日常から、催し事への誘(いざな)い④
『わかった、任せといて』
アルスの返事に、フワフワな薄紅色の髪が少しだけ揺れて振り返り、笑顔で頷いているのを見た時、賢者を抱えた仕立屋も動き始める。
『それじゃあ、アルス君、先に行っていますね。
使い魔のカエル君用の器と、後片付けをお願いしますね。私は、賢者様と先に三階のお部屋の方に行っておきますね』
『あ、はい』
そう告げて、両腕に結構な重量があるものを抱えながらも、仕立屋の方は足取り軽く、食堂を出て行く。
(さて、自分も、リリィがホウキィーを外に出したら、移動するから急ごう)
1人残されたアルスが、小さな同僚用の小さな台車を押そうとした時、柔らかい風が頬を撫でた。
(ん?)
片づけようとした手を止めて、風が撫でた頬の場所に手を添えたら"クスクス"とした音と例えるには、小さすぎる声がアルスの耳に入ってくる。
相変わらず感覚は掴めないけれども、ある意味では"馴れた"事でもあるので、新人兵士は顔を上げて、耳を澄ます。
(多分、精霊が自分の側に来ているんだろうけれども)
精霊の存在を感じないし、何処にいるのかもわからない。
でも、似たような状況はこれまで数度あった。
その度に精霊の存在が気が付ける人達に"アルス君の周囲に精霊が集まっているね"と教えてくれた。
(今は、誰もいないから、風の精霊がいるのだろうけれど、何を囁いているのかは教えても貰えない)
耳の長い上司も、小さな強気な同僚も、多分普段は人前では面を身に着けているという恥ずかしがり屋の仕立屋も、多分アルスがからきしな魔法については、才能があると思う。
『……ごめんね、今は自分1人だから、"君達"の声を聴くことが出来ないんだ』
言葉を口に出して謝ると、また室内にも関わらず、アルスの頬を柔らかく風によって撫でられるを感じた。
ただ、前はそこで"自分と精霊は交流出来ない存在"との関わりを諦めていたけれど、今はそれでも"アルス・トラッド"1人でも出来る事を考える。
(とはいっても、出来るのは考える事ぐらいだけども……風の精霊は確か)
"風の精霊は、お話が大好きなの。特に恋や愛については、精霊の中では一番好きだって言われているの"
アルスの頭の中で思い浮かべるのは、風の精霊について説明してくれリリィの声であった。
(でも、さっきの中に恋の話の要素なんて、微塵もなかったからなあ。それに風の精霊は確か、楽しい事やイタズラも好きだっていうし、そっちの方かな)
"恋"に関しては、自覚している程、アルス・トラッドは苦手な分野でもある。
なので出来れば結びつけないで、考えようともしていたのもあるが、この状況で"恋"も何もないような気もした。
ウサギの姿をした賢者と、その賢者の秘書の巫女の美少女と、新人兵士にはいまだに性別の判明が付かない仕立屋の間で、誰が誰に恋をすると考える時点で無理があるとアルスは思う。
『―――拗ねないでください』
『へ?』
千切れた様な形になって、会話の一部と思える仕立屋の声がアルスの耳に届いた。
本当に”風”に乗って偶然届いた様な声だったけれど、確かに聞こえたし耳に残る優しい声の正体は直ぐに仕立屋のキングス・スタイナーのものだと判る。
『あの声は』
思わず声に出してしまったけれど、名前を出すのは無意識に避けて、直ぐに唇を閉じ考えた。
(キングス様の声で、拗ねないでって、言った相手は賢者殿になる。
今、話しができる相手は賢者殿しかいないわけだし。
それじゃあ、もしかしたら、賢者殿もネェツアークさんみたいに、キングス様を物凄く気に入っているっていう事になって、リリィや自分がいる手前、その気持ちを出せなかったという事になるのかな。
それなら、賢者と鳶目兎耳で仕立屋であるキングス様を、牽制するみたいな形になっている?。
でも、キングス様自身が魅力的な方だから、失礼な考え方だけれど、賢者殿とネェツアークさんが、とても御執心になっているということもあるだろうし。
ただ、さっき聞こえた"拗ねないでください"なんて、余程親しくないと口にしないと思うけれど、でも、キングス様は仕立屋であると同時に、"商人"で……。
だから、相手の気持ちを損なうようなことは口にしないし、繕う言葉も口にするだろうから……)
既に片付けを始めようとした手は止まってしまっていて、アルスは腕まで組んでいる。
加えて、更なる色んな憶測が頭のの中で渦を巻こうとする"前"に、ふとある疑問が"胸"に浮かんだ。
(どうして、精霊はキングス様の声を、自分に聞こえる形にしてまで、風に乗せて僕に運んできたのだろう?)
頭で、理性的に賢者や鳶目兎耳や仕立屋の三竦みを考えようとする中で、胸に涼しくを越えて冴えた様に浮かんだ思いだった。
その冴えが冷たさを伴って、アルスの頭に浮かんだと同時に、頭に浮かんでいた理性的にではるけれども、荒く巻き始めようとしていた三竦みの渦が自然と落ち着いてしまう。
(別に、ネェツアークさんがキングス様を気に入っていて、独占したいみたいな気持ちがあるかもしれないけれど、それで困っている状況にもなっている訳でもないし。
それに、賢者殿がキングス様に"拗ねないでください"と話しかけられていたとしても、その対象は多分ネェツアークさんとは限らないし、別の事かもしれない)
組んでいた腕をほどき、ゼリーを食べ終えた食器を片付け、リリィの為に造った台車を厨房の決まった位置に戻し、使い魔のカエルの為の器を戸棚から取り出す。
それを手にして食堂に戻ってみると、丁度窓に小さな手が拳の形になって表れて、"こんこん"と叩いていた。
『おっと』
直ぐに壁に身を寄せて背をつける。
小さな拳の主は直ぐにリリィだと判ったけれども、窓から自分の姿が見えないようにして、その場所まで移動する。
『あれ、アルスくんいないのかな?』
『いるよ、リリィ』
窓越しの同僚の疑問の声に答えたなら、ガラス越しにいつも以上に背の低い、上目遣いの強気な緑色の瞳が食堂内を覗き込んでいた。
アルスが壁にを背にして貼り付いているので、屋敷の外からは見えないので、今度はアルスの方がコンコンと窓を叩いて少しだけ姿を見える様にすると緑色の瞳を丸くして驚いていた。
『わあ?!すぐそばにいたんだ?!』
『うん、ほら、ホウキィーに見られたら面倒くさいだろうから』
そう言った直後に、食堂の窓から見える中庭を、魔法の箒は"穂先"で掃いながら、駆け抜けてくるのが見えて、アルスは窓辺から慌てて姿を隠す。
箒の方もリリィが"視界"に入る事で、一度ピタリと箒は動きを止めるけれど、"新入り"がいない事を確認すると、再び掃きながら進んで行く。
それから箒の気配と姿が遠のいていくのを感じてから、アルスが窓を開けて、頼まれた事をこなした事を告げると、リリィは"ありがとう"という素直な返事が返して、にっこりと笑う。
『箒は多分屋敷を一周してくるから、暫くは大丈夫だと思うよ。じゃあ、私も賢者さまのお部屋に向かうね。
あ、そうだ、器は持って行こうか?どうせ私はこのままいくんだし』
それもそうだと、アルスが小さく声を出して納得して、窓越しに器を託した。
『自分も剣と上着を置いたら、賢者殿のお部屋―――階段を昇ったら三階の正面の部屋だよね?』
三階にはまだ数回しか上った事がないので、再度確認する様に尋ねると小さな同僚は、律儀に頷いてくれる。
『賢者殿の寝室か、どんな感じなんだろうね』
日頃世間に対しては淡泊であったけれども、賢者の部屋には興味が湧く。
『そんなに驚くことはないと思うよ。その決して汚くはないんだけれど、とっても"ごっちゃり"とはしているだけで……』
あと二十年近くは、自然には浮くことはなさそうなシワを、瑞々しい張りの良い肌に造りながらリリィが言い辛そうに例える。
ウサギの賢者が大好きな少女にしたなら、例え"真実"でも、そう言った言葉を口に出すのが躊躇われる様だった。
『ごっちゃり、なんだ』
どちらかと言えば、人生の中で整頓した部屋で過ごしている事が多かった新人兵士は、その例えに軽く息をのみ、苦笑いを受けべる。
魔法屋敷自体は、魔法の掛けられた調度品やリリィが眼を光らせているだけあって、片付いてるとは思うが、ウサギの賢者と初対面となった書斎は見事に本で溢れていた。
両サイドに大きな本棚があって、その全てが様々な本で埋まっていて、それでも納まり切らずに、積み上げられている書籍も部屋のあちこちにあった。
(あれは、"本"だから纏ってみえたけれど、これが賢者殿の私物になったなら)
軽く想像して仕掛けて、直ぐに辞めた。
(どうせなら、見てから驚こう)
少しばかり好奇心を含んだアルスの顔を見上げて、先輩となるリリィは額からシワを消し諦める様な表情を浮かべ、小さな唇を大きく開く。
『うん……じゃあ、私、カエルさんに梅ゼリーを待たせるといけないから、行くね』
『じゃあ、後でね―――』
アルスがウサギの賢者に指示された通り、"3種"という格好をして、剣を安置場所に保管した後に、筆記用具を手にして言われた通りにウサギの賢者の寝室に向かう。
三階分の階段を身軽に登り、見た事だけはあるウサギの賢者の寝室はの入り口を見てある事に気が付いた。
『思えば、一階にある書斎と同じ造りのスライド式の扉だ』
小さく呟いて、書斎と同じ様に手をかけた時、先に内側から扉が開くと同時に、風が通り過ぎる。
そしてアルスの目の前に、少しばかり慌てた調子の仕立屋が立っていた。
『あ、キングス様』
『―――耳を塞ぐことをお薦めします』
そう言うと、両手の爪化粧が施されている人差し指を左右の耳に射しこむ。
『あ、はい』
力強く言われたわけでもないのだけれども、そのたおやかな声と仕種に釣られるように、アルスは筆記用具を利き手に持った状態で、耳に突っ込んだ。
(あ、もう、さっきの武器を外したんだな―――)
アルスが仕立屋の装具の外れた手元を見た時、賢者の寝室とされる場所から、小さな同僚の怒声が、指の耳栓越しに届いたのだった。
仕立屋が寝室から出て、賢者の部屋が良く見えるようになり、新人兵士が初めて見た賢者の寝室の床は、正しく"足の踏み場の無い"程、色んな物で埋め尽くされてた。
やはり予想は当たっていて、七割は書籍の類で、後は何かしらの道具や、布切れだったり、用途判らない道具などがある。
ちなみに、アルスが寝室の足の踏み場の無さに感心と驚いている間にも、唯一座れる場所でもあるウサギの賢者のベッドの上で、靴を脱いだ巫女は仁王立ちになり賢者は長い耳を垂れて説教を受けていた。
傍目から見たなら、項垂れるウサギの姿は、可愛らしいし可哀相に見えるかもしれないが、部屋の本の散乱具合に比べたなら、説教で済んでいる内は有難いのかもしれないという気持ちもする。
(―――あ、風の通りがよいと思ったら、丁度ベッドの位置が大きく開く窓になっているんだ)
その開いた窓と初夏に向かっている青空を背景に、金色のカエルが自分の身体以上の大きさのある、梅ゼリーの入った器に"お玉"を突っ込み巧みに使い、アルスが選んだ小さな器に移す。
移し終えた後に、今度は身体の大きさと殆ど変わらないスプーンを使って体の半分ぐらいを占める口を大きく開いて、ゼリーを食べていた。
(よく、自分の"主が"説教の中で食べられるなあ……)
カエルの豪胆さに驚きながらも、リリィのウサギの賢者に説教する雰囲気は、不思議とどことなく自分の美人の恩師を感じさせるものがあって、アルスはそれも興味深く眺める。
(顔とかはアルセン様とリリィも似てはないのに、叱っている雰囲気は似ているのは不思議だなあ)
改めて"似ているなあ"と思いながら、その光景を満足する程見た頃に、耳栓をしたまま仕立屋の方から話し合かけられる。
『取りあえずリリィさんのお説教が済んだ後の算段を、私達でしておきましょうか、アルス君』
不思議と耳栓をしていても、よく通って聞こえてくる声に、アルスが頷くと梅ゼリーを食べて満足した金色のカエルが、説教している1人と一匹の間を飛んでこちらにやってくる。
だが説教をしている方もされている方も、特に気にせずに続行しているのでそれにもアルスは空色の眼を瞬きして見つめている内に、仕立屋と新人兵士の目の前で動きを止めた。
『お腹いっぱいになりましたか?』
『ゲコッ』
仕立屋の問いかけに、使い魔のカエルが鳴き声で答えたならアルスの頭に鎮座する。
『それで、キングス様算段というのは―――』
『はい、取りあえず作業場を作る為に寝室の入り口付近にある、もう資料として役目を終えた書物は、一階の書斎の方に移動させましょうか。
リリィさんがくるまでの間に、降ろして片づけてよい本の指示は、私が賢者様から受けていますから』
耳に差し込んでいた指を引き抜き、ウサギの姿をした賢者が意見を提案する時の様に、人差し指を天に向けキングスはにっこりと笑う。
『それは、つまり』
『荷物運びです。少々重労働なりますが、よろしくお願いします』
『あ、わかりました』
いつも自分がしている事だし、どちらかと言えば指示を出して貰った方がアルスとしては働きやすいので了承する。
『取りあえず、作業を始め為の足場を作らないと、アルス君に任せるという筆記作業が出来ませんからね。
リリィさんに"作業する場所が出来たから、お説教を中断して作業を始めましょう"と提案することを目指して、頑張りましょう』
『はい、判りました』
『ゲココ!』
アルスの返事に続いて使い魔が答え、仕立屋と新人兵士は作業を開始する。
最初に数回2人で三階の階段を往復し、入り口付近の本を階段の上り口まで運んだ。ここでもアルスとそんなに背丈も変わらない仕立屋が"力持ち"具合を発揮して、1.5倍程の書籍を抱えて、階段を昇降していた。
寝室の半分ほど足場が出来た頃、仕立屋が宣言どおり"作業する場所がが出来たから、お説教を中断して作業を始めましょう"と口にして漸く説教は止まる。
『え~と、それでここから、はワシが指揮するのかな?』
『ええ、そうですよ、賢者様。リリィさんは、折角アルス君の台車があるみたいですし、私と一緒に階段下に降ろした本を、賢者様の書斎に移動させませんか?』
『わ、わかりました』
賢者の方は、垂れっぱなしだった長い耳を幾らか角度をつけて起こし、巫女の女の子も一通り説教を終えて、すっきりしたのか漸く本格的に作業が始まった。
ウサギの賢者とアルスで出来たスペースで、最初は物で溢れていて存在が判らなかったが、横に広い、寝室の中央の場所を殆ど占領している、楕円の形をした大きな机で筆記作業を始めた。
『アルス君の椅子、早速活躍してもらっているねえ~』
前に負傷したと時に、リハビリを兼ねてアルスが造った椅子を円らな瞳で見つめ、身体大きさとさほど変わらない本を開きながら、上司はそんな事を言う。
『賢者殿への贈り物のつもりで造ったんですけれど、何だか自分に丁度いい感じなってしまってますね』
上司にそんな事を言われている間も、自分の造った椅子に座り、机の上にある本を取りあえず順番や種類によって分けている。
『これぞ、東の国の諺に言う、"情けは人の為ならず"って奴だね。相手の幸せを想ってやったことが、いつの間にか自分の幸せに繋がっている』
この"例え"には自分で作った椅子に座りつつ、製作者は苦笑していた。
『幸せかどうかは判りませんが、あともう少し背が高かったら、何かの拍子に背伸びをしただけでも天井に頭をぶつけてばかりになりそうなので、椅子に座って作業が出来る事は有難いです』
ウサギの賢者とリリィなら、ジャンプをしても大丈夫な高さのある魔法屋敷の屋根裏部屋だけれども、アルスとキングスは背伸びして脳天をぶつけてしまいそうな程、すれすれである。
『じゃあ、さっき言った要領で始めようか』
『はい、賢者殿』
本を抱える賢者に、左手の指先に数字の描いた付箋を差し出しながら、右手にはペンを握り数字とウサギの賢者に言われた単語を、帳面を楕円の形をした大きな机の端に広げてアルスは記している。
堅い爪の指先で、アルスの差し出した付箋を数枚を取って本のページに貼り付けて、畳んで賢者も自分の手帳に何かしら描き込んだ。
それから寝室の様々な場所に点在する本を指示して、アルスに"発掘"して貰い、取り寄せる。
再び賢者は単語と数字を告げてアルスは帳面に記し、自分の手帳にも何かしら記す。
これを幾度か繰り返し、たまにアルスに本を取らせるだけで、全く記さない事も数度あった。
そしてある程度調べ終わった本が積み上がったなら、アルスが頃合いを見て、三階から一階まで運び降ろした。
アルスが書籍を降ろして、一階まで行くとキングスと共に下した書籍は殆ど既になく、片づけている順番の端に置いてまた登り、ウサギの賢者の補佐を手伝う。
そんな事が数度繰り返されたと時、帳面ばかりを見つめていた視界が暗くなったと感じ、頭を上げたなら、部屋の中は茜色になっていた。
(思ったより、集中してしまっていたみたい)
『おや、思ったより集中してしまったみたいだね』
そして、そう感じたのは耳の長い上司も同じ様で、こちらは口に出してフワフワとした身体と変わらない大きさの本を離していた。
『リリィに、スタイナー家の紋章の話をしようと思っていたんだけれどな~。でも、何も言ってこないし、こちらにも上がってこないって事は、あっちはあっちで盛り上がっているって事だろうね~。
まあ、これからキングスも王都に長くいるって言っていたから、焦らずに話せばいいかな』
自己完結の言葉を吐き出しながら、小さな口元から伸びている髭を揺らし、長時間座っていたため、ウサギの賢者にしては、むっくりとした動きで立ち上がり円らな瞳を細めて伸びをする。
今は寝台の上に移動している賢者は、立ち上がったついでに周囲に数冊ある本を、纏めた後に、これまで開けていた大きな窓を閉じた。
『えっと、それはキングス様と、リリィで話しが今も盛り上がっているということですよね?』
アルスも本の片付け以外では手放さなかった筆記具を置いて、確認すると、賢者は振り返りながら、深く頷いた。
『キングスはとても聞き上手だから、人付き合いが苦手なリリィも話し易いんだよね。あと、何気にワシに話し辛い事とかも、話しちゃったりしているらしい』
『へえ、そうなんですね。自分は、ウサギの賢者殿には、とても素直に話しているようにも見えるんですが』
純粋に驚きの声を出した時、自分の頭がもぞもぞと動く物を感じる。
『あ、そう言えば、頭に乗っていたままだった』
アルスは自分の頭に上司の使い魔を乗せたままなのを思い出して、視線を上に向けるが全くといって良いほど動かなかったので、本当に気がつかなかった。
(今まで、自分の頭の上で寝ていたのかな)
そんな事を考えながら、食堂で教えてもらった小さな同僚と耳の長い上司からの、使い魔の情報を思い出す。
―――私は最近賢者さまの寝室で見かけても、キングスさまが拵えてくれたカエルさん専用のお布団にもぐって、昼寝をしているか、窓際で考え込む様に日向ぼっこしているだけだったから。
―――浚渫の儀式の時に、異国の神様の代わりをさせたり、主でもないのにアプリコット殿や鳶目兎耳の人を一時的に主に設定したから、使い魔なりに疲れたみたい。
(それで、キングス様の梅ゼリーを食べて、お腹いっぱいになって自分の頭の上に着いたら、眠ってしまったということなのかな)
『ああ、カエル、この梅ゼリーを食べるのに使った器は片づけてしまいなさい』
再びウサギと新人兵士の主従は考えが通じたのか、アルスの頭に浮かんだゼリーについて思い浮かべていたらしい。
フワフワとした茶色の毛の毛先が、室内ながらも窓辺にいる事で西の方向から、茜色に染まっている。
『もう殆ど……というか、全部食べちゃったみたいだね。
一応風通しの良い所において置こうと思ったけれど、空っぽなら食べ終わって直ぐに片づけさせれば良かったな~』
『ゲコ』
『あ』
カエルの鳴き声が何を訴えたかしらないが、アルスは小さく押される感触を受けてウサギの賢者の使い魔は、金色の髪の頭から跳ねていつもの様に空を泳ぐようにして飛んでいく。
そして窓辺に置いてあったゼリーの陶器の上を一周すると、とりわけの為の小さい器や掬い取るお玉、食べる為に使ったスプーンなどは大きな器の中に飛び込む様にして入っていく。
陶器同士のぶつかる音に、新人兵士は小さく肩を竦めて、主のウサギはモフモフとした額に小さな縦筋を作った。
『こりゃ、ぶつけて割れたらリリィに叱られるぞ』
『ゲコー』
いつも飄々としている賢者にしては珍しく"叱責"となる声を出したけれども、使い魔の方は短い鳴き声を返事をしたなら、容器が纏めて入った陶器がふわりと浮いた。
そのまま金色の使い魔の背後に続く様に浮く。
『ゲココココ』
『ハイハイ、じゃあ、容器を下げたならそのままリリィとキングスのお手伝いをしていも良いよ』
それからカエルは微かに頷き、主の寝室の出口の方に向かう途中で、アルスの周りを器をつれて一周し、そのまま降りて行ってしまった。
『カエル君、ロブロウの疲れはまだ残っているのですかね?』
食堂で梅ゼリーを食べていた際、リリィからは"寝てばかりいる"という話を初めて聞き、少しだけ心配して、主である賢者に尋ねる。
すると、そろそろ見慣れたチョッキ姿の上司は、むっくりとした手を顎にあてて首を僅かに傾けた。
『まあ、疲れはそろそろ取れているんだろう。
後は自分の調子を取り戻すのを、最優先みたいな感じにしていて、数時間だけれどもアルス君とぴったりくっついていたから、明日ぐらいから、本調子じゃないかな。
それで、このまま下の厨房にゼリーの容器を片付けたら、ある程度書斎を片付けにきりをつけ、夕食の支度を始めているリリィとキングスを手伝うつもりみたいだ』
それから、ウサギの賢者は自分の寝室をちらりと見まわした。
『こっちも一段落がついた感じになるのかな。今日の暴君への報告書への調べ物に関しては、これくらいにしておこう』
『そうですね、調べ物に使った本も大分書斎の方に戻したし。取りあえず足の踏み場は、確保出来たみたいですし』
見回す上司に習って、アルスも同じ様に部屋を見ると、書籍に関しては随分と寝室の中はさっぱりとしていた。
『アルス君も軽くストレッチしたらどうだい?』
『じゃあ、頭をぶつけない程度に』
丸椅子から立ち上がり、腕を横に伸ばして肩の関節の部分をぐるぐると回し、腰も回したなら身体の内側で骨が軋む感覚が軽くこそばゆくて、笑ってしまう。
『今日は眼や肩は疲れましたけれど、訓練では身体を動かしてないですから、後で屋敷の周りを走ってもいいですか?。
じゃないと、気持ちが落ち着いて眠れないと思うんで』
"時間があったなら、基礎体力をつけろ"
という軍学校の精神がまだまだ根付いている新人兵士は、訓練や仕事がないなら、取りあえず汗を流す何らかの"運動"を行った時間がないと、気持ちが落ち着かない。
本日は朝からリリィと共に体操を終えた後に、一緒に日常の洗濯物を干し、そこからは別行動になりアルスは薪割り。
リリィは家事で、昼食を一緒に食べた後に、再び薪割りをしていたところに、仕立屋の不意打の訪問を受けていた。
『ワシとしては個人的に、運動量は十分だと思うんだけれどね~。おお、そうだ!』
少々芝居がかった仕種で、左の肉球の上に右のモフリとした手を置いて、円らな瞳を大きく開いた。
『アルス君、もう少し片付け手伝ってもらっていいかな?。
もう今日は机を使わないだろうから、帳面を片付けて、まだもう少し床に残っている本や道具を、全て机の上にあげて貰いたいんだが』
返事をする前に既に、手伝いの内容を告げられているので、アルスは筆記具を片付けつつ苦笑いを浮かべて、頷いた。
『わかりました』
『ありがとうじゃあ、それでは早速―――』
そうして、片付けをしながらアルスが、耳の長い上司を何気に凄いと思う所は、"ごちゃり"といと例える様に物が溢れた中でも、"置いている物"を掌握している事だった。
最初に足の踏み場を作った後に作業を始めた時も、アルスが片づける物に手を伸ばす前に気を付ける物があったなら、逐一言葉をかけてくれる。
(しかも、背中むけている自分の身体越しでも、声をかけてくるもんなあ……)
実際のウサギはともかく、"ウサギのぬいぐるみの視界"の広さ具合は知らないが、今回も限りなく背を向けた、遮っている状態にも関わらず的確に注意を言ってのけていた。
"それは机の端"
"あー、それは見かけより重たいから注意して、中央に乗せてもらえるかな"
"その袋の中に色んなミニチュアが入っているから、壊れない様にそっと置いてね~"
"それで、その図鑑の栞を挟んだページを開いておいて、布を被せて"
更にそんな声をかけつつ、賢者は身体の大きさと変わらない帳面を開いて調べ物をしていたり、後頭部を掻いたり鼻をヒクヒクさせていた。
(魔法なのか、それとも賢者殿が、訓練や鍛錬で自分自身で身に着けた勘なのか、どちらにしても凄いなあ)
そんな事を考えている内に、殆どが机の上に荷物を、指示された場所に置くという作業を繰り返していくと、ウサギの賢者の寝室全体の床が、すっかり姿を現した。
(一応、一番最初の頃に比べたならいくらかまともな寝室にはなったと思うけれど、この状態でも初めて入った方は"ごっちゃり"とした印象は受けるだろうな)
"足の踏み場がなかった時よりもマシ"の状態を、婉曲に頭の中で表現を置き換えながら、アルスは全体を見回す。
そうなることで改めて、部屋全体の調度品の大きさが、ウサギの賢者のサイズに合わせて造られている事にも気が付いた。
(この賢者殿の寝室の中で、サイズの大きなものって、自分が座っていた造った椅子と、帳面をつけるのに使っていた、楕円形の大きな机と……後は、寝台位なものなのかな)
そんな中で楕円形の机の中央に、ウサギの賢者に指示されて、アルスがドンと仕上げに言われた物を置く。
この世界では値の張りそうなのが目に見えて判る、 塔の形をした置時計で、楕円形の机の中で結果的に一番目立つ。
(それにしても、賢者殿に言われた通りに、机に置いた―――というより、机に"盛った"けれども、この形どこかで見た様な気もするんだよなあ)
机上に、部屋の主であるウサギの賢者に指示された通りに、ミニチュアや本を、中央に置いた時計を除いて"ごっちゃり"とした様子で、色んな物が配置された―――と思うのだが、アルスの中で何かがひっかかる。
『うん、オッケー。流石、アルス君!』
アルスの中で、答えが出ない内に上司から"合格"の言葉が出てしまうと、不思議とアルスの頭の中でその考えは、打ち切られてしまった。
『さて、さっきも言った様にワシ的には、アルス君の運動量は、十分あったものと思われる。
なので、本日は運動よりも湯船にでも使って汗をかいて貰おうと、セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長として、考えているんだよ』
そんな事を言いながら、ウサギの賢者なりに片づけた寝台の上から、"ピョン"と飛び降りてアルスの造った椅子の上に、床を蹴って身軽に飛び乗る。
それから、護衛騎士が賢者の指示通りに盛った楕円形の机上を眺めて、"あった、あった"と小さく呟いて、いつもは引っ込ませている爪を出し、アルスが持った机上から何かしら摘む。
『……賢者殿、もしかして"セリサンセウム王国お風呂推進委員会"っていうのは、実在するんですか?』
一方のアルスは、"イタズラ好き"とも"聞き流せ"と忠告を貰っているけれども、もしかしたらあり得るかもしれないとそんな気持ちで、素直に質問を口に出してしまっていた。
するとと、"ふふふふふ"と不貞不貞しい笑い声と共に、耳の長い上司は先程摘まんだ物と一緒に、丸椅子の上で身を捻らせて、自分の護衛騎士の方に身体の正面を向ける。
『うん、実在させるための第一歩として、アルス・トラッドを会員に迎えようと目論んでいるんだ』
そう言いながら、ウサギの賢者が手にしているものは、生地の表面がつるつるとした光沢をした布袋で、肉球の着いた手で確りと袋の口を閉じていた。
『と、言うわけで、勧誘記念に、お風呂が大好きになるような贈り物を会長としてしたいと思っているんだけれども……アルス君は好きな"匂い"というか、薫りはあるかな?』
『え、匂いか薫りですか?』
イタズラなのか本気なのかわからない言葉に加え、唐突な質問にアルスは瞬きを繰り返すけれど、直ぐに考えを始める。
『匂いですか……今まで特に、意識した事がなかったから、特に好きな物って思いつきません。
身嗜みに汗の匂いは気にしますけれど、制汗剤を使ったとしても、自分は無香料の物ですし。
薫りの方は、花とかは自然に咲いているのは綺麗だと思いますけれど、嗅いだりまでしたことがありませんから』
『うーん、予想はしていたけれども、実にアルス君らしい返答だねえ』
そんな事を言いながら、生地の表面に光沢のある布袋の口を開いたなら、それと共に芳香が寝室に広がる。
"風呂”と”薫り"の話の流れで、耳の長い上司が手にしているものについては、アルスには直ぐに見当が付いた。
『それは入浴剤が入っているのですか?』
アルスは強すぎる香水は正直に言ったなら苦手だけれども、上司の手にしている袋から薫る、色々と入り交ざった物は、匂いがそこまで強くなく不快にならない程度だった。
『概ね正解。入浴剤は入浴剤なんだけれども、工夫がされてあってね。
粉末じゃなくて、固形にして固めてあって、更に一工夫~』
布袋の中に短い腕を突っ込み、耳の長い上司は円らな眼を細めながら、新人兵士に合う様な厳選を始める。
『さて、アルス君はこういった事に無頓着なのは予想できたけれども、本当にどんな薫りが良いのやら~。
この選択は、セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長としての沽券に関わる……!』
極めて真面目に言ってはいるが、その内に込められている"おふざけ"が十分伝わる口調なので、これに乗ったら益々ふざけそうなのが予想出来るので、アルスの方は真面目だけで受け答えをする。
『工夫がされているって事は、賢者殿が造ったという事なんですか?』
『うん、ワシだけじゃなくてね、昔、こちらに来たばかりの頃のリリィと、一緒に造ったんだよ。
思えば、結構な量を造ったなあ』
真面目な新人兵士の声を、そのまま映し返す様に、賢者の声からおふざけが抜けた真面目な言葉が返ってくる事と、その内容にアルスは思わず口を閉じた。
『あの子はうちの屋敷に向かえたばかりのころ、まだ色々あってね。
今じゃあ信じられないだろうけれどね、色んな事に怯えていて、日常というよりは、生きている事に怯えている様なものだった。
それでも、生きているからお腹はすくし、身体は新陳代謝を繰り返すからね。
その中で入浴できないこともないんだけれども、とっても怖がってて毎度苦手だったんだよね。
だから、お風呂を楽しめるように、魔法屋敷に引き籠っているウサギの賢者は、入浴剤は入浴剤でも"バスボム"という物があるって知って、巫女の女の子と一緒に造り始めたんだ』
ウサギの賢者は抑揚なく言うけれども、その話に含まれている話の重さはアルスにも判る。
そして、その話の重さに安易に踏み込んでいいのか計りかねたから、敢えて小さな同僚については触れずに、アルスが知らない言葉について尋ねる事にした。
『それで入浴剤で、"バスボム"ってどんなものなんですか?』
『多分ね、名前は知らないけれど、見た事はあるって奴だと思うんだけれどね。
バスは異国でお風呂の意味で、ボムは物騒な意味があるんだが、この場合は使った時の状態の比喩として使っているんだろう。
まあ百聞は一見に如かずだ』
相変わらず諄くも感じる説明と共に、モフリとした手で、光沢のある布袋から掴んで取り出し渡した物は、三日月と星の形をした、白い粉を押し固めた2つの固形物だった。
ウサギの賢者の肉球の上に乗せられた、固形物からの薫りは柑橘系のさっぱりとしたもので、その事と"風呂"という事で、アルスの記憶の中で直ぐに結びつき、思わず大きく頷いていた。
『ああ、本当です。形は知っているけれど、名前は知りませんでした。これって、そんな名前だったんですか』
現在の初夏の季節から、まだ随分と先の季節になるが、冬の季節に入ったなら軍学校に入る前に住み込みで働いていた、工具店の店主が寒さに弱く、女将のアザミが良く薬屋で買って来たのを覚えている。
たまに買い忘れて、アルスが"お使い"に頼まれるときもあったけれども、入浴剤と言えば判るという事で、固形物のタイプにそんな呼び名が付いているなんて知らなかった。
ただの粉末の入浴剤もあるのだけれど、固形物タイプの方が体の温まる効果は強いらしく、少々割高ではあるけれど、店主の健康には変えられないとして、購入していた。
『入浴する時に、発泡するタイプの入浴剤の事をバスボムっていうんですね……というよりも、その小さな子供がいても、作れるものなんですか?』
そんな質問をしている内に、星の形をした方をウサギの賢者から渡され、アルスは受け取る。
売り物と手作りの差なのか、固まってはいるけれども、握る力を入れたなら、あっさりと崩れてしまいそうなのを脆さを感じて、アルスは慎重に摘まんだ。
『うん、実を言えばこの泡がシュワシュワとするタイプの入浴剤は、材料も台所にある材料で、安全にとても簡単に造れてしまえるんだよ。
ワシも一緒にいたから、楽しめる様にちょっとだけ工夫して色を付けたり、薫りをつけたりしたんだけれどね』
自分の肉球の上に残った、三日月の形をした入浴剤を懐かしそうに見つめながら、説明をしてくれた。
『そのご様子だと入浴剤は、リリィがお風呂を楽しめるようになるのに、とても役に立ったみたいですね』
いつも飄々としている上司でもあるけれど、そこに小さな同僚を思い出した上での穏やかな雰囲気が大幅に加わったのを感じ、アルスは思ったままを口にする。
『ふふふふ、そうだね』
耳の長い上司は不貞不貞しくありながらも、自分の護衛騎士の言葉に珍しく素直な様子で、嬉しそうに笑みを浮かべ円らな瞳をまた細めていた。
『じゃあ、自分も今日は久しぶりに、セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長のウサギの賢者殿のお薦めの入浴剤を使わせて貰って、確り湯船に浸かろうと思います』
白い星の形をした入浴剤を摘む状態から、掌で包み込む様に握りしめながらそう答えると、ウサギの賢者は満足そうに頷いた。
『ああ、是非そうしてみておくれ、アルス君。
それにリラックスするのは元より、心が落ち着つかせる効果もあるらしい。
リラックスしている様で、気も抜けていない、兵士としては良い状態になれるんじゃないかな。
それで、ワシは久しぶりにこちらをリリィに薦めてみようかな』
三日月の形をした入浴剤を、フワフワとした胸元にしまい込みながら、ウサギの賢者はそんな事を口にする。
それは足の踏み場のない程散らかっていた部屋を片付け、ついでに入浴剤を見つけた事で、ふざけた"ノリ"でやった、"セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長"を延長させた事にも思えた。
(自分に入浴剤を与えるついでに、リリィにもといった流れにも取れる言うな気もしたけれど……)
賢者がリリィにも、入浴剤を渡すという事に意味があるような気がした。
『―――賢者殿、リリィに関しても、何かしら気にしている事がありませんか?』
『うーん、杞憂だとは思うんだけれどもね。
最近、リリィは眠れてはいるみたいなんだけれども、どうもその眠りが浅い様な気がしてねえ』
思い切ってアルスが尋ねてみたなら、耳の長い上司は思いの外あっさりと認める。
『そうなんですか?』
『ああ、今片づけた本でも判る通り、ワシは夜中に本を取りに降りたりもしていたんだよ。
その時、極力静かにしているつもりでも、ちいとばかし音は出してしまってねえ―――』
ぬいぐるみみたいな身体の両脇に、本を抱えた賢者が階段を昇ろうとした時、リリィの眼が覚めた事に気が付く。
それは、少女の部屋の入口に面した通路のランプの灯が、優しく点いた事で直ぐに判ったという。
『うちは一応"魔法屋敷"だからね、起きている者がいたら直ぐに反応する様な仕込みはある。
その時は、直ぐにランプが消えて、また寝てしまったのが判ったんだよ。
ワシの不手際かなとも思ったんだが、それが少しばかり気になってね、魔法屋敷の記録を戻って来てから少しばかり調べてみたんだ。
そうしたら、こちらに戻って来てから、夜はちゃんと寝てはいるんだけれどね。
ただ、小さな物音がしたりしたなら、直ぐに寝なおしてはいるけれども、何度も眼を覚ましているのが、使い魔のカエルを調整しているついでに記録を調べて判ったんだよ』
『すみませんん、そうだったんですね。部屋が離れているなんて言ったなら言い訳にしかなりませんが、自分は全く気が付きませんでした』
リリィの居室となる場所は、同僚ながらも護衛騎士とも性別の違う為に、同じ階数ではあるけれども、書斎に近い場所にあるアルスとは離れた場所にあった。
ただ、ウサギの賢者を護衛するという役割が兵士としてあるアルスは、護衛騎士として気が付けなかった事に申し訳なさそうに口にしたならば、ウサギの賢者が首を左右に振る。
『いやあ、言ったらアルス君が気にするだろうなあとも思って、元々言うつもりはなかったんだよ。
それに、本当に護衛というのなら"敵意"があるなら音にもまして気配で眼を覚ますぐらいじゃないとね。
ただワシにしたなら、害がないのなら、やり過ごすか相手にしないくらいが、丁度良い。
だから、アルス君が今回の事で、これまで起きなかったのは、ある意味上司としては有難い』
円らな瞳を"ギョロリ"とした感じに動かし、丸椅子の上から自分の護衛騎士を見上げ、そう断言する。
それから、丸椅子から軽く飛び降り、出口になるスライド式の扉へと向かい始めるので、アルスもそれに続く。
1ッ匹と1人、廊下に出たところで、"片付いた"寝室を覗き見ながら更に言葉を続けた。
『それにリリィは眼を覚ますけれど、起きたりするわけでもなく、ベットからも出ずに、多分眼をちょっと開けて、再びそのまま寝てしまうという感じだからね』
『それでも、やっぱり朝までぐっすりと寝ていた方が、リリィ位の成長期の女の子には良いですよ』
アルスがそう言うと、ウサギの賢者も強く賛同する様に確りと頷いた。
『うん、だから今日の手伝いを含めて、片付けは助かったよ。
ワシとリリィだけだったら、どうしても本を片付けるのは重労働だっただろうし、入浴剤の事もアルス君との"裸の付き合い"の話を食堂でしないと、思い出さなかっただろうしね。
こういうのをタイミング良く思い出して繋げていけるってことは、アルス君の仁徳だろうねぇ~』
『いや、その、偶然でも役にたてれたなら嬉しいです』
剣術や勉強という、自分の努力で誉められることは多くても、目に見えない具体的にできない事で誉められた事は、初めてに近い新人兵士は戸惑い恐縮しながらも、褒めの言葉を受け止めていた。
『それにキングスも今日は止まって行ってくれるというし、長旅の疲れを賢者と巫女で造った合作"バスボム"で癒してあげられるから、ワシからも感謝しきりだよ、うん』
仕立屋が泊まるという言葉に、空色の眼を少しばかり大きくしたけれど、魔法屋敷は1匹と2人が居住して使っている以外は空室である。
部屋は書斎やリネン室として使っている部屋も、まだ余りすぎるほどあるし、アルスが金髪の頭の中で考えても、実際客人が両手の指以上の人数が泊まっても部屋はまだ空いている。
それに小さな同僚と、その同僚が指揮する魔法屋敷の家具達のお陰で、突然の客人でも受け入れは可能にはなっていると、リリィがまだまだ平らな胸を張ってアルスが護衛騎士になったばかりの頃に説明して貰った覚えがあった。
『本日、泊まっていかれるんですね。じゃあ、リリィは書斎の片付けが済んだなら、キングス様の客室の支度とかしているんでしょうか?』
『いや、それはないんじゃないかな~。キングスはいつも、泊まる時はワシの部屋を使っているからね~』
アルスの言葉を耳の長い上司にあっさりと否定したたけれども、泊まっていくという自分の予想は当たっていたので、賢者の言葉に相槌をうつ。
『へえ、そうなんですね……って、え?』
『ん?。何か疑問に思うことでもあるのかな?』
『あ、えっと、賢者殿の部屋って浴室ありましたっけ?』
その事と共に、更に思い出した疑問はあるのだけれども、それを解決するべく先ずは質問をする。
『うん、あるよ~。そうか、ワシの部屋のはちょっと解りづらい感じに拵えているから。
それに壁に色々かけてあったし片付いてなかったから、アルス君には解りづらかったかな?。
基本的に、この魔法屋敷の居室や客室には、洗面と浴室はついているんだ。
それでは、いつか裸の付き合いがあるかもしれないアルス君に、特別にこの屋敷の主の浴室を披露しておくとしよう』
そんな事を言いながら、トコトコと再び賢者は寝室に向かって歩き始め、アルスも続くいていく。
『思えばアルス君が、今日は本を退けてくれたおかげで、久しぶりに部屋の湯船に浸かれるんだよね。
ここ数日は入り口が本で塞がっていたし、深夜まで調べ物して面倒くさくなって、ウサギの身体だから中庭の洗濯桶に、水浴びしていて誤魔化してたんだ』
『ああ、じゃあリリィが、ここ数日洗濯する時に、"桶の置場所が変わっているみたいに感じる"って言ったのは、外れていなかったんですね』
そんな会話をしていると、本が片付けられた事で姿を現した壁とばかりに思っていた箇所に、長い耳を含めて、アルスの腰辺り位にしか高さのない賢者が、背伸びをして肉急のついた手で撫でる。
すると屋根裏の入り口と同じ様に、壁だとばかりに見えていた浴室の扉となったが、だが次の瞬間にまるで隣の壁に吸い込まれるようにして姿を隠し、結構な広さのある洗面所と連なる浴室が姿を現した。
(何だか、隠し部屋みたいだな)
ただ、休日大工の好きな少年にとっては随分と興味深い造りでもあったので、興味深く覗き込んでいた。
『元々風通しのよい設えにはしてあるのだけれどね、精霊の力も使って、換気も確りしているんだよ。
あと、客室に泊まるお客様には内緒だけれども、ワシの部屋の浴室が一番立派だったりする』
結構自慢気に語る上司の言葉の調子に乗るように、アルスは昼から抱いていた疑問を訪ねるべく、入浴剤を握っていない方の手を拳にして力を入れる。
『そうなんですね。……それで、賢者殿、1つ質問があるのですが、良いでしょうか?』
『ワシに答えられそうな事なら、どーんと聞いちゃってよ』
"キングス・スタイナーは男性なのか、それとも女性なのか"
今なら、機嫌の良さそうな上司に気兼ねなく尋ねられるし、アルスが質問してもおかしくはない機会だと思えた。
『ゲッココッコッコ』
『ぬわっ』
緊張している所に、耳元で聴き慣れた声が聞こえて、思い切り身を引いたなら、その付近にウサギの賢者の使い魔がフヨフヨと浮いていた。
危うく握りつぶしそうになった星型の入浴剤を見つめて、大丈夫だったのを確認してから自分の顔の側にいつの間のか来ていた、ウサギの賢者の使い魔に語りかける。
『あ、カエル君か。どうしたの?』
『ゲコ!』
アルスの質問に、直ぐに応える様に鳴き声を出してくれるが、さっぱりわからない。
『……あの、賢者殿』
『はいはい、カエル、どうしたの?』
カエルは横に長い状態の瞳で、アルスを見た後に自分の主の方へと、アルスの頭の位置から、下がっていった。
(確か、梅ゼリーを片付ける時は丸くて円らな、"ウサギ"の賢者殿みたいな眼だったと思うんだけれどな。やっぱり気分とかで、自由に変えているみたい)
あくまでも"使い魔"であって、カエルの姿をしているのは、主のウサギの賢者の恐らく趣向で、魔力を使ったりさえすれば"変身"出来たりのするは、短い付き合いながらも知っている。
(個人的には、丸い瞳の方が可愛いと思うんだけれど……。
それにしても、何を伝えにきたのかな。……て、あ、また聞きそびれた)
そこで自分が尋ねたかった事を、聞き逃している事に気が付いた時、ウサギの賢者は使い魔の用件を聞き終え、胸元に金色のカエルは張り付いていた。
『アルス君、どうやらキングスの手伝いもあって、書斎の片付けも、洗濯の取り込みも、夕食の仕度もいつもより早く終わってしまったんだって。
それで"冷めないうちにどうぞッ"って事らしいから、さくっと質問に答えてから行こうか。
リリィも最近上手になったけれど、キングスのご飯、美味しいんだよ~』
もしここで、上司が"キングスのご飯直ぐに食べたいから、質問はまた後でね~"と言われたなら、そのまま言葉の通り後で聞く位のつもりもあった。
いつの間にか訊くことを躊躇っている自分に気がつきながら、ゆっくりとアルスは口を開く。
『あ、えっと、その―――キングス様は、失礼になるかもしれないんですけれども、男性なんでしょうか、女性なんでしょうか?』
『それは、アルス・トラッドはキングス・スタイナーの性別の見極めがつかないって事だよね?』
特に驚きもせずに、間を開けることもなく、耳の長い上司は返事をしてくれた。
でもそれは"答えになっていない"し、配属されたばかりの頃には"質問に質問で返してはいけない"と、アルス自身が賢者から言われた事でもあった。
"上司とか部下とか、秩序のバランスがとれなくなって、失礼になってしまうよ"
ウサギの賢者に、初めて真剣に指導された事でもあった。
(今、自分がした質問は、キングス様がこの場にいたなら失礼な事になるんだろうな)
失礼と受け止められても仕方がない事を、口に出している自覚はある。
ただ、これまでのやり取りでもとても気になっている事でもあったし、"ウサギの賢者の護衛騎士"なら、どうしてもキングスとの付き合いは増える事が、判明したから気にもなった。
(性別に関してキングス様への接し方で判断を考えなければならない時が、出てこないって保証はどこにもないし―――それに)
言い訳ではないけれど、最近小さな同僚が”無事に二次成長を迎えた”という事を、暗黙の了解や不文律と例える形で、アルスは承知していた。
知っていたとしても決して必要に迫られない限り、男性のアルスは口に出す事でもないと心得てもいる。
(キングス様なら、例え性別がどちらだとしても、リリィの成長を含めて受け止めてしまいそうだけれども。
やっぱり、はっきりしていただいた方が”護衛騎士”として、どのように振る舞えばいいのか判断しやすい)
"忙しい時は、アトリエに来て頂く事になると思いますが、それはアルス君が護衛でついてきてくれればいいですしね"
梅ゼリーを食堂で食べている時、キングス自身がリリィの護衛として、アルスを仕立屋のアトリエに招いてくれる言葉を聞き、やはり、はっきりする必要があると思えた。
『―――まあ、遅かれ早かれ質問されたとは考えていたけれど、会った当日の本日中というのは、優しい性格のアルス君からしたなら、ワシとしては予想以上に早かったかな』
『そう、なんですか』
円らな瞳を細めて、ゆっくり深く賢者は頷く。
『でも、キングスの”力持ち”加減をみたなら”男性だ”って断定するものかとも、ワシは思ったんだけれどねえ』
この発言には、アルスは無邪気にも感じられる笑みを浮かべて持論を口にする。
『ああ、その、力はともかく”強い御婦人”は結構ご縁があって拝見したので、キングス様がとても力持ちでも、男性と思う決定打には弱かったので』
アルスの説明に、ウサギの上司は小さな鼻を小さくフンフンと鳴らしてその言葉に納得する。
『ああ、そうか、そうだよね~』
新人兵士が頭の中に、国の女性騎士として筆頭となる法王の護衛騎士や、その騎士に心酔する治癒術師、その親友の猫みたいな魔術師、そして最近知り合ったこの国の西の果ての領地の女性領主を思い浮かべているのが、その顔を見て、直ぐに判った。
そのそれぞれが、"力持ち"ではないけれど、将来をこの国の枢機とされる存在から嘱望される少年の頭に浮かんだだけあって、何れ国を代表する逸材になりそうな御婦人達でもあった。
『まあ、キングスについて言えば、確かに"力持ち"―――グランドールに負けず劣らずの筋力と握力の持ち主ではある。ただ、あの武器の事を含めたなら、少しばかり具合が違う所もあるんだよ』
『え?!グランドール様と同じくらいですか?!』
ただ新人兵士からしたなら、凄さとしてはその筋力の例えとして出された人物の方が驚きが勝って、そちらの方に意識が向いてしまう。
軍学校で半年を過ごし、逞しい先輩となる兵士や騎士を多くを見てきたつもりだった。
しかしながら、この国の英雄で大農家としても有名なグランドール・マクガフィンと直に出逢ったなら、それまで出逢った先輩達も軽く霞む逞しさがあった
その立派な褐色の体躯と、リリィをまるで子猫を摘まみあげる様にし、逞しい肩に乗せた光景を筆頭に、多くの人物を身軽に抱えている姿を見て驚いたのは、まだ記憶に新しい。
キングス・スタイナーの力が強いにしても、"グランドールと同じくらい"という例えを前もってされ、アルスは仕立屋が"男"だと紹介されたら、嫋やかで優しい雰囲気を纏っていたとしても、そのまま信じて納得していたと思う。
『あ、すみません、グランドール様と同じと聞いた驚きがとても強くて。その、具合が違うというのはどういう事なんでしょうか』
ただ勤勉な護衛騎士でもあるアルスは、直ぐ注意する様に付け足された賢者の言葉にも素直に反応していた。
自分の護衛騎士が最初は驚きに心を占められつつも、確りと"付け足し"に反応したアルスに耳の長い賢者は口の端を上げて笑う。
『ああ、今はそれ話すのには、時間が足りない。なので、取りあえずキングスの性別について教えておこうか』
"説明するには時間が足りない"という言葉に、アルスは再び素直に頷く。
このウサギの姿をした賢者は、相手が本当の意味で理解する為に、一般的にはとても回り諄い形で説明するのは、それなりに知っているつもりでもあった。
簡単に短くできる物はそうするが、理解する必要があるのならどんなに時間がかかり、周囲は呆れてしまいそうな事でも、丁寧に説明をしてくれる。
短いなりにも濃さがあった日々の中で、耳の長い上司は、"説明をするにしても、相手を選んでしている"という部分があるのも、アルスは確りと感じ取っていた。
聞き入れる気がない相手に言葉を口にするのは、最大の無駄だと見切りもつけるが、同時に、相手を信頼できたなら、手間を十分使ってくれている。
普段、飄々と過ごしている日常の雰囲気の中でも、アルスとリリィとの接し方でもその印象をは強かった。
(賢者殿が説明に時間をかけるというのなら、自分に理解出来るぐらいまでに、話を細かくして、合わせてくれる努力をしてくれるって事だものな)
ある意味で、"時間をかける"というのはウサギの賢者の時間も、アルスが理解する為に使ってくれているのだと実直な新人兵士は感謝に近い気持ちを抱いている。
感謝をすることが出来るのは、軍学校で同じ様なを時間を過ごした経験があればこそだった。
本来は、裏方に徹している国の英雄でもある恩師のアルセンが、時間を特別に使って軍学校で基礎しか学んでいないアルスに合わせて、危うい剣筋を徹底的に躾け直してくれた。
基礎しか知らないというのに、腕に覚えがないのなら、あっさりと人の命を削り取ってしまう様な鋭すぎる訓練生の剣筋を、懇切丁寧に指導してくれた。
でも、それは剣術について軍学校に入るまで予備知識が全くなかったアルスに判り易くする為に、教え子の剣を捌きな柄も考え込んでいる姿もよく見ていた。
本当なら、何も考えずに剣を振るった方が余程楽そうなのが、訓練でも剣を交えて感じた感想だった。
(それで、そんな"合わせる努力"をしなくてすむ、気楽に話せるというキングス・スタイナー様を、ウサギの賢者殿は、とても大切に思っている)
黙って頷く表情に、恩師を含めてウサギの賢者に対する感謝が自然と滲んでもいた。
『―――アルス君は、いつも相手の立場になって考えてくれるから、ワシも助かるよ』
護衛騎士が大切な賢者の親友ついてとの関係を理解を示しているのを、その表情から拾い読み取れたウサギは、その事に感謝の笑みを浮かべる。
『さて、それでは本題にもどろう。キングスの性別はね、この世界の言葉で言うならば"中性"。
やや大袈裟に叙情的にいうなれば、男性でなければ女性でもない、それでいて男性であって女性でもある』
『中性ですか』
あっさりとそう告げられ、アルスはそれに一言そう口に出した後に、目に見えて考え込む顔となり黙ってしまう。
新人兵士のの知っている限りの知識で、人に"中性"を当てはめて考えるが、上手く言葉では纏められない。
けれど最初にキングス・スタイナーという人に出逢ってから、ずっと男性にも女性にもどちらにも思えて、迷っていた自分の直感が間違っていなかった事に安堵する部分もあった。
『まあ、厳密に言うと色んな解釈や、医学の方面ではまた違う捉え方をする所もあるらしいんだけれども、ワシは親友としてそう聞いているよ。
後ね、キングスから"許可"を貰った上で、"アルス君がキングス・スタイナーの性別の質問をしたなら”という条件で今、答えているっていうのもあるんだよ』
『えっと、それはやっぱり、自分の顔に出ていたという事もあるんでしょうか?』
何とか考えを纏めてアルスが口にする確認には、ウサギの賢者は短い腕を後ろに組んで深く頷いた。
『一番最初に出逢って、まだ面をつけている時から、キングスの性別か判らなくて、アルス君が迷っているのが、良く判ったって。
厨房でゼリーの支度をしている時から、そんな話をしててねえ。
何時か聞いてくる時があって、多分キングス自身か、ワシに聞いてくるだろうという事で、聞かれたなら、アルス君には正直に話そうと決めていたんだよ』
『自分には、”正直”にですか』
出逢った当初から、自分が抱えてきた疑問に気づかれていた事は少しばかり恥ずかしかったけれども、正直に話すという言葉に、顔を赤くしつつも瞬きを繰り返す。
『うん、ぶっちゃけていうと、アルス君が思った様に、殆どの初対面の方は、面を外した時の姿を見たなら、先ず”どちらか”判らない。で、大抵興味を持たれちゃうんだよね~。
キングス、別嬪さんだから~』
悩む時の癖なのか、長い耳を折り曲げて、円らな瞳を線の様に細め小さな口でそんな事を言う。
だがそんなに間もおかずに曲がった耳を、ピンっと伸ばし後ろに回していた右手を前に出して、更に人差し指もピンと立てた。
『それで普段は、一応性別は”男性”で通しているんだよね。
雰囲気たおやかで優しいし、釣り眼に目元に紅さして別嬪さんだけれども、背もそれなりにあるし、例の”力持ち”具合や弓や武芸の腕前で、大体の人はその様子を見たなら"男"と納得してくれる』
親友の自慢を重複させながら、普段仕立屋は世間に男性としているという説明を受けているのも、アルスは理解していた。
『自分に話してくれたのは、ウサギの賢者から信頼されているという事で、護衛騎士としても、うれしいです。
それで、こういった仰り方をするという事は、キングス様の性別が中性であるのは、極力伏せておくべき事なんですね』
ウサギの賢者は短い腕を再び背にまわしながら、深く頷く。
『うん、そういう事。"中性"という事は真実なのだけれども、どうしても、余計な好奇心を煽ってしまう要素がある。
アルス君は天然で時折ズバッと核心を言ってしまう事はあるけれど、興味や好奇心を持ったにしても、相手の気持ちを慮る事が出来るから、その煽りに惑わせられることはない。
それに個人空間の配慮には、慎重すぎる位だしね。
まあ、その為に本当はもっと兄貴面をしたい美人な軍人貴族は、踏み込んできて欲しいとも思っているみたいだけれどね~』
『あ、ありがとうございます』
恩師の事を言われているのに気が付いて、俄かに照れるが、賢者が"真面目な話の息抜き"にこの話題を挟んだのも判ったから、取りあえず、礼を口にしたなら、続けてくれる。
『そんなアルス君だから、キングスは軽く承諾してくれたよ。
それに、これからリリィがお裁縫を教わる時には送り迎えの護衛を頼む事になるだろうから、会う機会が格段に増える。
それなら互いにある程度、いざって時の為に協力をし易い様に手の内を明かしておこうとワシは思ったわけですよ』
先程、アルスが考えていたように、どうやら賢者も仕立屋も考えているのがわかって、アルスも自然と相槌を打っていた。
『あ、思ったんですけれど、"リリィ"はキングス様については、どう認識しているんですか?。その中性であるという事は、知っているんですか?』
リリィの名前を聞いたのと相槌を終えた同時に、浮かんだ疑問でもあった。
間違いなく、小さな同僚にもウサギの賢者は”キングス・スタイナー”の性別については話しているとは思う。
しかしながら、これまでの様子を見て、不思議とリリィが仕立屋が中性であると、理解していると感じる事が出来なかった。
『モチのロンでリリィにもね、話しているよ。
ただ一番最初にあった時には、アルス君と一緒でねぇ、お面の姿のキングスに随分と驚いていたねえ』
『ああ、それは同意します』
新人兵士が思わず尻餅をついてしまった、仕立屋の面姿は、小さな同僚もやはり驚いてしまったという話を聞いて、心から同情の気持ちを胸に浮かべていた。
『うーん、アルス君の初対面みたいに、インパクトのある般若じゃなくて、まだ優しそうな節木増って、奴だったんだけれどな。
ワシはそうは思わないのだけれど、東の国の面はどうもセリサンセウム王国の国民には迫力があるらしいねえ』
賢者が口にしている、聞いた事のない名称の単語は恐らく恥ずかしがり屋の仕立屋が、今日も身に着けていた、東の国の面の種類だと伺えた。
"シュールでカッコイイと思うんだけれどな"と賢者の面に対する感想を口に出した後に、再びキングス・スタイナーの性別を報せた時の秘書の女の子の反応の話に戻る。
『それでね、リリィにしたなら、”ウサギの賢者”の友だちの上を行く"親友"だと紹介をしたなら、キングスの仁徳も大きいだろうけれども、直ぐに受け入れてくれたよ。
それに何より、あの子は最初から性別云々(うんぬん)よりも"キングスさまは、キングスさま"って感じなのかなあ。
性別は中性だと説明しても不思議とね、あの子から何も戸惑っているという意識は微塵にも感じなかった。
まあ、まだ性別をそんなに意識をする年頃でもなかった事も、あるのだろう。
小さな子供からしてみれば、"大人"って分類するだけで精一杯で後は男女の関係に問わずに、近寄るかどうか決めるのは、優しそうな雰囲気が印象を占めるだろうし』
『それも、自分は同意します』
殆ど記憶に残っていないけれども、やはり賢者の言う様に、幼年期の頃は大人に対して性別を意識をするよりも、優しさや雰囲気で、アルスは接するかどうかを決めていたと思う。
『それに、関係するかどうかはわかりませんが、思い出しました。
魔法に関する事なんで、自分は良く判らないんですけれど……。
リリィは精霊に関しても、特に異性を意識していないみたいなのを、前にアルセン様のお屋敷にお世話になっ時に話してくれましたね』
だがそこまで話してくれた時、それまで快活に動いていた新人兵士の口の動きが止まった。
その"リリィは精霊に関しても、特に異性を意識していない"内容を思い出したなら、その後に護衛騎士のアルス・トラッドの随分と情けない状態になった記憶も、芋蔓式に蘇った為である。
一方豊富な知識を雑多に詰め込んでいても、その所在は確り把握している賢者は、自分の護衛騎士が言葉に詰まったのもお構いなしに、口から零した情報を拾い、符合するものを捜し、小さな鼻をヒクヒクさせる。
『アルセンの屋敷に世話になった時の話……?。ああ、あの人攫いの法の締め直しがされるきっかけになった、奴だね。
法王ロッツの護衛騎士デンドロビウム・ファレノシプス、騎士呼称。略称ディンファレが子供達の為に奮起して起こした。
上では法改正を起こした事案の出来事の1つとして、暦に"ファレノシプスの変"と名付けようとしているとか、しないとか』
『そ、そうなんですか?!』
あっさりとディンファレに敗れてしまった事を凌駕する内容に、胸に渦巻いていた気まずさも引っ込だアルスが思わずそんな事を口にしたなら、賢者は口の端を上げていた。
『そうなったら、今度ディンファレと逢った時に、揶揄えるかな~って、ちょっと思っただけだよ。それで、リリィの事を話して貰えるかな。
多分そこの部分は、ワシは話を聞けていない部分の事だ』
『あ、はい、判りました―――』
そして話し始めようとする時、新人兵士とウサギの姿をした賢者は同時に、賢者の寝室の扉の方に視線を向ける。
『賢者さまも、アルスくんも遅いよ!。
折角、キングスさまが"ロブロウの料理なら、覚えがありますから”ってネェツアークさまと一緒に食べた時のメニューを再現してくれたのに!。
賢者さまも、生地汁が結局食べれなかったのも作ってくれたんですよ!……わあ?』
料理をする時のお馴染みのエプロンと三角巾姿で、リリィが寝室に飛び込む様にやって来たの同時に文句を口にして、足の踏み場がなかった場所の”復活"した片付け具合に驚きの声を上げる。
だが足の踏み場は復活したけれども、本は片づけたにしても、その内の結構な量が部屋の半分以上を占める楕円形の机の上に"移動させただけ"なのを見て、巫女の女の子は肩を落とす。
『賢者さま、これは片づけた訳ではなくて、"乗っけた"だけじゃないですか』
『でも、マシになったでしょう?』
少し角度をつけて"ウサギなら、まあまあ可愛く見える"仕種で、賢者は自分の巫女の女の子を見上げる。
ウサギという動物に滅法弱い女の子も、少しばかり顔を赤くしてその姿を、強気な目元を微笑みの形に変えない様にしながらも注視する。
そしてアルスは、先程のアルセンの屋敷で行った"精霊に関しても、特に異性を意識していない"話は、キングスを含めて夕食をしながらしても、何も問題ない事に気が付いた。
耳の長い上司もアルスの考えを察した様子で、可愛らしくみえる角度を保ったままで短い腕を前に回して、いつもは引っ込めてある短い爪を弾いてパチリと鳴らす。
巫女も護衛騎士も、ウサギの賢者が指を弾いた事に勿論注目すると同時に、ウサギの賢者はペタンとその場に尻餅をつく様にして、座ってしまった。
『け、賢者さまどうしたのですか?』
『いやあ、片付けはアルス君が手伝ってくれて、大分片付いたんだけれどね、疲れちゃった。
それでワシの重さを、ぬいぐるみの時の物にしたからさ、リリィ良かったらロブロウの時みたいに抱っこしてもらっても構わないかな?』
そう言いて座り込んだまま、"抱っこを所望する"という具合に短い両手をリリィに向かって伸ばす。