旅立ちの時⑤
『”心の底から恥ずかしい”というものは、中々実地で体験する機会もないし、正直、出来れば経験したくはない出来事ですね。
そして、先程思わず顔を覆い隠してしまったアルスなら、アプリコット殿の気持ちに、それこそ添えたのではないのですか?』
視界に入る金色の恩師の髪が、風の精霊の影響を受け舞い上がるのを見つめながら、思わず顔を覆ってしまった時の事を思い出す。
決して親友に恥じるような気持ではないのだけれど、声を大にして言えるまで誇れる覚悟は出来ていない。
それに、自分が行おうと決めた、恩師に口に出した事はアルス1人の意志ではなくて、親友となってくれたシュトの意志があって、初めて成り立つことでもある。
それでも何かしら親友の身にあった時、相手の最も救われる方法を考え、動こうと心に決めてはいる。
親友の気持ちを聞かず、行動に移す事は身勝手でもあるのは、意識の底で理解をしておきながらも、それでも構わないと思っている自分もいる。
大切な親友の幸せを想う気持ちで、胸は溢れて、自分の事なんて二の次でもあった。
その時、完璧に自分の立場など、全く考えてもいない。
(じゃあ、アプリコット様も、自分の立場も考えずに、国王陛下の幸せを願ったという事なんだろうか)
そこまで考えた時に、身体が浮き上がるのを感じ、次に宙に浮きながら"下降"するのを体感すると風の音と共に、再び恩師の声が耳に届く。
『私が知っている限り、国王陛下は大変運動神経の良い方です。
先程の“離れ業“の様な乗馬を含み、その前の活躍もアルスも見ていますよね。
そんな方だから、もし"ウサギの賢者が不意打ちのイタズラをした"としても、あの時のアプリコット殿との口付けは、"避けようと思えば避けれた"と、私は確信しています。
そしてね、アプリコット殿もとても強い方だと思います。
きっと彼女も"避けよう"と思えば、口づけを避ける事は出来たのだと思います』
そのアルセンの言い回しは、つい先ほど聞いたものに似ていると思えた。
―――出来るはずなのにしないのは、やはりしないなりの理由があるのだと思います。
それはアプリコットが、敢えて銀色の仮面を失った事を自分の失態の様にし、肌からはケロイドがなくなってしまった事を、表には出さないようにと、自分の賢者が勧めている時に出た言葉だった。
そして、つい先程告げられた言葉も、今一度、頭の中を巡っていた。
―――あの時のアプリコット殿との口付けは、"避けようと思えば避けれた。
―――彼女も"避けよう"と思えば、口づけを避ける事は出来たのだと思います。
(この場合の2人とも口づけを避けられるはずなのに"しない理由"は、互いに互いを気に入ったという理由ぐらいしか、“僕”には思いつけないなあ)
自分の髪が風に揺れるのを感じながら、国王ダガー・サンフラワーがウサギの賢者にけしかけられて、口づけを避けなかった理由として、思い浮かぶのは鳶目兎耳のネェツアーク・サクスフォーンが口にした言葉だった。
―――ダガー国王陛下は何よりも"強い"方が好きなんですよ。
その条件にアプリコットが合致していたというのは、アルスも納得は出来る。
―――私はあの"ウサギの賢者"と同じ位、強いわよ?。
自分の護衛対象である賢者と同じように、不貞不貞しく言われたのはよく覚えている。
(でも、ウサギの賢者殿程強くて、賢いのだろうけれども、口づけを避けれる選択もあっても、アプリコット様はしなかった。
それはアプリコット様も、国王陛下の事を嫌いじゃないし、少なくとも好きという気持ちはあるから。
その後、異常に照れているという事はアルセン様の言う通り、本当に恥ずかしかったのだろうな)
アルス場合は、親友の許可も取らずに、自分1人で突っ走ってしまった様な気がしたからこそ、己の身勝手さが恥ずかしくて思い切り赤面していた。
アプリコットの場合、もし、俗にいう”両想い”ならどうしてあそこまで―――イタズラをしかけたウサギの賢者に、嘴の形をした、恐らくは高等な魔術を使ってまで向かわせたのには、"そこまでしなくても"という気持ちがある。
(やはり口づけって、両想いでも大っぴらにするものでもないし、互いに好みであっても人前でした事が、アルセン様の言う通り、アプリコット様には、とても照れ臭かった事になるのかな)
淡い想いを抱いている相手はいるけれど、具体的な恋人のやり取りなど微塵も考えた事のない少年は、そこの具合がまだよく理解できない。
(自分が顔を覆って顔が赤くなるのを誤魔化したのと同じように、アプリコット様は仮面をつけて、赤くなるのを隠している。
でも、アプリコット様は口づけをしてしまったこと自体は否定はしないけれど、それを目撃されてしまった恥ずかしさが強いという事なんだろうな)
アルスの”合っている様で微妙な角度で外している思考“を、支える事で雰囲気で感じ取っているアルセンは、今度は本当の意味で苦笑いを浮かべながら、教え子に向かって口を開く。
『国王陛下と領主殿の口付けに関しては、"出来るのにしなかった"というよりも"したいけれども互いに遠慮していた"と言った方が、近いかもしれません。
友人として、見ていてじれったくなったから、必要な後押しをした』
『じゃあ、賢者殿がしたことは、余計なお節介になるわけではなかったのですね』
風の音とも聞こえ来る恩師の言葉に、無邪気にも取れる反応をするアルスに引き続き苦笑いを浮かべたまま、アルセンは頷き、少しばかりを支える腕の力を緩めた。
抱きかかえられている状態で、まだまだ密着はしていて、顔全体は見えないが、恩師の形の良い口元と唇がアルスの視界に入る。
『アルス、もうすぐアプリコット殿やグランドール、シュト君が待っている八角形の大地の上につきます。
そうしたら、引率となるグランドールやアプリコット殿と共に、儀式に参加したメンバーでリリィさんを迎えに行くまでぐらいは、一緒に行動を共に出来ると思います。
ただそれ以降は恐らくウサギや、グランドール、そして領主殿と今後の後始末に追われる事になるでしょう。
シュト君とアト君も、ロブロウからは旅立つ事になると先程のメモの”念”に込められていました。
従って、気を失ったままのルイ君や帰りを待っているリリィさんへの説明も、アルスが殆ど請け負うことになると思います』
『―――はい』
恩師の口元が殆どを占める視界の端に、ロブロウの見慣れた景色が茜色に染まる形で入り込み始めているのを確認しながら頷いた。
『機会があったなら、私が話そうとは思ってはいます。
それでも時間がある時にでも、アルスからもシュト君にアプリコット殿の事を、くれぐれもよろしくお願いする様に伝えてください』
恩師の言葉に含まれている意味は何処となく理解はできるのだけれども、新人兵士のアルスが聞くにしては畏れ多い様な気がして、少しだけ声の調子を落とす。
ただ恩師の方は教え子の抱いている不安が"杞憂"だと言わんばかりに、耳元に口を寄せてまるで仲の良い兄弟の間でする"内緒話"のようにアルスの耳元で囁いた。
『ええ、何せ"王妃様"になるかもしれない方ですからね。
確定こそしていませんが、国王陛下がわざわざいらしたのだから、ほぼ本決まりだと思います。
とても強い事は判っていますが、一応護衛はつけなければいけません。
けれど、王妃候補だという事を公布もしていませんから、表だっては守れません。
そこで傭兵"銃の兄弟"の本領発揮です。
代金はセリサンセウム王国の長者番付常連のグランドール・マクガフィンから出るとでもいえば、乗り気になるでしょう』
『え、でも、アプリコット様はロブロウの領主様で、シュト達は王都に、そのグランドール様の紹介で来るって―――』
そこまで言葉を交わした時に、アルスは自分の靴底が日常の生活では味わえない結構な滞空を経て、八角形の大地の上につくのを感じていた。
それと同時に、この場所に戻ってくる為に、アルセンが使っていた大掛かりな"魔法"の効果が消え始める。
ほんの数秒ではあるけれど、その魔法が消えていく名残が、まるで春の季節の去り際に舞い散る桜を思い出させる様な、白く透ける風の精霊の粒子に2人は包まれた。
アルスはその幻想的な光景を空色の眼に移し、少しばかり呆気に取られるけれど、アルセンの方は至極冷静で、互いの腰を結び付けていたゴム紐を解く為に、また距離を詰める。
そしてさり気無く再び耳元で、囁かれる。
『"誰にも迷惑かけないズル"を起こす為の第一歩となる事を、アルスに任せます。
シュト君に"アプリコット・ビネガーの護衛"を依頼するのが、国の英雄であったなら嗅覚の鋭いものなら、勘付いてしまいますからね。
よろしく頼みますよ―――』
その言葉が終わった時には腰に結んでいた、紐が解かれて、周囲を包み込むようにしてあった風の精霊は消えていた。
するとすぐ傍にいつの間にかアルセンと同じ様に、使っていた大掛かりな魔法を解いたグランドールが、待ち構えるようにして立っていた。
『―――遅かったのう、アルセン』
そう低い声で言葉をかけられると、解き終わった紐を綺麗に纏めて、アルスに渡しながら綺麗な笑みを浮かべる。
『ええ、久ぶりにアルスと2人きりになれましたからね、話しこみました。
それにしても、何か上に羽織ったらどうですか、グランドール?。
いつも革の上着をつけているだけでもありますが、やはりつけているのと、ないのでは差が出ますねえ。
あと思えば"裸足"にもなっていたんですよね』
緑色の眼を素足となっている親友の足元に向けたなら、グランドールは逞しい腕を組みながら少しばかり表情を顰める。
アルスも改めて恩師の親友で、国の英雄なる人の儀式やその後で諸々で、腰から足首まである異国の神に扮する為に身に着けていた"袴"だけを纏った姿になっているのを見た。
王都の工具問屋、軍学校で、どちらかと言えば、筋骨隆々の肌をむき出しにしている男性陣の姿にアルスは慣れている。
大して気にはしていないが、グランドールはそれなりに気にしている様子だった。
『仕方なかろう、大掛かりな魔法使うとなるとこういった影響は免れん。
裸じゃないだけ"マシ"じゃが、領主殿は御婦人でもあるし、何よりこのままリリィを迎えに行ったなら、また悲鳴をあげられかねんかのう。―――なあ、アルス?大丈夫と思うか?』
不意に話を振られた形になるのだが、新人兵士のはグランドールの今の姿と、リリィという名前で思いの外滑らかに、具体的な想像が出来た。
『えっと、そうですね、リリィがもしかしたら、もしかするかもしれません……』
本当なら大変な儀式を終えて、とても大変な事を為し得た国の英雄グランドール・マクガフィンに"そんな事ないですよ"という言葉を出してやりたい。
しかしながら、そんな事情を間近で見ていないし知らない、世間知らずの女の子は多分、グランドールの今の姿を見たなら、先程のアプリコット、そして自分の様に赤面するのが簡単に想像できた。
『そうか……出来れば、もう悲鳴は上げんで欲しいのだがのう……。一手間かかるが、領主邸の方に寄るしかないか』
筋が浮く太い首を結構な角度で曲げて、大きく溜息まで吐き出しているグランドールを見て、アルセンが少しだけ気の毒そうに笑みを浮かべ、"ご苦労さまです"と口にしていた。
(あ、ルイ君だけかと思っていたけれど、グランドール様も気にしていたんだ)
ロブロウに訪れる前に、宿場町で一泊した時、アルスの小さな同僚で妹に扮していたリリィは、彼女の記憶がある限り、生まれて初めての外泊を行った。
その際、朝の起床時に寝ぼけ、ぬいぐるみに扮し共に寝ていたウサギの賢者を締め上げてしまった事に、驚きの余りに悲鳴を上げてしまっていた。
その悲鳴を聞きつけて、扉を開く音と共に、武器まで手にしたグランドールとルイが寝起きの姿(上半身裸で下だけ下着、着用)で、トッラド兄妹の寝室に入って来た。
―――グランドール様、ルイ君、おはようございます。
アルスは冷静に対処できていた(当たり前であるが)のだが、上半身裸のグランドールとルイにリリィが赤面し、悲鳴を上げ、慌てて扉が再びしめられていた。
(あ、思えばあの時、リリィも赤面していたなあ)
それから小さな同僚が、恥ずかしいやら変な怒りが胸の中でくすぶり、落ち着きをなくしていたので、ウサギの賢者が「気分転換に朝市へと行こうか」とアルスをお供に、宿屋から連れ出していた。
(リリィが、あんなにショック受けるとは思わなかったけれど)
―――お、『お兄ちゃん』だって寝る時はシャツに寝間着のズボンを着てるのに、何でグランドールさまもルイもあんな格好で。
暫くモゴモゴと言っていたのをよく覚えている。
(自分はあの時、何て言って励ましたんだっけ―――ああそうだ、リリィの頭をポンポンと軽く叩くようにして撫でて)
―――そうだね、もし自分が11才の男の子で14才と妙齢の女性が上半身裸な姿を偶然でも目撃したら、男でも悲鳴あげるくらいショックだろうと思うもの。
―――だからリリィが悲鳴をあげたのは仕方ない事だよ。
爽快な朝に、何て慰め方をしているのだろうと自分に呆れてもしたけれど、ふと今になってその言葉の通りの事を思い浮かべてみる。
(自分は悲鳴は上げて、赤くはなるかもしれないけれど、多分後は引かないだろうな)
万が一そんな場面に遭遇をしたなら、とても驚く自信はある。
けれども、驚きの為に興奮して体温が上がって赤面したとしても、リリィの様に"見た方が恥ずかしがる"という感覚はいまいちわからなかった。
そして、その逆に当たるルイのあの時の落ち込む気持ちも、どちらかと言えばわからない。
(あの時はリリィの事を心配した上での不可抗力だもの、仕方がない事だったし―――)
『“アルス君“、考え込んでいる所を申し訳ないんだけれども、シュトと一緒にお使いを頼んでもいいかしら?』
『あ、はい』
今この場で、アルスを“君付け“で呼ぶ人物は1人だけしかいないので、直ぐにそちらの方を向く。
『何のお使いでしょうか、アプリコット様』
常時の性格を知ったなら少し不思議にも感じる高く優しい、とて可愛らしい声の持ち主アプリコット・ビネガーに呼ばれ、新人兵士はそちらを見る。
素材が鉄になってしまった為に、前よりも明るさと、細かな花の装飾はなくなってしまったけれども、殆ど形の変わらない仮面を身に着けたアプリコットが、早速唯一見える口元から指示を出す。
『先にシュトと駆け足で関所に行って、グランドール―――マクガフィン殿が羽織れそうな物を借りてきて欲しいの。
そうしたら、わざわざ領主邸に戻らなくてリリィちゃんを迎えにいけるし、関所にはリコリスさんが身体を休めているのもあるから。
あ、そうだ履物は儀式の時の為に予備を用意をしている筈だから、それを持ってきてくれたなら助かるのだけれど。
全てムスカリに言えば、直ぐにわかる筈だから』
ロブロウの農業に関しての、全ての責任を任されている中年の男性の名前をアプリコットは出し、アルスは具体的な事を指示内容を心の中で復唱して、頷いた。
『判りました』
その返事を聞いたなら、口元だけでも十分伝わってくる”笑顔”を浮かべて、アプリコットは頷き返してくれた。
仮面の為に表情は見えないが、アルスの聞く限り声もアプリコットが出す指示の内容も落ち着いている様に思えた。
(やっぱり、国王様との口付けに関してだけ、恥ずかしい思いをされていたということなのかな)
『―――私とグランドールがいれば、領主殿の”護衛”は大丈夫でしょうから、アルス、心配しないでシュト君と行ってらっしゃい』
そしてアルセンからそう言われて、その言葉の中に先程話した事を話すのに良い機会だと言わんばかりの含みがあるのを感じた。
『はい、判りましたアルセン様。シュト、行こうか―――』
『ん、判った、じゃあ行ってきます』
一応、グランドールと共に戻って来てから、アプリコットの傍らに立っていたシュトはそう答えて、アルスと共に八角形の大地の上から、街道の方へと駆け足で移動を始める。
『―――で、アルス、何か俺に話があるんだろう?』
“勉強は出来なくても、頭は回る“と自称するシュト・ザヘトは、アルスと並走しながら尋ねる。
アルスの方も、頭は回る上に勘の良さそうな親友なら、先程の恩師の言い回しで、何かしらを察しているのも予想がついたので、特に驚くことなくそれに答える。
そしてシュトは、アルスを間に挟んで”アプリコット・ビネガーの護衛”の依頼を、国の英雄達から受ける事になる。
ただいずれシュト達は王都に向かう事になるので、期限というものが判らないので、少年達は首を傾げたが、シュトは“取りあえず“と小さく呟いて、自分の胸元に手を差し込んだ。
『グランドール様とアルセン様からの用心棒の依頼か。金もってそうだから、料金割り増してもいいかな?』
そう言いながら、纏っているコートの懐から取り出したのは、代々引き継いでいる傭兵"銃の兄弟"の料金表だった。
『へえ、料金表みたいなのあるんだね』
取りあえず料金割り増しの部分は聞き流し、アルスはシュトが取り出した紙切れを見つめた。
『ああ、最近は時世が平和だから流行ってはないけれど、一応”傭兵組合”みたいなのがあって、基本料金が決まっているんだ。
組合に属すのも属さないのも、基本的に自由なんだけれど、入っていたら”合っている”仕事があったら回して貰えるんだ。
とはいっても、さっきも言ったとおり、最近は平和なご時世だから流行ってない。
ついでに、俺とアトは代替わりしたばかりの新人だし、実績はないしで仕事も回ってこない』
『ああ、そう言えば領主様の用心棒が、初仕事だって言っていたものね』
先程思い出した“リリィとの宿場町での朝の散歩のやり取り”の後、一緒に朝食を取る事になった時の事を思い出す。
―――旅行ではなくて、実は"初仕事"で。ある領地の、領主さんの用心棒みたいな感じです。
まだ打ち解けてはいなくて、堅苦しい声が懐かしくも感じてしまっていた。
『まあ、少しばかり見栄をはって、”ちゃんとした”仕事として、初仕事って意味で言ったんだよなあ。
でも、今回の仕事で実績を作っておけば、王都では人口も多いだろうし、今より食いっぱぐれることもないだろうしな』
あの時には見せて貰えなかった面でもある、用心棒という商いについて思案する顔も見せて貰えて嬉しいとも思うのだが、アルスは申し訳なさそうに言葉を挟む。
『あ、シュト、ゴメン。悪いんだけれども、アルセン様やグランドール様からの依頼ってのは、表に出せないと思う』
『えぇ!?、何でだよ?』
大いに不満を漏らすシュトに、アルスはシュトに護衛を依頼するに当たっての"詳細"を伝える。
―――ええ、何せ"王妃様"になるかもしれない方ですからね。
―――確定こそしていませんが、国王陛下がわざわざいらしたのだから、ほぼ本決まりだと思います。
―――とても強い事は判っていますが、一応護衛はつけなければいけません。
―――けれど、王妃候補だという事を公布もしていませんから、表だっては守れません。
―――そこで傭兵"銃の兄弟"の本領発揮です。
―――代金はセリサンセウム王国の長者番付常連のグランドール・マクガフィンから出るとでもいえば、乗り気になるでしょう
―――"誰にも迷惑かけないズル"を起こす為の第一歩となる事を、アルスに任せます。
―――シュト君に"アプリコット・ビネガーの護衛"を依頼するのが、国の英雄であったなら嗅覚の鋭いものなら、勘付いてしまいますからね。
アルセンの口にした依頼内容と共に、"誰にも迷惑をかけないズル"というのがアルスの上司である、ウサギの賢者の口癖の様な物だと説明をすると、片眉を上げる反応をしめした。
『“誰にも迷惑をかけないズル“ねえ。まあ如何にも、あの賢者さんが言いそうな事だ』
シュトが”ウサギの賢者”を思い浮かべながら言葉を口にしているのだろうが、その表情に随分皮肉の色が強くて、アルスは少しばかり驚き瞬きをする。
(シュトって、もしかしたら”可愛らしいもの”とかが、好きじゃないのかな)
アルス自身は可愛らしいものが好きという意識はなかったのだが、小さい同僚の女の子が、ウサギの姿をした賢者を”可愛い”と豪語する事で、多少影響を受けている自覚はある。
本来なら成人した男性が口にしたなら、辟易してしまいそうな言葉でも”ウサギのぬいぐるみの姿をした賢者”が口にしたことで、苦笑いで済ませてしまっている事が多くなっている。
『うーん、まあ、確かに用心棒の実績を表に出せなくても、料金の支払いは悪くないだろうし。
賢者殿からも、“賢者料金”でリリィ嬢ちゃんの護衛料金も貰えるからな。
王都に移動した時に、落ち着くまではゆっくりできる位は、金は作れるか』
『へえ、料金には賢者料金なんてのもあるんだね』
一方人の好さそうな新人兵士は”賢者料金”という言葉に、微笑みを浮かべていた。
『ああ、うん、まーな』
シュトが見る限り、賢者料金をアルスは“割引”とばかりに思っているのを浮かべている表情で伺えるが、実際はかなりの”割増”料金である。
事情はよく知らないが、初代の銃の兄弟ジュリアン・ザヘトという人物の”遺言”で、"賢者からは毟りとれ"というものがあるので、三代目としては、従わないといけない(と思っている)。
ロブロウに訪れてから、諸事情があって一気に4カ月分の研究費用を使い、育ち盛りの天然兵士と、とても可愛い巫女の女の子を扶養する義務があるから宣う賢者にも確り請求を見積もり、報せていた。
取りあえず、親友の思い違いは敢えて修正せずに、そのまま話を続けて、銃の兄弟として“アプリコット・ビネガーの護衛”をアルスを通じて請け負った。
とはいっても、アプリコットに指示されて、駆け足で大農家グランドール・マクガフィンの羽織るものと、履物を届けて関所にもどったなら、その後は慌ただしく儀式が終わった後の撤収が始まった。
シュトは自身は、そこまでロブロウという土地に馴染んでいたつもりもなかったのだが、名前は殆ど知られていた事に、少々驚く。
浚渫の儀式の後に、何らかの出来事があって儀式を行った王都からの一行とは、いきなり関所の扉が閉じ、連絡が取れなくなっていたが、先に引き上げていたリコリスが何とか落ち着かせてくれていたらしい。
シュトは直ぐに”見習い執事”としての立場のまま、代理領主のアプリコット・ビネガーの指揮の元に使われる事をムスカリに指示される。
取りあえず、ウサギの賢者と再会している筈のリリィを迎えにという話になって、旧領主邸に向かい、無事に合流する。
そこからは王都からの一行とは別行動となったが、シュトはアプリコット・ビネガーの護衛を果たすのには都合よく、見習い執事として従事する。
正直、護衛という役割を果たすどころではなかったのだが、それなりには”傍にいる“という役割は果たせたと思っている。
特に、長年ビネガー家に仕えてくれた、老執事の”旅立ち”を弟と共に確認した時。
複製品の仮面を外し、滑らかな肌に一筋涙を流す時に、老執事に心得として持たされていたハンカチを差し出す事は出来た。
それから再び仮面を身に着けて、代理領主アプリコット・ビネガーとして気丈に振る舞い、老執事の“旅立ち“を先ず、前領主で父であるバン・ビネガーに伝えた後は、母であるシネラリアを交えてその見送りの算段をつける。
元々、老執事自身は”旅支度”の報告は受けているらしく、執事の机の引き出しの二重底となっている場所から、シュトがアプリコットと共に遺言書を見つける。
ただそれを手渡したと同時に、仮面越しでアプリコットは眼を細めた。
『どうやら、最初に報告を受けた時から、新しく書き直しているみたいね』
冷静な発言ながらも、シュトが驚いている内に、アプリコットが丁寧に開封したなら、古い数枚の便箋に、真新しいものが一枚加えられていた。
内容は、真新しい便箋を除いて事前に報告を受けたものと大して変わってはいないとアプリコットが言いながら、見習い執事の少年に渡していく。
―――騒がず、静かに旅立ちを見送って欲しい。
―――許されるのなら、自分の身に着けている物を何か1つ、ピーン・ビネガーとカリン・ビネガーが共に眠る側に埋めて欲しい。
どれも、老執事が”旅立ち”の際に、心から願ってもおかしくはない、そんな内容だった。
『それで新しく加わった最後の一枚は、少しだけ家族になってくれた“兄弟”への恩返しみたいよ』
真新しい便箋を、渡される。
―――そして最後に、私の旅立ちの片づけが済みましたなら、僅かばかりの財産ですが、子供の発達を研究する国の医療機関や福祉機関に寄付をお願いします。
『前は、確か孤児院に寄付してくれだったと記憶しているけれどね』
”主”という絶対的な存在を、最期まで追い続けていたの様にも思えたけれど、例え片隅とはいっても自分と弟を気にかけてくれて優しい執事さんに、心から感謝をする。
『そうすっか』
『ロブロウから、誰か使者として国のそういった機関に届けて貰わないとね―――』
取りあえず遺言書に従い、老執事の旅立ちは彼の望む様、執り行われた。
王都から来ているリリィや、ルイはこちらに来てから特に親しくしていた事もあったのと、儀式前に体調を崩していた事を知っていたので領主として公布する前に、報せる。
リリィの方は少なからずショックを受けていた様だったが、”ウサギのぬいぐるみ”が傍にあるおかげか、涙は知らせた時には流さなかった。
正直に言って"王都"の一行がロブロウから立ち去るまでは、それは和やかな雰囲気でもあった。
だが、"ウサギの賢者"はともかく大農家グランドール・マクガフィンも、軍人のアルセン・パドリックも、王都の方で仕事がないわけでもない。
グランドールの"マクガフィン農場"の方は側近ともいえる"兄さん"達や、王都付近に昔から農業を営んでいる壮年の方々がいるので、そこまで心配もしてはいない。
しかし梅雨時期に入る前に、麦刈りの段取りをつけなければいけない事と、もう1つの仕事―――王室護衛騎士隊の"指揮官"として、3名がこちらに抜けている事が、心配の種でもあった。
鷲のイグがいる事で、細目に王都と連絡が出来ていたが、どういう理由か判らないが法王の身辺にいる氷の精霊が、突如不在になっていて、現在は形代を作って凌いでいるらしい。
その事で、法王のロッツの護衛をこなしているミスト・ランブラーという女性騎士が、結構大変な状態らしく、取りあえず正式な護衛である"ディンファレ"だけでもという事で連絡があった。
正式な護衛騎士の方も法王ロッツの方が気がかりではあるようで、障りがないのなら王都に戻りたいと口にしていた。
ディンファレにとって法王に次いで気にかけている巫女の女の子は、ウサギの賢者と護衛騎士のお兄さんがいる事で、大分落ち着いている様に見える。
老執事が旅立った事で少なからず、ショックを受けていたが、その寂しさと哀しさを、一緒に分かち合える存在はロブロウでは沢山いた。
それに"子犬の世話"という役割を、アトと共にアプリコットから頼まれ、気落ちする時間も殆ど無いに等しい状態に見えたので、王都からの代表の立場となるグランドールに戻りたいと申し出る。
『ただ騎士と言えども、女性を1人で戻すのは、剣呑だのう……』
『ディンファレ様が戻るなら、私も一緒に戻ります!』
『にゃ~、リコにゃんが戻るなら、ワチシも戻るんだニャ~、ユンフォ様もきっと寂しいからニャ~』
ディンファレが王都への帰還を打診している時に、当たり前の様に側にいたリコリスとライが揃って、挙手をする。
という事で、王族護衛騎士隊の3人は先に帰還をすることになる。
ただ、今回の儀式で一番労披露したリコリスの体力が十分回復してからという指示の下で、女性騎士3人は、先に引き上げたのだった。
リリィはやはり寂しそうにしている所もあったけれども、仕事があるという言葉に、素直に頷いていた。
それにディンファレが護衛しているのは、法王ロッツなのだということも思い出し、早く戻らないといけないという気持ちも芽生えた様だった。
そしてシュトの勘が外れてはいないと思うのだけれど、3人の女性騎士が引き上げたと同時に、領民の態度が余所余所しくなっているのを感じる。
客人が減る事で、アプリコットが領主として、王都からの客人として接する時間が減ったから、見えてきたという状況もあったかもしれない。
だが、別に非礼があるというわけでもないし、新参者の立場でしかないので特に口に出してはいなかったが、昔からのビネガー家の厨房を預かっている竃番の逞しい婦人マーサも察しているらしかった。
マーサは先日旅だった執事と深い交流もあったので、旅立ちの詳細をアプリコットから聞かされていて、そこから領民の余所余所しい雰囲気にも納得しているらしい。
しかしながら、執事の旅立ちの詳細はアプリコットから聞いているとは言っていたが、“アプリコットの方の詳細”を知っているのだろうかと、興味をもった見習い執事が話してみる。
その詳細を”ダガーとアプリコットの口づけ”の話を聞いたなら、竃番は珍しく竃の熱以外で顔を赤くして、笑っていた。
『じゃあ、尚更この雰囲気は、アプリコット様にとっては、寧ろいいかもしれないねえ。
シュトにとっては、腹立たしいの事かもしれないけれど、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”だろうから、気にするんでないよ。
ただ、本当に過ぎるまで時間がかかるかもしれないけれど、極力気にしないようにね』
マーサがそう例える、喉元過ぎればの時間は、どうやら王都の客人が帰り始めてから始まったていたのだと、シュトには思える。
今回、王都からの一行が、最終的に引き上げたのは、一番体力を消耗していたアルセン・パドリックの調子が戻った時となった。
関所の扉の所まで、グランドールの農業研修の一行の馬車と、馬で訪れていたアルセンを見送った。
関所には、ロブロウの領民が有志を募って比較的若い農夫たちが交代でやっているのだが、王都の一行が関所を出て、客人達から完璧に見えない状態になった時、スッと表情をなくす。
ただ“無視”という形ではないけれど、明らかに雰囲気は悪い物になっていた。
ただ、その雰囲気の悪い源になっているだろうアプリコットは澄ました表情―――とはいっても、口元だけしか表に出さないが口角は上に上がっていて、至って平気そうにシュトには見えた。
『儀式の間に無くしてしまったのは私の不手際だけれども、一応これも、"賢者"が造ってくれたのにな。ロブロウの領民にはウケが悪いみたいね―――』
しかも不貞不貞しく笑い、仮面の奥から黒に緑を溶け込ませた瞳で関所の門番となっている"領民"を見たなら、そちらの方が眼を伏せてしまったなら、その時初めて口の端を下げていた。
王都に帰る間際まで、ウサギの賢者は"元の仮面にもう少し似せようか?"と、代理領主が客室に来る度に言葉をかけていた。
ぬいぐるみの様な身体に合わせて作られているコートの何処に仕舞われているのか、鑢や工具を取り出しながら、尋ねるけれど、その度にアプリコットは笑顔で断る。
そんな言葉を、日頃は世俗を断ち切って暮らしている賢者が口に出す程、儀式が終わってからの代理領主への不信が、領民の間では露骨に表にはでないが浸透もしていた。
ただ、ウサギの賢者がそう言葉に出すのは、巫女の女の子が気にしている事もあるのも、アプリコットと側で従事するシュトも察していた。
加えてウサギの賢者の護衛騎士で、"休日大工"が趣味でもあるアルスも、密かに持ってきた"携帯用"の自前の工具箱を取り出し、シュトと前から約束していたホルスターを手直ししながら、仮面について言われた事もある。
それ程気を使われたけれども、アプリコットは新しい仮面を身に着け続けていた。
『仮面については旅立ったピーン・ビネガーの人気が未だに残っているのか、それとも国最高峰の賢者の評判が悪いのか。
アト、沢山離れはダメです、見えるところでお花を積みましょう』
『はい、たくさん離れないで、お花をみます』
関所からの帰り道、アプリコットは仮面を撫でながらが、見送りに一緒に来ていた相変わらず畦道にある草花に興味を示しては、落ち着きなく先に行ったり戻ったりを繰り返す、アトにそう呼び掛ける。
『セリサンセウム王国、最高峰の賢者の、"人"の姿をロブロウの領民が見ていたなら、評判が悪いという言葉に、俺は賛同しますよ』
走り回る弟を眺めながら、シュトは慰めるつもりはないのだけれど、そんな言葉を口にしていた。
『そうねえ、お祖父様も怒ったら、それは周りを圧倒させる圧を出していたけれど、普段はお掴み所のない御祖父さんでしかなかったし。
本当に、評判は良かったから。
"ウサギの賢者"殿の人の姿の方は、あの丸眼鏡がなくて見慣れていなかったら、確かに側に近寄るだけでも結構な勇気が必要だから、シュトの説は私の中では、採用にさせて貰うわね』
そして領主邸に着いたと同時に、旅立った老執事に代わって、殆どその仕事を引き継いだに等しい、バン・ビネガーの従者のクラベルに"御館様と大奥様が呼ばれています"と声をかけられた。
『御客様が帰った途端に早いわねー。まあ、私が御客様の接待している間に、何かと旧領主邸に領内の重役の御客様が多かったのは良く見たけれどもね』
アプリコットが思わず呆れを含んだ笑いを浮かべたなら、クラベルは残念そうに微笑んでいた。
『でも、"早い方が良い"とも"本当の事情"を存じ上げている方皆、思っているようです。
シュト、お前もそろそろアトに"見通し"というものを、たててあげておいた方が良いのではないのかな。
確か、前もって予習をしておかないと、戸惑うのだろう?』
勤勉な従者は、老執事の役割を引き継いだと同時に、例え短い期間であっても、自分の配下となる執事見習いとなるアトの抱える症状という物を調べ、学んでくれている事に、シュトは兄として感謝する。
『ええ、苦手な事なら前もって知らせておかないと困るんですけれど、良いことだと早く知りすぎると、今度は小さな子ども見たいに、興奮して落ち着かないんで。だから、移動の準備だけはしておこうと思います』
『そうか、それなら準備する時は声をかけてくれ、その間にはアトに出来る仕事を一緒に手伝ってもらおう。一人の方が、支度をしやすいだろう』
『はい、そうです、ありがとうございます』
『クラベルさん、お花をもってきました、お花を持っていきたいです、あげたいです』
相変わらず空気というものを読むことが出来ないアトは、クラベルがいることに気がつくと、割り込むようにして畦道で摘んできた草花を見せながらそう訴えると、従者は苦笑を浮かべて頷く。
『それでは、私がアトを見ておきますから、アプリコット様とシュトは"領主の部屋"に。そちらで、御館様を含めてシネラリア大奥様と、ムスカリも待っています』
―――そこで"代理領主アプリコット・ビネガー"の罷免を告げられる。
バンもアプリコットの親子は淡々と、形式に則って決定事項として報告と受諾を行った。
予想はついていた事だけれども、アプリコットの後ろ姿を見ながら、シュトの方が胃の腑が重くなる感覚を味わっていた。
(こういうのも覚悟の上で、貴族やら国から与えられた役割をやってもいるんだろうけれどもさ)
幾ら”衣食住”の保証が完璧されているからといっても、重すぎる責任を取る度にこういった内臓が重くなるようなやり取りをやるなら、少しばかり空腹でも賃金安く軽い責任の仕事を取るほうが良い。
もしシュト・ザヘトが“1人”の人生を送るとしたなら、迷わずそちらの方を選ぶ。
(まあ、でもそんな重すぎる責任を背負ってでも、果たしたい約束を持っているのが、羨ましいとも思ってしまうのは、俺がひねくれているからかなあ)
アプリコットの背から視線を外し、側にいるシネラリアも、淡々としている中で、もう1人側にいる人物―――ムスカリも自分と同じ様に、顔色が芳しくないのが見て取れる。
(……思えば、あの人も"アプリコット・ビネガー"の素顔を知っているんだった)
儀式の終わりから撤収にかけて、振り返ってみても彼は一度も仮面については、批判的な態度は、取ってはいない。
本来なら筆頭になって"ロブロウの領民が敬愛するピーン・ビネガーの仮面を紛失したアプリコット"を責める態度を取ったとしてもおかしくはない、立場と“性格“だった。
けれども”ケロイドのない素顔”についての真相を知り、やや強引な”膿み抜き”がアプリコット・ビネガーから行われ、一転して心構えからして変わってしまったのだという。
ムスカリの殊勝すぎる態度は、撤収の際にグランドールが羽織るものと履物を受け取りに行った時にシュトも気が付いてもいて、露骨に顔に出し、当人から苦笑いを浮かべられてしまっていた。
とりあえず、荷物を引き取りグランドール渡す折に、何気なく話したなら、その理由を”膿み抜き”の現場に居合わせたグランドールから、あらましを教えて貰ったのだった。
『まあ、その膿抜きのやり口というか、"脅し"っぷりというか、人の心の隙間をついて、揺さぶりをかけて、懐柔して、最後に断れないように止めを刺すやり方は、どこかの耳の長い賢者を彷彿とさせてくれたわい』
諸事情を含め、一部の名前だけを変更して、かつて今は肩に担いでいるルイと共に居合わせた現場について説明を褐色大男は、シュトとアルスにしてくれた。
『成程、ウサギと似たようなやり口を行うということは、実は私以上に、アプリコット殿は腹が黒かったという事でしょうか』
『パドリック殿―――アルセン殿みたいに顔が綺麗だったら、腹が黒くても世間は許してくれるんだろうけれど』
その説明を聞き、アルセンとアプリコットも軽く流す程度で、シュト自身はその時、仮面についてはそこまで大事になるとは、正直思ってもいなかった。
儀式の支度を行う前の早朝の際、弟のアトの事に関して一悶着は起こしてからは、アプリコットの計らいで距離を置かせてくれていたが、
"アプリコット・ビネガーがピーン・ビネガーから贈られた仮面を儀式で紛失してしまった"
という、話がロブロウの領内で広がり始めた時には無視こそしないが、冷たい反応を繰り返す領民に比べたら、彼は遥かにマシな態度を取ってくれていた。
ただ、弟のアトが一度“嫌なおじさんムスカリ”と頭に刷り込ませてしまっているものだから、見かける度に側にいる"頼れる人"の後ろや、物陰に隠れてしまう。
なので、折角マシな態度を取ってくれている人物なのだけれど、儀式が終わった後には、ろくに話す機会がなかった。
バンとアプリコットの間で、罷免の受諾が行われた後に、アプリコットは"王都への遊学"を申し付けられる。
そして、"領主の娘アプリコット・ビネガー"の護衛の依頼を、その場で新しくバン・ビネガーからなされ、シュトは無言で深く頷いていた。
『委細承りました、ロブロウ領主バン・ビネガー様。この部屋から、早速アプリコット・ビネガーの私物を片付けますので、暫く時間を頂戴いたします。
―――シュト、ムスカリ、数日付き合ってくれる?』
『承りました』
自分の背後でシュトが頷いたのを察知したアプリコットが、そう呼びかけたなら今度は声を出して返事をして、ムスカリは頷いていた。
それからの片付けは、数は少ないのだがかなりの重量を扱う者となる。
主に、本来は領主邸の図書室にある筈のものをアプリコットが"借りたまま" という事が判明して、戻すという作業が主となる。
そして本を運ぶ合間に、ムスカリとそれ程話す内容はないが言葉を交わした。
ただ、それとなく聞いた話で、ロブロウの農家代表のムスカリと、バンの従者のクラベルが同じ姓でフクライザといって、縁戚関係であるという事を教えてもらった時には驚いた。
『田舎の集落ではよくある事だが、殆どが数世代遡ると縁戚や血縁というのもよくある事だ。近所が親戚というのも多いな』
『そうなんですか』
物心がついた頃には両親とは流行り病で取られてしまって、託児所と孤児院も兼ねる教会に引き取られていた。
余り記憶にも残ってもないけれど、クラベルの話を聞いて考えるなら、近所に"シュトやアトを引き取る親戚"はいなかったという事になる。
(あ、思えば―――)
連なる様に思い出したのは、託児所も兼ねる教会に預けられた子ども達を迎えに来るのに、祖父母がくることも多かった。
(うちにはいなかったけれども、普通は"お祖父さんや御祖母さん"がいる家庭が多かったて事だよな)
そして回る頭で思い浮かべることは、自分達の両親がその土地に昔から住んでいたという訳ではないという事。
(じゃあ、俺とアトの"故郷"って呼べる場所は何処になるんだろうな?)
シュトが疑問を抱えている間、ムスカリはこれまでの自分の振る舞った行いを反省を含ませた胸の言葉を多く語っていた。
だが、シュトにしたなら殊勝過ぎるその態度が、失礼だと思うのだが調子が狂うというか、何だか背中がむず痒くなってしまう。
領主を罷免されたアプリコットに膿抜きをされたムスカリも、自分の変わり様は身近な人々からも不思議に思われ、また散々言葉にも出されていたので直ぐにシュトのむず痒さに気がついて、一旦言葉を止めてくれた。
『スミマセン、結構気遣って話しかけてくれているのに』
『いや、私も自分がした事をどうにか挽回したくて、どうも多弁になっているんだ、悪いな。それでシュトは、アプリコット様と一緒に王都に行くのだな』
『そのつもりです―――グランドール様が言うには、アトみたいな症状持っている人も、働き易い環境が整っているそうで。
それに、アルセン様が言うには、専門の医療機関もあるみたいで』
ムスカリにとっては、聞く分には中々耳の痛い2人の名前に、苦笑いを浮かべつつも自分が嫌な思いをさせてしまった、兄弟の先行きが良さそうな事に心から安堵する。
『そうか―――何にしても、このロブロウよりは良いみたいだな』
『ええ、多分。でもそれを言うなら、"今のロブロウ"は、ムスカリさんにはキツくないですか?』
"膿抜き"される前の傲慢な態度と、"昔からこうなのだ"という因習が、歪だと気がついてしまった人にシュトが尋ねる。
皮肉のつもりなどではなくて、本心から心配をしているつもりだった。
『そうだなあ"まとも"な感覚になったなら、随分住み辛い場所なんだとは思う。……でも、今のロブロウをこんな形にしてしまったのは、私達の世代なんだとも思う』
そう答えるムスカリの面差しは、縁戚でもあると教えてもらった再び領主に戻ったバンの従者のクラベルと、良く似ている印象をシュトは持つ。
どんなに努力をしても、旅立った老執事に認めて貰える事は生涯叶うことはなかったが、その経緯を見ている者からは一定以上の評価を受けていた。
今のムスカリは、前に持っていた傲慢さや根拠のない自信は失せてしまってはいるが、その勢いがあったからこそ得ていた農業のスキルは確りと残っていて、その功績も、傲慢な態度や振る舞いはを除いたなら、立派な物である。
ただ、今となってはそうやって得た事は経験になっていても、その過程は、ムスカリ自身には恥ずかしくて仕方のないものもあった。
『少なくとも"ピーン・ビネガー"の世代は、古くさくてもまだ守るべき形であった。
それを今は敬愛される昔の領主に与えられた仮面を無くしたからと、自分達の意思で決めた筈の人を、王都から来た英雄の力を借りても、まともに儀式も出来ないと結局、やっぱり女はダメなんだと難癖つけて、引き摺り下ろしてしまった。
前の私はそれで大喜びしていただろうが、それではダメなんだと理解して、情けない事をしていると気がつけてしまう現在の状況は、キツい。
だからこそ、今ここに残ることで、いつか自分達がやってしまった事が難癖なんだと気がつける様にしたいと思う。
いきなりは、無理だろがな』
『全員がいきなりは無理でしょうね―――まあ、ムスカリ代表がアプリコット様から受けた"膿抜き"がやられたら、一発でしょうけれど』
『あらあ、あれは"ムスカリだから"出来たやり方なんだから。
それよりも、片付けを早くしないと。
出来るだけ早く出発しないと、色々面倒くさいから、宜しくね~』
突如の現れたアプリコットは、そんな事を言いながら小柄な身体に、平積み状態の辞典の様な厚さのある本を十冊程抱えて、話ながら作業をする2人の側を颯爽と通りすぎて行く。
『多分、ありゃ、俺と代表の話、全部聞いていたな』
シュトが口元を"へ"の形にして、自分より背の低いただの護衛対象になった婦人に向かって、そんな言葉を口に出していう。
『私が言うのもなんだが、もう領主ではあられないだろうが、御婦人なのだ、口の利き方に気を付けたほうがいいぞ。
それにしても、”私だからした”という事は、少しは認められている部分もあったという事なんだなあ』
ムスカリが窘めた後に、アプリコットがさり気無く口にした言葉に、どこか安心もしているが残念そうに息を吐く。
『普通なら、今まで私の様な振る舞いをしてきた人に、あんな風に声をかけることすらできないもんだろうに。
そんな、懐が深い人をこの土地の領民は追い出してしまう―――というよりは、アプリコット様の方が距離を置こうとしているのだな』
再びアプリコットの荷物の移動作業を始めながら、ムスカリがシュトに言葉をかける。
シュトの方も、ムスカリがただ口に出す事で、これまでの自分行いを省みるというのならという気持ちで、簡単な生返事と相槌をしながらもそれに付き合った。
そしてそんな作業が数日続いて、漸く領主の部屋からアプリコットの私物の撤去が済む。
本当なら使用人やメイドでも使えば1日で済む事だったが、領主邸の竃番を除く使用人の入れ替えも並行して行われていた事もあって、シュトとムスカリの2人だけで最期まで行われた。
途中は”これは人に見られたくないから”と、アプリコットが1人で運んだものが何気に多く、作業が中断する時もあった。
その間に、シュトは月が丁度一回程満ち欠けを行った間に世話になった部屋の整頓をと旅支度を始める。
荷物はそんなにないつもりだったけれども、ロブロウにきて与えられた衣服や買った物も何気に多くて、少しだけ減らしたりした。
弟の荷物は、クラベル見てくれている間に―――そもそも”決まった”衣服しか好まないのでそんなにない。
ただ、ここに来たばかりの頃、世話好きで整頓魔でもあった老執事が、弟の為に支度して置いてくれた、収納場所に貼る“プレート“だけは、最後に外して持っていく事にする。
そして、いよいよ旅立ちの日に部屋に貼られているプレートを全て外し、ロブロウに来てから老執事に貰った、手作りの白い麻布で作られた、斜め掛けのカバンの中に仕舞った。
部屋の納戸に入っていた使い慣れた旅行鞄が出されていたり、室内がこざっぱりともし始めていたので、アトも言葉に出す前に何となく感じ取っていたらしい。
『シュト兄、御引越ですか?』
鞄にプレートをしまう事でアトの方から声に出して、尋ねる。
『”はい、そうです、アト、引越しします。
リリィやアルスやルイや、グラン様とアルスの先生のアルセン様がいる王都に行きます”。
シュト兄とアプリコット様も一緒に行きます”』
弟に言葉を向ける時にいつも注意するように丁寧な言葉を使って、説明する。
”友だち”になってくれた女の子に男の子の名前と、優しい兄の友人に、身体の大きな”グラン様”に、アトの大好きな絵本に出てくる”天使様”にそっくりなアルスの先生に弟はその場で飛び上がる。
『行きます!シュト兄!アト行きます!アプリコット様と行きます!』
『それじゃあ、ロブロウにさようならします。いいですか?』
『はい、いいです!、さよならです、シュト兄、王都に行きましょう!』
アトが無邪気な笑顔を浮かべて、納得している姿を見ながらも小さく息を吐きつつ、次の指示を出す。
『じゃあ、見習い執事さんの服を置いて行きましょう、お着替えです』
『はい、シュト兄、お着替えです』
そうして、兄弟そろって、領主邸で随分と馴染み始めてもいた執事服を脱いで、丁度ここにやってきた時に来ていた服に着替えを始めた。
(やっぱり、今回もこんなもんだったなあ)
笑顔でゆっくり丁寧に着替える弟を見ながら、再び小さく息を吐いた。
弟の抱える障害の顕著な症状の1つだとは判っているけれど、拘りを持たなかったら、”素気ない”とも思える程、直ぐに切り替えが出来てしまえるところがある。
ここの感覚の所だけは、実の兄ながらに判らない所でもあって、軽く戸惑う。
ただ弟の産まれてきてからの付き合いからを考えたなら親しくなった人に情がないわけでもない。
予想でしかないのだが多分頭の中で“楽しい”事で一杯になってしまっていて、”離れる”という事が”寂しい”という事に繋がらない様に見えた。
(寂しがって、"アトは残ります"とかワガママ言わないだけ、俺にとっては有難いことなんだけれども)
ただ、シュト自身が弟の切り替えに未だに戸惑うように、暫く逗留した場所で、別れとなる際には、“世話になった人”にも、アトにその態度を取られてしまった人々は、大いに動揺する事になる。
”心が幼い”
”知恵が遅れている”
これは”アト・ザヘト”という自分の弟と数時間でも接して貰えたなら、大体理解してもらえる。
またアトも、兄弟を引き取った傭兵の師匠が、若い頃に学んだ知識で基本的なコミュニケーションを徹底的に、”療育”という形で身に着けさせてくれくれていた。
結果、礼儀正しく、素直で、従順な男の子ともなった弟は、世話好きな人という部分を携えている人には、どんな土地に行っても大抵すぐに気に入ってもらえる。
”この心が身体よりも随意分と成長の緩やかな、男の子は自分に心を開いて懐いてくれている”
シュトの見ている限り、アトの世話をやいてくれた、優しい人たちは、皆そう感じ信じていたと思う。
だが、そうとばかりに思っていると、いざ別れという場面の際、余りにあっさりとし過ぎるアトの切り替えの態度が、相手にショックを与える事が何気に多い。
それまで、大体が世話をやいてくれた存在に、素直な子犬様について回っていたのに、”その場所を移動する”となる旨を伝えたなら、あっさり”バイバイ”と言って離れる。
―――バイバイ、さよなら。
―――師匠、シュト兄、次に行きましょう。
弟を可愛がってくれていた人達は、無邪気なアト・ザヘトに、心からに信じられている、信頼されている”と思っている。
だから、移動をする事になったと理解したアトから告げられる、”バイバイ、さようなら”という、きっぱりとした態度と言葉に大抵当惑をした後、傷ついた表情を浮かべさせてしまう事になる。
それを目の当たりにする度、保護者たる師や、兄として幾度となく"気まずい"思いをしてきた。
けれど、心の成長に偏りがあり、人の心情もその周りの雰囲気を読むことが出来ない少年の胸の内は”移動する”という気持ちで満ちて、相手の寂しそうな感情や保護者の気まずさなど汲み取れない。
―――早く、行きましょう師匠、シュト兄。
師と共に行動していた頃は、別れの度、戸惑い傷ついた表情を浮かべる、"恩人”と例えても過言でもない人には、”アトの症状”を説明をしていた。
けれど、シュトの見る限り、その説明を本当の意味で理解して受け入れてくれていた人は少なかったようにも感じる。
アト・ザヘトは知能や心は幼い。
けれど、ちゃんと会話は成立し、受け答えもし、感情も表に出せていた。
”その実績"がアトの生涯付随している、"人の雰囲気を察する力が著しく低い"という真実をかえって眩ませてしまっている様にも感じた。
『おはようございます』
『こんにちは』
『こんばんは』
『おやすみなさい』
『ありがとうございます』
『ごめんなさい』
基本の挨拶を、どれも場面にあった"正解"と思える場所とタイミングで、感情も乗せて通じる言葉としてアトは、口に出せていた。
でもそれは、師となる人が根気強く、絵本や適切な道具を使い、丁寧に毎日繰り返すという療育の賜物だった。
まるで、岩に色を染み込ませるようにして、弟に身につけさせたコミュニケーションの取り方で、シュトも、時折を手伝ったから、その苦労にもまして根気がいる事だと知っている。
その積み重ねを年単位でこなして、"コミュニケーションが出来るようになった”背景があるのだけれど、その努力は人に見せられる形をしていない。
そして”別れ”という場面や感情と言葉の表現を、どうやって教えればいいのかは、流石の師匠も判っていないと、はっきり口にしていた。
別れというもの具体的に身につけさせて、学ばせ身に着けるのはには”偶然”の量がアトには決定的足りなかった。
―――できれば仲良くなってくれた人に、アトが決して嫌いになったわけでも、大好きな気持ちは変わっていないという事を伝える事が、出来たならいいのだけれども。
結局、シュトとアトに”三代目銃の兄弟”を代替わりをさせる時まで、気にしていた。
そして”初仕事”が終わろうとしている時、シュトはこの土地で世話になった人達と弟の別れの時に、”戸惑い”が産まれない事を願っていた。
『―――おやあ、何て言うか、不思議なもんだねえ。丁度、あの時と"真逆”を見ている感じになるのかねえ』
だが関所について、今回一番世話になった人にかけられた言葉は、シュトにとっては予想外の言葉で、これまでの弟の発言よりも戸惑う事になる。
『あら、マーサ。何が反対になるの?』
戸惑って言葉の続かないシュトに代わるように、アプリコットが尋ねると、滅多な事がない限り厨房と言いう自分の城から出てこない竃番のマーサが、快活に笑う。
『アタシの年がばれちゃいそうな話になるんだけれどねえ。
御館様―――じゃなくて、今は領主様に戻られたバン様も産まれる前の話にもなるんだけれどね。
私がアトぐらいの小娘の頃の話になるんだけれど、丁度遊学していた旦那様が戻って来たのさ。
アタシは、料理の腕は自信はあったけれど、まだ小娘だからね、当時の家令―――執事さんみたいな領主邸を預かっている人と、この関所にお迎えにあがったのさ。
そうしたら、その時に、丁度今のシュトとアトみたいに、前の領主様と執事さんが兄弟みたいに並んで2人が戻って来たからさ。
今、丁度”旅立ち”だから、真逆に見えるって話さ』
心なしかその兄弟の旅立ちを見送る竃番は、晴れ晴れとした表情を浮かべていた思ったら、それから、シュトだけに向けて肉付きの良い手で招く。
『シュト、ちょいと耳を貸しな』
『何ですか、マーサさん』
シュトの中の戸惑いは先程の竃番の話で解けたので、素直に傍により、背を屈める。
竃番の小母さんは、話していたなら背の高いシュトよりも余程心も身体も大きな印象を与えてくれるのだけれども、実際は肩に届くか届かないくらいの背の高さしかない。
『―――!、ないしょばなし、アトもききたいです!』
そしてその竃番と見習い執事の仕種から、”ないしょばなし”をすると判ったアトが、兄の上着を引っ張る。
『じゃあ、この後一泊する宿場町で、シュト兄に聞いておくれ。順番だよ』
『うう、わかりました』
今度は”旅に出る”楽しみより、宿場町で“ないしょばなし”を聞くことにアトは胸を一杯にすることになる。
順番を待つことは、アトにとっては結構難しい事になるけれど、出来ない事もない。
だから暗い表情となるのだが、その沈んだ顔は、”別れを寂しがっている”という落ち込みの様子にも見て取れたので、兄として実は密かに安堵もしていた。
考えすぎのようにも思うのだが、もしもアトがいつもの調子で”バイバイ、さようなら”と無邪気で口にしたのなら、気持の云々よりも、無関心の様でありながらアプリコットの旅立ちを”観察”している領民の眼にどう映るかの心配もあった。
シュトとアトの2人は、元々他所から来た者で、それもアプリコットの”幼馴染”の紹介だったこともあるから、仮面を紛失してからの冷遇の余波はあった―――と思う。
”思う”という表現になるのは、シュトは忙しかったし、アトはマーサやクラベルと一緒に行動していたので、その”冷たさ”を目の当たりにすることもなく、特に感じる暇もなかった。
だが、領民の方は少しは冷遇している自覚もあり、アプリコットは仮面を紛失したのに飄々として、シュトは見習いながらも執事として冷静に振る舞うので、気分の良い物ではない。
やがてその冷遇の余波は他所から来たアトにも向かっていたのだろうが、"領主様"であろうと料理に関しては妥協しないマーサ小母さんと、改めて領主となったバンの従者のクラベルが傍にいる事で、あからさまな冷遇はなかった。
ただシュトも気づいたくらいなのだから、冷たい視線というものは弟にもロブロウという領内にいる間には、向けられると考え、アトの面倒を見てくれているクラベルに、その旨についてを尋ねてみていた。
すると、苦笑いを浮かべながら、アトは無邪気に自分に冷たい視線を向ける相手に、大きな声で挨拶をで返していたと、クラベルは報せてくれる。
『不思議なもので、そうすると、相手の方が怯んだり戸惑ったりして俯いてしまうか、会釈をして、慌てて立ち去る。
もしここで、無視をしたなら、アトの方が追いかけて笑顔で挨拶を繰り返す。
ここでもしアトが1人なら、邪険にされたかもしれんが、一応バン様の従者としての立場の私がいるので、向こうは挨拶を返してくれる、そしてアトは無邪気に笑う。
それで、やはり気まずそうな顔をする。
アトの少しばかり強引なコミュニケーションもあるのだろうが多分、翌々考えたなら自分達がしている事が、”理不尽”とは判っているんだろう。
でも、アプリコット様がしたという不手際が許しがたいし、反省もしていない態度が頭にくるし、それに従う様な”ザヘト兄弟”が気にくわない』
『でも、あの仮面って、結局は"ケロイドが出来た孫娘の為にお祖父さんが与えた”というのが、正しい認識ですよね?。
どうして、領民の皆さんが、仮面をなくしてしまったというアプリコット様を冷遇するほどの事になるんですか?。
アプリコット様が皆に与えられた物を失くした物なら話はわかりますけれど、本来なら”家族内”のやり取りっすよね?』
辛うじてクラベルに対する礼節は守りながらも、言葉に含む棘は隠しきれずに尋ねていた。
どうして今回の仮面の事に、アプリコットの側にいるというだけで自分達兄弟が巻き込まれるような事態になっている事への不満もあった。
もし、アプリコットの祖父だというその立派な方が生きていて、紛失した事に”折角作ってやったのに”と文句を垂れたというのなら、まだ話は判る。
でも、どんなに敬愛されていたからかどうかは知らないけれど、所詮、”家族以外”―――仮面を与えてくれた祖父以外が、反省しろとどうこう言うべき事でもないともシュトは思う。
『そりゃあ、領主として領民の希望に添わなければいけないとか、何か領主の家訓みたいなのもありましたっけ。
でも、そう言ったのがあるにしてもなんか”変”ですよ』
すると、クラベルは苦笑いから、"笑い"の部分を抜き取り、苦みきった表情を浮かべ、頷いた。
『ああ、そうだ。領主である以上守らなければいけない心得が、ビネガー家にはあるけれど、"外"からやってきたシュトが、見て感じたとおりだとも私も思う。
私の場合は、“ビネガー家の執事になる”という目標から一旦離れてみたなら、シュトが変だと思っている"歪"に気が付けたよ。
ただ、私の気が付いた時には、仮面の事ではなくて、アプリコット様を"ピーン・ビネガーを領主から引退させてしまった、領主夫人カリン・ビネガー”に重ねて何かしら言っているのが多かった。
アプリコット様が、国からの法の締め直しの布告を受け、人攫いの咎を容赦なく断罪した時、その批判は一旦下火になったけれどな』
それを聞いた時、皮肉屋でもある少年は眉間に立派な縦シワを刻んで鼻で嗤った。
『何だ、結局、一生懸命にどっかで粗を捜して、責めるのを、手を変え品を変えて不満をぶつけやすい所を見つけてやっている。
それが、今回仮面を紛失してしまった事という新たな難癖をつけて、騒いでいるみたいな形になっているって事ですか』
"外”からやって来た頭の回る少年が、ばっさりと斬って捨てるように言って見せたならクラベルは、頷きながら口を開いた。
『言い訳をさせてもらえるなら、それ程ピーン・ビネガーという人の統治が素晴らしかったんだ。
何せ、50数年前に国が傾いた時に、他の領地が圧政に苦しむ中で、唯一均整を保てていた領地という事が、ある意味では”誇り”にもなっていた』
『俺からしたら、そんなやり方でピーン・ビネガー"さん"を称えたとしても、本人はちっとも嬉しくもないと思いますけどね。
アプリコット様への無意味な無言な冷遇の責めは、誇りだったものを、汚れの方の”埃”に自分達からしてしまっているようなもんですよ。
でも、そんなに、誰もクラベルさんみたいに、気がつけないものなんですか?。
その距離を置けたなら、見方を変えたなら気が付けたなら、領内に数人ぐらいはいてもおかしくはないでしょう?』
そうシュトが言葉をかけたなら、アプリコットが旅立った後には従者から執事という立場になる人は、視線を左上の方に向けてそれから再び口を開く。
『お前の言う通り、数人はいるかもしれないが、この土地柄的に表に"出てきたがらないだろう。
それか、余程の事がない限り中立を貫くために、口にしないというのもあるかもしれない。
ただ、はっきり1人気づいていたと言えるのは、竃番のマーサさんだ。
しかしながら、彼女の場合は中立を貫いているというよりは、ビネガー家の人達の本当の所をちゃんと見えているから、それ以上でも以下でもない接し方をしているんだろう』
そしてアプリコットの旅立ちの見送りに関所へやってきたのは、ロブロウ領内からはクラベルと、そのマーサだけとなる。
両親であるバンとシネラリアは、"領主と領主夫人"としての立場を優先し、子供の旅立ちを見送るという事はしないという。
ただこれは冷遇という物でもなくて、ある意味見送らないのがビネガー家の習わしという事だった。
バンは時世や、柵があって遊学に出させて貰えなかったが、数十年前の祖父のピーン・ビネガーも、数年前に遊学に出たアプリコットの2人の兄も、旅立ちを家族から見送られるという事はなかったという。
そして今回の見送りに、本当はムスカリも来たかったらしいのだが、アトが一度持った印象は中々拭えない事を、クラベルから聞いたので、"怯えさせてしまうのも悪い”という事で、来れないが"よろしく”との事だった。
しかしながら、弟には悪いと思いつつもムスカリがきてくれたなら、アトが明るすぎる態度で、このロブロウに別れを告げる姿を晒さなくて済むとも考えていたシュトには、当てが外れる事になる。
(こういう時は、厚かましくなって貰っても構わなかったのだけれどな)
中々身勝手な都合をシュトは期待していたが、マーサの”ないしょばなし”のお陰で、弟は悲しそうな表情を浮かべた事で、最後の最後で"相応しい"表情で切り抜けられそうそうだった。
そして、安堵する一方で、その内緒話の方で、竈番から随分と意外な事を言われて、シュトは眼を丸くしていた。
『え、でも、こんな格好をアプリコット様の御祖父様はしていなかったでしょう?。
まあ、アトはちゃんとした服を着ているから、そう見えてもおかしくはないでしょうけれど』
告げられた内容と、自分の格好と弟を照らし合わせるけれど、シュトには瞬きを繰り返した。
『いいや、似たようなもんさ。
今は着てないけれど、形の良く似ている紅黒いコートに、あんたと同じ様に堅苦しいのが苦手だからと、胸元のシャツのボタンは止めてなくてね。
それで連れて帰って来た”弟”は、影の様に寄り添っていて、コートの下には気が早いもんで立派な執事服を身に着けていてね』
関所にロブロウの領民がいる為に、具体的な名前を出しはしないけれどシュトとマーサが話している事は、ピーン・ビネガーという人物と本当に深く関わっているなら、聞くだけで判る内容だった。
『だからアプリコット様の旅立ちが、別の物にもアタシには見えてしまってねえ。あの方の"夢の1つ"を、叶えてくれているようにも思えるんだよ』
そう言いながら、マーサが見つめるのは新しい仮面を身に着け、一応貴族の婦人として旅行する為に纏うドレスを身に着けているアプリコットだった。
そのアプリコットも、ロブロウを旅立つだとしている自分を通し、"良く似ている"と言われていた人をマーサが思い出しているのが、自然に伝わってくる。
普段なら、"似ている"と思われることは嫌なことが多かったけれども、この時は竈番が自分越しに"カリン・ビネガー"を見ている事を受け入れた。
そしてアプリコットは、自分でも気がつかない内に、仮面を着けたままだけれど、"ビネガー家"の為に美味しい食事を作ってくれた恩人に笑顔を向ける。
アプリコットの小さな唇が動いていないのに、料理人には懐かしい声が頭の中で響いた。
―――ねえ、マーサ、手紙でも十分嬉しいし楽しいけれど、領主様や執事のロックと一緒に旅をしたら、いったい、どんな感じなんでしょうね。
いつも控え目な領主夫人は、大切な2人の前では心配するからと、口には出さなかった彼女の夢。
『まだまだくたばるつもりはないけれど、もしも旅立つ時が来たなら、先に逝っている執事さんに、この場面を見たことを自慢げに話してやらないとねぇ』
『それは本当に、気が早いっすよ』
シュトは反射的に、そう言葉を口にするけれど、マーサがこの前旅立った執事に次いでそれなりの年齢なのも、この関所にいる誰もが知っている。
すると、そのマーサが先程まで内緒話をしていた為に、比較的近距離にあったシュトの額を"パン"と叩いた。
『いたっ?!』
『シュト兄、お熱ありますか?』
料理人の額叩き方が、丁度熱を計る際の形になっていたので、弟は"ないしょ話"の事を忘れて瞬きをしながら、尋ねたなら、マーサが"大丈夫、熱はないよ"というと、直ぐに笑顔になる。
それから珍しくエプロンを巻き付けていない腰に手をあて、このやり取り見て笑いを堪えているアプリコットの方を向いた。
『じゃあ、空気を辛気くさくしてしまう前に、そろそろ出発してくださいな。
まあ、ライスボールは冷めても美味しく食べれる様にしているから、アトはアプリコット様や、"シュト兄"の言うことを良く聞くんだよ』
『はーい、マーサさん。それじゃあ、"バイバイ、またね"をしてください』
『ああ、そうだったね。しておこうね』
そう言って、アトが掌を向けると、マーサは掌を広げて向けて互いに重ねた。
先に王都の付近にある、賢者の魔法屋敷に戻ったという巫女のリリィ・トラッドという女の子から教えて貰ったという、"別れの挨拶"を求められて、それを料理人と執事見習いの男の子は行う。
"サヨナラするけど、また会えるというおまじない"
アトはそう教えて貰ったという。
『あら、いいわね。マーサ、私もしてくれるかしら?』
『ええ、アプリコット様が良かったら、どうぞ―――』
アトとの"挨拶"を終えて、マーサが掌を向けたなら、アプリコットは掌を向けるふりをしてマーサに抱きついていた。
『ふふふふ、驚いたでしょう?』
『本当に、中身はお祖父様でお姿は"奥様"にそっくりな、変わったお嬢さんなんですから』
いたずらっぽく言うアプリコットにそう言い返しながら、マーサは背の高さはそんなに変わらない人を抱きしめた。
『アプリコット様にとって、幸せな遊学になることを、ロブロウからお祈りしていますよ』
『―――幸せかどうか判らないけれど、後悔しないようにする』
そうしてロブロウを3人は旅立った。
セリサンセウムという国を網羅する馬車の路線で、西の終点で始発の場所となる宿場町までは、馬に荷物とアプリコットを乗せて進んだ。
アプリコットは貴婦人の衣服を纏っている事もあって、ヘッドスカーフで頭を包み込んだなら、そのまま貴婦人の"お忍び"の出かける格好となる。
でも、宿場町につく前から"早く脱ぎたい、窮屈だ"、"自分の足で歩きたい"と繰り返していた。
宿場町についたなら、ウサギの賢者一行が農業研修にと、ロブロウに訪れる前に利用した宿屋についたなら、アプリコットは早速着替えに向かい、アトは兄に”ないしょ話”をせがむ。
アプリコットが着替えている間に、シュトは弟にせがまれた話をしてやる。
ただ、自分達3人の旅立ちが、”アプリコットのお祖父さん御祖母さん、執事さん”に似ているという竃番の話をしても、やはりいまいち理解は出来ていない様だった。
ついでにシュトは、距離を置いてから、ロブロウでの理不尽に思えるアプリコットの冷遇も思い出して今更ながらに腹を立てながら、今までの事を思い出しながらぼやく。
そしてアプリコットはその事で、王都に向かうきっかけとなった仮面の事と、その前後の事を思い出して頭皮が赤くなるほど赤面する事になっていたのである。
「さて、これからどうしましょうか。王都への馬車の定期便は、明日までないし、夜までは時間があるっていっても、明るいけれど結構な夕方よね?。
夕食は配達もあるって聞いたけれど、折角の”初めて”の旅先なんだから、外で食べたいわ」
季節が夏に変わり始めで、陽はまだまだゆっくりと沈もうとしている。
「じゃあ、早めの夕食にしときますか。それに早めにしておかないと、飯屋は結構混むし、俺とアトは前に来たことがあるから、案内しますよ」
「じゃあ、エスコートの方を銃の兄弟にお願いするわね。アト、”お薦め”ありますか?美味しい所を、教えてくれませんか?」
そう言って振り返ると、アトは小さく首を傾げて”おいしい、ところ”と小さく口に出すと、アプリコットの手を取る。
「おいしい、”楽しい”所あります。アト、知っています、アプリコット様、一緒に行きましょう」
「あら、楽しい所でもあるの?、それは楽しみね」
それからアトが、アプリコットを引っ張り飯屋で賑わう場所へと連れて行くのを、シュトが付いて行く。
一方のシュトは、弟の行動パターンは大体掌握をしているので、向かう所の予想が出来ていた。
「いらっしゃいませ、珍味に”虫の佃煮”ありますよ~、って、あら、貴方達は?」
"元気な接客をします!シノ"と、ネームをつけたお姉さんは、自分よりも背の高い兄弟とその間にいる初見の仮面をつけた婦人を見て首を傾げる。
それから直ぐに指をパチンと弾き、手にしていたメニューを胸に抱えるようにして、人差し指でシュトの方を指差した。
「えっと、確か”リリィちゃんをナンパしていたお兄さん”」
「客になるかもしれない相手に、指さし確認してんじゃねーよ」
見習い執事でも、友人でもない相手なので“素”のシュト・ザヘトで返事をする。
大方の御婦人なら、背も高く柄の悪いこの態度(先に相手の失礼ありきでのシュトの対応である)で、”引いて”くれるが、”シノ”というネームを付けたお姉さんは、ハッとする表情を浮かべる。
「すみません!、ただあんな名前も覚えちゃうくらい可愛い女の子は滅多に見ないから、物凄く印象に残っていて、つい」
差していた指を直ぐに引っ込めて、素直に頭を下げられる。
「リリいますか?」
一方のアトは、”リリィ”と初めてあった場所として、最初からこの店に来ようとしていた事もあって、名前を聴いて興奮している。
「うーん、ゴメンなさい、今日はリリィちゃんいないの。でも、美味しいご飯はあるし、ナンパって言ってしまったお詫びに飲み物は2杯に山盛りフライドポテトをサービスするから、食べて行ってくださいよ、ね?。そちらの仮面をつけたミステリアスなお姉さまもご一緒に」
「ポテト!御芋さんあります、食べます!」
「おわあ!?」
ライスボールと同じくらい大好きな食べ物の名前を聞いて、更に興奮したアトは一連の流れに頭に疑問符を浮かべ、驚きの声を上げるアプリコットを居酒屋に引っ張り込んだ。
「あ、アト、それにアプリコット様!」
それにシュトが慌てて続く。
「はーい、3名様、奥の座敷にご案内しまーす!」
シノが威勢の良い声を出した後に、視線を上に向けると漸く茜色に染まり始めた空に、少しばかり視線を鋭くし眼を向けたなら、店の軒先に留まる白いミミズクに、唇を開く。
「”鳶目兎耳”のシノから、キングス様へ。無事に王妃候補アプリコット・ビネガー様は宿場町に到着なさいました」