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旅立ちの時③


(ネェツアークさま、身体大丈夫かな。どこかで休憩して寝る事が出来たらいいのに。

でも、国王さまに連絡する事があるから無理なのかな)


―――ネェツアークさま、余り寝てないんですか?


今朝一緒に朝食を食べた、髪も眼も鳶色をした紅黒い長いコートを纏っていた、ウサギの賢者も数回口に出した、鳶目兎耳という立場の人を、リリィは思い出していた。


その人は、朝食を食べ終えた事もあっただろうが、大きな手と長い指で、口元を覆いながら何度も大きな欠伸を繰り返していた。


鋭い目元を、今のウサギの賢者の様に細めている姿が、失礼と思いながらも"オジサン"という年齢ながらも、可愛らしく見えて笑ってしまった。

ただ、笑ったとしても、鳶目兎耳のネェツアークは怒る事はなくて、何故だか嬉しそうな表情をリリィに向けてくれた。


―――少しばかり仕事が立て込みましてね。

―――それに、もうすぐロブロウでの仕事も終了ですので、昨夜は張り切り過ぎました。


(無理をなさらないといいなあ)


『にゃあ~、リリィちゃん、寝坊助ウサギを抱っこして、何を心配そうな顔をしているんだにゃ~。

賢者殿なら、心配しなくても寝て起きて、ニンジンでも食べたら元気になるニャ~』


ライはリリィが“大好きな賢者さま“を心配しているのだと思って、いつも”優しいお姉さん”の役割をこなしている、相棒リコリスに代わるぐらいのつもりで、声をかける。



リリィも、自分がウサギの賢者を見つめながら俯いていたので、チャーミングな猫の語尾をつけるお姉さんが、自分を気遣ってくれているのだと気が付き小さい唇を開いた。



『はい、賢者さまの事も心配しているんですけれど、その、実はもう1人心配しているんです』

『にゃあ、アルスっち―――アルス君かにゃあ?』


少女の膝の上で、(イビキ)を徐々に豪快ともいえる物に成長させている賢者を呆れが紛れた視線で眺めながら尋ねる。


『アルスくんも心配なんですけれど―――その、鳶目兎耳のネェツアークさまが心配で。

ネェツアークさま、昨日から殆ど寝てない状態っだと伺っていましたから。

大丈夫でしょうか、どこかでゆっくり休めていたら良いのだけれど―――』


そこまで口にした時、激しく水を跳ね上げるような音がして、リリィとアトが揃ってそちらの方を向いたなら、中々信じ難い情景が、少女と少年の視界に入ってくる。



『騎士様、大丈夫ですか?!』

『ディンファレさん、どろんこで足がつるんとしました?』


リリィはその光景を見た時に、驚きの余りに言葉すら出せなかった。

そんな中で、急いでディンファレの元へ向かうクラベルに、アトが口に出した通り、王族護衛騎士隊のデンドロビウム・ファレノプシスが、脚でも滑らせたのか、尻餅寸前の状態で屈んでいた。


ただ、日頃から鍛錬を積んでいる騎士は、傍らにある旧領主邸の噴水の縁に掴まっていたので、最悪の事態は免れている。


『―――リリィ嬢、申し訳ありません、お恥ずかしい限りです』


直ぐに態勢を立て直し、そんな言葉を口にするけれどその声にも動揺というよりは、何とも言えない脱力感に満ちたもので、リリィが見たり聞いたりするのでは初めて見るようなディンファレの一面でもあった。


『良かった、転んだんじゃなかったんですね』


クラベルが手を差し出したなら、ディンファレのが礼を言いながら立ち上がったのを見て、少女が安堵していると、また傍で不思議そうな声が上がる。


『―――?ライお姉さん、どうして、ウサギの賢者さんの頬っぺたを引っ張っているんですか?』


すると今度はアトの不思議そうな声の言う通り、リリィが抱えているウサギの賢者のモフリと頬の部分を、ライが爪化粧の施してある手で摘まんでいた。

そしてリリィもこれまで、大変興味を持っていたが出来なかった"賢者さまの頬っぺたはどのくらい伸びるのだろう"という、所業をしている自称"歌って踊れる護衛騎士”を見上げる。


『え?ええ、どうしてライさん、本当に、賢者さまの頬っぺたを引っ張ているんですか?!』


本当ならすぐにでも”離してください”というべきなのだろうが、思いの外伸びているその状態に少女の視線と興味は奪われていた。

それにウサギの賢者の方も、相変わらず口は閉じているのに、モフモフとした身体の何処からか、リリィの身体にも伝わってくる盛大な鼾をかき続けて眠っている。


とても頬っぺたを摘ままれているからと、眠りを妨げられている様には見えなかったが、ライの方が先に伸びに伸びた、ウサギの賢者の頬を離す。


『……にゃあ~、ウサギにはリスみたいに頬袋はない筈なのに、良く伸びたにゃあ~』


朗らかにそう猫の様に笑った後で、その表情のままでリリィを見つめる。

ただ今度は口の端はあがっているが眼は笑っていないし、その笑っていない眼が見つめているのは鼾をかいて寝ているウサギの姿をしている賢者だった。


『にゃあ~、リリィちゃんに先ず安心して欲しいから、言うニャ。

"鳶目兎耳のネェツアーク"さんとにゃらは、ずぇったい無事だからにゃ~。

本当に心配するだけ、時間やリリィちゃんの優しい気持ちがもったいにゃいから』


ライが言葉を区切り、自信たっぷり、はっきりに言い切る。

普段の負けん気の強いリリィなら、確固たる証拠もない場合、決めつけるように言われる言葉には物凄く反感を抱いてしまう。


前髪に隠れてしまってはいるけれど、少しばかりキリリとした形に整い始めた眉の両端を上げて、文句を口にする。

今回のライの発言も、通常のリリィなら仲の良い優しいお姉さんのライだとしても、言い返すものなのだが、言い方も気になっていた。


自信たっぷりに、はっきりというのだけれども"要らない心配をして、疲れなくてもいい"というリリィへの思いやりも溢れているのも感じ取れてしまう。


そして何よりも、とうとう盛大な鼾をかき始めるウサギの賢者が間にいては、どうにも場が緊迫とするというものからは、程遠い。


緊迫もしないが、和やかでもない雰囲気を壊してくれたのは、またしても空気は読むことは不得手だが、起こった状況を直ぐに口に出してくれるアトだった。


『リリ、御館様と大奥様、秘密基地から出てきてました』

『へ、え?』


正直な所リリィに報せられても、何がどうなるという事でもないのだけれども、このなんとも言えない雰囲気からは抜け出せそうだった。

ライの方も、どうやら同じような心地だったのか、アトの発言に直ぐに乗る。



『あ、本当だにゃ~。秘密基地から出ていらっしゃるニャ』


そう言っている頃には、丁度ディンファレを手助けするために噴水の方に駆け寄っていたクラベルが、先ず出てきたバン・ビネガーに手をさしだしていた。

その後に大奥様のシネラリア・ビネガーが続き、こちらは夫であるバンとディンファレが手助けをする。


『確かにあの場所が水が抜けて使えるニャら、スカートじゃないなら、あそこから出てくるのが一番早いニャ。

今回は緊急事態だから、仕方ないけれど、それでも、大奥様が使った事は内緒、"ひみつ"だにゃ~』


前領主夫妻が出てくる状況を、真剣に眺めている子ども達にそう告げ、ライは伸ばした人指し指を艶やかな唇に当ててみせる。

これはリリィでも、チャーミングな魔術の得意な騎士のお姉さんが、アトにも判り易いようにと意図的に身振りを大きくつけているのだとわかって、鼾をかいている賢者を抱えたまま頷いた。


アトの方は"はーい"と元気よく手を上げたなら、前領主夫妻と従者とディンファレが少しだけ驚いたが、直ぐに穏やかな雰囲気をだす。


『ライお姉さん、リリ、アトはね、ディンファレさんの所に行ってきます!いいですか?』

『―――"いいですよ"』


ライが珍しく語尾に猫の鳴き声をつけず、ゆっくりと理知的な響きを声に携えて告げたなら、心は幼いけれど、背は高い男の子は噴水の方のに駆けて行ってしまった。


それを見届けてからも、ライは雰囲気を持ち続けたまま人指し指を当てていた唇から、リリィに向かって言葉をかける。


『旧領主邸自体が、見た限り“戦“を想定して作った建造物だから、後付けして造られた秘密基地も、最後の切り札みたいな形でもあったのでしょう。

敵が館に入って来たなら、あの慣れてない人にはとっても危険な暗い通路や、梯子で時間を稼いで、最終的には中庭の噴水から逃げ出す―――にゃ』


唐突に語尾にいつものように"猫の鳴き声"をつけ、口の端をあげ、いつもの"ライヴ・ティンパニー"に戻ったなら、リリィの小さな胸のなかで、それまで靄々(もやもや)としていた、気持ちも不思議と落ち着いた。

その心持ちを察したように、それこそ猫が鋭く笑んだような表情を、ライは浮かべ、旧領主邸の話題を多少ふざけながら再開した。


『でも、ダガー・サンフラワー陛下のこんな平和な時代じゃあ、ルイ坊に使ったみたいにお仕置きか、反省の為に軟禁するか、本当に息抜きをするための秘密基地しか使い道にゃいかな~』



噴水の底の”ステンドグラスの出入り口”を使わない場合、旧領主邸の地下室から入り、暗く長い地下通路を通り、梯子を下り、人力ではあるけれど昇降機を使って辿り着くという、秘密基地をライは腕を組みながら、そう評した。



『旧領主邸はライさんが仰っていたような状態を考えて、造られたとルイが―――えっと、結果的には賢者さまが教えてくれたことになるのかな、その話は聞きました。

あの秘密基地って、そういう役割ももっていたのですね』


リリィはルイが"ウサギの賢者"からの教えられたと話してくれた事を思い出しながら、感心して返事をしていると、ウサギの賢者が盛大に出していた鼾を一旦止めた。


勿論、リリィもライも注視する事になる。

小さな鼻の下にある小さな口をモゴモゴと動かして、何かを言葉のようなものを口にする。


『……う……プル』

(あれ、これって―――)


微かに耳に入った”寝言”の言葉は、はっきりとはしないが、名前の様に少女には聞こえた。


そして似たような、語尾をもっ名前を聞いたのをリリィは覚えていた。

それは今は噴水の方で、アトが噴水の底のステンドグラスを覗き込むのを優しく見守っている、ディンファレが、早朝にウサギの賢者と同じ様に夢現(ゆめうつつ)の中で、呟いていたものと良く似ているように思える。


"―――イプル様、―――ュゲ様“


ディンファレの方は2つの名前らしきものを口にしていたが、ウサギの賢者が口にしたのは、最初の1つ目のものだった。

ただ決定的に違うのはディンファレは、夢の中で哀しそうに涙を流していたのに対して、ウサギの賢者は寝顔ながらに、微笑んでいる。


(いったい、誰なんだろう?)


夢の中で、騎士には涙を流させ、賢者にはこんなにも笑顔を浮かべさせる人。


『―――にゃにゃにゃ?!。

ウサギの賢者殿、前にワチシに、散々仕立て屋のキングス様との関係を自慢しておいて、夢の中で誰か違う人の名前を呼んで、浮気しやがってるにゃ?!。

これはチクらないといけにゃいにゃ~』


リリィが今一度、ディンファレとウサギの賢者が口にした名前を、覚え直そうとしたとき、ライが、ウサギの賢者が贔屓にしている仕立屋の名前を出して過剰にも思える反応する。

その強い調子に、先程聞こえた賢者が口にした名前の記憶が、リリィの小さな頭の中で飛びそうになる。


(えっと、えっと、ああでも確か―――)


元々、最初から聞いている名前ではないので、名前で印象に残った部分を心に留める。


―――ル。


ディンファレも、ウサギの賢者も、口に出していた名前の最後の言葉。


(名前の最後に"ル"が付いている人)


踏みとどまる様に何とか覚えた言葉を口にした後で、抱きかかえているウサギの賢者がもぞもぞと動き始めた。


『ううん……キーンーグース』

『わああああ、賢者さま、わたし、キングスさまじゃありませんから!』


そう呼びかけても効果はなくて、眠っている賢者は動き続ける。


いつも賢者が、仲の良い仕立屋が鎮守の森の魔法屋敷来た時に、マッサージ(どうやら肩こりという物があるらしい)を兼ねたブラッシング する。


ただでさえ眠っているため脱力している中で、半分寝ぼけながら、マッサージを兼ねた時の姿勢を取ろうとしていた。

今は抱きかかえている形から、動いてリリィの膝の上に俯せの腹這いになってしまった。


『あああ、この姿勢になっちゃった』


リリィが既に諦めたような声を出した時には、さらにリラックス状態でウサギの賢者の身体は見事に伸びて、少女の膝の上にあった。


『にゃあ、ごめんにゃ~ワチシがキングス様の名前言っちまったから、反応しまったにゃ~』

『大丈夫です。この姿勢なら、わたしも賢者さまのブラッシングする時に、なれていますから』


ライが謝るのに、リリィは笑顔で頭を左右に振り、手馴れた手つきで、今度は俯せになった賢者の身体を優しく撫で始めた。


『にゃあ~、でもこうっやってみていると、リリィちゃんの膝の上に乗っていなければ、賢者殿、行き倒れているみたいだにゃ~』

『“賢者の行き倒れ“か、懐かしい光景だ』

『あ、御館さま』


リリィとライが、姿勢を変える賢者の事で盛り上がっている内に、秘密基地から出てきた前領主一行が、リリィ達の方にやって来た。

座ったままの状態は失礼かと思ったが、膝の上に伸びた賢者が寝そべっているので、リリィはが慌てたなら、バンが手を上げて”構わない”という所作をして、小さく笑う。

そして先程口にした通り、懐かしそうに俯せになって伸びている賢者を見つめていた。


『幼い頃、数えるほどしかないが、研究に没頭して寝食を忘れてしまって屋敷の廊下に“行き倒れている賢者”である、父を見かけた事がある。大体がそちらの賢者殿と同じ様に、床に俯せになって、鼾をかいていたな』


バンの話に、同じ様な経験を知っているリリィは顔を明るくして、頷く。


『はい、ウサギの賢者さまも、調べに物熱中している時は、時々書斎で俯せに伸びて寝て居たり、椅子に座ったまま寝てしまったりしています。

眠くなったら、ベッドに寝てくださいとお願いはしているんですけれど』


『そうやって意見したり、助ける為に手を差し伸べるのが、”秘書”という役割を与えられた存在の仕事だ。だから、お嬢さんもこれからも頑張ってそうやっていくと良い』


―――旦那様、また無理をして、倒れる前に寝るなら寝台に寝てください!。


バン・ビネガーの頭の中で、父でもある行き倒れている賢者を発見して、心配の声を上げる執事であり秘書でもある姿が思い出していた。

そして体の小さい秘書でもある執事が、見事に背の高い”長い”父の身体抱え上げて運んでいるのも懐かしんだ。


『それに、父ピーン・ビネガーとよく似ている賢者が、王都にいるというのなら、少しばかり安心出来る。お嬢さんやこちらの騎士様達みたいな、”友達”もいるなら、尚更だ』


バン・ビネガーが、そう穏やかに語った時、リリィはアプリコットが”代理領主の仕事を休んで、王都に遊びにくる”のだとばかりに考えて、にっこりと笑った。






「……仮面の複製品を癖でアプリコット様が身に着けてしまう話は判るにしても、どうして“領主を辞めさせられなければ”ならないんすか?。

そりゃあ、ロブロウの領民にとっちゃ、敬愛されるピーン・ビネガー様の手作りだったかもしれませんが」


「まあ、厳密に言えば手作りじゃないんだけれどもね。あら、シュト。貴方はまだその事で怒ってくれていたの?」


他人事ながら怒るシュトに、アプリコットは飄々として答える。


「今はどちらかと言えば、"腹をたてていない、アプリコット・ビネガーに腹を立てている"っていう感じです。

何にしても、我慢っていうよりも辛抱が強すぎて、こっちがイライラしますよ」


結構粗野な恰好にあう口調の粗さながらも、言葉尻には”です、ます”をつける敬体の口調を崩さずにシュトはそう反論する。


「シュト兄、怒ったらダメです、お腹すきます、夜ご飯までまだ時間あります」


そんな格好と言葉が”ちぐはぐ”な兄である、シュトの服の裾を引っ張る。


「そうそう、アトの言う通りそれに道中にも話したけれど、私は浚渫の儀式が終わったなら”領主”を辞めるつもりだったんだから」


そのアトの無邪気な言葉に乗って、宥めるように言い終えたなら、身軽に宿場町の寝台から立ち上がる。

それでも尚元”用心棒”は、自分の師匠の幼馴染で親友だった女性を、腕を組んで軽く睨むような視線を、背が高い為の見下ろす様に見つめる。


「”辞める”と”辞めさせられる”とじゃ、周りに広がる話は、結構ニュアンスが違うと思いますけれど。

まあ、もういいですよ。当事者のアプリコット様が怒ってないのなら」


シュトが半ば諦めた様に、やや大げさに大きく息を吐いて肩を竦めたなら、複製の仮面をつけたアプリコットは、朗らかに笑った。


「良いわね、本当に諦めが肝心。

まあ、父で男性の”バン・ビネガー”が再び領主になって、ロブロウも代理といいう文字が外れたから、やはり領地も落ち着いた様にみえるしね。

仮面も仮面で、役に立ったなら旅立ちたかったみたいだし。

結果的に損をしている―――というか、

”偉大なる祖父ピーン・ビネガーからの送り物を儀式が大事だとはいえ、紛失させてしまう不手際を行う代理領主アプリコット・ビネガーの罷免”

という、ロブロウという領地に住む人達の気持ちに添っただけの事よ。

それに、領主の心得にもあるのよ。

“人に与えて貰う側なら、その与えてくれる人物に、何か与えたくなるように振る舞う努力をしければならない。

金を求めるものには金塊を。

尊敬を求めるものには敬愛の眼差し。

真摯な態度なら、真摯を超えた慕情を。

求める相手が快く差し出せるように、全身全霊で向かい合わなければならない”

そうやって、ロブロウの領主は成り立っている」


「そんなに求める物を欲しているっていうのなら、アプリコット・ビネガーを代理としてでも、領主としようとした時に猛反対でもすればいいんですよ。

結局は領民の意見で、前の領主だったバン・ビネガー様を無理やり引き下ろすような流れの時に、自分から動きもしなかった。

それこそ猛反対して、そのままにさせて置けば、良かったのに。

―――まあ、”そうする流れでしかなかった理由”は存じ上げていますから、他所からやって来た、完全に俺の愚痴に過ぎないんですけれどね」


「シュトの愚痴なら、内容は軽いし短いから幾らでも聞くから、私が暇そうに見えたら遠慮なく言ってね」


そう言って再び、ウサギの賢者が自分のナイフを融かして造ってくれた仮面を撫で、客室から外に出る。


何も気にしていない様子である反面、内心では仮面を撫でながら、”やはり自分は当分仮面を手放せない“とも、上昇する自分の体温を感じながら改めて思っていた。

シュトに朗々と、自分の故郷について語りながらも、アプリコットが思い出し、仮面の内側で赤面する理由は、そのことではなかった。


”原因”はアプリコット自身が嫌になる程、はっきり判っている。


(まだ思い出すだけで、赤面しちゃうから、”ケロイド“を引っ込めた素顔をとても晒せないわ)


―――ああでも、仮面は"自分は不要になったなら、アプリコットが大丈夫なら、何か役に立てることがあったなら、それに応えて、この世界から旅立ちたい"とも思っているみたいだ。


20年近く付き合いのあり、この世界からウサギの賢者が大掛かりな魔法を使った事で、この世界から旅立ち、形をなくした仮面の気持ちを、伝えてくれた“声”。

本来なら”人”の気持ちを拾い読めるという、能力(ちから)を持った紫色の左眼を持ったこの国の王様。


(ああ、もう、思い出さなければいいと判っているんだけれどもなあ)


”ロブロウの陣取り合戦”が、何とか上手く終わり、殆ど気が抜けた状態。

その時に、ウサギの賢者によって行われた 悪戯を思い出したなら、思わず叫びだしたい衝動に、もう何度もかられている。


その衝動はこれまで迄のアプリコット・ビネガーでは考えられない事でなので、正直に言って、領主を”辞めさせられた”のを、心からホッとしている。

“その内、自分の心は落ち着く”

そう言い聞かせているが、今の所全くうまく制御できていない。


一方後ろから付いて行く形になるシュトは、現在は"セリサンセウム王国王都まで、ロブロウ領主バン・ビネガーの息女の護衛”としてそれなりに、気を配っていた。


先程まで、彼女の故郷である土地に、不満を抱えていたのだが、仮面をつけていても伝わってくる彼女の緊張や動揺を見ていたら、正直どうでもよくなりもする。

こうやって王都に向かう事は、アプリコット・ビネガーの”良い門出”ともいえる状態なので、これ以上自分の怒りで水を差すのも、悪い事だと思えた。



(まあ、王都に着くまでは国王様の事を話題にするのは”禁句”だな)


ウサギの賢者が作ったという、顔を口元まで覆う仮面は雇い主の表情こそ隠してはいたけれども、覆われていない部分は正直な様子を見せていた。


背の高いシュトならでは確認できる場所なのだが、アプリコットの後頭部の豊かな髪越しにある、2つの旋風(つむじ)は、頭皮まで真っ赤になっているのが伝わって来ていた。


(アプリコット・ビネガーという人の人生を考えてみたなら、28歳にして初めての“アレ“は、何気に強烈だっただろうしなあ……。

思い出しただけでも、しんどくなるかもしれないし)


これまでは、何事にも冷静に対処している気構えのアプリコットの動きに、見事なまでに、ぎこちなさを与えた出来事。


シュト自身も強烈過ぎて、”アレ”を目撃した瞬間には、無意識に身体に力が入ってしまっていた。


普段なら、決して起こさないような動揺を起こし、手にしていた拳銃の引金を引いてしまったほどだった。


『シュト!』

『わ、わりい、その王様と領主様がっ、そのえっと』

『俗に言う"キス"でしょうね。今も継続中ですが』

『鎌鼬が急に消えたと思ったら、こんな事をしておったのか』

『ゲコ!』



王都からやって来た、親友ともなる新人兵士のアルス・トラッドに発砲を注意され、その恩師に当たるアルセン・パドリック が冷静に解説してくれた出来事。


ただその”キスの現場”に居合わせた、4人とウサギの賢者の使い魔の金色のカエル内、三十路中盤を過ぎたこの国の英雄でもあった2人、アルセン・パドリックとグランドール・マクガフィンは、比較的冷静に見えた。



国王とアプリコットにキスをさせた主犯であるウサギの賢者は、その直後にこの国の法王であるロッツの飼っている鷲のイグに掴まって、現場を”逃げ去る”。

ただ、逃げ去るのは仕方のない状況だった。


魔法に詳しくないシュトでも、その威力が"凄まじい"と感じる嘴の形をした炎が、鷲に掴まり飛び去るウサギの賢者を追撃する様に、アプリコットの手から放たれる。


聞いたことはないが鳥の鳴き声と思える音共に、嘴の形をした炎は一気に上昇するウサギの賢者を捕らえるかと思えると思える間際に、漸く途切れた。


『わあ、危かった―――賢者殿、ちょっとイタズラが過ぎますよ』


親友のアルスは安堵する声と共に、先程の出来事に関しては”恋愛の話は苦手だ”と話してくれたことだけあって、軽く苦笑いを浮かべていた。


『うーん、もしかしたら、尻尾ぐらいは焦げたかもしれませんねぇ』

『ウサギの尻尾は何気に長いからのう』


その状況時、“諸事情“で特別な恰好をしていた、この国では英雄でもあるアルセンとグランドールは、比較的冷静に観察していた。

そしてシュトは自分の恩師の親友―――アプリコットの方を見ていた。


流石に、国王と代理領主は唇を重ねている状態ではなかったが、それでも互いの肩が触れ合うぐらいの状態で動かなくなっていた。

表情は確認できない程、距離が縦にも横にもあるのだけれども、アプリコットが口元を抑えて顔を赤くしていたのは、よくわかった。


『シュト、余り見てやるな―――その、流石にアプリコット殿も、今はこちらに気が付いていないが、後で冷静になったならワシらが見ておったことも、気が付くだろうしのう。

それに、向こうの声は聞こえんが、もしかしたらこっちの声が聞こえている状態かもしれん』


儀式と陣取り合戦を行うに当たって、互いに面子を分けて行動を行う為、距離がありながらも連絡を密にする道具として、通信機を所持していた。

シュト達一行は、その時アルスが持っていたので、グランドールのその発言で、一気に新人兵士の手にする通信機に視線が集中する。


『はあ、じゃあ、さっきアルセン様が口にした言葉も聞こえているなら、俺等が目撃したことは、もうバレてしまっているって事になるんですよね?』

『―――まあ、そういう事になるかのう。だからもう、あんまりそこについては、弄ってやらんのが”情け”というものだろ』


褐色の大男が、左の手首に金の腕輪を嵌めた手で、顎をかきながらそんな事を告げる。


『はい、そうですね、グランドール様』


アルスが素直に返事をする反面、皮肉屋を自負する少年はこれ以上十を発砲しないように、安全装置をかけながら、失礼にならない程度に訝しみの視線を褐色の大男に向けていた。

肌が褐色の為に気がつきにくいが、少しばかり赤面をしているのに気がついたシュトは気がついた。


そして、シュトが気がついた事を察した、"肌は白いがお腹は真っ黒"とウサギの賢者が例えるアルセンが、整った形の唇を開く。


『フフフ、グランドールは若い頃の、丁度、今のアルスやシュト君ぐらいの頃に、疑似とはいえ"公開接吻"したことがあるから、よく気持ちが判るんですよ―――わあ、何をするんですか、グラン!』


最後の方には珍しく、まるで子どもの様な驚きの声をあげていたのは、横にたっているグランドールからサラサラとした金髪を、顎を押さえていた手で、掻き回されたからだった。


『"何をするんですか"じゃないわい、余計な事を教えんでいい、しかも何じゃ、公開接吻とは』

『私の作った"造語"ですよ。

まあ、私は現場は見てはいませんが、一騎当千のグランドール・マクガフィンを拝命したばかり頃の、一部で有名な話です。

ちゃんと、枕詞に"疑似"という言葉をつけているから、いいではありませんか―――』


親友にやや乱暴にクシャクシャにされた降りた長い前髪の為、見た目は殆ど十中八九20代と間違われてしまう顔の眉間に縦シワを刻みながら、反論をするが


『一部でなら、有名に当てはまらんだろうが―――と、そう言った事を言っているんじゃないわい!』


と、一般的な人なら肝を冷やして黙ってしまいそうな、大農家の怒声を含んだ物言いにも美人の貴族は薄く微笑む。


『じゃあ、どう言ったことですか?』


縦シワの後を少し残して、"しれっ"とした表情を作って美人な貴族は言い返す。


『あ、あの、グランドール様、アルセン様も落ち着いてください』

『ゲコー』


俄に英雄達が軽い口論を始めそうになるのには、新人兵士は慌て、 ウサギの賢者の使い魔である金色のカエルは、どこか愉快そうに鳴き声をあげ、勉強は嫌いだが頭の回る傭兵の少年は、美人な貴族が唐突にこの話を始めた意味を考える。

英雄で、大農家だという グランドール・マクガフィン に"公開接吻"という出来事があった。


(ああ、でも"接吻"ていうのなら"相手"がいたんだよな―――)

そして直ぐにその相手が、自分の恩師で女だてらに、傭兵をしていた存在なのだと判った。


もう、このこの世界から"旅だってしまったけれど、シュトと、一般的には育てるのは困難と周囲から見られる弟のアトを孤児院から引き取って育ててくれた、天涯孤独の兄弟にとっては、女神の様な保護者。


ただ、"保護者"としての彼女の行動や振る舞い、傭兵としての腕前、ロブロウ領主の幼なじみとしての話は知っていたけれど、"女性"としての話を殆ど聞いたことはなかった。


"傭兵銃の兄弟"の銘を引き継ぐ際、


"もしもグランドール・マクガフィンという人物出逢ったとしても、尋ねられたとしても、自分の事は何1つ話さないで欲しい"


と言われ、初めて自分の師にも"そう言った話があるのだ"と、少なからず動揺をした。


あの時は身勝手だと思いながらも、保護者で女性でもある師に、極僅かではあるけれど、"そんな話は知りたくはない"という気持ちを抱く。

ただ、直ぐにその気持ちは直ぐに見透かされたなら、女性にしては中々頑丈そうな歯を見せ、困ったように笑う。


背だけは引き取った数年で追い越された弟子の前髪を、2代目銃の兄弟となる存在は腕を伸ばし、丁度今という時間に、グランドール・マクガフィンがアルセン・パドリックにしたのと同じ様に、クシャクシャにされた。


(もしかして、師匠のあの仕草は、グランドール様のものを真似ていたのかな)


―――シュトは、私の事を胸はデカイが、色気はからきしと思っているかもしれないけれど、"それなり"にそう言った話もあるんだからね?。


ただ、情に厚く、優しい師匠は、"弟子"が身勝手に嫌だと思っているものに、心を曇らせるのも、保護者としてのお節介を止める事が出来なくて、付け加えるように、言葉を続けてもくれていた。


―――でも、"そういう話"があっただけであって、それが"真実"っていうわけでもないのよね~。


そして何かを含ませる物言いは、いつも優しい師匠にしては珍しい"腹黒さ"を感じさせる微笑みを伴っていた。


(疑似の"公開接吻"の相手は、師匠。

でも、それは恋人と云々(うんぬん)という話ではなくて、でも大切な思い出の1つみたいなもんなんだな)


自分の師がこの世界から旅立ってしまった後で、そんな話を知るのは少しばかりむず痒いようでありながら、安堵もする。


《シュト君の師匠は、貴方達兄弟だけではなく、私やグランドールに限らず、結構沢山方々の思い出に"残っています"。

それに私は親友として、貴方に見せる機会のなかった、彼女の色んな面を今目の前で口論をしているグランドールとともに、知っています。。

決して、貴方達兄弟の為に、彼女の自身の時間を犠牲にしたり後悔をしていなかったと、断言もさせてもらいます》



まるで安堵に重ねるように、グランドールと会話を続けながら、器用にテレパシーではシュトにこっそりと言う具合で、このやり取りを始めた本音を告げる。


《わざわざ、グランドール様を捲き込んで、ありがとうございます》


まだ何かしら話を続けているアルセンに、テレパシーは使えないけれどその形に近い形で気持ちを浮かべたなら、思考を拾ってくれるのは知っているので礼の気持ちを浮かべた。

シュトの感謝を、アルセンがグランドールと口論しながら受け止めた時、何かしら乾いた音が、ロブロウ自慢の渓流から、陣取り合戦の終局時には別行動となって別所にいるグランドール達のいる場所まで響いた。


アプリコットと国王がいる場所から離れた、随分と高い場所にいたのだが、それでも聞こえるぐらい響いたし、少々(こだま)もした。


『何じゃ、どっちかが、顔に平手打ちでも食らったか?!』


この"乾いた音"なら、一番付き合いの長い旧友が幾度となく恋人から頬に平手を食らっていて、その音だとよく知っている褐色の大男が、腹黒い後輩との口論を切り上げて、大地の色の眼の視線を下ろした。


すると渓流に浚渫の儀式の為に出来上がった八角系の大地の上で向かいあう、国王とこの土地の領主がいるが上からみた限り、先程聞こえた 音の様なやり取りが、2人の間にあったようには、グランドールには見えない。


『―――ああ、いや、やはり何かしらはあったみたいだのう』


だが直ぐに翻す言葉を口にして、八角系の大地をよくよく見たなら、先程ウサギの賢者の指示があってのことだろうけれども、"キス"の協力をした東の国の風の精霊が"鎌鼬"の3匹が、2人から距離を取っていた。


『どうやら、"恋人"を守護する風の精霊にとっては、思わず離れたくなるような事があったみたいですね』

『そうだのう』


それまで喧嘩をしているようにしか見えなかったのに、至極冷静な意見を交換を始める英雄2人に新人兵士は空色の眼を丸くする。


『おーい、グランドール聞こえるか?』

『わあ!?』


眼を丸くしていたところに、更に自分が手にする通信機から、今話題にもなっている国王陛下の声が出てきたことにアルスが思わずこちらも声をだして驚いていた。


『ああ、驚かせてすまんな、アルス・トラッド。でも聞こえているみたいで、何よりだ!』

『はい、聞こえています陛下』


豪快な物言いの国王ダガー・サンフラワーにグランドールが慇懃に返事をする。


『うん、聞こえているようだから、用件を言おう。私は、これから王都に戻る』

『そうでしょうのう。

陛下の公式でない外出が広くバレたなら、国の大事になりますから、お気をつけて戻ってください』


国王の突然の帰還するという発言に、少年達は今度は揃って眼を丸くしたが、英雄達の方は仕方ないという反応をする。

少年達も"大人の事情"というものがあるというのは、思春期を抜け出てはいるので、それとなくわかってはいるけれど、国王ダガーと代理領主のアプリコットが、"それなり"の間柄というのは察する事は、出来ていた。


そして、とても長い時間をかけて再会したのだということも、国王がこの領地に突如現れた時のやり取りを見ていて判る。

それなのに、直ぐに戻るというのが拍子抜けという感じが少年達はするのだった。


『がっはっはっはっは、なーに大丈夫だ、アルスにシュト!。

確かにほぼ20年ぶりの逢瀬というには、短すぎる。

だが、直ぐに王都に戻りはするけれども、確りアプリコットの心は掴んだから!

掴んでそのまま行くから、安心しろ』

『は、はあ』

『そうなんすか』


(ああ、そう言えば―――)


そこで少年達は揃って新人兵士が手にしている"通信機"が、王都でアルセンの実母であるバルサム・パドリックが改造を加えた、国王の人の心を拾い読む力を内蔵されたものであることも、思い出した。


『じゃあ、さっきの事は悪かったな、アプリコット。それでは、王都で待っている―――』


そう言葉を告げたなら、1度アプリコットを抱きしめて、代理領主を硬直させた後に国王は砂煙をあげるという表現に相応しく、八角形の大地から走り始めると同時に高らかに響く指笛を吹いた。

渓谷に囲まれ、街道の路の視界が岸壁で途切れた場所から、馬の(いなな)きが聞こえてくる。


『やはり、馬でいらしておったみたいだのう』

『まあ、あの国王陛下なら"走って来た"と言っても、私は信じても良いですけれどね。おや、あれはネェツアーク……殿の愛馬の絶影じゃないですか』


渓谷全体を見渡せる場所にいう事もあり、王を迎えに来るように駆けてくる馬を、緑の瞳で眺め、鳶目兎耳の敬称をやや遅れて添えながらそんな事を言う。


『相変わらず公に自分の馬に乗れない時は、ネェツアークの馬に乗っているんだのう』


そんな会話を交わしている内に、国王と鞍をつけた青鹿毛あおかげ)と呼ばれる毛色の馬は、街道で“合流“する。

そこからは、まるで曲芸の様だった。

馬も王様も互いに速度を落とさずに駆け、やがて”絶影“がダガーの横に並んだ時に、鞍に手をかけ(あぶみ)に足を乗せ、見事に跨る。


それから見事に手綱くり、馬の進行方向逆転させたなら、絶影は再び(いなな)きの声を響かせ、前脚を高く上げて反転をする。

そこから再び、それまでの勢いを抑える事はなく、王都のある東の方角へと駆けて行ってしまった。


『―――国王様の馬術も凄いけれど、あの馬も格好いいな』

『あれ、シュトは馬が好きなの?』


アルスとしては、初めて”謁見”する王様の非情に活動的な動きの方に興味を惹かれたが、背の高い親友の方は馬の方に興味を持った様だった。


『別に拘りを持つほど好きってわけでもないけれどさ、あれは特別格好良く見えたなあ』


腕を組みながら、シュトが既に馬も王様も姿が見えなくなった、渓谷の景色が岸壁で途切れた場所を見つめつつそんな事を口にしながら、口元に手を当てる。


『でもネェツアークさん、普段あんまり乗られないだろうから、勿体ないっすね。ああ、だから、王様が代わりに乗ったりしてるのかーーー』


『軍の厩舎きゅうしゃもあるからのう、日頃はそこにいて、世話をされているよ。

シュトの言う通り、ネェツアークは忙しい身で、馬も見栄えが良いが、絶影は賢いから乗る奴を選ぶ。

だから、ネェツアークの主となる陛下が、お忍びに行動する時に乗っているんだ。

まあ毎日世話をしたり、顔を合わせたなら乗せる位はさせてくれるかもしれんがのう』


グランドールが少しだけいつもは温和な目元を鋭くさせながら、シュトに大地の色を眼から視線を注いでいた。


(あ、いけね)


”鳶目兎耳のネェツアーク”について、”普段あんまり乗られないだろうから”という自分のした発言がそれなりに際どい物だと大農家に言葉を挟まれ、漸く気が付いた。


ネェツアーク・サクスフォーンの抱えている、"アルスには秘密しておかなければいけない"事情を知らなければ、出来ない発言をしてしまった事に、シュトの視線が泳ぐ。


『―――そんなに絶影が気にいったなら、先ずは”父馬”の方に逢いに行けばいいですよ。

先程陛下が乗っていたのは、厳密に言うなら”絶影の息子”です。

ただ、鳶目兎耳殿はその”絶影”という名前にどうやら大層な思い入れがあるらしく、自分の乗る馬にはその名前を付けると決めているそうで。

先代の絶影が、馬としての最盛期を過ぎた頃に、優秀な牝馬と交配させ、仔馬を設けて、丁度入れ替わる様に、新たな自分の馬としたそうです。

ただ、先代の絶影も最盛期は過ぎましたが十分優秀な馬ですからね、引き取りたいという貴族も多かったそうですが、主は表舞台に出てこない諜報活動専門の国王直轄の人物ですからね。

返す(がえ)すも、どうにかして手に入れないものかと、前に参加した夜会で、馬の愛好家の貴族達が話していたのを、耳に入れたことがりますよ』


ただ、シュトの眼が泳ぎだすと同時に、腹黒い貴族が随分と長い話で“助け船“を出してくれた。

シュトは勿論有難くそれにのり、アルスの方も親友の話したことに小さな疑問を感じたのだけれども、恩師の”船”に乗っている話の続きに興味があった。


『あの、じゃあ今は”絶影の父親”となる馬は何処にいるのですか、アルセン様?』


あの様に話すという事は、アルセンは絶影の父馬の行方を知っていると思えたので、質問したなら、美人の貴族は綺麗に微笑み応える。


『今は馬療法(ホースセラピー)として、王都より少し離れますが、空気や精霊の落ち着いた国最大の総合医療所にいますよ。

それと、シュト君。

貴方の弟のアト君は、王都に訪れたなら王都の医療所で受診した後に、紹介状を書いて貰ったその後に、その総合医療所で、正式な診断を貰う事になると思います』


てっきり自分の不始末を助けられて、軽く説教のテレパシーでも飛ばされると思っていたのに、物凄く現実を直視した事を言われて、シュトの身体は強張った。


《気が早いかもしれませんが、”先”の事も考えて動きましょうね、シュト君》

『あ、はい』


口に出された言葉にも、テレパシーで伝えられた言葉にも応える返事を口に出してシュトが狼狽えながらもすると、アルセンは今度は優しく微笑み頷いた。

そして次の間には、渓谷に茜色の光の筋が随分と傾いた角度をつけて通る。


『あれ、ええ、もう夕方?!』


親友と自分の恩師が交わしていた話の内容に十分気を惹かれていたが、その茜色を伴った光の色に、アルスは思わず言葉にするほど時間が過ぎており、今が"夕刻"だという事に驚く。


『浚渫の儀式だけなら、本来は昼前に終わっている予定ですからね』


空色と緑色の瞳に茜色の筋を映した師弟が、時間の流れについて語った時に、微かではあるけれど、聞き覚えのある羽音が聞こえ、そちらの方向に一斉に振り返る。

丁度先程ロブロウから出立したダガーとは正反対の、西の方角か鳥の飛空する姿が(シルエット)になって出てきていた。


『イグニャン―――じゃなくて、イグが戻って来た?』

『どうやら、ウサギを無事にリリィの元に送り届けて、こちらに戻って来るみたいだのう。

しかも何か届け物がある様だ』


シュトが最初誤解して覚えていた名前を口にしていたが、直ぐに言い直し、グランドールはイグのシルエットながらも、趾に何かを結わえられているのに気が付いた。


『リリィ嬢ちゃんに、賢者殿を届けてとんぼ返りして戻って来たなら話は判りますけれど、届け物までもって戻ってくるって、幾らなんでも早すぎないっすか?』



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