日常から、催し事への誘(いざな)い①
「昨日の夜、何か物音がしなかったリリィ?」
ウサギの賢者の部下であるアルス・トラッド、リリィの2人で朝食を取る為に、鎮守の森の魔法屋敷の廊下を共に進みながら尋ねる。
一方のリリィは、大好きな賢者様に仕立てて貰った、ややサイズの大きい、すっぽりと身体を包み込むような、袖口まであるエプロンを纏っている。
柔らかな長い髪の毛は調理する時は後ろに三つ編みにしていて、白い頭巾を頭につけ、いつもより早めに終わった朝食の支度の為に、同僚を呼びに来ていた。
アルスの質問に、リリィは三つ編みした為、よく見える様になった華奢な首を傾けた。
「昨日の夜?。わたし、昨日の夜はとってもよく眠ってしまって夢も見なかったの」
「ああ、そうなんだね」
(確かに、無理もないかもしれないなあ)
昨日の昼過ぎ、この屋敷の主人であるウサギの賢者に、親友であり客人でもある仕立屋のキングス・スタイナーが訪れた。
そもそもウサギの賢者を尋ねてきた目的は、夏の季節が来る前のこの屋敷の住人の"衣替え"の支度らしい。
その話を、今リリィと2人で向かっている食堂で、仕立屋が梅のシロップから拵えたというゼリーを食べながら聞いた。
リリィは教会から配布される巫女の装束は、色がやや涼やかなものとなり、生地も通気性の良い物になるという。
ウサギの賢者は、ぬいぐるみの様なその身体に合わせ、キングスが毎年仕立てているのだという。
『仕立て直すと言っても、特にデザインが変わるという物でもないんですけれど、日中が暑い時期は愛用なさっているコートの色を変えさせてもらっています。
あと、特殊な生地を使っているので、どうしても使用期限が限られてしまいます』
『ワシが禁術なんてもの使っているから、着ている服にもちょいと"負荷"がかかってしまうんだよね~。
最高峰の賢者って事もあるけれど、キングスがワシの親友だから、特別に仕立ててくれるんだよ~♪』
昨日、専用の椅子があるにも関わらず、仕立屋の膝の上に、既にコートを脱ぎ、ぬいぐるみの様に"ちょこん"と座る、上機嫌でウサギの賢者にそんな事を教えてもらった。
『アルス君は、軍から夏用の軍服が支給されるのですよね』
『はい、自分は色は変わりませんが、生地が防暑仕様になります。
夏の季節に入ったなら一斉に衣替えですから。
思えば、軍服のデザインも、キングス様がなさっているのですよね』
これには、言葉で返事をせずに、たおやかに微笑んで頷いてくれる。
『キングスはデザインや助言は比較的自由に出来るけれど、服を仕立てる時は、この国の王様の許可がいるからね~。
今、生地や縫い糸から選りすぐったのを身につけられるのは、国王陛下を筆頭に、国が英雄と認めたグランドールやアルセン。
あと、もう少しいるけれど国に功績を認められた、本当に極一部の限られた者の特権だよ~』
ウサギの賢者が小さな鼻をフンフンと鳴らしながら、自慢気に語る言葉に、アルスも笑顔を浮かべながら聞いてはいた。
しかしながら、一般的に爽やかに感じさせる笑顔を浮かべつつも、その下で”キングスに服をしててもらっている、とある人物”の事を思い出している。
(あ、思えば伝言、頼まれてもいたけれど―――すっかり忘れていた)
"そうですか、では私はトラッド君のお世話になっている賢者殿に面識がありません。これからも会う予定はないでしょうから、伝言を1つお願いします"
ウサギの賢者は既に身に着けていなかったが、よく似た仕立てと同じ色をしたコートを身に纏い、ロブロウにおいて大掛かりな儀式の指揮者となった人物。
”魔法もそこそこ使えるみたいだから、何かあったらワシの代わりぐらいにはなるんじゃないかな”
一時、ロブロウで調べ物をする為に所在を不明にしていたウサギの賢者が代わりを認める程の人。
”こちらの殿方は結構な"悪人顔"をしていらっしゃいますが、怪しい人物ではありません”
そんな言葉と共に、ロブロウの代理領主アプリコット・ビネガーとも友人でもある人は、その場に居合わせたアルス、リリィ、そしてグランドールの弟子であるルイに紹介された。
”軽口が叩ける程度の昔からの"友人"でもありますから、ご心配なく。
なにより、こちらの方はセリサンセウム王国・国王陛下直轄の部門におられる方です"
アプリコットの言葉に続いて、自己紹介を行った、髪と眼が鳶色の人物。
”鳶目兎耳"の称号を国より賜っております、ネェツアーク・サクスフォーンと申します、以後、お見知り置きを”
出逢った当初は、紅黒いコートを纏っていたのだが、ロブロウで大掛かりな儀式の指揮者となって再会した時、ネェツアークはこれまでウサギの賢者が纏っていたような緑色のコートを身に着けていた。
浚渫の儀式の際、リリィはアルスと親友ともなった、傭兵の”銃の兄弟”を伴い、安全を最優先というアプリコットの判断を元に、別行動をしていた。
だから緑のコートの姿のネェツアークを、小さな同僚は見ることは出来なかった。
もしも、もしあの場所にリリィがいたなら、一番に賢者様と鳶目兎耳の共通している物に気が付いたと思う。
(自分がネェツアークさんのコートが、ウサギの賢者殿が纏っている物と良く似ていると気が付けたのも、ルイ君がいたからだったなあ)
最初に緑のコート姿を見た時に、心のどこかで”引っかかるものがある”という確信はあったのだけれども、その核心となる部分の見当が直ぐには、つけられなかった。
ただ、そのコート姿を視て抱えた既視感は、儀式の為に異国の装束を身に纏っていたやんちゃ坊主のルイ・クローバーも同じだったらしい。
引っかかる者同士、言葉のやり取りを数度していたなら、同じタイミングで気が付く事が出来た。
”賢者殿だ!!”
”それだ、アルスさん!!”
思わず声を揃えてしまうぐらいの事で、心に引っかかっていた事が判って、当時は随分とすっきりした。
(あの時ネェツアークさんは、笑っていたけれど、目元は鋭かった。
それに思えば、ルイ君はキングスさん―――キングス様と面識があった事にも、何か反応していたし)
”あ?!?キングスさんて、あの照れ屋のお面のキングスさんか!”
”ちょっと、変わってるように見えるかも知れないけれど、とっても優しい人だよなキングスさん。
『仕事で色んな国回ってるからどうぞ』って色んなお菓子もくれたし、オレは好きだなあの人。
顔もちょっとだけ見たけど、ちょっと釣り目の、アルセン様と違った感じで、スゲー美人だったし”
ルイの言葉を思い返してみたなら、あの時アルスがまだあった事はない、キングス・スタイナーという人物に対して抱いた印象は外れていなかったとも思う。
魅力的な人物で、個性の強い存在からも、信頼や好感を抱かれるとても"人”が出来ている存在。
(それで、やっぱりネェツアークさんも、”キングス・スタイナー”という方が、本当に好きなんだろうな)
そこに恋愛を搦めて考えてはいない。
恋愛事は本当に苦手だけれども、異性にしても同性にしても友人関係に関してもその間柄に”嫉妬が絡んだ、歪な様”と例えるのが妥当な有様がたまにある。
それに関しては夏には18歳になるというアルスも、当事者に無いにしても、軍学校や、その前に働いていた工具問屋で似たようなものは、視たり聞いたりはしていた。
(でも、結局は当事者同士でないと、どうにもならないような話ばかりだったなあ)
アルスは穏やかな表情を浮かべて、膝にウサギの賢者を乗せて梅のゼリーを丁寧に口に運び、リリィと談笑する優しい面差しの仕立屋を見て、鳶色の眼と髪をしていた人が口にしていた名前と重ねる。
”トラッド君のお世話になっている賢者さんのお名前が出ていますが。
もしかして、"私の親友のキングスさん"が、どうかされましたか?”
”ええ、このコートは大切な親友に仕立てて貰った私の"勝負服"ですから。
それなりに、精霊の加護もしてもらっていますからね”
(ネェツアークさんにとっては、キングス様が一番の親友って事になる……んだよな?)
自問自答となる心の声は、いつも丁寧な言葉を好むアルスにしては、勇ましい言葉遣いとなって胸に広がり、そして改めて、ネェツアークに頼まれた伝言を思い出す。
”そうですか、では私はトラッド君のお世話になっている賢者殿に面識がありません。
これからも会う予定はないでしょうから、伝言を1つお願いします”
鳶色と空色の眼前の間に鳶目兎耳が長い人差し指を立て、”ウサギの賢者”へと頼むと言う伝言を口にする。
”簡単な事です。
"キングス・スタイナーの一番の親友はネェツアーク・サクスフォーンという人物だ"という事を、トラッド君の護衛する賢者殿に伝えて欲しいだけです。
お願いしますね”
―――わかりました。
あの時は本当に気圧されるという感覚で、請け負ってしまったが、こうやって思い出してしまってから、心の底から”どうしよう”とも思っている。
(あの時は、賢者殿に言うって、ネェツアークさんに答えてしまったけれど……。
今は言えないよなあ)
そう考えて、新人兵が見つめるのは、余程美味しかったのか梅のゼリーを一番に食べ終えてしまった巫女の女の子だった。
(賢者殿なんかは、伝えても軽く流してしまうだろうし。
キングス様は、ネェツアークさんと本当の所の関係は自分は判らないけれど、”仕立屋”としてのあしらいで、少なくとも今のこの場では、上手くやり過ごしてくれる)
『あの……、アルスくんどうかしたの?』
(ネェツアークさん、リリィの事は、ロブロウでは初対面の筈だけれども、気に入ってくれていた。
それにリリィの方も、ネェツアークさんは、領主のアプリコット様の友人という事もあるだろうけれど、信頼をしている)
"気に入った"という表現を敢えて使ったが、見方を変えたなら鳶色の人が、巫女の少女に対して”慈しみ”という表現が十分使える部分も、新人兵士は垣間見てもいた。
(この場でネェツアークさんに頼まれた伝言をウサギの賢者殿に伝えたら、リリィは混乱してしまうだろう)
多分ウサギの賢者程にないにしても、ネェツアーク・サクスフォーンは、リリィの心の中では十分信頼できる大人としての居場所を確立されていると思えた。
だが、もしここで“ネェツアークの伝言”をありのまま伝えたなら、この和やかなこの場の空気が良くはない事は、軍学校の同期に天然と親しみを込めて言われていた新人兵士にも判る。
(でも、かといってネェツアークさんは、キングス様に執着しているだけであって、リリィを大切にしている”賢者殿”という情報は、鳶目兎耳として、確り持っているみたいだった)
そうアルスが考えるのは、鳶目兎耳と王都からの一行が初対面となった際の会話の流れが、 ネェツアークの主導の元、結婚観の物となっていた時の事がある。
その話が鳶色の人が国王ダガー・サンフラワーの意志を含め、締めくくろうとする時。
リリィが
”私もいつか、結婚したいって思うのかなぁ”
と可愛らしい声で、呟いた。
丁度体の二次成長を迎えた事もあって、アルスが思うにそれまでの”結婚観”の話を聞いた影響もあったと思う。
その発言自体は、アルスはそれまでの会話で少し沈んだ気持が、微笑えめる位に明るくなれる程、可愛らしい物に思えた。
だが少女の発言と同時にそれまで、国や王様の事を冷静に語っていた人の動きが止まっている事にも、新人兵士は気が付く。
続いて"リリィを嫁に迎えたいぐらい大好きだ"と公言しているルイが、ネェツアークが動きを止めた事を気が付かずに
"オレだったら、リリィが働きたいなら働いてもいいし、そんときゃ、家事だって手伝うぜ”
と、未成年らしい、結婚相手としての主張をしたなら、それを力強く割って入る形で、鳶色の人は遮った。
更には、当時、諸事情で空腹と疲労の為に動けないでいるやんちゃ坊主を広い肩に抱え上げた上で、"リリィの結婚について語ろう"とする、八重歯の見える口を封じる。
その上で、アルスに伝言を頼んだ時の様に、圧と念で押す様な表情を浮かべ、唇を開く。
”リリィさんは、当分まだ暫く―――結構な間は"結婚"なんて、言葉すら考えなくていい事をだと思いますよ、ええ。
とりあえずは、お世話になっているらしいトラッド君の上司の賢者様にしっかりとっても、甘えて子どもをしていれば良いと、私は絶対思います”
”わっ、わかりました。賢者さまにも、お話を聞いてから考えます、ネェツアークさま”
アルスに対して行った伝言とはまた違った圧力が十分かけられた言葉に、少女は従う以外の反応は出来ずに、周りはネェツアークに"大人気ない"と呆れる中、返答していた。
(あの時、ネェツアークさんは、"賢者さまにも、お話を聞いてから"という、リリィの言葉に笑顔を浮かべた。
あんな風に"賢者様にしっかりとっても、甘えて子どもをしていれば良い"と言うって事は、キングス様の事については執着するにしても、ネェツアークさんは、ウサギの賢者殿の事を信頼はしているんだろうな)
『アルスくん……?』
リリィはアルスが会話に参加しなくなって、暫く時間が過ぎた事を確信してから、言葉をかけた。
アルスの方も声をかけられて考え込み始めてから、自分が周囲が不自然に感じる程黙り込んでいた事に気が付く。
『いや、ちょっと今になって頼まれていた事を忘れていたのを、思い出したんだ。
ちょっと個人的な伝言で、その人にだけに伝えて欲しいって』
具体的な内容は言葉にせずに、事実を答えて視線はリリィに向けつつも、丁度その場にいるウサギの賢者と仕立屋のキングスにも、"約束"がある事は伝わっても構わない調子で口にする。
『そうなんだ、伝言……というか、頼まれた約束を守れると良いね、アルスくん』
"個人的"という言葉で、踏み込んで聞いて欲しくないという意味を察した女の子は、お兄さんみたい同僚を応援する言葉を口にする。
育てた賢者の影響もあるだろうが、寝る前に読書をしている女の子は、言葉に含まれた意味を汲みとって、それ以上は尋ねなかった。
『アルス君、伝言の相手はこの王都付近にいるのかい?』
スプーンを指揮棒の様に振るいながらウサギの賢者賢者が、仕立屋の膝の上から尋ねる。
『あ、はい、いらっしゃいます。
だから、機会を見てお伝えしようとは考えています』
(というか、ネェツアークさんから頼まれた、伝言相手は目の前にいらっしゃる賢者殿なんですが)
自分でも白々しいと思う気持ちが顔が出ない内に、薫りの良い梅のゼリーを掬って口に運んだ。
『賢者様、スプーンを振り回したら御行儀が悪いですよ。
リリィさん、ゼリーのお代わりならありますから、どうですか?』
アルスの言葉が終わってから、タイミングを計ったように賢者に注意した後、リリィにお代わりついて尋ねる。
『はい、頂きます!。あ、でも自分でやります!』
『じゃあ、私も温かいお茶が飲みたいので、一緒に台所に行きましょうか。賢者様、失礼しますね』
そう言ってウサギの賢者をまるでぬいぐるみの様に、"ひょい"と持ちあげて側に置いてあった、専用の椅子に座らせる。
その然り気無い所作を見ながら、この国の最高峰の仕立屋は相当な握力だけでなく筋力もあるという事を改めてアルスは感じていた。
ウサギの賢者が魔法で己の体重を変動することが出来るのは、知っているし、以前必要があって、秘書の女の子が抱っこして動き回れるぐらい、魔法で身軽になったこともある。
けれど、基本的には小柄なリリィが何とか"抱っこ"出来る位で、動き回るには結構な困難となる重さがウサギの賢者の"体重"だった。
そして先程自分専用の椅子に移動させられたウサギの賢者は、魔法をかけてはいない、普通の重さの状態だと思える。
(一般的な女性や、日頃鍛錬してないなら男性でも重いと感じるくらいの重量がある賢者殿を、ぬいぐるみみたいに扱って。
それに、仕立屋は仕立屋でも、世界の色んな場所に自分で材料を買い付けに行くぐらいだし。
きっと自分が考えている以上に、キングス様は武芸に優れている方なんだろうな)
そんな事を考えながら、今は自分の武器の安置場所の上にあるスタイナーの家紋をあしらった留め金に安置している、少しばかり形の変わった弓をアルスは見つめた。
『キングス~早くもどってきてね~』
耳の長い上司が、まるで子供みたいに実際のウサギにはありえない肉球の着いた手で、仕立屋と巫女の女の子を見送った。
『ところで、アルス君。もしかして君に、伝言を頼んだというのは、ロブロウでの出来事で、ワシの代わりの役割を果たしてくれちゃった人の事じゃない?。で、相手は"ワシ"』
『その、わかってしまいましたか、賢者殿?』
賢者に不意打ちに近い形で声をかけられたけれども、一瞬スプーンを動かす手を止めた程度で、大した動揺もしないでそのまま続け、新人兵士は手を動かす。
ウサギの賢者がいつもの様に飄々とし、本当に”世間話の延長”といった調子で話し続けているためか、アルスも見透かされても、不思議と気持ちは落ち着いていた。
『まあ、簡単な消去法で、最後は勘みたいなものかな。
アルス君に伝言頼むとして、ワシの正体―――この姿はともかく、賢者と知りつつ、直接接する機会がなかったロブロウでの御仁と言えば、鳶目兎耳の人ぐらいだろうからね。
とりあえず、キングスのお土産を食べてしまおうか。
多分、ワシらのお代わりも持ってきてくれるはずだから~』
『はい、賢者殿』
(良かった、賢者殿は気が付いてもネェツアークさんの名前を出さないでいてくれて。
もし、名前を口に出していたら、リリィに聞こえたなら反応してしまったかもしれない)
返事をしつつアルスは素直に頷き、もう半分も残っていない梅のゼリーを口に運ぶ。
(それにしても多分、また顔にも出てしまったんだろうなあ)
前から、耳の長い上司から再三"心の声が、顔の表情でだだ漏れ"と言われてはいるので、アルスは胸の内で溜息を吐いた。
(感情を顔に出さない訓練とか、自分はこれから取り組んだ方がいいのだろうな。
軍の図書館で調べたら、何かしら訓練方法や、良い方法があるだろうし。
アルセン様に、アドバイスも貰えるかもしれない)
最後に残った梅のゼリーを口に運びながら、真面目な新人兵士はそう決心していた。
(あ、そうだ、ついでに―――)
『あの賢者殿、伝言の事なんですけれど、出来ればリリィやそれにキングス様には一言でも耳に入らない方が―――。
いえ、その、自分は耳には入れない方がいいと思う様な内容なので、出来れば完璧に2人きりになってから、お伝えをしたいと考えています』
必ず伝える様に鳶目兎耳のネェツアークに念を押されたのは判っているけれど、”至急”とまではいわれてはいない。
『んんー?、そんな物騒な内容なの?。
でも、そんな危ない内容なら、わざわざアルス君を使わないで、軍を通してアルセンを使うとも思うんだけれどね~』
小さな口にスプーンを咥え、もぐもぐとしながらモフりとした猫よりも狭そうな額に縦シワを作りながら、そんな事を言う。
『そうですね、軍の機密事項なら、新人兵士の自分に頼まないと思います。簡単に言うなら、物凄く私情を挟まれた内容です』
困り顔でそう告げたなら、小さな口に加えていたスプーンを取り出して、ウサギの賢者はアルスに向ける。
優しい仕立屋が行儀が悪いと叱られそうな、振る舞いにアルスが今度は苦笑いを浮かべていたなら、耳の長い上司は再びスプーンを今度は短い指でペン回しの様にクルクルと回し始めた。
短い指と堅い爪の妙技に、これには行儀が悪いと頭で判っていながらもアルスは空色の眼を瞬きをしながら、音が出ない程度で無意識に拍手に繋がる仕種を行った。
その反応に回していたスプーンをゆっくりと食卓の上に置いて、小さな口の端をキュッと上に上げた後に、長い耳を素早く動かした。
『ああ、そうか。聞いてしまったなら、ワシよりも、リリィが傷ついてしまうか、困ってしまう様な内容なんだね?』
リリィに聞かせたくないという言葉から、そこまで先回りして賢者が考えてくれたのだと思いながら、頷き、口を開く。
『傷つくかどうかは判りませんが、とても困るとは思うんです。
賢者殿は例え自分に向かって、理不尽―――になるのかな?、そう言った事を口出されても聞き流したりすることは出来ますよね?』
『まあ、そうだね、うん。気にするだけ、馬鹿らしいと思える内容なら、そうするね』
緑のコートを脱いでいる為に、今はチョッキ姿のウサギの賢者は短い腕を組みながら、アルスの言葉を肯定する。
『リリィも"賢者さまが気にしていないんだから、わたしがするべきではない"と、考える事も出来ると思います』
アルスのその言葉に、フンフンと小さな鼻を鳴らした後に、殆ど黒目に近い円らな瞳に白い部分を珍しく作り、今は恐らくを湯が沸くのを待っているのだと思われる、巫女と仕立屋がいる方向に向けた。
『で、そこにキングスも絡んでくるんだねぇ』
『はい、そうなんです、それに何よりキングス様と逢った事で、思い出した事でもあるんです。頼まれていて、申し訳ないんですが……』
(ウサギの賢者殿、実は鳶目兎耳のネェツアークさんが口にしたことについて、殆ど察しているんじゃないだろうか)
返事をしながら、アルスはそう考えていた。
(鳶目兎耳じゃないにしても、賢者なのだから、多分情報はそれ以上の物を持っている。それなら、自分が今更ながら、話す必要はあるのかな?)
既に自分がやるべきことは、言葉にせずとも強く賢い存在が掌握してくれている。
(それに、賢者殿なら、ウサギの姿を魔法でなさっているだけで、国最高峰というのなら、"僕”より強いのは当たり前だし)
"ウサギの賢者は強い”
―――私は自分より弱い人に守ってもらわなくても、結構ですよ。
『―――っ』
そんな事を考えていたのなら、その言葉にまるで蔓が絡まる様に関連して、話題の中心にもなっている鳶目兎耳に言われた言葉を思い出し、小さく声を漏らした。
『ふふふふ、どうしたのアルス君?、いつも優しいアルス君が、そんなに鋭い眼をしちゃってどうしたのかなあ?』
台所にの方に向けていた眼を黒目を、再びアルスの方に向け、眼を細めて”笑顔”を向けられた。
『あ、いや、その、自分はそんな目をしていましたか』
今度は梅ゼリーを食べ終えている事もあって、先程は表情に出ると言われても、極力無反応だったのに今度は顔を触ってしまっていた。
(いけない、賢者殿は確かに強いけれど、ネェツアークさんとは関係ないのに)
『まあ、いいや。今度アルス君と2人きりで、話す機会をつくろう。
どっちにしろ軍の規律で、月が一回りする間に一度は、一対一で上司として面談というなの世間話を、しなければならないしね』
『あ、はい、そうですね、賢者殿』
上司との面談は軍学校にいる間もあって、ウサギの賢者に所に配属された翌日には、ちょっとした出来事もあって、既に一度行っている。
(思えば、あの時も賢者殿には、腹割って話しをすることが出来たな)
言葉の駆け引きみたいな物をしたつもりはないけれど、耳の長い上司は軽い軽食を取りながら、アルス自身からは口にする事がないけれど、気にしている話題を引っ張りだしてくれた。
少し強引な所もあったけれど、そのお陰で、この職場で働くという事が大好きになれるきっかけにもなれた。
『ワシもリリィの前じゃあしにくい話もあるしね~♪。
”男の会話”って奴をしようじゃないか、あ、どうせなら、一緒にお風呂に入りながらする?。
東の国には、”裸の付き合い”という慣用句もあるらしいよ、アルス君』
明らかに"からかい"の口調でウサギの賢者が口にするのだが、部下の方は生真面目にしかも興味深く受け止める。
『"裸の付き合い"ですか。軍学校の時は入浴が義務だったんですけれど、こちらに配属されてからは自分は、シャワーで済ませてしまうことが多いのですが。
さっきの薪割りが終わったのも、シャワーでしたし』
『おや、そうなんだ。ワシはお湯に浸かるの好きなんだけれどね~』
アルスの予想外の返答に、ウサギの姿をした賢者は笑って今一度、眼を細めた。
一方、普通なら先ず難色を示す"上司"の発言なのだろうが、天然な騎士は直球に受け止めて、じっくり考える。
そして、モフリとした上司を見つめたなら、軍学校で動物好きの同期生達が好んで読んでいた、動物愛好家向けに編纂された雑誌を思い出していた。
雑誌に掲載されている記事と、描写されたペットとして飼っている動物達の挿し絵の忠実性は、見事なものでアルスも借りて読んだ。
もし、手元にあって同僚の巫女の女の子が読んだならば、"動物の赤ちゃん"のコーナーに釘付けになり、顔を赤くして"可愛い!"と声をあげるだろうという想像が簡単に出来る。
その中でも、アルスが同期生と笑って一緒に読んだものは、一般的にはフワフワとした体毛に包まれ、体が大きめに見える動物達が、いざ濡れてみると驚く程小さいという記事である。
掲載されている挿し絵も、絶妙な筆さばきで画かれていて、毛が乾燥している時とのギャップには、よく笑った。
(もし、賢者殿がお湯に浸かったなら、一体どうなるんだろう)
先程とは、方向性の変わった鋭さを含んだ空色の眼からの、興味津々の視線を注がれて、ウサギの賢者は長い耳を素早くピピッと動かした。
『―――まあ、ワシと湯船を共にしたなら、フワフワの毛が抜けてお湯が毛まみれになって、後に浴槽掃除と共に排水溝や下水管での悲劇が起こるから、お風呂に関しては、今度の機会にしようね、うん。
それに今日は、キングスと一緒にお風呂に入る予定だから。
アルス君とは、また今度ね、うん』
『賢者様、アルス君と楽しく話していらっしゃるみたいですね。宜しかったら、どういう流れで御風呂の話になっているか、教えていただきますか?』
高くもなく低くもない声の後に、アルスがリリィの為に造った小さく台車の稼働音が賢者と新人兵士の耳に入る。
『おや、キングスにリリィ、ちょっと時間がかかったみたいだねえ』
『―――え』
突然の声に、驚きのあまりに今まで自分が考えていたことをすっかり忘れ、声の発生源の方を見詰めると、仕立屋が盆の上に、湯気が昇る異国の茶を淹れる為の急須を載せて食堂内に入ってくる。
その後に大きい陶器の器を乗せた台車を押す、アルスの小さな同僚が続く。
(キングス様の方は、声が聞こえるまで全く、気配が感じられなかった)
ウサギの賢者との会話に夢中になっていたのは自覚をしているが、厨房から食堂の方に入って来た仕立屋の動きに気がつけなかった事に、軽くショックを受けつつも、戻ってきた2人の方を見る。
『いやあ、さっき汗を流しなさいと指示したことで、アルス君は最近湯船に浸からず、シャワーのみだとか言うじゃない。
そこで最近の若人は、"湯船に浸からずお風呂に入らないか?!"というのを、セリサンセウム王国若者代表アルス・トラッド君と、セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長として、話をだね』
ウサギの賢者はいつもの調子とでも言うべきなのか、中らずも遠からずの、嘘のわけではないが正確ではない―――"誰にも迷惑をかけないズル"のような物を、滑らかに小さな口にから、紡ぎだしていた。
『"セリサンセウム王国お風呂推進委員会"なんて初めて聞きました。
私がサブノックに生地の買い付けに行っている間に、ダガー・サンフラワー陛下は、そんな役職を多忙な賢者殿にお与えになっていたのですね』
アルスが空色の眼を丸くしている間に、リリィの方が台車を押しながらアルスの側にやってくる。
『アルスくん、"気にしたらダメだよ"』
『へ?ええ?!』
(リリィは、自分がキングス様の気配に気がつけなかった事を気付いている?!)
そして"気にしたらダメだよ"という言葉は、励まされているのだと思う。
『キングスさまも、とっても優しい方だから、ああやって賢者さまがふざけたなら、"キリ"が良いところまで、おつきあいなさってくれるの。
だから、賢者さまが仰った、"セリサンセウム王国お風呂推進委員会会長"なんて、ウソだから。
それはそうと、梅ゼリーお代わりいる?』
だが、早口にだが滑舌よく説明されたことによって、リリィが"アルスが呆然としている"事で、勘違いをしているのに気がついた。
(リリィはキングス様の後ろにいたから、気配云々はわからなかったのかな。
というか、元から武芸に余り関わってもないから、気づくも何もないのか)
新人兵士が賢者と仕立屋を見てみたなら、未だに"風呂の話"を続けていて、聞こえる言葉から鑑みる限り、温泉のある地方の話に変わろうとしていた。
でもその温泉があるという土地は、訪れる当人に武術の腕の覚えがなければ危険だと、軍学校で教わった場所でもある。
その場所に、仕立屋は護衛もつけずに行ったらしかった。
(アルセン様は、基礎を繰り返しておけば構わないと、言ってくださったけれどやっぱり、鍛練のやり方を見直そう。このままじゃ、ダメだ)
決して"仕立屋"としての仕事を侮ったりするつもりはないし、キングス・スタイナーという人は一廉の武芸者であるのだと、これまでの身のこなしで察した。
けれど、任期契約であるとはいえ、兵士の自分が仕立屋が気配を消していたにしろ、気がつけないことが、純粋にアルス・トラッドは悔しかった。
"私は自分より弱い人に守ってもらわなくても、結構ですよ"
談笑している仕立屋が拵えたという、ウサギの賢者と良く似たコートを、誇らしげに纏った人に言われた言葉が、再び胸に苦く染みる。
(ネェツアークさんに、あんな風に言われても、仕方がない)
痛烈な言葉だけれども、"争い事が嫌いだから"と眼を背けてばかりいる自分を見つめ直すことにも繋がった。
それでいて、今自分を信頼し、話しかけてくれる小さな同僚を、どういう腹積もりかわからないけれど、嫁入りに関してまで気遣う言葉すら口に出してくれている。
ただ、国の王様の直轄の立場である人は、アルスの小さな同僚の側にいることは出来ない。だから
(賢者殿は必要ないかもしれないけれど、リリィは何っとしても"僕"が守らないと)
短い時間にそんな決意をかため、笑顔を造りリリィの質問に応える。
『ああ、そうなんだ。キングス様は、冗談も解るんだね
じゃあ、お代わりをお願い、量はさっきと同じくらいで』
そう言いながら、デザート用の透明なに青い色ガラスが点々と模様としての器を差し出し、リリィが小さな手に確り受け取ってから離す。
正直甘すぎるのは、疲れた時には有り難いけれど、普段は"お菓子"を口にするにしてもさっぱりした甘い物や、塩味系の菓子を選ぶ事がアルスは多い。
そしてキングスが持ってきてくれた梅ゼリーは、香りは元よりその酸っぱさが、薪造りの労働をした後には尚更美味く感じていた。
『んー、解るっていうより、"受け流す"んだと思うよ、アルスくん』
一方、巫女の女の子は見栄えよく陶器の器に入っている梅ゼリーを"お玉"で掬い、渡されたガラスの器に盛りながら、小さな唇を開いて"賢者さまと仕立屋さん"の説明もしてくれる。
『あと、世界中の色んな所に行ってらっしゃるから、どんな話題にも応えられるから、賢者さまも嬉しいみたい。
賢者さまは、"変わり者のワシに合わせてくれて有り難い事だよ"といつも仰っていますから。
はい、どうぞ』
梅ゼリーの盛り付けの仕上げに彩りとして、二粒乾燥果物の、赤いクコの実が置かれた。
『ああ、変わっているのは本当だものね。おかわり、ありがとう』
時おり忘れてしまいそうになる、自分の上司の変わった姿を思い出しながら笑顔を浮かべ、綺麗に盛り付けられたお代わりを受け取った。
『賢者さまとキングスさま、まだまだお話が盛り上がりそうだから、わたしもお代わりしよっと』
上機嫌にリリィ専用に造られた台車を押し、自分の席に運んでお代わりをつぎ始める。
賢者と仕立屋は、また話題が移り変わっているらしく、今度は温泉の効能について話を始めていた。
ここまで来ると、効能については薬草に始まり、"カンポウ"というアルスが聞いたことがない言葉も出てくる。
けれども、賢者と仕立屋は互いに説明を挟むこともなく、素早く言葉を交わしあっていた。
(思えば、賢者殿は物知りだから、自分やリリィと話をする時には、大抵説明をしてくれて、それに時間を使ってくれている)
もしかしたら、それは結構な手間をなのかもしれないと、仕立屋と賢者の会話を聞きゼリーを口に運びながら考える。
(軍学校では判らない事は教えてもらうのが当たり前みたいに、思っていたけれど、相手に理解できる様に言葉を選んで説明するって、大変なことなんだよな)
軍学校時代には、教官であったアルセンが本来なら休日でもあるにも関わらず、学科の資料の見直しに追われているの良く見ていた。
アルスも訓練生で忙しいながらも、時間が出来たなら尊敬する恩師を手伝っていたが、その作業は中々大変なものだった。
大体が、教本の説明の文章の”堅い”部分が、判り易く、共感しやすい言葉に置き換えるという作業だが、内容はその改訂部分を、既に活版印刷で刷り上げている紙を糊で貼り付けるというもの。
軍学校にいる多数の訓練生を使えば、1度で済む人海戦術的なやり方もなくはないのだが、作業の量が中途半端だったり、ある程度の繊細な注意力が必要なものだったりもする。
そんな少しばかりコツのいる作業を、仕事は実質管理職で最終的な確認作業ばかりの教官は、軍学校の時間の隙間をみては己の仕事と並行して行っていた。
簡単にその情景を説明をするなら、改訂作業を行う部屋で、アルセンの秘書業務も担うロマサ・ピジョン曹長が"確認作業の書類"を読み上げ、教官と訓練生であるアルスは、作業を行う。
サラサラとした金色の髪がかかった耳に、副官が読み上げる報告書の情報を入れつつ、眼では改訂の細かい箇所を見据え、その両方の確認を見事にこなしていた。
報告書の方は聞いているだけでも、疑問に感じた場所や訂正箇所は直ぐに口頭で副官にチェックを告げ、教本の改訂を進める、生まれつき多い魔力を調整する為に、填めている白い手袋の手は決して動きを止めない。
アルスはその様子に驚きつつも手伝うが、それでもピジョン曹長からの読み上げ、確認を並行しながら作業を行うアルセンに付いて行きながら、手伝っている1つの改訂作業をこなすのが精々だった。
それから一段落のついた休憩の合間に、
"凄いですね、アルセン様"
とアルスが声をかけたなら、美人な上司は口にはださないが、弟の様に思っている教え子に綺麗に微笑みながら、顔を左右に振った。
"いいえ、私の父などに比べたらまだまだ。
父は"仕事場"の剣術の鍛練を相手に魔法も使いつつ、自分の副官にテレパシーで報告を送らせ、訂正をさせていたらしいですから。
母が言うには、私も父も余程頭を使う作業でない限りは、並行作業……というよりは何かしら情報を取り込んでいた方が、行動が早い様です。
なら、今やっている作業も、こうする方が一番効率が良いと考えましてね。
アルスも、貴重な休日に手伝ってくれるとの事ですし、早く終わらせる事を考えて、このやり方を選択したまでです"
そうして、自分と同じ金髪だがコシの強い教え子の髪を白い手袋を嵌めた手で、軽く撫でた。
教え子が誉められ、照れている姿に形の良い唇の端を更に上げた後に、白い手袋を嵌めた手を頭から下ろした。
"ただ、私にしたなら、この教本の改訂を幾度も繰り返しながら、軍学校のカリキュラムを毎年現場を知らない者の理想と、現場からの要求を頼まれ、それを調整して練る人物の方が余程立派だと思います。
私は結局自分の意志を優先できる立場を使って、大変に思うことはありますが、やりたいようにやっていますからね"
軍学校時代、恩師は自身の家族の事を語らず、天然であるアルスもアルセンが語るのを避けている雰囲気は感じ取っていたので、敢えて尋ねなかった(そして、恩師の父親が元英雄であり、"母親"の姿に度肝を抜かれる事になる)。
ただ、後半に語った"カリキュラムを調整し、練り上げる"人物に対しそれなりに敬意とまでは行かないが、似たようなものアルスは感じ取っていた。
そしてその人物に対して続けて、語ろうとしている節を察した教え子は黙し、恩師の言葉を待っていたなら、そんなに間をおかずに続きを始めてくれる。
”この国を護る事を、志してくれた訓練生として入って来てくれた、アルス達みたいな民間人を、"兵士"としての仕事をスムーズに覚えてもらうのが軍学校の役割ですからね。
アルスも、軍学校で日々生活してわかっているでしょうが、軍は民間の生活から見たなら信じられないほど、窮屈である意味では馬鹿に見えるほど、規則に厳しい。
この縦社会の仕組みを、実際に体感して"知る"までは、本当に大変だったでしょう?"
横目で確認するように見られ、アルスは素直に頷いた。
普通にこの国で民間人として生活をしていたならば、体験しなかった規則が溢れていたし、アルセンが口にした"知る"という状態に慣れるまで、本当に戸惑った。
まず"階級"というものが、普通の生活の中ではない。
"ああ、でも、上官が絶対的というのは、工具問屋でアザミさんには何が何でも逆らってはいけないっていう決まりと、似ていると思いました"
この言葉には、アルスをアザミが"女将"として働く工具店を紹介したアルセンは笑いながら、続ける。
"そして漸く慣れたと思ったら、次は、兵士としての基礎を叩き込まれる。最初は、敬礼と掛け声でしたかね"
懐かしそうに言うアルセンに、当時の時間の長さから言えば、つい最近習った訓練生は直ぐに頷いた。
"はい、そうです。敬礼の腕の角度とか、背筋も含めて色々指導してもらいました。
基本の形は当たり前でしたけれども、何よりも兵士は"揃える"事が一番大切だとも言われました。
何にしても、幾ら格好良く見えても、早すぎても遅すぎてもダメで、共に兵士になろうとしている同期生と揃える事が大切なんだと。
自分は指導されるまで、"合わせる"と誤解していて、最初は揃えるとの違いが判らなくて大変でした"
大変でしたと感情のこもった教え子の言葉には、教官は眉を困った様に"ハ"の形にしていたけれど、唇の端は上がっていた。
"奇遇ですね、訓練生時代に私もそんな時がありました"
―――パドリック訓練生、動きは完璧じゃが合わせると揃えるは、似ているが違う所があるんだがのう。ネェツアーク、これはどう言ったら言いんじゃ?。
そう言って褐色の身体の大きな教官は、教本と"にらめっこ"している相棒となる、鳶色の眼と髪をしているもう一人の教官に声をかけた。
―――うーん、グランドール、前に教えた時にも思ったんだけど、これは先ず"教える側"の指導法をどうにかした方が良いよ。これは考えるより、統一の感性で捉えた方が早い。
教官の立場となっている人達は、途中入隊ではあるが基本的に優秀な美少年に、これまでの訓練生に追い付かせるべく、初日で"初歩の初歩"の敬礼についての指導現場で、迷う姿を見せる。
"セリサンセウムの人材"として証明するために、仕方なく軍に在籍していた鳶色と褐色の2人の教官で先輩達は、訓練生になって数時間のアルセンに、堂々とそんな事を口にして、呆気にとらせていた。
結局3人で色々やっている内に、教本に載っている事と実際にやってみることのでの違和感の原因は掴めた。
―――これは教本を何れ作り直す時にでも、注意した方が良いかもしれんのう。
―――そうだね、アルセンだから時短で出来たけれど、覚えるより"根付く"様な教え方を、次に教本を編纂する時は一般的にみても判りやすく作ればいいか。
教官の軍服の胸元から、筆を取り出し教本に書き込みをしながらも、鳶色の眼で訓練生になったばかり後輩を見る。
―――でも、私達のいる場所に追いつきたいなら、"教えられなくても"、自分の能力で考えて、先ず行動しないといけないよ。
軍の兵士と、それと並行して"英雄"を目指していた少年に、先輩達はそう告げた。