旅立ちの時②
テレパシーという方法なのに、極めて平坦な響きをもって返事をされた。
リリィの方はこうやってメモ帳に書きだされて見る事で、初めて知る事もあって、驚きながらも一番に注目しているのは、大好きな賢者の記述が登場している最後の部分だった。
『えっと、"ほかく"ってどういう意味ですか?』
文字を読めるけれど、意味はまだ習っていない少女が、新しいメモ帳を渡してくれたライに尋ねる。
『にゃ~、リリィちゃんにはちょっと難しい言い回しだったにゃ~。
捕獲っていうのは"動物"を捕まえる事だニャ。
調査をしていた、ウサギの賢者殿をアルセン様が腕に仕込んでいる、鋼の紐でとっ捕まえたんだにゃ~』
『ど、どうしてそんな縛る形で、アルセン様は賢者さまを捕まえるんですか?』
その事をメモ帳に記したライと、膝の上に乗せているウサギの賢者を見比べながら、自然に捕獲という捕まえ方について尋ねる。
『いやあ、ワシ、調べ物が終わって合流しようかと思ったら、いつもの軍服じゃない、一番動きやすい服に着替えたアルセンと遭遇してねえ。
それで、ロブロウの林であの綺麗な緑の眼で見つめられた瞬間に、反射的に"脱兎"していたんだよ。
アルセンも昔の癖みたいな感じで、ワシが逃げ出す瞬間に鉄線伸ばされて、普通に捕まえられちゃった。
あ、一般的には普通じゃないけれど、ワシとアルセンの間じゃ、互いに了承している事だから。
捕まえて、捕まえられてから、"鉄線で縛る必要なかった"と気が付くようなもんだから』
円らな目を細め、親友との"再会"の状況を巫女の女の子に説明をした。
『はい、判りました、賢者さま』
自分の産まれる前からの付き合いがあって、しかも″親友同士″のやり取りなので、巫女の女の子は素直に従う。
親友という間柄に、水臭いや礼儀ありという言葉も習ったけれど、アルセン・パドリックとウサギの賢者の間ではありえる事なのであると、少女は納得する。
『じゃあ、リリィちゃん今度もアトちんへの読み上げを頼むにゃあ。ワチシは次のメモを書き上げるにゃ』
『はい、判りました、ライさん』
今度は時間をかけず、リリィがアトに読み上げている間にライが仕上げとなるメモを記し始める。
《さて、でも、ちょっとばかり説明が強引になるかにゃあ~》
《うーん、まあ、アルセンとシュト君はどうしても、一緒に帰ってくるだろうからねえ。あ、このメモ帳をそのまま使わせてもらうよ》
ライが経緯を箇条書きしてくれたメモ帳と、これからナイフを使って造ろうとしている“あるもの“と一緒に、法王の飼育する鷲のイグに、運んでもらおうとウサギの賢者は考えていた。
儀式が行われた渓流から、この旧領主邸の中庭にまで賢者を″空輸”してくれた鷲は、今は姿を見せないが付近で待機しているのは、感じ取れている。
『リリィ、1枚目のメモ帳はかさばるからワシがもっていよう。アト君も1枚の方が集中しやすいだろうから』
『あ、そうですね、賢者さま。ありがとうございます。それじゃあ、アトさん読みますね―――』
そう呼びかけると、アトが無言で深く頷いたのを見てから、巫女の女の子は読み上げを始める。
ウサギの賢者は、フワフワとした手に器用に挟んだ1枚目の箇条書きのメモを見つめて、抱きかかえている女の子が気が付かない程度に頷く。
《ついでにメモに”念”も込めておこう。リリィやアト君、そしてルイ君用の事実。
そしてそこから、ウサギの賢者の件を適当に誤魔化し、暦に出せて、ロブロウの皆様にも納得してもらえる話。
このメモ帳の記した内容に添って、事実として進め行くという事を、儀式に参加した組が戻ってくる前に報せないとねえ》
《……にゃあ~、結局今回の本当の真相を知っているのは、賢者ネェツアーク・サクスフォーン、大農家グランドール・マクガフィン、魔剣のアルセン・パドリックという事になるんだにゃあ》
リリィから受け取ったメモに、細工を仕込んでいる賢者に、ライが3枚目のメモにペンを走らせながら、テレパシーを送るとウサギの賢者は小さく瞬きをする。
《おや、アプリコット殿は真相に触れていないと思うのかい?》
《”アっちゃん“は執事さんや、この土地の因縁とか凄く根深く関わっているとは思うニャ。
でも、先ず第一にアプリコット・ビネガーとしての役割を果たしただけであって、“本当“の事実―――核心に触れているかどうかでいえば、そうではないと“思う“》
テレパシーでもつけている猫の語尾を外し、ライヴ・ティンパニーという魔術師としての意見を伝え終えた時3枚目の箇条書きのメモを仕上げた。
1 ウサギの賢者は、使い魔金色のカエルをを通し、鳶目兎耳から儀式の終了に伴い、王都に戻るという連絡を受けていた。
2 鳶目兎耳が不在になった為、その後、指揮者の権利は”ウサギの賢者”に移り変わる。
3 シュトとアルセンが、儀式に参加して残っている人達に詳細を伝える。
4 みんなで話し合った結果、紫のかみひこうきは危険だと判断した。
5 ともかく時間がないので、 最も動ける”ウサギの賢者”と、儀式で使う荷物を王都から運んできてくれた、法王ロッツ猊下の“鷲のイグ“に運んで貰うと事にする。
6 アプリコットが、"もしもの時の為に"と魔力の詰まった銀の仮面を貸してくれて、ウサギの賢者と鷲のイグと出発する。
7 ディンファレ、ライ、大奥様が旧領主邸に到着したら、紫のかみひこうきが想った以上に集まっていた。
8 戦うのが苦手な大奥様と、秘密基地に隠れていたクラベルさんとアトちんが交代してでてきたら、紫のかみひこうきが合体を初めてバケモノになる。
9 そこに魔力の貯まったアプリコットの仮面を持ったウサギの賢者と、鷲のイグが到着した。
10 ウサギの賢者が銀の仮面を、魔法で"槍"に姿を変えてバケモノをやっつけてから、リリィちゃんが秘密基地から出てくる。
《まあ、こんなところだにゃあ》
《うん、こんなところだねえ》
アトに対してリリィの読み上げが終わる頃、横から覗き込む形で確認していたウサギの賢者も、1枚目のメモに"念"を仕込み終えていた。
《こっちのメモは、多分最初の手にするのが、アプリコット殿かアルセンか、グランドールか―――うちの"暴君"だろう。
まあ、シュト君アルス君が手にしたとしても、仕掛けすら気が付けないと思うけれど》
《にゃあ?!イグにゃんだけではなくて、王様、こっちにきているにゃあ?!》
”暴君”という単語に、思わず黒髪を揺らして、ライが猫が驚いて振り返る様に、眼を大きく見開きウサギの賢者に向かって視線を向ける。
《あれ、思えば言ってなかったけ?。出来ればリリィにバレて欲しくないから、ご協力よろしくね。
メモには確りとバレない様にしろ念は込めているけれど、まあ、“やる事はやったから“王都にもう“とんぼ返り“を始めているだろうけれど》
《聞いていないっていうか、知らせて貰ってないにゃ!》
そんな返事を返しながら、ほんの僅かではあるけれど、王都にいる自分の所属する王族護衛騎士隊の隊長を心配する。
ライが大好きなリコリス・ラベルを含め、王族護衛騎士隊の面々は、ライとディンファレと護衛騎士隊長のキルタンサンスを除いたなら、すべての成員の出自は全て貴族であった。
ただディンファレは、身分こそ貴族ではないものの、軽く貴族の"上"を行く国を代表する大富豪の令嬢でもあるので、引けを取るという事もない。
貴族という“後ろ盾”がないという意味では、国で一番の剣術の腕前だという隊長だけが同じ立場の様な物だった。
ただライは生来の”猫”の様な性格もあって、周囲が貴族ばかりで、自分の相棒が、一定数の貴族の令嬢たちに”お姉さま”と慕われている―――そんな事もお構いなしといった態で日々を過ごし、特に不便を感じない。
護衛騎士隊の中でも、必要のない限りはリコや、そのリコが敬愛するディンファレと話せていればそれで良いとライは思っているが、隊長の方が何かと気にかけてくれてくれていた。
キルタンサンス・ルピナスは国を代表する剣の腕は元より、やはり統率する”隊長”という立場と、任せられた資質もあって、面倒見がよいのだと、ライは解釈していた。
ただ話しかけてくれる話の内容が、愛する奥方と2人の御姫様の話になるのは、気まぐれなライでも呆れながらも、面白かった。
しかしながら、気にかけて貰いつつもライからしたなら、何かと”公務を済ませてから脱出する王様を追いかける隊長”の姿を、城下町で警邏中に目撃したりもするので逆に心配したりもしている。
《城下町でも走り回って探して護衛してるのに、こんなロブロウに来てたら、護衛の方はどうするにゃ!?》
《護衛に関しては、英雄2人いるから、大丈夫なんじゃない?。あと、あの暴君強いし》
ウサギの賢者の全く慌てていない返事を聞いてから、リリィが緑色の眼を丸くし驚いている視線とかちあった。
ライが”王様が来ている”という報告に驚き、ウサギの賢者のほうへと振り返るという所作は、リリィのいる方向にも向けられているわけで、少女と芋づる式に、メモを読み上げて貰っている少年も驚かせるという事に繋がっていた。
『え、ライさん、どうかしましたか?』
『……にゃあ、3枚目を書き終わってから、リコニャンの事も少しは書いてもよかったかにゃあと思って……にゃあ』
ライはそう言いながら、書き上げた3枚目のメモ用紙を、リリィに渡す。
巫女の女の子は、綺麗な緑色の瞳に夕方の茜色を映しながら、メモ帳に記された文を読んだなら、確かにメモ帳3枚にわたってリコの名前が出てきていない。
『ここには出てこないけれど、リコにゃんは儀式で頑張ってアルセン様の代わりをしたから、凄く疲れたにゃ~。
何とかで成功はしたんだけれど、とっても魔力を使ったから、終わった直後は昏睡―――疲れすぎて眠るみたいに、最初の儀式の後になってしまったんだにゃあ。
でも役割は、確りとこなしたから、鳶目兎耳の指揮者の指示で、ワチシとディンファレ様とでリコにゃんをお馬さんに乗っけて、先に引き上げたんだニャ~。
それで、儀式の支度を手伝ってくれた領民の人達の待機場所で、万が一の救護所でもある関所で休んでいる内に、意識は無事に回復したニャ~。
そのまま安静も兼ねて留守番をしてもらって、ワチシとディンファレ様は一応周囲の警戒をしている時に、アトちん兄ちゃんに出逢ったというわけにゃ~。
しかしながら、アトちん兄ちゃんが、リコにゃんと出逢ってないから、メモ帳に登場させることが出来なて、残念で仕方がないにゃ~。
でも、アトちんにはこれが一番、"儀式は無事に終わったんだけれど、ウサギの賢者殿が急いで戻って来てここにいる理由"が理解しやすいからにゃ~』
ライが至極残念そうに、早口で言いながら―――先程の、少々挙動不審にも受け取れる行動を誤魔化した。
ただ誤魔化しではあるけれど、ライが心から残念と思っているのは本当の所でもあるので、リリィは素直に感じ取り、青い縁の眼鏡をかけた、女性騎士の名前の載っていないメモを握りなら頷く。
『大丈夫です、メモ帳には載ってなくても、ロブロウの人達は最初の儀式の事をみています。
それに、取りあえず賢者さまがこちらにいらした理由をアトさんが、理解したなら、わたしからも話します。
あ、でも、見てないわたしよりも、アルスくんや、グランドールさま、アプリコットさまに頼んだなら実際に見ているだろうから、きっともっと上手に話してくれますよね』
折角、“仲良し“になった優しいお姉さんにも、心が自分よりも幼いお兄さんにも、もっと仲良くなって欲しいから、少女は懸命にそんな言葉を口にしていた。
『にゃあ~、リリィちゃん、何よりワチシが見ているんだから、安心してニャ~』
『あ、そうでした!』
リリィは即座に自分が"出しゃばり過ぎた”という事を理解し、夕方のせいばかりでなく頬を赤らめる。
『まあ、皆が帰って来てから何にしても、もう一度話し合いをして、何が起こったか確認するのは絶対必要だろうね。
その為にはアト君にも理解をしてもらった方が良いだろうから、リリィ最後のメモを読み上げて貰っていいかな?』
『はい、賢者様』
この時点で、メモに書かれていることには一度目を通してはいるので、賢者が自分のナイフを使って何を作ろうとしているか、リリィの予想は出来ていた。
それに、アルセンとロックのお見舞いに行っている筈のシュトではなく、大奥様がクラベルとアトと交代をしてからの事ならリリィも、少しばかりなら、状況を把握は出来ている。
クラベルとアトが、秘密基地―――旧領主邸・中庭の噴水から繋がる地下室から出て行った後に、前領主で“御館様“バン・ビネガーと、大奥様と呼ばれるシネラリア・ビネガーとで、状況が落ち着くまで待つことになった。
『大丈夫になるまで、一緒にいましょうね』
前に晩餐会であった時も、優しい雰囲気であったけれど、娘のアプリコットの事を何かと―――ルイが後で教えてくれた言い方で表現すると、“下げる”発言をされて、リリィは少しばかり応対に困った。
けれど、たった1日という時間が過ぎただけなのに、クラベルとアトが出ていった後に秘密基地に降りてきた大奥様は、とても優しそうな、“アプリコットのお母さん”という印象に代わっていた。
『″馴れない“ない事をしたものだから、こんなに汚れてしまいました』
秘密基地に降りて着た後、リリィは大奥様自身が言うまで、気が付かなかったけれども、確かに貴婦人の衣装は端々に、泥が付いていた。
昨夜の局地的豪雨で、領主邸から、小高い丘の上にある旧領主邸までの道も大分ぬかるんでいたので、多少よごれても仕方ないと思いながら、少女はそんな報告を聞いていた。
メモを読んだ今なら、大奥様も“紫のかみひこうき”をやっつけていたのだと、リリィは判る。
『そちらは、そちらで大変だったみたいだな。お疲れ様』
そして、御館様が自分の奥さんにかけていた声に込められていた、労りの気持ちの意味も
理解する。
(それで、賢者さまがアプリコットさまの仮面に魔法をかけて、バケモノになった紫のかみひこうきをやっつけた)
『それじゃあ、アトさん読みますね』
そして読み上げながら、リリィはウサギの賢者がやってきた理由と、これからやろうとしている事を考える。
(凄いなあ、賢者さま。アプリコットさまの"銀の仮面"を魔法で槍に変えて、紫のかみひこうき出来たっていうバケモノをやっつけてしまうなんて)
口にはださないけれど、リリィにしてみたなら、そちらの方が浚渫の儀式という話よりも大事の様な気もしていた。
そう思えるのは、恐らくウサギの賢者が、アプリコットの銀色の面を"槍"に変えて、バケモノをやっつけた瞬間に、"上下"の距離はあるけれど、側に入れたことがあるからだった。
クラベルとアトが、秘密基地でシネラリアと入れ替わるその前から、時間の長さという物がよく判らない状況が、ロブロウという土地は包まれる。
時計の針の進む具合は遅く感じて、身体の方は正直に、朝から昼という時間は優に過ぎても何も食べていないような空腹の状態だった。
そんな時間が流れる中で、不意に空―――秘密基地と、旧領主邸を繋ぐ中庭の噴水の底に、賢者ピーン・ビネガーによって仕込まれていた宗教画のステンドグラスが、輝き、皆が一斉に見上げる。
【天地創造の大地の女神と天使と旅人】
この世界の住人なら誰もが知っている壮麗な宗教の絵画が、色鮮やかなガラスを使って画かれていた。
女神と天使が"この世"という世界を旅をしている"旅人"を見守り、助けるという構図。
少女の緑色の瞳は、その色付きのガラス越しに差し込まれる光に気が付いた瞬間、天を見上げる。
丁度“大地の女神“を彩る紅色の光が射しこみ、それを秘密基地の寝台の上で、シュトの執事服の上着を肩から掛けた少女は、豪奢な寝台事紅色に染まる。
眩い色のついた光が降り注いでくるというのは、起こった出来事しては本当に突然の事だったが、不思議と秘密基地に残った、バン、シネラリア、リリィの3人の誰も慌てるという事はなかった。
そしてその光の中から浮かび上がる様に、目の前に現れた”両目とも紫色の瞳”をした、身体の透ける優しそうな女性が姿を見ても不思議と、誰も声も出さない。
リリィが紅い瞳で、その人を見上げた―――女性にしては背が高い人は、優しそうに“にっこり”と笑う。
―――旅立った幼馴染の親友と、その伴侶の“思い出“と指輪の話、私がこの世界の留まる必要がある分だけ頂戴ね、とっても可愛い“リリィちゃん”。
リリィは逢った事もない人の筈なのに、とても親し気に名前を呼ばれて透ける手で優しく頭を撫でられた。
その瞬間に、光に染まって紅色になっている瞳から、その色が抜けて緑色に戻る。
そして戻ったその瞳で、紫の瞳の人が抱えている“絵本“を見つけた。
(あれ、どうして、わたし、”絵本”って思ったんだろう?)
少女が心に思い浮かべた事を、紫の眼を持った身体の透ける人は拾い読んで、小さく微笑む。
―――さあ、どうしてでしょう?。
それから、前ロブロウ領主夫妻に振り返る。
―――本当に、”お久しぶり”です。
バンもシネラリアも語りかけてくる内容の意味がわからないし、起こっている不思議は理解できないけれど、心は騒がない。
騒がない心―――”落ち着き”を拾い読んだ、身体の透ける人は紫の眼を細め、絵本を抱えて深くお辞儀をする。
―――貴方達の娘さんでもあった“女の子”で、女神であった人のお陰で、私の大切な親友は、最後の最期で孤独ではなくなりました。
―――本当に、ありがとうございます。
身体の透ける人は決して名前を口に出しはしないのに、バンとシネラリアの頭の中に浮かんだのは、娘の幼馴染の様に育った、隊商の傭兵が連れていた女の子の事だった。
実際には、娘のアプリコットとほぼ同年の、成人し、執事見習いとなったシュトとアトの師でもある、胸の豊かな女性というだけの筈なのに、”旅立つ”という言葉に、落ち着きの上に安心が重ねられる。
安心が重ねられることで、バン・ビネガーは身体の透ける女性越しに見える、王都からの客人である少女と、儀式の待ち時間の間に交わした、心に納めていた言葉が心に引き出される。
”御館さま、エリファスさんの事も、アプリコット様と同じくらい、大切に思っていたんですね”
その名前を拾い読んだ紫の瞳の人は、少しだけ申しわけなさそうに、微笑んだ。
―――ここで交わされた、思い出、”記憶”もいただいて行きますね。
―――深謀遠慮の賢者ピーン・ビネガーが言うには、名前こそ、この世界に人を打ちつける楔の様な物だそうですから。
そう言って、絵本を差し出し、前領主夫妻の記憶を吸い取り、それから、“仕上げ”といった雰囲気を透ける身体から醸し出し、振り返り、リリィに向かって再び微笑む。
―――リリィちゃんの“祈り“は、確りと届いたのを見届けたから、安心してね。
"エリファスさんと、アルセンさまが別れるまでに、指輪が間に合うといいな"
ディンファレやライが、大奥様を伴って秘密基地を訪れる前に、大きな儀式を行った為に不具合を起こしている通信機越しにバンやクラベルと話す事で至った、祈りだった。
自分の国の英雄でもある人が、病に臥せりながらも、その身を起こして、旅立つ親友の為の行動が報われるように、少女はこの国の大地の女神様に願っていた。
―――指輪は、2つともこの世界から消えてしまったけれど、届くべき所に届いたから、安心して心の中に"しまっておいて"あげてね。
それから、ステンドグラス越しに注がれる色のついた光の下で、透けている身体が更に透けて行っていた。
―――“鳶色の賢者“君は、頑張ってくれているけれど、どこかで無理が祟らなければいいな。
それから、紫の眼をした人は、彼女が関わって来た賢者達が行ってきた仕種の真似をする。
自分と同じ様に、消えかかっている絵本を抱えていない方の手を胸元にまで上げて、中指と親指の腹をすり合わせる。
―――“上”でも秩序の花が咲いたのだから、“下”で咲いても何らおかしくはないでしょう。
不貞不貞しい表情を浮かべて指を弾いたなら、透ける身体ながらも“パチン”と弾ける音と共に、その姿をこの世界から消した。
そして、消したの事で入れ替わる様に、バン・ビネガーが纏っていた外套のポケットか蠢く。
そのことで、秘密基地に残っていた”大丈夫になるまで、一緒にいましょうね”と約束をした、前領主夫妻とリリィは、”宗教画のステンドグラスが、輝き、一斉に見上げる”時からの記憶が繋がった。
『―――秋桜が?!』
思わずバン・ビネガーが驚きの声を漏らした時には、"鳶目兎耳"としての立場を、ロブロウでは通すと発言した賢者に委ねた時に残った、秋桜の種がが芽吹いていた。
秘密基地にいる全員が驚いている間も、バン・ビネガーの外套からから種子から芽吹いた長いコスモスの茎が先端に既に蕾をつけて、伸びていく。
瞬く間に、伸び続ける秋桜の茎は、秘密基地の床を網羅して時期が来たなら、普通に野原にある小さな草原となる。
種から芽吹き、葉や茎を形成した種子の入っていたコートは流石に重く、バンはシネラリアの介添えで脱いだ。
『―――これは、一体?』
バンが代表する形で、言葉を口にした時、天井で音が響き、今度はステンドグラスを透かした物ではなく、夕方の茜色の光が秘密基地に射しこむ。
そしてその差し込む光に触れた、瞬間に秋桜の蕾が開花する。
『リリィ嬢、大丈夫ですか?』
ディンファレの声が天井から降りてくる頃には、秘密基地の草原は秋桜の花畑に姿を変えていた。
『御館様、大奥様、“もう大丈夫“ですよね?』
リリィが尋ねたなら、夫妻は秋桜が芽吹いた外套を手にしたままだが、強く頷いてくれたのを見て、立ち上がると、肩にかけていたシュトの見習い執事上着が外れる。
そこまで勢いをつけて立ち上がったわけでもないし、風が吹いたわけでもないのに、舞うようにして秘密基地の秋桜畑に、その執事の上着は落ちた。
『―――構わずに、行きなさい』
リリィが執事服を拾おうとする前に、バンが口にしてシネラリアに視線で合図を送る。
夫人は頷き、少女が昇り易い様にと、秘密基地から旧領主邸の中庭の噴水に繋がる梯子を抑えた。
『早く、大切な賢者様に逢えるといいわね』
『はい、大奥さま。ありがとうございます』
そうして、少女が梯子を昇るの無事に昇るのを、夫ともに見送った。
少女の身体が噴水の底となっている、ステンドグラスの宗教画に辿り着いて、女性の騎士に引き上げられるのと同時に、夫人の方が秋桜の上にある執事服を見て呟く。
『こちらの、”賢者さま”が大好きな方も、もしかしたら大切な賢者さまに会う為に旅立ってしまったのかもしれませんね』
まるで秋桜を抱き締めるような形に、袖を広げて花畑に落ちている執事服にも茜色の光が射しこんでいた。
『シネラリアにも、”虫の知らせ”という物が来たかね。不思議なことだ、こちらも、報せを感じ取れたよ』
記憶を紫の眼をした人の手にした絵本に、今回の出来事の根深い部分を吸い取られていた。
それにも関わらず、名前こそ口に出さないが、父の傍らに影の様にいてくれた執事の旅立ちを、前領主夫妻は秘密基地の秩序の花畑の中で、感じていた。
《アっちゃんの御祖父さんが、仮面の力を使って記憶を"閉じ込めた"様に、槍を放ったついでに、リリィちゃん達とワチシ達が通信機で話した記憶を、封じ込めちゃたんだにゃ?》
リリィが3枚目のメモ帳を読み上げる横で、ライが最終確認のテレパシーをウサギの賢者に飛ばしていた。
《おや、そんな風に言うって事はライさんには、通用してないってことなのかな?。やっぱり昨日知ったばかりの付け焼刃じゃ、上手くはいかない物だねえ》
直ぐに"人の賢者の声"で、ライの頭の中に帰って来た。
《にゃ~、稀代の魔術師シトロン・ラベルの正当な後継者を舐めて貰っちゃ困るニャ~。
まあ、確かに覚えていたら、儀式の結果を含めて、リリィちゃんに話すにしても、話し辛い疑問が1つ2つあったにゃ~》
猫の鳴き声を語尾につける魔術師は、リリィがウサギの賢者と再会し交わす会話を聞き始めた時から、ある違和感を抱える事になる。
だから先ず言葉を挟まず、巫女の女の子とウサギの姿をした賢者の話の流れを窺ってから、会話に参加を行っていた。
そして、正直に言って、リリィが先程通信機越しに交わした会話の記録を、ウサギの賢者が自分の秘書に当たる巫女の子の、思い出すにも大変な記憶の底に押し込んだことは認めている。
《あと、アトちんに"ライお姉さんのお話が終わるまで、アト殿のお話をしてはいけません"って言っていた、ディンファレ様もだにゃ。
はっきりはしていないだろけれど、リリィちゃんの口にする言葉や話している事で、ワチシと同じ様に違和感抱えちまっていると思うニャ~。
でも、言葉を挟まないし、文句のテレパシーの1つも飛んでこないニャ。
まあ、"嘘つかなくていい状態"に、顔には出さないけれどホッとしているディンファレ様の気持ちは、わからないではないかにゃ~》
旧領主邸の中庭に訪れる前に通信機越しに行った会話でさえ、言葉を偽ることが苦手な―――嘘をつくことが出来ない、国の女性番騎士の中で一番の猛者であるディンファレは、四苦八苦していた。
仕事とあらば、何とか"義務"として澄ましつつも、力強い美しさを携えながら嘘を扱う事も出来る。
けれど理由あって、尋常でない庇護する想いを抱いているリリィという女の子に嘘をつくことは、それがばれた時に、性根が真直ぐ過ぎる時期でもある少女を、傷つける恐れがあると、躊躇っていた。
《そういう事になるよねえ。言葉を挟まないって事は、彼女もワシの"誰にも迷惑かけないズル"には賛成してくれていると、受け取っておこう》
アトを、ウサギの賢者とリリィの側に寄せたのも、自分ではうまくこれからの辻褄を合わせる会話が出来ないという、懸命な判断だと思えた。
そしてアトに"起こった出来事を確認する"という前提で、ライが"ウサギの賢者"が巫女に新たに擦り込もうとしている"記憶"を、予想し、箇条書きで連ねて見せる。
それをリリィや、秘密基地で通信機の会話を共に聞いていた筈のクラベルが、全く違和感なく、表情の1つも動かさずに受け入れている事で、ライは漸く賢者が行った“禁術“の心当たりをつけていた。
巫女の女の子が、3枚目の箇条書きのメモ帳を読み上げる事で、銀の仮面を変容させた槍で、バケモノに撃ち込む際に行った、賢者が付け焼き刃で行った”禁術”が、何とかうまく行ったのだと安堵もする。
《銀の仮面に閉じ込められていたアプリコット殿の約20年分の魔力を使ってバケモノに秩序をぶち込んで、仮面の役割の"余波"で行った、記憶の押し込みでもあるからねえ。
本来なら、あの”記憶と魔力を吸い込む絵本“も補助として、傍になければいけないんだろうけれども、ロブロウ自慢の渓流にのって、どんぶらこっこと流れて行っちゃったから。
まあ、流石に"まだ"この領地にあるだろうから、勘だけで応用させてもらったよ》
《中々やり手そうな、御館様の従者のオジサンの記憶も、押し込むことが出来ているみたいだから、結果オーライにしておくにゃあ。
後は、”辻褄合わせ”念を込めた、3枚のメモ帳と、リリィちゃんも期待している、”アプリコット・ビネガー”の新しい面をナイフを溶かして造って、待機してくれているイグにゃんに運んで貰うにゃ~》
そんな互いの胸中を開き、確かめ合う様なテレパシーが終わった時、リリィも3枚のメモ帳を読み上げが終わった。
『賢者さま、ライさん、これでいいでしょうか?』
『ああ、ご苦労様リリィ。3枚目のメモ帳も、預かろう。
そして、リリィもメモ帳を読んだことで、予想がついているだろうけれど、ワシのナイフを溶かして、アプリコット・ビネガーの新しい仮面を作ろうか』
『はい、賢者さま』
そうして、旧領主邸の中庭にいる面々での仮面造りは始まった。
ウサギの賢者のナイフを、炎ウリ坊の力で溶かしている間に、耳の長い賢者の姿に漸く馴れてきていた前領主の従者に指示を出し、秋桜の咲き乱れる中庭の一部を掘り返し、小さな土の山を作らせる。
昨晩の局地的豪雨と、旧領主邸の中庭の”獣避けの罠”が全て発動していたお陰で、土は柔らかく、クラベルも土の山を作るのに難儀はしなかった。
その土の山を、ライが黒い爪化粧を施している指先を汚さずに、実に器用にある形と大きさに整えていく。
それはその人物に、直接逢った事があるなら、大方察しの大きさと形だった。
『よく覚えていらっしゃるものですねえ……』
『にゃはっはっはっは、観察力は優秀な人材には必須の技術だニャ~。
それに友達の顔は覚えておくもんだにゃ~』
最初に土の山を作ったクラベルが感心しきりの声を出したなら、ライは謙遜もせずに猫の様に口の端を上げ、更に器用に形成を続けて言いきった。
だが、それから直ぐに艶やかな唇から、小さな舌の先を出して"種明かし"を始める。
『あと、アッちゃんはお祖母ちゃんに似ているって話を聞いたから、旧領主邸にあった肖像画を思い出しているのもあるんだにゃ~』
『……ああ、それで』
ライが形成する、仮面の型の滑らかな部分に感じていた違和感の正体に、クラベルは小さく息を吐き出した。
領主邸の内側で過ごす時間がある者なら、アプリコット・ビネガーの"ケロイドの素顔"と遭遇は、ごく希にある。
クラベルは、代理領主の父親の従者として一般的な領民よりも、その頻度は多く出逢っていた。
そして遭遇する度に、どこか違う場所で物凄く似たような物を見たことがあるという既視感の正体が、漸く判った様な気がした。
(肖像画の奥様も、アプリコット様も別人だとは弁えていたけれど、似ている所は似ているという受け入れを、私は無意識に頑なに避けていたのかもしれない)
不惑を越えて、五十を迎えるのも後数年になりそうだという齢になって、己が思いの外思い込みが強いのだと、クラベルは内心、苦笑いを浮かべた。
『しかしながら、地面から顔が出ている様に見える図は、中々シュールな感じだね~。夜中にボコッと出てきたら、怖いことこの上なさそうだ』
『……賢者さま、今度嫌なお客さまが来た時に追い返す時にはとにかく、アルスくんを脅かす時にこのようなイタズラをなさるのは止めてくださいね』
まるで話題を切り換えるようにウサギの賢者が、円らな瞳を細め楽しそう呟くのを、上司の性格を掌握したリリィが、上から覗き込む形で諫める。
『賢者殿、今回の製造は鋳型という物になるのでしょうか』
クラベルが賢者に、再び頼まれて、もう1つ土の山を作りながら尋ねる。
自分の秘書に"そんなイタズラしないよ~……多分"とふざけて答えつつ、直ぐに気持ちの切り換が伝わってくるクラベルの質問に賢者は応える。
『うん、そうだね鋳型で鎔笵とも、言われるやり方でもある。
今回は何より時間がないから、ライさんが土で作ってくれている顔の型の上に、ナイフを溶かした鉄を流し、クラベルさんが今掘ってくれた土を被せ冷やして、仮面を造る算段だ。
被せる土はそれくらいで良いよ、クラベルさん、ありがとう。
じゃあ、"人"はライさんが作った土の型から、離れて。
リリィも、ワシを抱えたまま下がろうか。
必要最低限の鉄しかないから、跳ねる量もないだろうけれど、やっぱり危ない。
―――それでは、こっちに持ってきてくれるかな』
人には諄くなるほど注意を促しの指示を出し、移動を終えた後に、炎のウリ坊にそう呼びかける。
ウリ坊の方は、ウサギの賢者のナイフの金属にあたる部分を自分の熱ですっかり融かしてしまって、茜色に輝く液状化した鉄を、沼田場で行う泥遊びの様にして小さな身体に擦り付けていた。
"主"であるウサギの賢者に呼びかけられたなら、直ぐに身をおこして小さな丸い鼻をフコフコと動かし、身体に茜色の輝きを纏って、ライが整形した型の上に鎮座する。
すると丁度言い具合に、ウリ坊が身体に纏っていた鉄が"流れ"、型を綺麗に覆った。
『こうなると、身軽なウリ坊で良かったよ。イノシシだったら、折角の型が崩れてしまっただろうからね。
じゃあ、お疲れ様、これはごほうびだよ』
そう言うと、リリィの膝の上に座っている賢者はフワフワとした手をコートの胸元に突っ込んで、普通のウサギならあり得ない真ん丸とした肉球のついた手のひらの上に、黄水晶を取り出して、放り投げる。
それを炎のウリ坊が融けた鉄が覆う型の上で、飛び上がりキャッチした瞬間にその姿を人の世界から消した。
『クラベルさん、さっき掘った土を、面の型の上に被せてもらってもいいかな?。
熱が強くて危ないかもしれないから、幾ら騎士だといっても、御婦人方には危険な事をさせたくないんだよ。
ワシも、こんな感じだし』
日頃性差の事に関して口出しをすることは、無意味と定義している賢者だが、この作業については"男手"として前領主の従者に頼む。
『承りました、"賢者様"』
クラベルの方も端からそのつもりらしく、進み出て綺麗に面の型の部分に覆われ、縁の方は既に固まり始めている面に、山のように積み上げていた土を被せる。
昨夜の豪雨で水分を含んでいることもあって、土をかけたと同時に、結構な蒸気があがり、従者の男はその熱気に目を細めていた。
『うん、やはりクラベルさんに頼んで良かった。ついでに、ちょっと難しいかもしれないが、間に挟まれた鉄の面の厚さが均一になるように、抑え込むのをお願いしてもいいかな?』
『はい、判りました』
腕まくりをしながら慇懃に受け答え、蒸気を漏らす土の上から丹念に抑え込んでいく、前領主の従者に賢者は礼を口にする。
『ありがとう、クラベルさん。ワシもさっきの槍を打ち込んだことで大分魔力を使ったから、正直とても助かるよ。
それと、堅苦しいのは苦手だから、そんなに丁寧に接しなくてもいいし、緊張もしないでおくれ』
『いえ、国の貴重な人材であられる賢者様に失礼があってはなりませんから』
そうクラベルが、引き続き丁寧に返事をすることで、賢者は従者の頑なに丁寧な態度にある勘違いをしているのではないかと、勘付く。
『―――あのお、ワシ、グランドールと同じ年だから、不惑を超えたクラベルさんよりは年下の筈だから』
頼まれた事をしつつも、クラベルは思わず振り返り膝の上に鎮座するウサギの姿をした賢者を、大きく眼を見開いて見つめていた。
『え?!、そうなのですか―――っと、熱っ』
『ああ、気をつけてね』
注意を改めて促した後に、長い耳を丁度半分の位置から折り曲げると、ライが掌に着いた泥を綺麗に黒猫のハンドタオルでふき取りながらからかうように言葉をかける。
『にゃ~、思えばリコにゃんも賢者殿の実際の年齢を誤解していたニャ~』
『ああ、丁度ロブロウに来る前に、話をした時ね。……そんなに、ワシ、"オジサン"に見えるのかなあ』
"一人称が『ワシ』でそんな『格好』をなさっているから、実年齢も落ち着いていると感じられてしまいます"
そんなリコにもかけられた言葉を思い出しながら、顎に肉球付き掌で頬杖を突く形で、嘆きを口にする。
『ウサギは、可愛いとばっかりに思われる生き物だと思っていたけれど』
『賢者さま、大丈夫です!賢者さまは、可愛いし、モフモフでフワフワしてて暖かいです』
リリィは賢者が落ちこんだり悩む時に、必ず長い耳が半分の位置から曲がるという特徴を覚えているので、急いで励ましの言葉をかける。
だがその励ましの中に"若い"という表現に繋がるものが一切なく、ウサギの賢者は心で空笑いを浮かべながら何とか眉間の間にできそうな縦のシワを抑えつつ、曲がっていた耳を真っ直ぐに戻した。
(まっ、"私"にとってはリリィに若いと思われるよりは、"どんなときでも頼りになるウサギの賢者"って、大人になって自立するまで、思われ続けることの方が重要だな。
それで今は、アプリコット殿の仮面の複製を作って、"オジサン"よりも、"賢者さま、凄い"というイメージをもって貰わないとね)
世界を敵に回しても守ろうと思っている女の子には、ウサギの賢者が人の姿に戻ったなら、本来は"伯父さん"という立場であるということは、何があっても黙っているつもりだった。
『―――さて、じゃあ、そろそろ蒸気も収まったみたいだし、持てる位まで熱は引いたかな?』
『はい、抑えていても、土からは熱を感じません、大丈夫のようです』
少しばかり与太話をした後に、賢者が確認をすると、幾らか固さの抜けた口調でクラベルが応える。
『にゃあ、イグにゃんが運んでくれるんだから、それなら念をいれて、水の精霊を染み込ませて、冷やしておくにゃあ~』
ライがそう口にして、特に細かい爪化粧が施されている右手の指先をだけを伸ばして、空に丸く円を描いたなら、その上の青い色をした粒子が集まる。
それは魔術の素養があるものならば、水の精霊が凝縮されたものだと気がつけた。
『"ちちんぷいぷい~♪"イグにゃんが、火傷しないように、完璧に熱を冷ませるにゃ~』
独特の節回しでライが口にする"呪文"は、彼女と初めて出逢ったときに聞いたものだったのを思い出し、リリィは緑色の瞳で、水の精霊の協力を得ながらも、見事に"繰る"、猫の様なお姉さんを指先を見つめる。
すると、絵本の挿し絵の魔法使いが、魔法をつかう表現をそのまま実写するように、青い粒子はクラベルが抑える、ナイフを融かして出来た仮面が埋まる土の山の様になっている場所に吸い込まれていった。
『うん、オッケーだにゃ~。アッちゃんパパの従者さん、仮面を取り出してぇ』
『"アッちゃんパパ"、ですか……』
自分の主の耳にしたことのない呼称に、驚きながらも、クラベルは土の山を崩した。
その中から、鋼の仮面が出てきて、それを取り出す。
色は銀色に比べたら幾らかくすんでいるように見えるが、形は確りとしている。
『あれ、でもその仮面は顔全部を覆っていますよね』
リリィが言わずとも、その場にいる全員が取り出したクラベルの手にしている物を見て、アプリコットがつけていた仮面との一番の違いに気がついていた。
『うん、だから最後の仕上げをしようと思うから、こちらに持ってきてもらって良いかな?。
リリィ、ワシを抱っこしていてもいいから、両手の自由にさせてもらっていい?』
『はい、賢者さま』
クラベルが取り出した仮面に残っている土を払い落とした後、胸元に入れてあるハンカチを取り出し、丁寧に拭って差し出した。
『ありがとう、クラベルさん。
多分、本当のアプリコット殿の仮面は、お祖父さんが魔法もかけていたと思うけれど、最初の仮面だけだとしても、鍛造という技術を使って、丁寧に造ったある意味で"作品"だと思うよ。
それに、"仮面の貴族"として領民の知られているアプリコット・ビネガー殿の象徴をするもの。
だから、せっかく儀式がなんとか終わってから、仮面を身に付けていないのは、やっぱり不味いよねえ。
―――というわけで、今から皆さん、ちょっと凄まじい音がするので、耳を塞いでいていてください』
左手に、全面を覆う形状の仮面、右手の人差し指から普段が指を弾く時にしかで出してない、固い爪を出していた。
『にゃあ、ワチシの呼んだ水の精霊さんの力を借りるつもりにゃあ?』
『良いじゃない、ウサギの賢者と猫の様な魔術師のお姉さんの合作なんて、素敵じゃない~』
ライの呆れた様な言葉に、変な節回しをつけてウサギの応えるが、"水の精霊"を使うという内容に理解できない、リリィとアトが揃って首を傾ける。
『物凄い水の力は、物を切ったりすることも可能なのですよ、御嬢様。
恐らく賢者様は、先ほどライヴ様が呼び出された精霊の力をそのまま借りて、仮面の口許の部分を削り、切断するつもりなのでしょう。
そうしたら、代理領主の仮面と同じ形になりますから』
クラベルは子ども達が疑問を持ったことを察し、リリィの名前を代表して呼んで説明をしてくれた。
アトはまだ許可が降りないので喋ることが出来ず、何回も頷くことで理解している事を示した。
『クラベル殿がいれば、今は体調が優れないという執事殿がいなくても、代理領主のアプリコット殿の補助は十分可能ですね』
ロブロウに来てから、アプリコットと"友人"となったディンファレが久しぶりに言葉を挟んだなら、前領主の従者は俄に赤くなって頭を振った。
『いえ、私などは、ビネガー家の執事には、まだまだ!』
『まあ、執事さん病気しているみたいだし、少なからず心構えをしておいて、損はないと思うよ』
ウサギの姿をしてはいるが、"賢者"から言われた事で、クラベルは顔から赤の色を抜き幾らか気持ちを落ち着かせ、"判りました"と頷いた。
『―――やれやれ、ロブロウは保守的な土地柄だと鳶目兎耳さんから、聞いてはいたけれど、賢者という存在には余程敬意を払っているみたいだねえ』
今度は賢者が、ロブロウの"因習"とも感じられる部分に呆れた様な感想を漏らしたなら、クラベルはやや複雑そうな表情を浮かべてから、意を決したように言葉を口にする。
『そうですね、ピーン・ビネガー様は、今でも領民にとって本当に憧れの存在ですから。
ある意味、ケロイドを負っていて、女性でありながら代理領主を"できた"のは、ピーン・ビネガー様の孫で、一番近い才能を引き継いでいたからです。
先ほど消えてしまった銀の仮面も、敬愛される領主様の手作りを孫娘に与えたといった話が、多少変わった形に受け止めている事だと思います。
"ピーン・ビネガーに認められた証し"と、いった所でしょうか』
一般的な領民よりも、一歩引いた形でロブロウという場所を観察をしている従者はそう告げた。
『にゃあ、それだったら"アッちゃんが賢者"だったら、代理なんかつけないで領主さんやれたかにゃ~?』
ライが興味を持ったように挟む言葉には、従者は更に複雑そうな表情を浮かべ、首を振る。
『いえ、例えもし、賢者だとしても、やはり女性が表に出ることを好まない土地柄ですので。
領主の役割をこなせる才能を、有り難いと思いながらも、領主としては認めない、受け入れないことでしょう』
『にゃ~、つまんないにゃ~。まあ、ワチシも"女の賢者"なんて、聞いたことにゃいからにゃ~』
ライが本当につまらなそうに往った時、聞いたことがないけれど、"削っている"という動きが伝わってくる音が、低い位置から響いた。
『まあ、時間がないから、ともかく仕上げるよ~』
ウサギの賢者が、爪に魔力と水の精霊を集中させ、鉄の仮面の口許の部分を、面の縁から切断を始めていた。
先ほどの"削る"音はウサギの尖った爪の先と、鉄の面が触れた箇所から轟いているというのは、その場にいる一同にも判る。
ウサギの賢者が"両手を使える様に"と、賢者のぬいぐるみのような身体の短い腕の間に差し込んでいた手を抜いていたリリィは、思わずそのまま耳を塞ぐ。
アトも"お喋りをしない"という、約束の元に口を塞いでいた手を耳に回していた。
王族護衛騎士の2人はあからさまに、表情を歪めたが、どうやら耳を塞ぐ程ではないらしい。
従者の方は、自分の住まうロブロウという土地の嫌な面を目の当たりにした賢者が、機嫌を幾分か損ねたと思えて仕方なくもあったのでただ黙り、俯く。
だがクラベルが気まずいと感じる時間は、そんなに長引くこともなく、丁度口許の部分を削り落ちたことで終わった。
口許の鉄の面の方は、湿った中庭の地面の上に音もなく落ちたのは、リリィが耳に当てていた手を伸ばして拾う。
『賢者さま、こちらはどうしますか?』
秘書からの質問に円らな目を細め、自分よりも大きいけれど、一般的には小さなリリィの手が掴んでいる下の部分を観察をする。
『うーん、またナイフに戻せるわけでもないからねえ。
クラベルさん、こちらは片付けを頼んでもいいかな?。
後で儀式の片付けが済んで余裕が出来た時にでも、アプリコット殿に見せて、どうするか尋ねてみてくれるかな?』
『はい、承りました。リリィ様、そちらを――――』
クラベルがリリィから仮面の切り離した部分を受け取る間に、賢者は今度はディンファレに呼びかける。
『ディンファレさん、イグさんを呼んでもらえるかな?』
『仮面の眼や、鼻の部分は開けなくても構わないのですか?』
尋ねられながらも、手袋を嵌めた手を打ち合わせて、音を響かせたなら、木々の枝が触れ合うものと羽ばたく音が同時にが聞こえ、法王ロッツのイグが姿を現した。
『ああ、目や鼻の所はアプリコット殿は自身で、開けて貰おうかなと考えているんだ。
細かい所だから、自分で納得して調整して貰おうと思っているんだよ。
何にせよ、先ずは儀式が終わった事で、アプリコット殿がケロイドを晒して戻らない事が、ワシの第一の望みだね』
そんな事をいいながら、今しがた口にした、仮面の目元や鼻の部分も爪で軽く突きながら、調子を確かめるような仕種をする。
それから再び円らな目を細めて、確認する様に一回転させ、裏と表も見つめた後に、円らな形に戻して、大きく頷いた。
『仮面には、前以て細工をしておいたよ。
アプリコット殿は短剣を持ってもいるから、届いたら自分で直ぐに良い位置であけられるようにもしてある。
本当は表面を鑢で整えたり、前のと同じよう葉梅の花の装飾を施したかったけれど、今は取りあえずこれでいこう。
それと、ライさんはさっきの3枚のメモ帳を、イグさんが運び易い様にしてもらっていいかな?』
『わかったニャ~、イグニにゃん、こっちきてにゃー』
《にゃ~、ところで露骨に"女の賢者"所で話ぶち切った理由はなんだにゃ~?。何か探られて嫌な所でもあるのかニャ~?》
ディファレに呼ばれて、旧領主邸の中庭の上を飛んでいる"イグ"にそう呼びかけながらも、テレパシーで先程の会話の続きを尋ねる。
短い時間だが、捷い賢者にしては反応がなく、半ば返事が返ってこないと思った瞬間にライの頭に声が響く。
《女性の賢者については、"私個人"よりも、恩人に関係する話。とりあえず、今は話したくはないから、機会があったならまたね―――》
テレパシーは人の声で返事し、隣にいるライに、ウサギの姿をした賢者は、仮面を渡した。
『ついでに、アト君に"お話はもう終わったから、口をきいても良いです“と、許可をだしてやってくれないかな。
確かライさんの許可が必要だったよねえ、”ライお姉さんのお話が終わるまで、アト殿のお話をしてはいけません”だっけ?』
傍から見たなら、先程少しばかり悪くなってしまった雰囲気をウサギの賢者がふざける様に言葉を口にして、場を和ますように振る舞い、声を出している様にも見えた。
ライも、今そこまで慌てて聞かなくてもいいことだとは思えたので、取りあえず次の”機会”が来ることを待つことにする。
『そうだにゃあ~、ワチシの許可があるまで、アトちんは喋れないからニャ~。イグにゃんに運んで貰ったなら、もう喋っても構わないしにゃ~』
『そうかい、じゃあ、後を頼んだよ……』
ライも陽気に言葉を返したなら、一気に賢者の返事のトーンが下がった。
『あれ、賢者さま?』
リリィがそう声をかけたならウサギの賢者の長い耳が全体的に”根本”から、前向きに垂れる形になり、ぬいぐるみの様な身体も前倒しになりそうになるのを、慌てて抱える。
巫女の女の子に支えられるのを感じながら、隣にいる猫の鳴き声を語尾につける魔術師にウサギの姿をした賢者は”指揮者“として伝言を続ける。
《で、悪いんだけど、わたし、っていうか、ワシの身体が限界なんだよ……ね、後はディンファレとライさんの采配で、頼むよ……。
あ、あと、イグさんに、仮面を持ってアプリコット殿所に行く前にね、リコさんの所に寄ってもらってね、メモ帳に触れた”念”は届くようにしているから。
それで、アト君がおしゃべり出来たら、リリィもお喋り出来て寂しくないだろうし……よ……ろ……し……く……》
最後に、自分を全ての意味で支えていてくれる女の子を気遣って、ライに送られてくる、ウサギの賢者の意識は途切れる。
『賢者さま?!……あ!』
『ニャ~、アトちん喋って良いにゃ~』
慌てて呼びかけるリリィの語尾に被せる形で、ライが少女を挟んで並ぶようにいる傭兵の男の子に許可をだした。
『ウサギの賢者さん、夕方お昼寝したら、夜眠れません。でも疲れているなら、仕方ありません』
許可が下りて、喋れるようになったアトが、状況を説明するように、ウサギの姿をした賢者の様子を口にする。
『賢者さま、もしかしたら、ロブロウでの調べ物で徹夜なさったのかしら?』
それまで後ろから抱え込む様に抱っこしていたのを、向き合う形にしてみたなら完全に眠ってしまっているウサギの賢者の姿がリリィの視界に入った。
眠っている為殆ど脱力していて、向き合う形にしたなら背面で反るような形になるので、少女はフワフワとした後頭部に手を添えて支えた。
玩具の様な、ウサギの姿に合わせた丸眼鏡のレンズ越しにぴったりと閉じた眼に、リリィは激しく瞬きを繰り返す。
『あにゃ~、完璧に寝ちまってるニャ~。さっきから、何回も目を細めてたんのは、もしかしら単純に眠かっただけかにゃ?』
ライがそんな事を言いながら、舞い降りてきたイグの趾に、腰の鞄から取り出した紐や袋に、賢者と共に造った荷物を取り付ける。
『じゃあ、イグにゃん、頼んだニャ~』
『ケエッ!』
ライが多少ふざけた調子で、軍の基本教練で習う"敬礼"をしたなら、イグはそれに応えるように鳴き声を出して、飛び立った。
飛び立つのを見送ってから、ライが噴水の側に腕を組んで佇むディンファレに声をかける。
『さて、ディンファレ様。これからどうするかにゃあ~』
『打ち合わせでは、リリィ嬢は"アルス・トラッド"が迎えに来るまで秘密基地で待機らしいからな。
ここで待っているしかあるまい。
賢者殿も、こうやって休息をなさっている事だし、我々もここで一行が帰って来るまで、待機して置こう。
シュト殿とも、護衛の交代を約束もしている事だしな』
ディンファレが凛々しくそう言った途端に、口は閉じているのに、モフモフとした体の何処からか"鼾"らしき音を、ウサギの賢者は出し始める。
『ウサギの賢者さん、どこからイビキだしてますか?。お口閉じてます、不思議です』
アトが兄の名前が出てきたことよりも、リリィの抱えている賢者の鼾を出す状態に興味深々といった様子で、見つめている。
そして休んでいるウサギの賢者を抱えている女の子は、恐らく今"休めていない"人の事を考えてもいた。




