッツ様はニブルが帰って来るまでその氷が解けない様、いつも氷の精霊に魔力を分けるのと同じ様に上げる事だ。
魔力を分けている限り、"形"が崩れる事はないからね』
『判りました、バロータ先生』
サザンカが指示された通り通信機を添えたなら、その箇所から吸い込まれるように氷の中に入って行ってしまった。
『では、火の精霊は戻しておいた方がいいな。
これから柱を崩して動き出したなら、随分と寒い思いをする事になる。
それは可哀相だろう』
『そうですね』
精霊にも詳しい―――というよりも扱い慣れ過ぎている、国の王様が"師匠"と呼んでいる老人の言葉を、聞き入れてキルタンサンスは自分と部下の為に招いていた、火のトカゲをそちらの世界に戻してやった。
そしてその頃には既に、警戒とまではいかないが、"昔、武道を嗜み、道場の1つを任せて貰った"と口にする矍鑠とした老人にある疑問を抱いている。
バロータ自身から聞いた話に嘘を感じるというわけでもないが、今ここで見せている能力はその語ってもらった経歴以上の物を感じてしまっていた。
(まあ、今とりあえず気にするべきことは、ダガー陛下の不在を周囲に気取られないことだな)
そんな事を考えている内に、ロッツが、静かに通信機を吸い込んだ氷の柱の前に移動する。
『ニブルの"お人形さん"、出て来てください』
そう語りかけて、杖の上の箇所で軽く突いたなら、そこから瞬く間に細かい亀裂が柱全体に走る。
『皆、眼は庇っておきなさい』
今まで一番厳かに、バロータが声を出して、ダガーの寝室にいる、法王以外の誰もが素直にその指示に従った。
騎士とパン屋は各々の逞しい腕で、花屋は身に纏っているローブの長い袖で顔面を庇う。
殆ど視界を遮られる様になるのだけれども、僅かに端に見える風景が"白く"なる。
その色が見えた直後に痛みに感じる"寒さ"が一瞬肌を撫で、烈風が通り過ぎて行ってしまった。
『ニブルのお人形さん、完成です―――』
ロッツの長閑な声と共に、自然と見上げる形で、氷の女帝の形に集められて固められた氷の精霊による、結晶を見上げた。
『……』
ニブルの形をした精霊は声が出ないだけで、いつもの様に、法衣を纏ったロッツの肩の上に佇む。
『ロッツ様がいつものニブルの事を思い出せば、動きだけはその様に動く。
ただ声と、"護衛"はミスト殿に頑張って貰うしかないがな』
騎士達の気のせいでなければ、武道を嗜むパン屋の"護衛"という言葉が少しばかり強く発せられた様に感じて、老人に視線を向ける。
だがパン屋は、視線を察しながらも直ぐに応えずに、背を向け、歩き出した。
『言葉の通りだ。
多少、ロッツ様の思う通りに"いつものニブルの動き"はしてくれるが、本来の"氷の女帝"の能力には程遠い』
そう言葉を区切り、ダガーが出て行った、今は閉められている窓越しに、まだまだ空は暗いが城壁の向こうに見える山を見る。
水平線と山を区切る縁は白い波線となって縁どっておい、もうすぐ夜が明けるのが感じられた。
『―――"恐れを避けて、堕ちるものは氷海に浸り。
堕ちた穴を昇らんとする者は、凍てつきの息吹にて縮み』
そんな中で沈黙を破ったのは、ロッツだったが、その声はいつもの穏やかで長閑な内に一筋の意志が通っている様に感じさせられる。
杖を両手に握り、額につけて、兄と揃いの父親譲りのキリリとした眉のしたにある、瞳を閉じ、大きく口を開いていた。
また口にする言葉も、説法の際に口にするような、言葉をそのまま受け止めるというべきものではないと、考えさせられる類の物が続けられた。
『―――やがて、大きな力をもって上がらんとも、氷の世界の主の力を以て、12の羽根さえ凍らせる"。
これが、ニブルの持っている能力です。
でも、お人形のニブルにはそんな能力はありません。
だから、ミストさん、よろしくお願いします』
『……はい。判りました、法王猊下』
言葉の最後の方は、比較的に穏やかな、普段のにこやかなロッツの言葉であるにも、かかわらず多大な緊張は与えられ、護衛騎士は普通の返事をすることがやっとだった。
今しがた見せられた難しい文言と共に語る姿と言葉に、これまでも感じていたけれど、それを更に上回る圧倒的なカリスマに抑えつけられたのを自覚する。
その抑えつけられる様にして、身が固まっている女性騎士の上に"人形のニブル"が、冷気を纏ってやって来た。
『それじゃあ、ミストさん、練習をしてみましょう。
私が、セロリを残した時にする、怒ったニブルをやってみてください。
"残しちゃだめよ"と言ってみてください』
そんな言葉を無邪気に口にする様子は、いつもの"法王ロッツ"の物になっていた。
『はい、そうですね、ロッツ様』
ミストも、普段の様に何事にも応用の効く己のペースを取り戻そうと、そう答える。
だが"ニブルの口真似の練習"は窓辺に立つバロータによって止められた。
『ロッツ様、ミスト殿と練習は部屋に戻ってなされてはいかがですか?。
まだ星は輝いてはいますが、もうすぐ本当に朝になります。
多分、兄上の部屋に来る為に協力してくれた、精霊達の力も尽きます。
練習して戻ったなら、法王様の姿をしたロッツ様の姿を見て、精霊の力が終わっていて、眼が覚めた近衛兵達は驚きます。
その事を"知らない振り"をしてはくれるでしょうけれど、出来れば本当に知らない方がいいと思います。
それに、儂もパンの発酵待ち時間に来ただけなので、今から戻った後でまたきます。
その時に、こちらにいらして、"ニブルの人形"の練習の成果を見せてください』
聞き取り、受け入れ易い様に、パン屋は端的に口に出す度に、ロッツは納得し、頷く。
『……判りました、お星様が空に隠れてしまう前に、帰ります。
ミストさん、"ニブル"戻りましょう。
パン屋さんも、花屋さんも朝は早いです。
"それでは、みなさん、また後程"』
法王としての言い回しとして学んだ語調で"別れの挨拶"を口にしたのなら、ロッツは杖を手に部屋を出て行こうとする。
ミストが視線でキルタンサンスを見たなら、顎を動かし、
"構わず行け"
と、合図を送ったなら、直ぐに頷き、ロッツの後に続いてダガーの寝室を後にした。
『それでは、サザンカさん。序でに一緒に戻りましょうか』
『はい、そうですね。ただ、慌ただしかったせいかもしれませんが、随分と時間が過ぎるのを早く感じましたね』
サザンが"それとなく"といった雰囲気で言葉を口にしたなら、キルタンサンスもそう感じるところがあったので、思わず苦笑いを浮かべた。
『でも、陛下にしたなら、星空が終わって安心して、ロブロウまで向かっているかもしれませんね』
『ああ、それは確かに』
親しい間柄には、"弱点"とまでとはいかないが、苦手な星空の事を話していると聞いていたので口に出してみたなら、やはりサザンカは知っていたらしく、こちらは少し困った様に微笑んでいた。
(バロータ殿も、その話を聞いているだろうな)
そう考えて、矍鑠としているパン屋の老人を見たなら、未だに窓辺に佇み―――恐らく、夜空が曙に変わっても輝く星を見つめていた。
サザンカと揃って不思議と言葉をかける雰囲気にはなれず、その様子を見つめていたなら、バロータという人にしてはきっと鈍めの反応で、視線に気がつき、こちらは罰が悪そうに笑った。
『すまんな、今回の事は弟子に限らず、儂にも随分と思い入れのある出来事になりそうなんでな』
『そうなんですか、だったら尚更、陛下が早くロブロウについて、上手く行くと良いですね』
護衛騎士として、ダガーを慕う者として心からそう願う言葉を口にしたのなら、パン屋はその言葉に、心から感謝し有り難そうに頷いた。
そうして、ロブロウの調査に始まり、護衛騎士や腹違いの弟に、花屋とパン屋を巻き込んだ"ダガー・サンフラワー"の不在は成功した。
成功したから、予定の公務の時間前に鷲のイグと共に戻ってきたけれども、理由は判らないが片方の頬を腫らしていたので、急いで治癒術をかけたりして、何かと慌ただしい。
そして、ここからミストの受難が始まる。
鷲のイグですら戻ってきたのに、氷の女帝が戻って来ないのである。
練習の成果があって、法印の騎士達を誤魔化せてはいたが、その緊張の量は洒落にならない。
ただ、法王ロッツは別段慌てる事なく、時おり
"これではグラン君が困ります"
と、氷の女帝が消えた時に口にしていた言葉を、人形のニブルを見上げながら口に出す程度だった。
その言葉の意味が判ったのは、ダガー・サンフラワーに遅れて農業研修の一行が、ゆっくりと帰って来た後の事となる。
"ゆっくり"になった理由は、実は本筋から外れる。
農業研修、そして国王が秘密裏に賢者に銘じ行った、人攫いの咎を起こした故に行われた、処断の件自体は、短時間で調査は終えていたらしい。
ロブロウに着いてからの大農家の弟子のルイの暴挙への謝罪にと、新たに王都の一行が辿り着いてからの挨拶も滞りなく終えていた。
だが、そこから春の天候のという事もあってか、ロブロウの方では随意分と酷い局地的集中豪雨で、帰るに帰れない状況となる。
魔法鏡で連絡が取れなくなった事で、天候不良知っているがここまでとは考え及ばなかった。
特にその領地自慢の渓流が、前から懸念し、治水に儀式を行おうとしていたが、この豪雨で氾濫間際となり精霊達も荒れる。
その事で、この世界で火・風・水・土の4つの種類に分かれている血液の型で、個人差はあるが特に"水の型"は影響を受けやすく、今回はアルセンが、大きく受け、寝込む。
彼が寝込んだ事で、"どうせ留まる事になるなら"と賢者が領主に渓流の治水、浚渫の儀式の協力を日頃姿は隠している賢者が領主の前に現れて協力を申し出たという。
領主も有り難く賢者の提案と知恵を受け入れて、"折角英雄や優秀な騎士達がいるのだから"と結構大掛かりな儀式を行ったとの事だった。
キルタンサンスも事後に知ったが、その大掛かりな儀式に、本来ならアルセンに任せる筈だった役目をリコリスが引き受け、更にニブルが姿を消したのは"ロブロウにいる賢者が強制的に招いた"という事も判明した。
そして、その儀式の終了間際に、ダガーは無事にロブロウに辿り着き、"目的"は果たせたようだった。
ただそれからは、正しく蜻蛉返りで部下になる英雄達には、諸々落ち着くまで逗留を命じる。
実際、儀式が相当大変だったらしく、参加した護衛騎士達もディンファレを除いて数日寝台で安静に過ごす。
そんな色んな事が立て込んでいたことあって、如何なる経緯があって呼ばれたか解明されていない氷の精霊は、呼び出した賢者によって封印されていた事が判ったのは、グランドールが王都に戻ってからのこと。
勿論、ニブルが密かに頼まれ冷凍していた、取って置きのカレーは、残念な事になっていた。
そして褐色の大男は、影武者の際に身に付けている、ダガーに本体と言わしめた"髢"を鷲掴みにして宣言する。
『今年のカレーパーティーは、早めるぞ!』